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空き部屋の声、1986年の女  作者: ひまえび
第五章――「道を残した復讐」

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第17話(後編)「二つの東京」

港南の倉庫街で、直樹、理恵、佑馬、達也は、尚人と順子が何者かに襲われ、どこかへ消された可能性をつかむ。だが、行き先は分からない。直樹のリモコンでも、転移の痕跡は読めても時代までは特定できなかった。1986年に残された者たちは、リモコンの秘密を隠したまま警察対応を始める。一方で読者だけは、尚人と順子が到着した別の東京を見ることになる。

 警察への連絡は、杉浦を通すことになった。


 達也が近くの公衆電話から杉浦へ電話した。杉浦は最初、深夜の呼び出しに驚いたが、尚人と順子の名が出ると声を変えた。理恵は、会社の関係者として警察への第一報をどう入れるかを整理した。佑馬は、ワゴン車の周囲をもう一度見て、触れてよいものと触れてはいけないものを分けた。


 直樹は、バイクで倉庫街の出口まで走り、周辺に黒い乗用車が残っていないかを確認した。敵の姿はもうない。だが、曲がり角の砂利に、太いタイヤの跡が残っていた。急発進した跡だった。


 表向きの説明は、こうである。


 早乙女土地売買株式会社の代表である早乙女尚人と、社員の倉田順子が、港南・天王洲方面の倉庫物件を夜間下見していた。現場には、尚人のワゴン車が破壊された状態で残されていた。2人の行方は分からない。車内には血痕があり、複数の男に襲われた可能性がある。


 それは嘘ではない。


 だが、リモコンのことは一切出さない。


 尚人と順子が、どこかの時代へ飛ばされた可能性も言わない。


 言えば、誰も信じない。信じさせようとすれば、こちらの側が危うくなる。警察に必要なのは、現場に残された車、血痕、ガラス片、タイヤ跡、そして2人が行方不明になった事実である。それ以上は、表の世界で説明できない話だった。


 理恵は、現場から少し離れた場所で、夜の倉庫街を見ていた。顔は青白かったが、目は動いていた。泣く時間を、後へ回している顔だった。


 直樹はその横へ立った。


「理恵さん」


「何?」


「祖父さんは、生きていると思います」


「お母さんも?」


「はい。順子さんもです。祖父さんが一緒なら、まず守るはずです」


 理恵は、割れたワゴン車を見た。


「尚人さんなら、どこへ飛ばされても、まず周りを見るでしょうね」


「はい」


「道を見て、人の流れを見て、食べ物を探して、寝る場所を探す」


「そうすると思います」


 理恵は、少しだけ口元をゆるめた。


「困った人ね。どこへ行っても、土地を見るんだから」


 笑うような場面ではない。それでも、尚人を思えば、そう言わずにいられなかった。父と母を失ったような夜に、尚人の癖を思い出すことだけが、理恵の心をわずかに支えていた。


 佑馬が戻ってきた。


「警察が来る前に、話をそろえるぞ」


 理恵は父を見た。


「はい、お父さん」


 達也もうなずいた。


「尚人さんと順子さんは、港南の夜間下見中に襲撃された。犯人は複数。目的は不明。2人は連れ去られた可能性がある。これ以上は推測になる」


 理恵が続けた。


「会社としては、警察に協力する。ただし、今後の土地買付けや内部資料については、必要な範囲だけ出す」


 佑馬は直樹を見た。


「直樹、おまえは発見者だ。余計なことは言うな。見たことだけを話せ」


「分かりました」


「リモコンのことは」


「言いません」


 直樹は即答した。


 佑馬は小さくうなずいた。


 その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。


 夜の港南に、青白い光が近づいてくる。


 直樹は、割れたワゴン車を見た。そこにはもう、尚人も順子もいない。だが、2人がここにいたことは、車の壊れ方、落ちた地図、こぼれた缶コーヒー、そして順子の小さな字が示している。


 1986年に残された者たちは、ここから動かなければならない。


 尚人と順子がどこへ飛ばされたのかは分からない。敵は、一方通行のリモコンを持っている可能性が高い。こちらに残された手掛かりは多くない。


 破壊されたワゴン車。港南の候補地図。転移の微かな反応。逃げた車のタイヤ跡。そして、直樹が持つ自作のリモコン。


 それだけである。


 直樹は、ヘルメットを左手に持ち替えた。


 右手は空けておいた。


 何かを守る時、手は空けておかなければならない。ラグビーでも、土地の仕事でも、今夜のような現場でも、それは同じだと直樹は思った。


 パトカーの光が、倉庫の壁を青く照らした。


 理恵、佑馬、達也、直樹は、並んでその光を迎えた。


 尚人と順子が消えた夜、1986年に残された者たちは、初めて同じ方向を向いたのである。


 ◇ ◇ ◇


 そのころ、別の東京では、空に焼け残りの煙が薄く流れていた。


 足元は土と瓦礫である。風には焦げた木と湿った灰の匂いが混じっていた。遠くで、誰かが鍋を叩くような音がした。闇の中に、かすかな人の声があった。犬の鳴き声も聞こえたが、元気な声ではない。人も獣も、夜を越すだけで精いっぱいの場所だった。


 順子は、尚人の腕にしがみついたまま震えていた。


「ここは……」


 尚人は周囲を見た。


 高いビルはない。ネオンもない。倉庫街の湿った風も消えている。ここは、1946年2月の東京だった。終戦から半年ほどしか経っていない。街には焼け跡が残り、夜の風には焦げた木と湿った灰の匂いが混じっていた。


「東京だ」


 尚人は言った。


「だが、1986年ではない」


 順子は息を呑んだ。


 尚人は、彼女の肩を抱いた。


「順子さん、離れるな。今夜は、まず雨風をしのげる場所を探す」


「戻れるんですか」


 尚人はすぐには答えなかった。


 一方通行のリモコンは、こちらへは来ていない。敵の手に残ったはずである。ポケットの中を探っても、そこには何もなかった。あの道具は人だけを飛ばし、道具そのものは元の時代へ残る。そういう仕組みである。


 戻るための道具を1986年側に隠していたとしても、今の尚人には何の役にも立たない。ここは終戦直後の東京である。目の前にあるのは、焼け跡、寒さ、空腹、人目、そして順子の震える体だけだった。


 尚人は、順子の顔を見た。


「今すぐには戻れない」


 順子の目が揺れた。


「では、どうするんですか」


「生きる。まずはそれだけだ」


 尚人は、周囲へ目を向けた。


 焼け跡の東京は、何もない場所ではない。これから人が戻り、道が直り、店が立ち、土地が動き出す場所である。だが、それは先の話だった。今は金でも土地でもない。順子を守り、夜を越すことが先だった。


 順子は、尚人の袖を強くつかんだ。


「私、足手まといになります」


「ならない」


「でも、私はこの時代のことを何も知りません」


「私も十分には知らない。だから見る。聞く。覚える」


 尚人は、順子の背中を支えた。


「怖ければ、私のそばにいればいい」


 順子は、涙をこらえるようにうなずいた。


「はい」


 尚人は歩き出す前に、もう一度空を見た。


 夜は深い。雨はまだ降っていない。だが、湿った風がある。夜明けまで外にいれば、順子の体がもたない。食べ物も必要である。水もいる。靴も服も、この時代では目立つ。まずは身を隠す場所を探し、朝になったら人の流れを見るしかない。


「行こう」


 尚人は言った。


「夜明けまでに、身を隠せる場所を探す」


「戻る道は、本当にあるんですか」


 順子は震えながら尋ねた。


 尚人は、少し間を置いた。


「今は見えない。だが、見えないから終わりではない」


「……はい」


「この時代にある物で、何が作れるかも調べる。電気、金属、部品、人の技術。すぐにリモコンが作れるとは思わない。だが、できることを一つずつ探す」


 順子は尚人を見上げた。


「作るんですか」


「作れればな」


 尚人は短く答えた。


「作れなければ、別の道を探す。どちらにしても、今夜やることは一つだ。生き延びる」


 その言葉は冷静だった。励ましではなく、方針だった。


 順子は、尚人の腕にしがみついたまま、小さく息を吸った。焦げた木と灰の匂いが肺に入る。涙が出そうになったが、泣いても何も変わらないことだけは分かった。


「私も、できることをします」


 順子は言った。


 尚人は彼女を見た。


「まず、離れないことだ」


「はい」


「次に、私が止まれと言ったら止まる。伏せろと言ったら伏せる。知らない者に話しかけられても、私が答えるまで黙っている」


「分かりました」


「それで十分だ」


 順子はうなずいた。


 2人は、焼け跡の東京を歩き出した。


 背後には、港南の倉庫街も、白いワゴン車も、理恵たちの声もない。


 ただ、遠い時代の闇があった。


 それでも尚人は歩いた。


 道が残っている限り、人は前へ進める。


 そして尚人は、どの時代へ飛ばされても、まず道を見る男だった。

後編では、1986年に残された理恵、佑馬、達也、直樹が、リモコンの秘密を隠したまま警察対応に入る。彼らには、尚人と順子がどの時代へ飛ばされたのかは分からない。残された手掛かりは、破壊されたワゴン車、港南の候補地図、転移の反応、逃走車のタイヤ跡だけである。一方、読者には、尚人と順子が終戦後間もない東京へ到着したことが示される。2人に今できることは、戻る道具を探すことではなく、生き延びることだった。焼け跡の材料で何が作れるのかも分からないまま、2人は夜を越す場所を探し始める。

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