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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(中編その3)――「松濤と赤坂の夜」

 (1986年5月26日月曜日午後1時、東京・松濤)


 3人目は、大河内麗子だった。


 松濤の古い洋館付き土地は、門からして別格だった。鉄の門は黒く、塀の内側には大きな木が残っている。洋館の外壁は古びていたが、窓の配置と玄関の石段に、かつての持ち主の力が残っていた。ここは、建物の広さだけで買う土地ではない。住所を持つための土地である。


 麗子は、黒に近い濃紺のスーツで現れた。昼間であるのに、夜会にも出られそうな緊張感があった。夫の秘書と、後援会筋の不動産会社の社長、司法書士が同行している。


「直樹さん。今日は短く済ませます」


「お忙しいのですね」


「忙しいというより、長くいると目立ちます」


 麗子は、門の内側へ入る前に周囲を見た。政治家の妻である。人の目に映ることの意味をよく知っている。


 松濤の土地は、大河内家で直接買わない。後援会筋の不動産会社が取得し、のちに関係先へ移す。表に出る名義を調整するためである。


 売買価格31億円。

 手付金3億1,000万円。

 残金27億9,000万円。

 契約日は5月28日水曜日。

 残金決済は6月12日木曜日。

 買主は後援会筋の不動産会社。

 ただし、資金の出所と名義の流れは、買主側が責任を持つ。

 売主側は、反社会的な関係、紛争、差押えがないことを確認する。


 直樹は、ここだけ特に慎重にした。


「麗子さん。名義の流れは、こちらでは深く追いません。ただし、後で違法な金や政治資金の問題が出ると、こちらも困ります」


 麗子は、まっすぐ直樹を見た。


「若いのに、そこを言えるのはよいことです」


「言わないと、あとで尚人さんに叱られます」


「尚人さんなら、もっときつく言うでしょうね」


「そう思います」


 麗子は少し笑った。


「心配はいりません。主人の名前は出しません。後援会筋の会社が買いますが、資金はきれいなものを使います。銀行も通します。現金を紙袋で運ぶような話にはしません」


「それなら結構です」


「ただし、こちらも条件があります」


「何でしょう」


「今夜、私と会いなさい」


 麗子は、昼の現地でそれを言った。


 秘書も不動産会社の社長も、聞こえないふりをした。政治家の周囲で生きる者は、聞こえたものを全部聞いたことにしない術を知っている。


 直樹は表情を変えなかった。


「場所は」


「赤坂のホテルです。表の入口から入らないでください。裏に車を回します」


「ずいぶん用意がいいですね」


「政治家の妻ですから」


 麗子は静かに言った。


「私は、他の3人ほど分かりやすくありません。あなたに何を求めるかも、先に言いません」


「それでも、行きます」


「怖くないのですか」


「怖いです」


 直樹は正直に答えた。


「でも、逃げません」


 麗子は、その答えを気に入ったようだった。


「では、今夜」


 ◇ ◇ ◇


 赤坂のホテルは、成城とも広尾とも違っていた。


 ロビーには外国人客がいて、黒服の従業員が静かに動いている。麗子が指定した通り、直樹は裏の入口から入った。案内された部屋は高層階ではない。むしろ目立たない階である。窓の外には、赤坂の夜の灯が低く見えた。


 麗子は先に来ていた。


 スーツではなく、深い色のワンピースを着ている。昼よりも柔らかいが、近づきにくさは残っていた。


「よく来ましたね」


「約束しましたから」


「約束を守る男は、政治の世界では貴重です」


「僕は政治家ではありません」


「だからよいのです」


 麗子は、テーブルの上に置かれた封筒を指した。


「契約関係の追加書類です。明日の午前中に司法書士へ渡してください。名義の流れも、あなたが心配した点は整理してあります」


 直樹は封筒を確認した。


「ありがとうございます」


「仕事の話は終わりです」


 麗子は、そう言って照明を少し落とした。


 部屋の空気が変わった。


「私は、あなたに甘い言葉を言いません」


「分かっています」


「私が欲しいのは、若さだけではありません。若さだけなら、いくらでも手に入ります」


「では、何を」


「逃げない目です」


 麗子は直樹の前に立った。


「政治の家にいると、男たちはよく逃げます。責任からも、女からも、自分の言葉からも逃げる。あなたは今のところ逃げない。そこに興味があります」


「試されているのですか」


「ええ」


 麗子は、はっきり答えた。


「そして、誘っています」


 直樹は、その誘いを受けた。


 麗子との夜は、他の誰とも違った。彼女は甘えなかった。慰めも求めなかった。むしろ、直樹の反応を見ていた。若い男が、年上の女の力にひるむかどうかを見ていた。直樹はひるまなかった。だが、強がりもしなかった。


 麗子は、その態度を好んだ。


 夜が深くなったころ、麗子は直樹の髪に触れた。


「あなたは、危ない男になります」


「もう危ないですか」


「まだです。今は若いだけです。でも、金と女と秘密を同時に扱えるようになれば、危ない男になる」


「ならない方がいいですか」


「いいえ。なりなさい。ただし、安い男にはならないことです」


 直樹は、その言葉を覚えておくことにした。


 松濤の契約も、確実に進むことになった。

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