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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(中編その2)――「広尾の食卓」

 (1986年5月25日日曜日午前11時、東京・広尾)


 2人目は、神谷志津江だった。


 広尾の小規模賃貸ビルは、古いが場所がよい。1階には小さな事務所、上階には住居と事務所が混じっている。外壁は古びていたが、周辺には外国人向けの住宅や大使館関係者の気配があり、空気は代沢とは違っていた。


 志津江は、薄い灰桜色のワンピースで現れた。昨日の昼よりも柔らかい印象だった。だが、彼女の後ろには病院の事務長と税理士がいた。表情は穏やかでも、手続きは周到である。


「おはようございます、直樹さん」


「おはようございます」


「顔色が少しよくなりましたね」


「昨日、少し眠れました」


「それはよかったわ」


 志津江は、まず直樹の顔を見た。物件より先に人を見る女である。医師の妻として、病人、患者の家族、看護師、事務員を長く見てきたのだろう。相手が疲れているか、無理をしているかをすぐに読む。


 ビルの中を見て回ると、志津江は2階の窓辺で立ち止まった。


「ここは、健診センターには少し狭いわ。でも、予約制の外来相談室や、検査前の面談場所には使えます」


「診療所としてですか」


「すぐには無理です。医療の許可も必要です。ただ、主人は都心側に足場を持ちたがっています。広尾なら、患者層も説明しやすい。将来の布石としては十分です」


 税理士が資料を広げた。


 名義は、神谷隆之個人ではなく、関連する資産管理会社で取得する方向になった。医療法人で直接持つより、将来の使い方を広げるためである。


 売買価格21億円。

 手付金2億1,000万円。

 残金18億9,000万円。

 契約日は翌週火曜日。

 残金決済は6月10日火曜日。

 賃貸借契約は現況承継。

 テナントへの通知は決済後、買主側が行う。


 志津江は説明を聞きながら、直樹の横に立っていた。


「これで、広尾は進められます」


「ありがとうございます」


「ただし、直樹さん」


「はい」


「あなたは、自分を便利な道具のように使いすぎてはいけません」


 直樹は、少し意外に思った。


「道具ですか」


「そう。若さも、頭の良さも、体の強さも、道具にできます。でも、それを続けると、いつか自分が何を感じているのか分からなくなります」


「心配してくださっているのですか」


「ええ」


 志津江は、ためらわずに答えた。


「私は、心配しています。あなたはまだ20歳です。けれど、昨日から背負っているものは、20歳の男が簡単に持てる重さではありません」


 直樹は黙った。


 志津江の声には、真佐子とは違う柔らかさがあった。責めるのではない。包むように、しかし逃がさずに言う。


「今夜、うちへいらっしゃい」


「ご自宅へ、ですか」


「いいえ。病院の近くに、私が休むために使っている部屋があります。そこで夕食を用意します。酒は少しだけ。あなたを酔わせるつもりはありません」


「それは、手続きの続きですか」


「最初は、そうです」


 直樹は、前の日の真佐子を思い出した。


「その先は、会ってから決めるのですね」


 志津江は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「高科さんに、同じことを言われたの?」


「似たことを」


「困った人ね、あの方も」


 志津江はそう言いながらも、目をそらさなかった。


「でも、私も人のことは言えません」


 ◇ ◇ ◇


 その夜、志津江の部屋には、温かい食事が用意されていた。


 白いご飯、鶏肉と野菜の煮物、味噌汁、青菜のおひたし。フランス料理でも、バーの酒でもない。病院の近くで、疲れた体を戻すための食事だった。


「食べなさい」


 志津江は、そう言って箸を渡した。


「命令ですか」


「ええ。今日は命令です」


 直樹は素直に食べた。


 味は濃くなかった。だが、体に入ると、疲れが少しほどけた。志津江はそれを見て、満足したようにうなずいた。


「あなたは、誰かに食べさせてもらう時間が必要です」


「子供扱いですか」


「いいえ。男扱いする前の、準備です」


 その言葉で、部屋の空気が変わった。


 志津江は、真佐子のようにまっすぐ手を伸ばしてくる女ではなかった。もっと静かに、相手の疲れをほどき、警戒を下げ、そのあとで近づいてくる。母性に見えるものの奥に、女としての熱があった。


 直樹は、それを感じた。


「志津江さんは、ずるいですね」


「そうかもしれません」


「心配してから、誘う」


「心配しているから、誘うのです」


 志津江は、直樹の隣に座った。


「あなたが壊れないか見ていたい。けれど、それだけではありません。私は、あなたに触れたいと思っています」


 直樹は、志津江の手を取った。


「僕もです」


 その夜、直樹は志津江と過ごした。


 志津江の逢瀬は、やさしいだけではなかった。相手を見て、息を合わせ、時に強く引き寄せる。人の体調を読む目を持つ女は、心の動きにも敏感だった。直樹は、そこで自分の若さを初めて少し怖いと思った。受け止められる。応えられる。だが、油断すれば、甘さに沈む。


 それでも沈まなかった。


 朝、志津江はカーテンを開けた。薄い光が部屋に入った。


「あなたは、ちゃんと戻れる人ね」


「どこへですか」


「自分の仕事へ」


 直樹は起き上がった。


「戻ります。広尾の決済も、尚人さんたちのこともあります」


「それでいいわ」


 志津江は微笑んだ。


「私とは、時々休みに来なさい」


「はい」


 広尾の契約も、確実に進むことになった。

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