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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(中編その4)――「浜田山の明るい道」

 (1986年5月27日火曜日午後3時、東京・浜田山)


 4人目は、久我山沙織だった。


 浜田山の土地は、4件の中では最も実務的だった。駅から少し歩くが、道は落ち着いている。周辺には一戸建てが多く、木々の影が道路に落ちていた。まとまった住宅用地として扱いやすく、建設会社が買えば、低層賃貸にも分譲にもできる。


 沙織は、白いブラウスに明るい色のスカートで現れた。35歳という年齢より若く見える。表情も明るい。だが、夫の会社の経理担当役員と設計部長を連れてきていた。見た目の軽さに反して、段取りは早い。


「直樹さん、遅くなってごめんなさい」


「いえ、時間通りです」


「うちの人たちが、どうしても現地を見たいって言うの。私が買うって言っているのに」


 沙織は笑った。


 設計部長は敷地を見ながら、すぐに建物の配置を考えていた。経理担当役員は、土地価格と建築費、完成後の利回りを計算している。


 売買価格16億円。

 手付金1億6,000万円。

 残金14億4,000万円。

 契約日は5月29日木曜日。

 残金決済は6月13日金曜日。

 買主は久我山建設本体。

 用途は、低層賃貸または分譲住宅。

 建物解体と開発許認可は買主側の負担。


 沙織は、書類を見ながら直樹に言った。


「これで、直樹さんは一気にお金持ちですね」


「まだ決済が済んでいません」


「そういうところが可愛くないのよ」


「可愛くないですか」


「ええ。普通なら、83億円で売れると分かった時点で舞い上がるわ」


「舞い上がる余裕がありません」


 沙織は、少しだけ表情を変えた。


「お祖父様のこと?」


「はい」


「無理に聞きません。でも、分かるわ。あなた、ずっとどこか遠くを見ているもの」


 直樹は、何も言わなかった。


 沙織は、4人の中で一番若く、明るく、分かりやすい。だが、鈍い女ではなかった。むしろ、人の心へ入る速度が速い。相手を笑わせながら、気づくと近いところにいる。


 手続きが終わると、沙織は直樹を車に誘った。


「少しドライブしましょう」


「どちらへ」


「近く。仕事の続きじゃないから、そんな顔をしないで」


 沙織は自分でハンドルを握った。


 車は浜田山から井の頭通りへ出た。夕方の光が街路樹の葉を透かし、車内には柔らかい影が揺れた。沙織は運転がうまかった。会話をしながらも、周囲をよく見ている。


「私ね、昨日からずっと思っていたの」


「何をですか」


「直樹さんは、啓子さんに取られる前に、一度くらい味見しておかないと損だって」


 直樹は、思わず沙織を見た。


「味見ですか」


「変な言い方かしら」


「かなり」


 沙織は声を立てて笑った。


「でも、分かりやすいでしょう。真佐子さんはもう会った? 志津江さんも? 麗子さんも?」


 直樹は答えなかった。


 沙織は笑みを深くした。


「答えないということは、答えたのと同じね」


「沙織さんは、怒らないのですか」


「どうして?」


「順番の問題です」


「私は35歳よ。順番で拗ねる年でもないわ」


 沙織はそう言って、車を小さな洋館風の喫茶店の前に止めた。


 店は夕方で客が少なかった。2階には貸し部屋があり、沙織はそこを予約していた。明るい女らしく、隠すより先に準備を済ませている。


 部屋に入ると、沙織は窓を開けた。外から木の匂いと、遠い車の音が入った。


「私は、難しいことは言わないわ」


 沙織は振り向いた。


「直樹さんが素敵だから、欲しい。それだけ」


「ずいぶん率直ですね」


「若い男に回りくどく言うと、時間がもったいないもの」


 直樹は笑った。


 沙織の魅力は、軽さではなかった。明るく見せながら、自分の欲を隠さない強さだった。建設会社の妻として、土地の出口を見る目を持ち、同時に女として欲しいものを欲しいと言える。そこに、沙織の輝きがあった。


 直樹は、その率直さを受けた。


 沙織との時間は、他の3人とは違っていた。笑いが多く、会話が速く、途中で仕事の話へ戻ったかと思えば、すぐに女の顔に戻る。彼女は直樹の若さをからかい、同時にその若さを楽しんだ。直樹もまた、沙織の明るさに救われた。


 夜になる前、沙織は直樹の肩に頭を預けた。


「ねえ、直樹さん」


「はい」


「啓子さんに怒られるかしら」


「分かりません」


「怒られたら、私も一緒に謝ってあげる」


「謝る気はあるんですか」


「少しだけ」


 沙織は笑った。


「でも、後悔はしていないわ」


「僕もです」


 浜田山の契約も、確実に進むことになった。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年5月27日火曜日午後10時、成城6丁目、直樹の屋敷)


 4人との個別の打ち合わせを終えた夜、直樹は成城6丁目の屋敷へ戻った。


 玄関では、執事が静かに迎えた。家政婦は温かい茶と軽い食事を用意していた。食堂には、味噌汁と焼き魚、飯、漬物が並んでいる。直樹は椅子に座り、ゆっくり食べた。


 体は疲れていた。


 だが、頭は冴えていた。


 代沢は6月6日。広尾は6月10日。松濤は6月12日。浜田山は6月13日。4件の残金決済日が見えた。契約日も決まった。司法書士も銀行も動いている。手付金はすでに口座へ入り始めている。


 現金化は、夢ではなくなった。


 直樹は食後、書斎へ入った。


 机の上に、4つのファイルを並べる。


 高科真佐子、代沢。

 神谷志津江、広尾。

 大河内麗子、松濤。

 久我山沙織、浜田山。


 ファイルの中には、契約書案、買付証明、手付金の控え、司法書士のメモ、銀行との連絡記録が入っている。すべて紙である。だが、その紙の向こうに、4人の女の顔が浮かんだ。


 真佐子の静かな強さ。


 志津江の包むような熱。


 麗子の逃がさない目。


 沙織の明るい欲。


 直樹は、どの女にも溺れなかった。


 だが、どの女も軽く扱わなかった。


 それぞれに個性があり、それぞれに美しさがあった。年齢も立場も、夫の仕事も、持っている力も違う。彼女たちは、ただ直樹を誘惑したのではない。自分という女を見せ、同時に自分の家と金と仕事の道を見せた。


 直樹は、そこでようやく啓子の言葉を理解した。


 人を見るのです。


 土地だけではありません。家も、人も、女も、男も、どこに道があるかを見なければなりません。


 直樹は椅子の背にもたれた。


 若さは、危うい。


 だが、若さには力もある。


 4人の女たちは、その力を欲しがった。直樹もまた、彼女たちの力を受けた。互いに利用しただけではない。互いに楽しんだだけでもない。そこには、成城という場所の濃い人脈と、男女の熱と、土地を動かす紙の重さが混じっていた。


 直樹は、机の引き出しからリモコンを出した。


 小さな機械は、まだ沈黙している。尚人と順子の行き先は分からない。転移の痕跡は、港南に残っただけである。


 だが、直樹の側には金が集まり始めている。人も集まり始めている。銀行が動き、司法書士が動き、成城の奥様方が動いている。


 敵を追うための力は、少しずつ形になっていた。


 直樹はリモコンを机に置き、4つのファイルの横に並べた。


 時を追う道具と、土地を金に変える書類。


 その2つが、今の直樹の武器だった。


 そこへ、執事が書斎の扉を軽く叩いた。


「直樹様。榎本啓子様からお電話でございます」


 直樹は顔を上げた。


「分かりました。つないでください」


 受話器を取ると、啓子の声がした。


「直樹さん。4人との手続きは進みましたか」


「はい。すべて進みました。契約日と決済日も決まりました」


「そうですか」


 啓子は少し間を置いた。


「それで、4人とも会いましたね」


「はい」


「仕事だけでは、ありませんでしたね」


 直樹は沈黙した。


 受話器の向こうで、啓子が小さく笑った。


「答えなくて結構です。声で分かります」


「怒っていますか」


「怒ってはいません」


「本当に?」


「少しだけ、面白くありません」


 直樹は、返事に困った。


 啓子は続けた。


「でも、よろしいのです。皆さん、それぞれ魅力のある方です。直樹さんが逃げなかったことも、軽く扱わなかったことも、たぶん皆さん分かっているでしょう」


「啓子さん」


「ただし、忘れないでください。逢瀬を楽しむのは若さの特権です。でも、相手を甘く見るのは若さの失敗です」


「分かっています」


「なら、よろしい」


 啓子の声は、少しやわらかくなった。


「次は、私の番を残しておきなさい」


 直樹は息を止めた。


「啓子さんの番、ですか」


「ええ。私はまだ見せすぎないと言いました。覚えていますね」


「覚えています」


「なら、今日は休みなさい。明日から、契約書の確認が始まります」


「はい」


 電話は静かに切れた。


 直樹は受話器を置いたあと、しばらく動かなかった。


 4人との逢瀬を終えたと思ったところで、啓子はまだ先にいる。彼女は急がない。焦らさないようで、確実に待たせる。直樹は、そのことに小さく笑った。


 成城の女たちは、手強い。


 だが、直樹は逃げる気がなかった。


 尚人が行方不明になった今、自分はこの時代で前へ出なければならない。金を動かす。人を動かす。女たちの力も、男たちの力も、必要なら受ける。ただし、溺れない。すべてを見て、すべてを使い、自分も差し出す。


 それが、モロー直樹の1986年での戦い方になり始めていた。

中編では、買い手が付いた4物件を実際に現金化するため、直樹が4人の奥様方と一人ずつ会い、売買契約、手付金、司法書士、銀行、残金決済の日程を詰めた。代沢は高科真佐子、広尾は神谷志津江、松濤は大河内麗子、浜田山は久我山沙織がそれぞれ買主側として動き、4件の売却は具体的な契約段階へ入る。その過程で直樹は4人全員から誘われ、すべて受けて立つ。だが、女たちに溺れるのではなく、一人ひとりの個性と魅力を見て、仕事と逢瀬の両方を受け止める。直樹は、土地を見るだけでなく、人を見る力を身につけ始めた。

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