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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(前編その2)――「四人の買い手」

 (同日午前10時20分、帝都工業大学)


 帝都工業大学の講義室には、初夏に近い湿気があった。


 窓は開いていたが、風は弱い。黒板には数式が並び、教授の声が一定の調子で続いている。チョークが黒板をこする音が、直樹の耳に残った。周りの学生たちはノートを取り、ときどき小さく欠伸をかみ殺している。


 直樹は前を向いていたが、頭の中では4つの物件が並んでいた。


 代沢。古い木造アパート付きの土地。下北沢に近く、若い借り手が見込める。建物は古いが、土地としては強い。


 松濤。古い洋館付きの土地。維持費はかかるが、場所は別格である。欲しい人間にとっては、代わりが利かない。


 広尾。小さな賃貸ビル。古さはあるが、外国人向け住宅や診療所、事務所への転用も考えられる。周辺の将来性を読む買い手なら、高い値を付ける。


 浜田山。駅から少し歩くが、まとまった住宅用地である。医師や会社役員の自宅、低層賃貸、職員住宅など、使い道が広い。


 取得予定額は、4件合わせて22億3,000万円である。


 成城6丁目を外した以上、この4件で利益を出さなければならない。尚人は、全部を金に変える必要はないと言った。だが、残すものを残したからには、売るものはきちんと売る必要がある。


 講義が終わると、榎本啓一が近づいてきた。


「直樹、今日は眠そうだな」


「少し寝不足です」


「昨日、遅かったのか」


「家の用件がありました」


 啓一は、それ以上聞かなかった。彼は事件のことを何も知らない。尚人と順子が港南で消えたことも、一方通行のリモコンのことも知らない。ただ、昨日知り合った友人が、成城6丁目の家に住み始めたことを知っているだけである。


「昼は食堂に行くか」


「今日は外で人に会います」


「誰?」


「啓一のお母さんと、昨日の奥様方です。土地の資料を見てもらうことになりました」


 啓一は一瞬、目を丸くした。


「母と、あの人たちか」


「はい」


「それは大変だぞ」


「大変ですか」


「母は土地の話になると細かい。奥様方はもっと早い。昨日の夕食で分かっただろう」


「分かりました」


 直樹が真面目に答えると、啓一は笑った。


「でも、悪い人たちではないよ。少し勢いが強いだけだ」


「それも分かりました」


「困ったら、母の顔を見ろ。母が止めない時は、たいてい止めても無駄だ」


「覚えておきます」


 直樹は書類袋を持ち直した。


 啓一は、直樹の顔を見て少しだけ首を傾げた。


「本当に大丈夫か」


「大丈夫です」


「ならいい。午後の講義には戻るのか」


「分かりません。話が長くなるかもしれません」


「じゃあ、ノートは取っておく」


「助かります」


 啓一は手を振って食堂の方へ歩いていった。


 直樹は、その背中を見送った。


 啓一には、何も知らせない。


 それでよかった。


 ◇ ◇ ◇


 (同日午後0時15分、成城のフレンチレストラン)


 成城の住宅街にあるフレンチレストランは、昨日と同じように静かだった。


 白い壁、深い緑の扉、窓辺の花。扉を開けると、バターと白ワインの香りが柔らかく広がった。昼の客は多くない。皿とナイフが触れる音が小さく響き、会話は低く抑えられている。


 奥の席に、啓子がいた。


 そして、昨日の4人の奥様方もそろっていた。


 直樹が席へ近づくと、5人の視線が一斉に向いた。昨日の金網の外で見た明るい目ではない。今日は、投資案件を見る目である。


 啓子がまず言った。


「直樹さん、こちらへ」


 直樹は丁寧に頭を下げた。


「本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただき、ありがとうございます」


「まあ、昨日よりずいぶん仕事の顔ね」


 そう言ったのは、久我山沙織〈35歳〉だった。夫は久我山建設社長の久我山征治〈45歳〉である。久我山建設は都内の中小ビル、診療所、社宅の建築で大きく伸びていた。沙織は若いが、夫の会社の資金繰りや土地の仕入れに口を出す。明るい色のスーツを着ており、昨日は直樹の電話番号を104で調べた張本人でもあった。


 その隣には、高科真佐子〈39歳〉がいた。夫は高科精密機器株式会社社長、高科一郎〈47歳〉である。会社は電子部品と計測機器で急成長しており、都内に技術者の独身寮を探していた。真佐子は濃紺の服を着て、髪を短く整えている。笑顔は穏やかだが、資料を見る目は速い。


 向かいには、神谷志津江〈42歳〉が座っていた。夫は神谷外科病院院長、神谷隆之〈49歳〉である。病院は世田谷と渋谷に患者を持ち、都心側に健診センターを持つ話が出ていた。志津江は淡いベージュのワンピースを着ており、昨日から直樹の体調を気にしていた。


 最後が、大河内麗子〈46歳〉である。夫は衆議院議員の大河内壮一郎〈54歳〉だった。建設族の有力議員で、次の内閣改造では大臣候補の1人と見られている。麗子は政治家の妻というより、事務所の奥で陳情と人脈を整理してきた女に見えた。淡い灰色のスーツを着て、背筋が崩れない。


 啓子は44歳である。直樹にとっては啓一の母であり、昨日から特別な存在になりかけている女だった。だが、今日の啓子は紹介役である。4人の奥様方をまとめ、話の場を整えている。


 昨日、直樹はこの4人に囲まれた。


 今日は、同じ4人に資料を出す。


 初めてではない。だからこそ、話は早かった。


 直樹は書類袋を開け、4つの束をテーブルに置いた。


「成城6丁目は、住まいとして残します。今日お願いしたいのは、代沢、松濤、広尾、浜田山の4件です」


 啓子は静かにうなずいた。


「まず、一覧を見せてください」


 直樹は手書きの一覧表を出した。


 代沢。取得予定額4億6,000万円。古い木造アパート付き土地。


 松濤。取得予定額6億8,000万円。古い洋館付き土地。


 広尾。取得予定額6億1,000万円。小規模賃貸ビル。


 浜田山。取得予定額4億8,000万円。まとまった住宅用地。


 合計22億3,000万円。


 高科真佐子が、最初に代沢の資料を取った。


「代沢は、下北沢に近いのね」


「はい。建物は古いですが、土地の形は悪くありません。若い借り手も見込めます」


「うちの会社では、若い技術者の独身寮を探しています。工場は郊外へ移しても、設計や営業は都内に置く必要があるの。社員に通わせるなら、こういう場所は使いやすいわ」


 真佐子は、登記簿の控えと地図を並べて見た。


「15億円で買います」


 直樹は、すぐには返事をしなかった。


 4億6,000万円の物件に15億円である。3倍を超える。昨日の奥様方の勢いは知っていたが、金額が出る速さは想像以上だった。


 真佐子は、直樹の沈黙を見て言った。


「もちろん、現地確認と法務確認は入れます。でも、買付証明は今日出せます。うちの会社なら、社員寮として説明がつく。投機だけの話ではないわ」


「ありがとうございます」


 直樹は頭を下げた。


 次に、神谷志津江が広尾の資料を手に取った。


「広尾の小ビルは、賃料が入っているのね」


「はい。古さはありますが、場所はよいです。外国人向け住宅や、診療所関係の事務所にも使えると思います」


「主人が、都心側に健診センターを持ちたいと言っています。広尾なら、医療関係でも話が作れます」


 志津江は資料を丁寧にそろえた。


「21億円で買います」


 直樹は、今度は落ち着いて受け止めた。


「医療法人で持たれますか」


「そこは税理士と相談します。主人個人で持つか、関連会社を使うか、形はいくつかあります。けれど、買う意思はあります。今日、病院の事務長を動かします」


「承知しました」


 大河内麗子は、松濤の資料から目を離さなかった。


「松濤は、表に出すと面倒ね」


「面倒、ですか」


「欲しい人が多すぎます。政治家、芸能関係、外資、会社の会長。場所が場所ですから、値段だけでは決まりません。誰が持つかで噂になります」


 麗子は淡々と続けた。


「これは、主人の後援会筋の不動産会社を使います。大河内家で直接買うと、余計な話が出ますから」


「価格は」


「31億円」


 直樹は、思わず麗子を見た。


 6億8,000万円の物件に31億円である。4倍を超える。


 麗子は動じなかった。


「松濤の土地は、建物で見るものではありません。そこに表札を出せることに値段が付くのです。古い洋館は、壊すにしても残すにしても、買う側の物語になります」


 最後に、久我山沙織が浜田山の資料を取った。


「浜田山は、うちに向いているわ」


「久我山建設さんですか」


「ええ。主人は、城西側で医師や会社役員向けの低層賃貸を作りたいと言っています。浜田山なら、分譲でも賃貸でも形にできます。土地のまとまりがあるなら、建物を考えやすいわ」


 沙織は、昨日の明るい口調のまま話している。だが、目は資料をきちんと追っていた。若い奥様に見えるが、夫の会社が何を欲しがっているかを分かっている。


「16億円で買います」


 直樹は沙織を見た。


「本当に、それでよいのですか」


「ええ。建物を作れる会社が買うなら、土地の値段だけで見る必要はありません。完成後の出口まで見れば、十分に合います」


 啓子は、そのやり取りを黙って見ていた。


 直樹は、資料の上に数字を書き出した。


 代沢、4億6,000万円から15億円。


 広尾、6億1,000万円から21億円。


 松濤、6億8,000万円から31億円。


 浜田山、4億8,000万円から16億円。


 売却予定額の合計は83億円である。


 取得予定額は22億3,000万円。諸費用、税、銀行への返済、手数料を差し引いても、直樹側に残る金は大きい。すぐに全額が口座へ入るわけではない。だが、買付証明と手付金が入り、残金決済の日程が切られれば、銀行は直樹を見る目を変える。


 直樹は、4人の女を見た。


 昨日は、ただ賑やかな奥様方に見えた。


 だが、今は違う。


 真佐子は、企業の実需を見ている。社員寮として使えるかどうかを考え、会社の金を動かせる。


 志津江は、病院と医療法人の将来を見ている。広尾の小ビルを、健診センターや事務所として使う道を考えている。


 麗子は、政治と建設の人脈を見ている。松濤という土地が、誰の名義で表に出るべきかまで考えている。


 沙織は、建設会社としての出口を見ている。浜田山の土地を、建物を建てて利益を出す場所として見ている。


 彼女たちは、夫の金に寄りかかっているだけの女ではない。


 夫の仕事を知り、家の資産を知り、どこに金を置けば家が強くなるかを知っている女たちだった。


 直樹は、深く頭を下げた。


「皆さん、ありがとうございます。祖父が前に出られない今、僕が動かなければなりません。今日の話は、本当に助かります」


 麗子が言った。


「若い人が正面から礼を言えるのはよいことです。ただ、数字が大きい時ほど、礼より書類です」


「はい。すぐに司法書士と銀行を入れます」


 真佐子がうなずいた。


「今日中に買付証明を出します。手付も入れます。銀行の担当者を呼びなさい」


 志津江は、直樹の顔を見た。


「それから、きちんと食べなさい。昨日から気を張りすぎています」


 直樹は、ようやく皿に手を伸ばした。


 魚のテリーヌは少し冷めていたが、白ワインの酸味が残っていた。直樹は一口食べ、自分が空腹だったことに気づいた。


 啓子が静かに言った。


「直樹さん。人を見るのです」


 直樹は顔を上げた。


「土地だけではありません。家も、人も、女も、男も、どこに道があるかを見なければなりません。昨日のあなたは、まだ私だけを見ていました」


 直樹は返す言葉に詰まった。


 啓子は責める口調ではなかった。むしろ、教える声だった。


「今日は、少し見えたでしょう」


「はい」


 直樹は素直に答えた。


「見えました」


 啓子は満足したように、グラスの水を少し口に含んだ。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、話は一気に進んだ。


 レストランの電話を借り、真佐子は夫の会社へ連絡した。総務部長と顧問弁護士が動くことになった。志津江は病院の事務長を呼び、広尾の資料を取りに来させた。麗子は夫の秘書を通じ、後援会筋の不動産会社へ連絡を入れた。沙織は久我山建設の本社へ電話し、夫と経理担当役員を成城へ向かわせた。


 直樹は大学へ戻らなかった。


 午後3時を過ぎるころには、成城6丁目の屋敷の応接間が、小さな事務所のようになっていた。執事は客を通し、家政婦は茶を出し、灰皿を替え、書類を置く場所を整えた。2人とも、前の家から残った使用人らしく、成城の奥様方の扱いに慣れていた。


 テーブルには、地図、登記簿、買付証明、手付金の小切手、銀行担当者の名刺が並んだ。紙の匂い、インクの匂い、茶の湯気が応接間に混じった。


 夕方までに、4件すべてに買付証明が入った。


 手付金も、それぞれの買主側から支払われた。全額決済は後日である。だが、手付だけでも直樹の銀行口座の残高は大きく膨らんだ。銀行の担当者は、朝とは明らかに違う目で直樹を見た。昨日まで、この若者は外国帰りの大学生に見えたかもしれない。だが今日は、83億円の売却先を成城の人脈でまとめた人物になっていた。


 直樹は、応接間の窓から庭を見た。


 朝、この家を出ようとした時、横須賀の銀行へ行くつもりだった。銀行に買い手を探してもらうつもりだった。


 だが、門の前で啓子と会い、昼に奥様方と会い、午後には4件の売却先が決まった。


 これが成城の人脈だった。


 金は、銀行の窓口だけを通るのではない。昼のレストランで、静かにナイフとフォークを置く女たちの間にも、金の道は通っている。


 直樹は、ようやくそれを理解した。


 祖父の尚人は、どこかで生きている。


 順子も、きっと生きている。


 行き先はまだ分からない。だが、行き先が分かった時、すぐ動けるだけの金と人を持っていなければならない。


 今日は敵を追わなかった。


 だが、逃げたのではない。


 尚人が残した仕事を進め、成城6丁目を拠点にし、金を増やし、人の道を広げた。直樹は、この日初めて、1986年で自分の仕事をした。

前編では、港南事件の翌朝、直樹が成城6丁目の屋敷で動き出す。屋敷の執事と家政婦は、尚人が新たに整えた者ではなく、前の家から居抜きで残った者である。啓一には事件の事情を知らせず、直樹は大学では普段通りの顔を保つ。昼には、前日にすでに会っていた啓子と4人の奥様方に再会し、代沢、広尾、松濤、浜田山の4物件すべてに買い手が付く。直樹は、啓子だけを見ていた自分を反省し、成城の女たちが持つ人脈、判断力、金を動かす力を知る。

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