総括:SPICY論
創作活動を続けることは、自分のアイデンティティを確立させていくことなのだろうと思い、このようなエッセイを続けてきました。私が投げかける問いに様々な方が反応し、問題意識を持ってくださることは大変ありがたく、書き甲斐を感じていました。
しかし、自己を確立させるのは、何も創作活動だけではありません。社会生活そのものが創作活動に影響を及ぼします。一人の人間として、しっかりとした考え、生き方をしていけば、自ずと道は開け、個の埋没を恐れることもなくなるのだと思うのです。
営業の仕事に戻った今日、世の中には様々な人がいるのだと、改めて知らされています。その一人一人の人生とはすれ違うだけですが、「この世には個性のない人間などいない」ことがよくわかります。
出会ってきた人々が、皆同じだったか、どこか特徴があるから覚えているのではないか──。そして、自分の作品ではモブ(群集)扱いの人間が、自分の人生に一番影響を与えているという事実をしっかりと受け止められているか。
世間には小説のネタになることが、ゴロゴロと転がっているのです。誰も見もしないような、他愛のない事柄が一番のネタの宝庫であることに気付けたら、今まで以上に面白い作品が書けるような気がしませんか。
私は、自分の個がそれほど濃いものだとは思いません。普段は○○の一員、○○のお母さん、○○に住んでる人……、決して注目される存在ではないからです。目立とうとか、面白がらせようとか、そんなこともしませんし、まして、有名になりたいなどという願望もありません。
小説においても、まあ、そこそこに宣伝はしていますが、アクセス数を稼ごうという気もありませんし、ランキングの上位になりたい! などという気合も足りない部類でしょう。
そのような私が書いているこの文章に、少しでも個を感じてくださるならば、嬉しい限りです。激しい感情を押し殺しながら、努めて冷静に綴ろうと努力してきた甲斐があるというものです。
近年、ネット小説を取り囲む環境がめまぐるしく変わっています。
「恋空」に代表される悲恋系ケータイ小説がブームを巻き起こし、誰でも手軽に小説を書く時代になってきました。新しい小説形態として、ケータイ小説なるものが登場したことで、今まで細々とネット小説を綴ってきた私にとって、「小説とは何か」と深く考えさせられる機会が多くなりました。
表現方法の差、端末・執筆環境の差、世代間の差、そして、執筆している作者自身の読書歴・感性の差など、思いのほかたくさんのものが絡み合い、多種多様な作品が存在してきています。
前述の通り、人は誰しも個を持っており、表現の自由の観点から、決して全てを否定することは出来ません。しかし、「小説」を名乗るのであれば、ある程度しっかりした書き方をして欲しいと思うのは、旧世代の人間の性なのでしょう。ただ綴ればいい、ただ連ねればいい、というのでは、「小説」という形態をわざわざ選んだ意味がないように思えてならなかったのです。
例え、今現在、商業的価値観からケータイ小説がブームになっていたとしても、それが延々と続くとはとても考えられません。ブームというのは、一瞬で過ぎ去るからそのように言われるわけですから、いまのうちに、自分の価値や個性をきちんと確立させ、ブームが過ぎ去っても決して色あせない自分だけの作品を残せるようになった方がいいのではないかと思います。
勿論、私自身も、色々書いてきました。WEBに掲載していないだけで、二次もBLもTSも書いたことがあります。そうした一過性の強いジャンルに固執していた時代、私の視界はかなり狭かったような気がします。若かったことも、経験値が不足していたこともその要因かもしれません。量をこなしていくうちに、自分に合っているものは何か、模索することの方が楽しくなってきているのです。
しかも、そうして自分だけの世界や作品を作り出そうと思い立ったのはここ数年。恥ずかしい話、私には誰かに影響されたり模倣したりすることが楽しくてたまらない時期が、長く存在しました。それでも、そのような日々が今に繋がっているのですから、否定ばかりしていられないのもまた事実です。
同人誌で作品を紹介していた時代、自分の作品を手にとって読んでくれるのは、ごく一部の人間で、それでも私は作品を書き続けていました。何のために、だったのか。今考えれば、自己満足だったと結論付けるしかないでしょう。たくさんのお金をつぎ込みましたが、決して黒字にはなりませんでした。それでも、なんだか充実感のようなものがあって、私は次々に即売会に参加し、せっせと売り込みをしていました。
今は、経費もかけずに作品を公開できる、すばらしい時代になったと思います。
あの頃の私がこのような世界になると知っていたら、作品の公開方法を変えていたのでしょうか。いや、もしかしたら、あのわけのわからない熱気に飲み込まれていた分、今のような感覚になることはなかったかもしれません。
時代に乗りたい、自分も同じように書いてみたい、共感させてみたい。そんな気持ちは、どの時代にだって、どの世界にだって溢れています。
同人というヲタクの世界に身を置いていた自分と、今のケータイ小説作家たち、なんだかとても似ている気がして、完全否定する気にはどうしてもなれないのです。
ですが、経験からいって、成功するのはほんの一握り。結局はどんなに模倣しても、その世界で実力が認められなければ、三流にしかなれません。必死に書いて書いて書きまくっても、本当の意味で認められるのは稀なのです。
プロになりたくて書いている人も、勿論多いとは思いますが、現実にはプロになったとしても、次作以降が振るわず、そのまま消えてしまう人も多いと聞きます。自分にしかない世界観、表現方法を駆使してどれだけ生き残れるか、真摯に構えなければ、たくさんの作品群の中から注目されることすら出来なくなってしまいますよね。
私はプロ志望ではありませんから、のんびりコツコツと自分なりの世界を書き続けています。趣味の世界ですが、妥協はしたくありません。(何度かこの作品ないでも語りましたが)
趣味であればなんでもあり、趣味だから口出ししないで、というのはやっぱりおかしいのではないでしょうか。どの世界だって、基本の型から入って、応用を学ぶのに、小説は何でもありだよというのは、合点がいきません。
表現方法や世界観は、基本があってこそ。我流は基本ができてからだというのは、どの世界だって常識ですよね。
このエッセイの中では、書き方や文章作法、物語の構成などについては殆ど触れていません。作者として、読者として、WEB小説の今後を考えて、憂いている内容が殆どです。
素人が大口叩いてどうするの、と思われた方も、最後まで頷いてくださった方も、ご愛読ありがとうございました。この作品はこれでおしまいです。
また、別の作品でお会いすることがあるかもしれません。その時は、「ああいう主張の人間が書いた文章とは」と、色眼鏡で読んでくださっても構いません。私も、主張に負けない作品を作り出すように心がけていきたいと思います。
数ヶ月の短い間でしたが、本当にありがとうございました。
皆様の創作活動がより発展しますように心からお祈りいたします。