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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(中編その1)「代沢の静かな契約」

成城の奥様方の紹介により、代沢、広尾、松濤、浜田山の4物件には買い手が付いた。だが、買い手が決まっただけでは金は動かない。売買契約を結び、手付金を受け、銀行と司法書士を入れ、残金決済の日程を固めて初めて、土地と建物は現金へ変わる。直樹は成城6丁目の屋敷を拠点に、4人の奥様方と一人ずつ会うことにする。手続きは仕事である。だが、その席には、仕事だけでは終わらない女たちの熱も待っていた。

 (1986年5月23日金曜日午後6時20分、東京・世田谷区成城6丁目、直樹の屋敷)


 成城6丁目の応接間には、夕方になっても紙の匂いが残っていた。


 昼すぎから続いた打ち合わせで、テーブルには地図、登記簿、買付証明、手付金の小切手、銀行担当者の名刺、司法書士の連絡先が積み上がっている。家政婦が何度も茶を替え、執事が灰皿を下げた。窓の外では庭木が夕闇に沈み、玄関の灯が白く石畳を照らしていた。


 買い手は付いた。


 代沢は高科真佐子が、広尾は神谷志津江が、松濤は大河内麗子が、浜田山は久我山沙織が、それぞれ夫の会社、病院、後援会筋、建設会社を通して買うことになった。


 だが、直樹はそこで終わったとは考えなかった。


 買付証明は意思の表明である。手付金は本気の印である。だが、残金決済が済まなければ、土地は金に変わらない。銀行の入金を見届け、所有権移転の登記が終わるまでは、すべて途中である。


 応接間に残った榎本啓子は、直樹の前に座っていた。


「直樹さん。今日はよく動きました。でも、本当に大切なのは明日からです」


「分かっています。今日決まったのは、入口だけです」


「ええ。買いたいという話と、買ったという事実は別です。ここからは、一人ずつ会って、名義、資金、契約日、決済日を詰めなければなりません」


 啓子の声は落ち着いていた。昼間、4人の奥様方をまとめていた時と同じ声である。


「まとめて進めるのは危ないですか」


「危ないというより、雑になります。4件とも金額が大きい。買主の事情も違います。高科さんは会社の社員寮、神谷さんは医療法人かご主人個人、麗子さんは後援会筋、沙織さんは建設会社の開発案件。名義も決済の流れも同じではありません」


 直樹はうなずいた。


「では、明日から一人ずつ会います」


「それがよろしいと思います」


 啓子は、少しだけ目を細めた。


「ただし、気をつけてください」


「何にですか」


「皆さん、直樹さんに興味を持っています」


 直樹は返事をしなかった。


 それは昼の席でも分かっていた。4人の奥様方は、物件を見ていた。同時に、直樹も見ていた。若く、外国の血を引き、大学のラグビー部に入り、突然成城6丁目の屋敷の主人になった男である。好奇心を持たれない方がおかしい。


 啓子は続けた。


「誘惑されると思います」


「仕事に支障が出るなら、断ります」


「支障が出ないなら?」


 啓子の問いは静かだった。


 直樹は、少し考えてから答えた。


「受けて立ちます」


 啓子は、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。だが、すぐに小さく笑った。


「若いのですね」


「若いです」


「溺れてはいけません」


「溺れません」


「なら、よく見なさい。女を見る時も、土地を見る時と同じです。形だけ見てはいけません。奥に何があるかを見るのです」


 直樹は、啓子を見た。


「啓子さんも、その一人ですか」


 啓子は答えなかった。


 ただ、立ち上がる前に、直樹の手の甲へ指先を一度だけ置いた。


「私は、まだ見せすぎません」


 その言葉を残し、啓子は応接間を出た。


 直樹はしばらく、手の甲に残った温度を見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 (1986年5月24日土曜日午前10時、東京・代沢、高科真佐子の指定した現地)


 最初の相手は、高科真佐子だった。


 代沢の物件は、古い木造アパート付きの土地である。道路は広くないが、下北沢に近く、若い借り手を見込める。建物は傷んでいた。外壁には古い雨染みが残り、階段の鉄部には赤い錆が浮いている。だが、土地の形は悪くない。駅との距離、周辺の賃貸需要、将来の建て替えを考えれば、会社の社員寮として十分に使える。


 真佐子は、紺のスーツで現れた。昼のレストランよりも仕事の顔である。髪は短く、首元には細い金の鎖だけをつけていた。派手さはない。だが、歩き方に迷いがない。


「おはようございます、直樹さん」


「おはようございます。今日はありがとうございます」


「こちらこそ。主人にはもう話しました。うちとしては買います。あとは書類です」


 真佐子は、建物を見上げた。


「古いわね」


「はい。ただ、解体して新しく建てる前提なら、むしろ分かりやすいです」


「社員寮なら、部屋数を取る必要があります。若い技術者は、贅沢な部屋より、会社に近い場所と家賃の安さを見ます」


「その意味では、代沢は合います」


「ええ」


 真佐子は、敷地の端へ歩いた。境界の杭を確認し、道路との接し方を見た。会社社長の妻というより、工場や社員寮の用地を見慣れた管理担当者の目だった。


 同行した司法書士と銀行担当者が、道路付けと登記簿を確認した。高科精密機器側の総務部長も来ており、書類を抱えている。


 直樹は手続きを淡々と進めた。


 売買価格15億円。

 手付金1億5,000万円。

 残金13億5,000万円。

 契約日は翌週月曜日。

 残金決済は6月6日金曜日。

 所有権移転登記は残金決済と同時。

 引渡しは現況有姿。ただし、境界確認は売主側が協力する。


 真佐子は書類を見ながら言った。


「ずいぶん落ち着いていますね。20歳とは思えません」


「昨日から、落ち着くしかなくなりました」


「お祖父様のこと?」


 直樹は、少しだけ間を置いた。


「はい。ただ、詳しいことは申し上げられません」


「それでいいわ。言えないことを無理に聞くつもりはありません」


 真佐子は、書類に視線を戻した。


「ただ、あなたが急いでいることは分かります。だから、うちも早くします。会社の資金は動かせます。銀行の融資を待つ必要もない。社長決裁で進めます」


「助かります」


「その代わり、こちらにも少しだけ得をさせてください」


「価格は、すでに十分高いと思います」


「金の得ではありません」


 真佐子は、直樹を見た。


 その目は昼の席よりも近かった。


「今夜、少し時間をください。契約とは別に、あなたと話したいのです」


「仕事の話ですか」


「最初は仕事の話です」


「最初は、ですか」


 真佐子は微笑んだ。


「その先は、会ってから決めればよろしいでしょう」


 直樹は、その意味を理解した。


 真佐子は39歳である。若すぎる女ではない。だが、年齢を重ねた女だけが持つ落ち着きがあった。派手に誘うのではない。契約の紙をきちんと積み上げ、その上で、静かに手を伸ばしてくる。


 直樹は目をそらさなかった。


「分かりました。今夜、お会いします」


「よろしい」


 真佐子は満足したようにうなずいた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、直樹は代々木上原の小さなバーで真佐子と会った。


 店は表通りから少し入った場所にあり、看板も小さい。カウンターの奥には暗い木の棚があり、ウイスキーの瓶が静かに並んでいた。客は少なく、声は低い。成城の奥様が人目を避けて会うには、ちょうどよい場所だった。


 真佐子は昼と違い、柔らかい黒のワンピースを着ていた。髪は同じく短いが、耳元の飾りが少し揺れる。仕事の鋭さは残っている。だが、そこに女としての余裕が重なっていた。


「契約の話は、昼で十分でしたね」


「はい」


「では、夜は別の話をしましょう」


 真佐子はグラスを持ち上げた。


「直樹さん。あなたは、啓子さんだけを見ていましたね」


「見ていました」


「正直ね」


「隠しても分かると思います」


「分かります。女は、若い男の視線には敏感です」


 真佐子は笑った。


「でも、今日は私を見なさい。私は啓子さんほど甘くありません。沙織さんほど若くもない。志津江さんほど優しくもない。麗子さんほど怖くもない。けれど、会社を動かす男の横にいる女が何を見ているかは、あなたに教えられます」


「教えていただきます」


「本当に、よい返事をするのね」


 真佐子は、カウンターの下で直樹の手に触れた。


 指先は冷たくなかった。紙と金を扱う女の手である。細いが、弱くはない。


 直樹はその手を受けた。


 溺れない。


 しかし、逃げもしない。


 真佐子は、しばらく直樹の手を見ていた。


「若い手ですね」


「そうですか」


「ええ。でも、逃げない手です」


 その夜、直樹は真佐子と店を出た。


 雨は降っていなかった。通りの灯が濡れていない路面に白く落ちている。真佐子はタクシーを止めず、少し歩きたいと言った。2人は言葉少なに住宅街を歩き、やがて真佐子が用意していた小さな部屋へ入った。


 部屋には、余計な飾りがなかった。白いカーテン、低いテーブル、整えられた寝室。そこにも真佐子らしさがあった。無駄を嫌い、必要なものだけを置く女の部屋である。


 直樹は、そこで真佐子と夜を過ごした。


 真佐子は、仕事の時と同じように落ち着いていた。だが、触れた時の熱は、昼の書類からは想像できないほど深かった。直樹はその熱を受け止めた。勝とうとはしなかった。支配しようとも思わなかった。ただ、真佐子が差し出すものを正面から受けた。


 朝方、真佐子は直樹の胸に手を置いた。


「溺れないのね」


「溺れたら、仕事ができません」


「かわいげがないわ」


「それでも、また会いたいと思っています」


 真佐子は、少し笑った。


「なら、許します」


 代沢の契約は、確実に進むことになった。

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