第17話(中編)――「港南に残された車」
港南の倉庫街で、早乙女尚人と倉田順子は1986年の東京から姿を消した。現場に残されたのは、窓を割られたワゴン車と、港南・天王洲の候補地図だけである。その夜、成城から港南へ向かったモロー直樹は、破壊された車を見つける。だが直樹は、順子が尚人に同行していたことを知らない。理恵への電話で、初めて理恵の母の順子が現場にいたと知る。
(1986年5月22日木曜日午後9時25分、東京・品川区、港南の倉庫街近く)
モロー直樹は、港南の倉庫街へ入ると、バイクの速度を落とした。
夜の港南は暗かった。昼間なら、トラックが出入りし、作業服の男たちが声をかけ合っているはずの場所である。だが午後9時を過ぎると、倉庫の壁は黒く沈み、鉄のシャッターだけが街灯を受けて鈍く光っていた。運河から吹く風には、潮、油、濡れた木箱、古いコンクリートの匂いが混じっていた。
直樹は、上着の内側から折り畳んだ地図を出した。
夕方、成城6丁目の屋敷へ戻ったとき、執事が尚人からの封筒を預かっていた。封筒には、港南と天王洲の候補地を赤鉛筆で囲んだ地図と、短いメモが入っていた。
――大学と練習が終わって余力があれば、港南へ来い。夜の車の流れ、道幅、倉庫の出入りを見ておけ。無理なら明日でいい。
その下には、横須賀の連絡先も書かれていた。
――緊急時はこの番号へ。理恵、達也、佑馬のいずれかが出る。
尚人らしい、用件だけのメモだった。
直樹は、その夜のうちに行くことにした。
帝都工業大学の講義、ラグビー部の練習、成城の家での慌ただしい夕食。長い一日だった。だが、尚人が自分に仕事を振ったのは初めてである。工学系の大学にいる直樹に、道幅と車の出入りを見ろと言ったのだ。役に立てるなら、行きたかった。
直樹は地図を見ながら、赤い丸の付いた倉庫を一つずつ確認した。道路の幅、大型車の進入方向、夜でも灯りの残る倉庫、完全に閉まっている倉庫。尚人が見ろと言った意味は、現地に立つと分かった。昼の港南と夜の港南では、見えるものが違う。
最後の候補地へ近づいた時だった。
街灯の下に、白いワゴン車が見えた。
直樹は最初、尚人が待っているのだと思った。だが、近づくにつれて、胸の奥が冷えた。
後部座席の窓が割れていた。
直樹はバイクを止めた。エンジンを切ると、あたりの静けさが急に濃くなった。ヘルメットを外し、ワゴン車へ近づく。靴の下で、ガラス片が細かく鳴った。
窓は外から叩き割られていた。ガラスは車内にも外にも散っている。ドアはへこみ、黒いゴムの縁がめくれていた。座席の下には、サンドイッチの紙袋が落ちている。缶コーヒーは横倒しになり、甘い液が床にこぼれていた。
「祖父さん」
直樹は低く呼んだ。
返事はなかった。
車内を覗く。人の姿はない。座席の端に、薄い血の線があった。多くはない。だが、そこに誰かが傷ついた跡があるのは分かった。
助手席の足元には、港南と天王洲の候補地図が落ちていた。紙の端に、小さな字で「夜間確認済」と書かれている。字は女性の手に見えた。だが、それが誰の字かまでは分からない。
座席の下には、小さな菓子箱も落ちていた。さらに、薄い色のハンカチがガラス片の間に挟まっている。
祖父は、一人ではなかった。
直樹に分かったのは、そこまでだった。
順子が一緒だったとは知らない。尚人は、封筒のメモに同行者の名を書いていなかった。成城の執事も、尚人が誰と出かけたかまでは知らなかった。
だが、現場の様子は明らかだった。
事故ではない。強盗でもない。誰かがワゴン車を襲い、尚人と、もう一人を連れ去った。あるいは、この場所から消した。
直樹は、尚人から聞いていた話を思い出した。
倉田佑馬、倉田順子、理恵、達也。4人が1986年の横須賀に来ていること。未来から来た親戚たちが、尚人を支えていること。そして、一方通行のリモコンのこと。
一方通行のリモコンは、どこへでも行くことができる。だが、リモコンそのものは行き先へ持っていけない。
尚人は、直樹にそう説明していた。
「人は飛ぶ。道具は残る。だから、便利なようで危ない。戻る道を持たずに飛ばされたら、そこで生きるしかない」
直樹は、ワゴン車の周囲を見た。
砂利には乱れた足跡が残っている。車の側面には、誰かが叩きつけられたようなへこみもある。尚人が抵抗したのだろう。だが、相手は複数だった。しかも、車内にいたもう一人を使われたなら、尚人は無理に動けない。
直樹は、近くの公衆電話を探した。
倉庫街の角に、古い電話ボックスがあった。蛍光灯が弱く点き、ガラスは汚れている。直樹は小銭を入れ、尚人のメモにあった横須賀の番号を回した。
呼び出し音が続いた。
3度目で、女の声が出た。
「はい、倉田です」
理恵の声だった。
直樹は、ほっとするより先に名乗った。
「理恵さん、直樹です。モロー直樹です」
受話器の向こうで、空気が張り詰めた。
「直樹くん?」
理恵の声が一段変わった。
「ホーチミンの、直樹くん?」
「はい」
「あなた、どうして日本にいるの。今、どこから電話しているの」
「1986年の東京です。成城から港南へ来ました」
短い沈黙があった。
理恵は、すぐに冗談ではないと判断したらしい。声が低くなった。
「尚人さんから聞いたのね」
「はい。理恵さんたちが横須賀に来ていることも聞いています。佑馬さん、順子さん、達也さんのことも」
「分かった。それで、何があったの」
直樹は電話ボックスのガラス越しに、白いワゴン車を見た。割れた窓が街灯の下で白く光っている。
「港南の倉庫街で、祖父さんのワゴン車を見つけました。窓が割られています。祖父さんはいません」
「何ですって」
「車内に、もう一人いた形跡があります。女性の物らしいハンカチと、菓子箱があります。候補地図も落ちています。でも、誰かは分かりません」
受話器の向こうで、理恵が息を呑んだ。
「お母さんだわ」
「順子さんですか」
「今夜、お母さんは尚人さんと港南へ行くと言っていたの。候補地の資料を持って。夜の倉庫街を見るから、遅くなるかもしれないと」
直樹は目を閉じた。
祖父と一緒にいたのは、順子だった。
「では、祖父さんと順子さんが消えたんですね」
「場所を言って。すぐ行く」
直樹は、倉庫の名前、近くの橋、電話ボックスの位置を伝えた。理恵はメモを取っているらしく、紙を走る音が受話器の向こうで聞こえた。
「直樹くん、そこを離れないで。警察にはまだ細かいことを言わないで。私たちが行く」
「分かりました」
「危ないと思ったら、すぐ隠れて」
「はい」
「直樹くん」
「はい」
理恵の声が少し揺れた。
「お母さんは、生きていると思う?」
直樹は、ワゴン車を見た。血の量は少ない。死体はない。現場には、説明できない空白がある。
「生きていると思います」
直樹は答えた。
「祖父さんが一緒です。順子さんを死なせるはずがありません」
受話器の向こうで、理恵は少し黙った。
「分かった。すぐ行く」
電話は切れた。
直樹は受話器を戻した。電話ボックスの中に、硬貨の落ちる音が小さく響いた。
◇ ◇ ◇
(同日午後10時15分、港南の倉庫街)
最初に着いたのは、達也だった。
黒い乗用車を倉庫の陰へ寄せるように止め、すぐに降りてきた。続いて、理恵と倉田佑馬が降りる。理恵は髪をまとめる時間もなかったのか、肩に落ちた髪を片手で押さえながら走ってきた。佑馬は顔色を変えていないように見えたが、目だけが硬かった。
理恵は直樹を見るなり、名前を呼んだ。
「直樹くん」
「理恵さん」
2人は、一瞬だけ昔の顔になった。
ホーチミンで会った時、理恵はもっと明るい顔をしていた。佑馬、順子、達也と一緒に、直樹の母、美咲を交えて食卓を囲んだこともある。フランス語と日本語とベトナム語が混じる、にぎやかな夕食だった。理恵はその時、直樹に「日本へ来たら案内する」と笑っていた。
今は、1986年の港南である。
笑って再会する夜ではなかった。
理恵は直樹の肩を軽くつかんだ。
「本当に、直樹くんなのね」
「はい。説明はあとでします」
「そうね」
理恵はすぐにワゴン車へ向かった。
達也は周囲を見た。倉庫、道路、ガラス片、タイヤの跡。無駄な言葉はない。彼は現場を見る時、顔つきが変わる男だった。
佑馬は、割れた窓を見た瞬間、拳を握った。
「順子……」
その一言だけが、低く出た。
直樹は、佑馬の横に立った。
「理恵さんから聞くまで、順子さんが一緒だとは知りませんでした。すみません」
佑馬は、直樹を見た。
「おまえが謝ることじゃない」
声は荒くなかった。だが、奥に押し殺したものがあった。
「血は少ないです。車内に人はいません」
直樹は続けた。
「現場で亡くなったとは考えにくいです」
佑馬は割れた窓を見た。
「それで安心しろと言うのか」
「安心はできません。でも、順子さんはその場で殺されてはいないと思います」
佑馬は、何も言わなかった。
理恵が車内から地図を拾った。
「これ、お母さんの字です」
紙の端に、「夜間確認済」とある。理恵の顔がゆがんだ。
「お母さん、本当に現地まで来ていたのね」
達也は車のへこみを見た。
「尚人さんは抵抗しています。相手は複数。少なくとも5人以上です。ハンマーと鉄パイプ。正面から襲って、窓を割った」
「尚人さんなら勝てるでしょう」
理恵が言った。
「普通なら」
達也は短く答えた。
「でも、順子さんを人質に取られたら別です」
佑馬が顔を上げた。
「リモコンか」
その言葉で、全員が黙った。
夜の倉庫街の風が、割れた窓を抜けた。ガラス片がかすかに鳴る。遠くを走るトラックの音が、低く長く続いた。
直樹は言った。
「祖父さんは、一方通行のリモコンを持っていました」
理恵がうなずいた。
「どこへでも行ける。でも、持ってはいけない」
「はい。人は飛ぶ。リモコンは元の側に残る。祖父さんはそう言っていました」
佑馬は唇を噛んだ。
「なら、敵は尚人さんと順子をどこかへ飛ばした。リモコンは敵の手元に残ったということか」
理恵は、すぐに父を見た。
「お父さん。お母さんは、尚人さんと一緒です。まだ決めつけないで」
佑馬は理恵を見た。
「ああ。分かっている」
声は低かった。だが、理恵の言葉で、かろうじて怒りを押し戻したようだった。
直樹は、ワゴン車の中をもう一度見た。
「現場に2人の姿がない。死体もない。血も少ない。拉致なら、もっと引きずった跡や車に押し込んだ跡が残るはずです。でも、それがほとんどない。途中で消えたと考えた方が合います」
理恵は地図を握りしめた。
「どこへ行ったか、分かるの?」
直樹は首を横に振った。
「分かりません。現場だけでは無理です。行き先は、敵がリモコンに何を指定したかで決まります。ここから見えるのは、転移があった可能性が高いということだけです」
達也が低く言った。
「つまり、行き先は不明ということですね」
「はい」
直樹はうなずいた。
「ただ、僕のリモコンなら、転移の残った反応を少し拾えるかもしれません」
理恵が直樹を見た。
「あなたのリモコン?」
「僕は、自分でリモコンを作りました。祖父さんのものより後に作ったので、少し機能が違います。僕はそれで1986年の葉山へ来ました」
佑馬が目を細めた。
「そんなものまで作ったのか」
「はい。ただし、今ここで派手に使うわけにはいきません。警察が来る前に、見られない範囲で調べるだけです。正確な行き先までは、すぐには分からないと思います」
理恵は、短く考えた。
「できるだけやって」
「はい」
直樹はバイクへ戻り、工具入れの奥から小さな機械を取り出した。外見は、改造した無線機にも、測定器にも見える。金属の箱に小さな表示窓があり、側面には細いダイヤルが付いていた。
直樹はワゴン車の横へ戻り、割れた窓の近くで機械を起動した。
小さな針が、かすかに震えた。
直樹は息を詰めた。
「反応があります」
理恵が尋ねた。
「何の反応?」
「転移の痕跡です。ただ、かなり乱れています。ここで一方通行のリモコンが使われた可能性は高いです」
「行き先は?」
佑馬が聞いた。
直樹は表示窓を見た。針は不規則に揺れている。数字は安定しない。
「駄目です。時代の幅が広すぎます。これだけでは読めません」
理恵は唇を噛んだ。
「つまり、お母さんたちがどこへ飛ばされたかは、まだ分からない」
「はい」
直樹は答えた。
「ただ、ここで一方通行のリモコンが使われた可能性は高いです。人だけが飛ばされ、リモコンは元の時代に残る。祖父さんが話していた仕組みと合います」
佑馬が低く言った。
「なら、そのリモコンは敵が持っている」
「その可能性が高いです」
直樹は機械を止め、工具入れに戻した。
「でも、行き先まではまだ分かりません。今ここで分かるのは、祖父さんと順子さんが、この場所からどこかへ飛ばされた可能性が高いということだけです」
理恵はうなずいた。
「分かった。今は、表の対応を先にしましょう」
中編では、モロー直樹が港南の倉庫街で破壊されたワゴン車を発見する。ただし、直樹は順子が同乗していたことを知らない。現場で分かるのは、尚人の車が襲われ、もう一人いた形跡があるということだけである。理恵への電話で、初めてその同行者が理恵の母の順子だと判明する。1986年側の理恵、佑馬、達也、直樹は、尚人と順子がどの時代へ飛ばされたかを断定できない。直樹は自分のリモコンで転移の痕跡を調べるが、行き先までは分からない。




