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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第18話(前編その1)――「成城の朝、残す家」

港南の倉庫街で、尚人と順子は姿を消した。1986年に残された者たちは、2人がどこへ飛ばされたのかをまだ知らない。敵を追うには情報が足りず、理恵、佑馬、達也が前へ出れば、フランス女たちに狙われる危険もある。翌朝、成城6丁目の家で目を覚ましたモロー直樹は、まず尚人から任された仕事を進めることにする。成城の屋敷は残し、都内4物件を売って資金を厚くする。それが、尚人たちを追うための最初の足場になる。

 (1986年5月23日金曜日午前7時、東京・世田谷区成城6丁目、直樹の屋敷)


 モロー直樹は、厚いカーテンの隙間から入る朝の光で目を覚ました。


 成城6丁目の屋敷は、港南の倉庫街とはまったく違う空気を持っていた。窓の外には手入れされた庭木があり、朝の水を含んだ土の匂いが薄く流れている。遠くで小田急線の音が低く響き、近くの道では新聞配達の自転車が小さくきしんだ。


 昨夜の港南にあった潮、油、割れたガラスの匂いは、ここにはない。


 それでも、直樹の頭から港南の光景は離れなかった。


 白いワゴン車。割られた後部座席の窓。座席の下に落ちたサンドイッチの紙袋。横倒しになった缶コーヒー。薄い血の跡。順子のものらしいハンカチ。


 尚人と順子は、1986年の東京から消えた。


 死体はなかった。血も多くなかった。だから2人は生きている可能性が高い。だが、どこへ行ったかは分からない。直樹のリモコンは、転移の痕跡を拾っただけで、行き先までは読めなかった。


 行き先さえ分かれば追える。


 しかし、分からないまま動けば、こちらの手札を敵に見せることになる。


 直樹はベッドから起き上がり、しばらく床を見た。


 理恵、佑馬、達也が怒りや不安に任せて敵を追えば、フランス女たちに狙われる可能性が高い。尚人ほどの男を罠にかけた相手である。普通に追って勝てる相手ではない。今は表の仕事を止めず、会社を守り、金と情報を集める方がよい。


 直樹は、そう考えた。


 昨夜までは、成城での生活がどこか夢のようだった。帝都工業大学、弱いラグビー部、榎本啓一、榎本啓子、金網の外で声を上げる奥様方。さらに成城6丁目の屋敷と、そこでの夕食。直樹は、この時代に思いがけない足場を持った。


 だが、もう浮かれてはいられない。


 尚人がいない。


 その事実が、直樹の背中を押していた。


 洗面所で顔を洗うと、水道の水が冷たかった。鏡に映る顔には、寝不足の色があった。直樹はタオルで顔を拭き、服を整えて食堂へ向かった。


 食堂では、住み込みの家政婦が朝食を並べていた。


 この家の執事と家政婦は、尚人が新たに整えた者ではない。屋敷を買った時から、そのまま残っている。前の家の勝手を知り、庭師、町内の出入り業者、近所づきあい、台所の棚の中身まで把握している。


 直樹にとっては、昨日から急に自分の家になった場所である。しかし、この2人にとっては、長く手を入れてきた家だった。


 テーブルには、焼いたトースト、バター、ハムエッグ、レタスとトマトのサラダ、温かいスープ、コーヒーが置かれていた。皿は白く、ナイフとフォークはまっすぐそろっている。スープからは玉ねぎの匂いが立ち、コーヒーの苦みが食堂を引き締めていた。


「おはようございます、直樹様」


 家政婦が頭を下げた。


「おはようございます」


 直樹は椅子に座った。


「よくお休みになれましたか」


「少しだけです」


 家政婦は余計なことを聞かなかった。長く屋敷で働いてきた人間らしく、主人側の事情へ不用意に踏み込まない。


「本日は、大学へお出かけでございますか」


「大学へ行きます。その前に、横須賀の銀行へ寄るつもりでした」


「横須賀まででございますか」


「はい。都内の土地と建物を、できるだけ早く売りたいので」


「では、お昼は外でお召し上がりになりますか」


「たぶん、そうなります」


「かしこまりました。夕食は温め直せるものを用意しておきます」


「ありがとうございます」


 直樹は食事をしながら、横に置いた書類袋へ目をやった。


 袋の中には、代沢、松濤、広尾、浜田山の資料が入っている。成城6丁目は住まいとして残す。尚人もその判断を認めていた。成城に拠点を持つ意味は大きい。大学に通いやすく、都内の土地の現場にも出やすい。榎本家も近い。


 だが、残り4件は違う。


 代沢、松濤、広尾、浜田山。


 どれも値上がりを見込んで押さえた都内の土地・建物である。買ったまま寝かせれば、さらに上がるかもしれない。だが今は、時間より現金が要る。


 尚人と順子の行き先が分かった時、すぐ動ける資金が必要だった。人を動かし、銀行を動かし、調査を入れ、場合によっては相手の動きを押さえる。金は声を上げないが、動く時には最も早い道具になる。


 直樹は食事を終えると、書類袋を持って玄関へ向かった。


 玄関では、執事が待っていた。年は60前後で、背筋はまっすぐである。黒い上着に白いシャツ、控えめなネクタイ。昨日、奥様方が押しかけた時にも、すぐに家政婦を呼び、台所と食堂を整えた男である。


「お出かけでございますか」


「はい。横須賀へ行く予定です。銀行に資料を持っていきます」


「お車ではなく、バイクで?」


「バイクで行きます」


「では、書類袋は防水の覆いをお付けします。途中で雨に当たりますと、紙が傷みますので」


 執事はそう言って、薄い防水袋を用意した。


 直樹は受け取りながら、改めてこの屋敷が居抜きで動いていることを感じた。尚人が一から整えた家ではない。前の家の手、前の家の知恵、前の家の習慣が残っている。そのおかげで、直樹は昨日から住めている。


 玄関を出ると、朝の成城は静かだった。


 門の横に置いたNinjaの黒い車体が、朝日を受けて鈍く光っている。直樹がヘルメットを手に取った時、門の外から声がした。


「直樹さん」


 振り向くと、榎本啓子が立っていた。


 啓子〈44歳〉は、淡い水色のワンピースに白い上着を合わせていた。髪はきちんとまとめられ、耳元の真珠が朝の光を小さく返している。昨日の夜、門灯の下で別れた時の気配が、直樹の中にまだ残っていた。だが、啓子の顔は朝のものだった。成城の家を切り盛りする奥様の顔である。


「おはようございます」


 直樹はヘルメットを下ろし、頭を下げた。


「おはようございます。これから大学ですか」


「大学へ行く前に、横須賀の銀行へ寄るつもりでした」


「横須賀まで?」


「はい。都内で買った土地と建物の処分を急ごうと思っています」


 啓子の目が、少しだけ細くなった。


「成城6丁目以外の物件ですね」


「はい。代沢、松濤、広尾、浜田山です。成城は残します」


「それは、よいと思います。成城の家は、直樹さんの足場になります」


 啓子は門の内側へ視線を向けた。昨日、奥様方と一緒に夕食を作った家である。執事も家政婦も残り、成城の暮らしの形がすでに動き始めている。


「銀行へ持っていって、買い手を探してもらうおつもりですか」


「はい。できるだけ早く売れる先を探すつもりです」


 啓子は少し考えた。


「買主なら、私たちの方が早いかもしれません」


「私たち、ですか」


「昨日の奥様方です」


 直樹は、すぐに意味を理解した。


 昨日、フレンチレストランで会い、ラグビー練習の金網の外に現れ、さらに成城6丁目の屋敷にまで来た4人の奥様方である。彼女たちは、ただ好奇心で直樹を囲んだわけではなかった。成城で暮らす女たちには、それぞれ家と金と夫の仕事がある。


「皆さんには、昨日お会いしたばかりです」


「でも、初対面ではありません。昨日が1度目、今日が2度目の顔合わせです。直樹さんは、もう十分に印象を残しています」


 啓子は少し笑った。


「直樹さんは、自分で思っているより目立つのです」


「それは、困ります」


「困る時もあります。でも、今日は助かるかもしれません」


 啓子は、そこで声を少し落とした。


「この時代、現金を持っている人ほど、土地を欲しがります。預金だけで置くより、土地を買う方が確かだと考える人が多いのです。昨日の4人のご主人は、大企業の経営者、病院の院長、国会議員、建設会社の社長です。投資の話になれば、まず土地を見る家ばかりです」


 直樹は、啓子の顔を見た。


 昨日までの自分なら、この顔だけを見ていたかもしれない。啓子の声、手、仕草、門灯の下での一瞬。その記憶ばかりを追っていたかもしれない。


 だが今は違う。


 目の前にいるのは、啓子という美しい女だけではない。成城の家と家をつなぐ入口でもある。彼女の後ろには、昨日直樹を囲んだ奥様方がいる。あの人たちは、ただよくしゃべるだけの女たちではない。夫の仕事、家庭の資産、土地の使い道、買い時を知っている。


 直樹は、少し恥じた。


 啓子だけを見ていた自分は、成城という場所の半分も見ていなかった。


「今日の昼、昨日のフレンチレストランへ来られますか」


 啓子が尋ねた。


「大学の講義があります」


「では、講義を受けてからいらっしゃい。私は友人たちに声をかけておきます。物件資料をお持ちください」


「分かりました。横須賀行きはやめます。先に大学へ行き、昼にレストランへ向かいます」


「その方がよいでしょう。銀行へ持ち込む前に、買いたい人の顔を見る方が早いこともあります」


 啓子は、軽く会釈した。


「それから、啓一には詳しい話をしないでください。あの子は昨日、直樹さんと楽しく過ごしただけです。仕事やご家族の事情まで背負わせる必要はありません」


「分かっています」


 直樹はすぐに答えた。


「啓一には、物件の相談でお母さんたちに会うとだけ言います」


「それで十分です」


 啓子は安心したようにうなずいた。


「では、お昼に」


「はい」


 啓子は成城2丁目の方へ歩いていった。直樹はその後ろ姿を少しだけ見送り、それからヘルメットをかぶった。


 横須賀へ向かう予定だった道は、そこで変わった。

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