第八話|秋陽の下で
王都の朝には、冬の気配が混じり始めていた。
夜のうちに冷え込んだ石畳には薄く露が残り、通りを行く人々の装いも、少しずつ厚手のものへと変わっている。市場では秋の収穫物が店先に並び、荷馬車が石畳を叩く音に混じって、商人たちの威勢のよい声が響いていた。
そんな賑わいを背に、エリア・アステリアは王都の騎士訓練場へ向かっていた。
レオとシエルが調査隊とともに王都を発ったのは、昨日のことだ。
出発の日、エリアは二人をいつものように笑顔で見送った。レオとは、帰還したらまた剣を交える約束もしている。
だからといって、それまで鍛錬を休むつもりなど、もちろんない。
訓練場に着くと、すでに何人もの騎士たちが朝の鍛錬を始めていた。
木剣が打ち合う乾いた音。指導役の号令。足元の砂を蹴りながら、何度も踏み込みを繰り返す若い騎士たち。
訓練場には騎士たちが使用する区画のほかに、一般にも開放された一角が設けられている。剣術を学ぶ者や腕を磨きたい者が利用できる場所で、エリアも時折足を運んでいた。
幼い頃からの鍛錬は、主に実家の訓練場で兄のシエルとともに重ねてきた。それでも、こうして王都の訓練場へ出向けば、普段とは違う相手と剣を交える機会がある。
今では顔馴染みの騎士もおり、彼女が小柄な身体で大剣を自在に操ることも知られていた。
エリアは知った顔を見つけると、大きく手を振った。
「おはようございます!」
「おう、エリア。今日も来たのか」
「うん、ちょっと身体を動かしに来たの」
「隊長なら調査に出てるぞ」
「知ってるよ。昨日見送ったもん」
「そうか。てっきり隊長を探しに来たのかと思った」
「もう、失礼ね。私だってちゃんと鍛錬するんだから」
頬を膨らませるエリアに、騎士は愉快そうに笑った。
もっとも、エリア本人は周囲の評価をさほど気にしていなかった。
強い相手と剣を交えるのは楽しいし、昨日できなかったことが今日できるようになるのも嬉しい。
彼女にとって、剣を振る理由はそれだけで十分だった。
訓練場の端に荷物を置き、エリアは背負っていた大剣を下ろした。
小柄な身体よりも長いその剣は、扱い慣れていない者なら、構えるだけでも苦労するだろう。
だが、エリアの動きには迷いがなかった。
鞘から剣を抜き、両手で柄を握る。軽く肩を回して身体をほぐすと、足を開いて構えた。
まずは足運びから。
右足を踏み込み、腰をひねりながら剣を振り抜く。長い刀身が弧を描き、低く風を裂く音が響いた。
その勢いを殺しきらず、軸足を入れ替える。
身体を回転させながら次の一撃へつなぎ、振り下ろした剣を切り返す。
大剣は重量がある分、一度動き始めれば大きな力を生む。しかし、その重さに頼るだけでは、次の動作へ移るのが遅れてしまう。
必要なのは、刃の重さを自分の動きの中へ取り込むことだった。
エリアは数度同じ動きを繰り返したあと、ふと剣を止めた。
「……んー」
今の踏み込みは少し浅かった。
もう一度、最初の構えへ戻る。
重心をわずかに落とし、踏み出す足へ意識を向けた。
剣を振る。
先ほどよりも身体の力が素直に刃へ伝わり、切っ先が滑らかに弧を描いた。
「よしっ」
満足そうに頷き、再び動き始める。
幼い頃から、剣を教えてくれたのは兄のシエルだった。
実家の訓練場で、最初は木剣を持つだけでも精一杯だった。兄の真似をして振り回しては転び、悔しくて何度も立ち上がったことを覚えている。
成長してからも、シエルの指導は決して甘くなかった。
足元が乱れれば容赦なく指摘され、剣の軌道がぶれれば何度でもやり直しを命じられた。
それでも、できなかった技が成功したときには必ず褒めてくれたし、鍛錬の帰りに好物を買ってくれることもあった。
思い出して、エリアは小さく笑った。
今では兄と剣を交えても、簡単には負けない。
けれど、あと一歩というところで一本を取られてしまうことが多かった。
「次こそ勝つんだから……!」
誰に聞かせるでもなく呟き、エリアは大剣を構え直した。
しばらくして、近くで鍛錬していた若い騎士が声をかけてきた。
「エリアさん、少し相手をお願いできますか?」
「あ、いいよ」
「ありがとうございます。最近、踏み込んだところをよく返されるんです。どうしたらいいか分からなくて」
「じゃあ、ちょっとやってみよっか」
エリアは大剣を鞘に収め、安全な場所へ置いてから練習用の木剣を手に取った。
若い騎士も向かい合って構える。
「いつもどおりに打ち込んできていいよ」
「はい!」
騎士が勢いよく踏み込んだ。
振り下ろされた木剣をエリアはわずかな動きで受け流し、半歩だけ横へ移動する。
次の瞬間には、彼女の木剣が騎士の脇腹へぴたりと添えられていた。
「あっ……」
「ほら、今の」
エリアは剣を下ろした。
「踏み込むのはいいんだけど、肩が先に動いてるんだよね。剣が来る前に、どこを狙ってるか分かっちゃう」
「肩、ですか?」
「うん。それと、打ち込んだあとに足が止まっちゃってる。そこを狙われると避けにくいでしょ?」
騎士は自分の足元を見下ろし、納得したように頷いた。
「なるほど……もう一度お願いします!」
「もちろん」
二人は何度か剣を交えた。
エリアは相手の動きを見ながら、踏み込みの角度や重心の置き方を少しずつ変えさせていく。
やがて若い騎士の一撃が、先ほどよりも鋭く伸びた。
それを受け止めながら、エリアは嬉しそうに笑った。
「そうそう、今のいい感じ!」
「本当ですか!」
「うん。でも、まだ私には当たらないけどね」
「そこは分かってますよ……!」
周囲で見ていた騎士たちから笑い声が上がった。
午前の鍛錬が終わる頃には、エリアの額にも薄く汗が浮かんでいた。
木剣を戻し、肩に掛けた布で汗を拭う。
誰かと剣を交えるのは、やはり楽しい。
それに、人に教えることで、自分の動きを見直せることもある。
水をひと口飲みながら、エリアは訓練場を振り返った。
レオが戻ってきたら、今朝確かめた踏み込みを試してみよう。
きっと、簡単には通用しない。
それでも、どんなふうに返してくるのかを考えるだけで、少し楽しみだった。
「……あー、お腹空いた」
ひと仕事終えたとばかりに伸びをすると、エリアは大剣を背中へ戻し、荷物を抱えて訓練場をあとにした。
今日の昼食は、何にしようか。
その悩みの方が、今はずっと重大だった。
***
昼食を済ませたエリアは、王都の市場へ足を向けた。
秋の収穫期を迎えた市場は、いつにも増して賑わっている。
籠いっぱいに盛られた林檎や梨。軒先に吊るされた乾燥香草。焼き栗を売る露店の周りには、甘く香ばしい匂いに誘われた人々が集まっていた。
エリアもその匂いに足を止めかけたが、別の一角から聞こえてきた声に顔を向けた。
「だから、また畑へ入り込んだんだよ!」
声の主は、農作業用の服を着た中年の男性だった。
果物を扱う露店の女主人と、困った顔で話している。
「この間は柵を壊されただけで済んだんだがね。今朝は納屋の近くまで来やがった。家畜も怯えちまって、どうにもならん」
「騎士団には知らせたのかい?」
「ああ。巡回の連中にも話したんだが、ほかにも対応するところがあるらしくてな。順番に見て回ると言われたよ」
エリアは二人のそばへ歩み寄った。
「ねぇ、何かあったの?」
女主人が振り返る。
「おや、エリアちゃん。ちょうどよかった。あんた、剣が得意だったね」
「うん」
男性は彼女の背中にある大剣を見て、少し驚いたようだった。
「実はな、王都の西側にある農地へ魔物が入り込んでるんだ」
話を聞くと、数日前から林の近くの畑が荒らされるようになったという。
最初は野生の獣だと思われていたが、今朝、農夫の一人が魔物の姿を目撃した。
大きな牙を持つ、四足の魔物だったらしい。
「今のところ怪我人は出てないんだが、畑に近づけなくてな。収穫もまだ残ってるってのに……」
男性は深いため息をついた。
王都の周辺で魔物が出ること自体は、珍しい話ではない。
人の暮らしを脅かす魔物がいれば、騎士団が対処する。だが、王都から離れた林や丘陵地には、もともと魔物が生息している場所もあった。
今回のように、人の生活圏へ入り込んでくることもある。
エリアは少し考えてから、男性へ尋ねた。
「その魔物、今も畑の近くにいるの?」
「たぶんな。朝から何度か姿が見えてる。怖くて誰も近づけん」
「そっか」
彼女は軽く頷いた。
「じゃあ、私が見に行ってくるよ」
「えっ?」
男性が目を丸くした。
「いや、しかし……あんた一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫。こう見えても、結構強いんだから」
エリアは胸を張った。
女主人が横から笑う。
「結構どころじゃないよ。この子、近衛の騎士たちとも互角に剣を交えるんだから」
「そ、そうなのか?」
「えへへ。まぁ、そんな感じ」
男性はしばらく迷っていたが、やがて意を決したように頷いた。
「……それなら、お願いできるか。もちろん、危なそうなら無理はしないでくれ」
「うん。まずは様子を見てくるね」
エリアは畑までの道順と、最後に魔物が目撃された場所を確かめた。
それから近くの詰所にも立ち寄り、現地へ向かうことを伝えておく。
騎士団の正式な任務ではない以上、勝手に指揮を執るつもりはなかった。だが、現地で対応する者同士が行き違いにならないよう、知らせておく必要はある。
詰所の騎士は事情を聞くと、現地の巡回担当にも伝えると約束した。
エリアは礼を言い、王都の西門へ向かった。
***
農地へ着く頃には、陽が少し西へ傾き始めていた。
城壁の外に広がる畑の向こうには、背の低い木々が連なる林がある。
収穫を待つ作物の一部は踏み荒らされ、畑を囲んでいた木柵も何本か折れていた。
その近くには、数人の農夫が集まっていた。
「さっき、また林の方へ入っていったんだ」
案内してくれた男性が、木々の間を指さした。
「畑には誰も残ってない?」
「ああ。みんな避難させたよ」
「家畜は?」
「納屋に移してある」
「分かった。じゃあ、ここで待っててね」
エリアは背中の大剣を下ろした。
鞘から長い刀身を引き抜くと、金属が擦れる低い音が響く。
その姿を見て、農夫たちは思わず息を呑んだ。
小柄な女性が、自分の背丈を超える剣を軽々と構えている。
普段の明るい笑顔とは違い、エリアの表情は落ち着いていた。
畑に残された足跡を確かめる。
深く抉れた土。折られた作物の茎。そして、林へ向かって続く大きな蹄の跡。
相手はそれなりの重量がありそうだった。
エリアは足音を抑えながら、林の縁へ近づいた。
木々の間には、踏み倒された下草が続いている。
その奥から、低い唸り声が聞こえた。
いた。
茂みの向こうに、黒褐色の大きな身体が見える。
猪に似た四足の魔物だった。
肩は盛り上がり、硬そうな皮膚には泥がこびりついている。口元からは湾曲した二本の牙が突き出し、地面を掘り返しながら何かを探していた。
エリアは風向きを確かめ、ゆっくりと足を進めた。
だが、相手もすぐに気づいたらしい。
魔物が頭を上げる。
小さな目がエリアを捉え、鼻先から荒い息が漏れた。
「……よし」
エリアは両手で大剣を構えた。
魔物が前脚で地面を掻いた。
次の瞬間、巨体が勢いよく飛び出してくる。
エリアは正面から受け止めようとはしなかった。
踏み込みの瞬間を見極め、斜め前へ身体を滑らせる。
巨大な牙がすぐ脇を通り過ぎた。
その勢いに合わせて身体を回し、大剣を魔物の肩口へ振り下ろす。
重い刃が硬い皮膚を裂いた。
魔物が苦痛の声を上げ、激しく身体を捻る。
エリアはすぐに距離を取った。
傷は深いが、致命傷には至っていない。
相手は興奮している。無闇に近づけば、牙だけでなく巨体そのものに弾き飛ばされるだろう。
魔物は再び頭を低くした。
今度は先ほどよりも短い距離から突進してくる。
エリアは一歩だけ下がり、相手が踏み込む方向を見た。
右へ。
魔物が進路を変えようとした瞬間、エリアは左足を強く踏み込んだ。
身体を低く沈め、すれ違いざまに大剣を横へ薙ぐ。
刃が前脚の付け根を捉えた。
魔物の巨体が大きく傾き、地面へ倒れ込む。
土煙が上がった。
エリアはその動きを追い、間合いを詰める。
倒れた魔物はなおも頭を振り、牙を突き上げようとした。
だが、その動きが届くより早く、エリアの剣が振り下ろされた。
重い一撃が急所を捉え、魔物の身体が大きく震える。
やがて、抵抗する力が失われた。
エリアはしばらく構えを解かず、相手の様子を確かめていた。
完全に動かなくなったことを確認すると、ゆっくりと剣を下ろす。
「……ふぅ」
小さく息を吐いた。
林の奥へ視線を向け、ほかに魔物の気配がないか耳を澄ませる。
木々が風に揺れ、枝葉の擦れる音が聞こえるだけだった。
エリアは剣についた汚れを拭い、鞘へ収めて背負い直した。
そして、畑の方へ戻っていった。
「終わったよー!」
林から戻ってきたエリアが手を振ると、待っていた農夫たちが一斉に顔を上げた。
「おおっ、本当か!」
「うん。大きな猪みたいな魔物だったけど、ちゃんと倒したよ」
男性はほっとしたように肩を落とした。
「助かった……本当にありがとう。あいつがいるせいで、畑へ入るのも怖かったんだ」
「怪我人が出なくてよかったね」
「まったくだよ。あんたが来てくれて助かった」
ほどなくして、連絡を受けた巡回の騎士たちも到着した。
エリアは魔物の種類や倒した場所を伝え、林の奥にほかの個体がいる可能性についても確認を頼んだ。
討伐した魔物の処理と周辺の安全確認は、騎士たちが引き継ぐことになった。
ひととおりの説明を終えると、エリアは背中の大剣を確かめ、帰り支度を始めた。
すると、農夫の一人が大きな籠を抱えてやってきた。
「せめてもの礼に、これを持っていってくれ」
籠の中には、収穫したばかりの林檎や梨が詰められていた。
「えっ、いいの?」
「ああ。畑を守ってもらったんだ。これくらいじゃ足りないくらいだよ」
エリアの顔がぱっと明るくなった。
「わぁ、ありがとう!」
魔物と向き合っていたときの鋭い表情は、もうどこにもない。
籠の中を覗き込みながら、彼女は嬉しそうに笑っていた。
「これ、すっごくおいしそう」
農夫たちも、その様子につられて笑った。
帰り際、エリアはもう一度林の方へ目を向けた。
魔物は倒したが、農地の安全が完全に確かめられたわけではない。
巡回の騎士たちが周辺を調べ、必要ならしばらく見回りを増やすだろう。
そこまで確認できれば、ひとまず安心だった。
「じゃあ、気をつけてね」
「ありがとう、エリアさん!」
背後から聞こえる声に手を振り、エリアは王都へ続く道を歩き始めた。
手には果物の入った籠。
背中には、使い慣れた大剣。
秋の夕陽を浴びながら、彼女は今夜の食卓に何を並べようかと考えていた。
***
翌日の昼過ぎ、エリアは王立魔法研究所を訪れていた。
高い窓から差し込む光が、磨かれた石床に細長い模様を落としている。廊下には書物や薬草の匂いがかすかに漂い、奥の部屋からは研究員たちが議論を交わす声が聞こえてきた。
エリアはすれ違う顔馴染みの研究員たちに挨拶をしながら、主任研究官の執務室へ向かった。
扉の前で立ち止まると、軽く拳を当てる。
「おじいちゃーん、いる?」
「……その声はエリアか。入れ」
中から聞こえてきた声に、エリアは笑顔で扉を開けた。
「お邪魔しまーす」
ヴァルター・グレイヴは、大きな机に向かって資料を読んでいた。
長い白髪を後ろへ流し、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける姿は、老齢とは思えないほど堂々としている。
机の上には地図や羊皮紙が広げられ、その端には何冊もの分厚い書物が積み重なっていた。
ヴァルターは資料から顔を上げると、エリアを見て片方の眉を上げた。
「どうした、エリア。シエルならおらんぞ」
「知ってるよ。おじいちゃんに会いに来たの」
「ほう、私に会いに来たのか?」
「うん。それと、お菓子も持ってきた」
エリアは肩から提げた鞄を開け、小さな包みを取り出した。
「……なるほど。菓子を食べに来たのが本当の目的だな?」
「違うもん。両方!」
ヴァルターは豪快に笑った。
「はっはっは! 相変わらずだな、お前は!」
「おじいちゃんも元気そうでよかった」
「お前の顔を見れば、嫌でも元気になるというものだ」
ヴァルターが机の上を片づける間に、エリアは慣れた様子で椅子を引き寄せた。
包みを開くと、蜂蜜を使った小さな焼き菓子が並んでいる。
「これね、最近お気に入りなの」
「ほう、どれ」
エリアが差し出したひとつを受け取り、ヴァルターは口へ運んだ。
しっとりとした生地に、蜂蜜の甘さと香ばしい木の実の風味が広がる。
「……うむ、なかなかうまい」
「気に入ってくれた?」
エリアもひとつ頬張り、幸せそうに目を細めた。
「そういえば、お前が昨日、魔物を討伐したそうだな」
ヴァルターが何気なく口を開いた。
「えっ、もう知ってるの?」
「巡回の報告にあったそうだ。シエルの妹が一人で片づけたとなれば、騎士たちも話題にするだろう」
「えへへ。農家の人たちが困ってたからね」
「怪我はなかったか?」
「全然。大丈夫だったよ」
「そうか。それならよい」
ヴァルターは頷いた。
「しかし、相変わらず思い切りのいい娘だ。剣の腕は認めているが、無茶はするなよ」
「はーい」
あまりに素直な返事に、ヴァルターは目を細めた。
「……本当に分かっているのか?」
「分かってるってば」
「シエルが聞いたら、また心配するだろうな」
「もう、お兄ちゃんは心配しすぎなの」
「そう言いながら、お前も兄のことが心配なんだろう?」
不意にそう返され、エリアは菓子を持った手を止めた。
「……そりゃ、そうだよ」
いつもより少し静かな声だった。
ヴァルターは机に広げた地図へ視線を落とした。
そこには、王国各地で確認された魔物の移動記録と、生物が姿を消した区域についての報告がまとめられている。
エリアも身を乗り出し、地図を覗き込んだ。
「おじいちゃん、ずっとこれ調べてるの?」
「ああ。各地から届いた報告を照らし合わせている。調べれば調べるほど、厄介な問題が増えていく」
ヴァルターは地図の端を押さえた。
「魔物の移動についても、これまでの記録と比較しているが、まだ説明のつかん部分が多い。森から姿を消した生き物たちも、何を避けているのかまでは分からん」
「そっかぁ……」
エリアは地図へ目を向けた。
王都の北東には、レオたちが向かった森が記されている。
地図の上では小さな緑の広がりにしか見えないが、そこで騎士が一人命を落としている。
エリオット・ウェストン。
明るく、少しお調子者で、レオに憧れていた若い騎士。
彼のことを思い出すと、今でも胸の奥が小さく痛んだ。
「……お兄ちゃんたち、今頃どうしてるかな」
ヴァルターは資料を置き、エリアを見た。
「予定どおりなら、今日の夕刻には森の手前の村へ着く頃だ。調査は明日からになるだろう」
「うん……」
エリアはしばらく地図から目を離さなかった。
ヴァルターはそんな彼女の様子を見て、静かに口を開いた。
「心配か?」
「……うん。ちょっとだけ」
エリアは素直に頷いた。
「でも、レオもお兄ちゃんも強いから。きっと大丈夫だと思う」
「ああ」
「それに、今回は魔法を使える騎士さんたちも一緒なんでしょ?」
「そうだ。前の調査で得られた情報もある。何も分からず向かったときとは違う」
ヴァルターは椅子の背にもたれ、窓の外を見た。
「もっとも、どれほど備えたところで、未知の相手に絶対はない。だからこそ、あいつらには無事に帰ってきてもらわねばならん」
その声には、研究者としての慎重さだけでなく、長く騎士たちを見守ってきた者の思いが滲んでいた。
エリアは顔を上げる。
「……うん」
「私たちも、それまでにできることを進めておく。それが今の仕事だ」
「そっか。じゃあ、おじいちゃんも忙しいんだね」
「そういうことだ」
エリアはしばらく考えてから、机の上の菓子の包みに手を伸ばした。
しかし、中身はすっかり空になっていた。
「あれ?」
「……おい」
ヴァルターが目を細める。
「まさか、もうないのか?」
「うん。食べちゃった」
「私は二つしか食べておらんぞ」
「えっ、そうだっけ?」
「そうだ」
「じゃあ、次はもっといっぱい持ってくるね」
まるで何の問題もないかのように笑うエリアに、ヴァルターはとうとう声を上げて笑った。
「はっはっは! 頼むぞ。お前と菓子を分けるには、相当な量が必要だな!」
「任せて!」
エリアも楽しそうに笑った。
窓の外では、秋の陽射しが研究所の中庭を柔らかく照らしていた。
***
調査隊が王都を発ってから、幾日かが過ぎた。
その日は、朝から雲ひとつない青空が広がっていた。
ここ数日は冷たい風が吹くことも多かったが、今日は冬が近づいていることを忘れてしまいそうなほど、陽射しが暖かい。
昼食を終えたエリアは、実家の窓から外を眺めていた。
庭の木々が風に揺れ、色づいた葉がきらきらと光っている。
こんな日に家の中でじっとしているのは、もったいない。
午前中は軽く身体を動かしただけで、特に予定もなかった。
「……よしっ!」
少し遠くまで散歩してみよう。
そう決めると、エリアはさっそく出かける支度を始めた。
水筒を鞄に入れ、買っておいた木の実の焼き菓子を布に包む。
今日は人の多い街を歩くつもりではない。郊外の、まだ行ったことのない道を歩いてみたかった。
背中へ大剣を背負い、身支度を整える。
それから軽い足取りで家を出た。
王都の街並みを抜け、城門を通り過ぎる。
城壁の外には、穏やかな丘陵地と農地が広がっていた。
街道沿いには畑や果樹園が点在し、遠くで農作業をする人々の姿が見える。
収穫を終えた畑には刈り取られた茎が残り、乾いた土が午後の光を浴びていた。
道を進むにつれ、王都の城壁は少しずつ遠ざかっていく。
エリアはときおり立ち止まり、道端に咲く小さな花を眺めたり、風に転がる落ち葉を足先で追いかけたりした。
どこへ行くと決めているわけではない。
歩いていて気持ちがよければ、そのまま先へ進む。
気になるものを見つければ、少し寄り道をする。
そんな気ままな散歩だった。
やがて、街道は緩やかな斜面を迂回するように曲がり始めた。
その脇に、細い踏み跡が続いているのが見えた。
草がところどころ道を覆い、あまり人が通っていない様子だった。
エリアは立ち止まり、その先を覗き込んだ。
低い木々の間を抜けるように、道が丘の上へ伸びている。
「……あっち、何があるんだろ?」
少しだけ首を傾げたあと、エリアは足を向けた。
こういう道を見つけると、つい進んでみたくなる。
足元には乾いた落ち葉が積もり、踏むたびにかさりと音を立てた。
途中には小さな石が転がり、草の根が地面から顔を出している場所もあったが、エリアにとっては歩きにくい道ではなかった。
斜面を上るにつれて、背後に見える景色が少しずつ広がっていく。
遠くの農地。
蛇行する街道。
そのさらに向こうには、王都の城壁が秋空の下に長く伸びていた。
エリアは一度振り返り、思わず笑った。
「結構歩いてきちゃったなぁ」
普通なら、散歩のつもりでここまで足を延ばす人は少ないかもしれない。
それでも、エリアの足取りは軽かった。
やがて低木の間を抜けると、突然、視界が大きく開けた。
「……わぁ」
その先には、小高い丘の頂に広がる草地があった。
周囲を囲むような建物も、高い木々もない。
ただ、風に揺れる草が広がり、その中央に一本の大きな木が立っていた。
エリアは思わず足を止めた。
太い幹から伸びた枝は、左右へ大きく広がっている。
その枝には赤や橙、黄金色に染まった葉が残り、秋の陽射しを受けて鮮やかに輝いていた。
足元には、すでに落ちた葉が幾重にも積もっている。
風が吹くと、枝先の葉がさらさらと揺れ、数枚がゆっくりと宙を舞った。
周囲には同じくらい大きな木は見当たらない。
この丘の上で、長い年月をかけて育ってきたのだろうか。
一本だけ立つその姿は、どこか堂々としていて、それでいて静かだった。
「……すごいなぁ」
エリアはゆっくりと歩み寄った。
近づいてみると、幹は思っていた以上に太かった。
樹皮には深い筋が刻まれ、地面から張り出した根が、草の間を大きくうねっている。
手のひらを幹へ当ててみる。
ざらりとした感触が伝わった。
エリアは顔を上げた。
枝の間から見える空は、どこまでも青い。
幾重にも重なった葉が光を透かし、足元の地面には赤や金色を帯びた影が揺れていた。
少し木の周りを歩いてから、エリアは丘の縁へ向かった。
そこからは、遠くに王都が見えた。
城壁に囲まれた街並みと、その中央にそびえる王城。
陽射しを浴びた尖塔が、青空の下で小さく輝いている。
ここまで歩いてくる間に、街の喧騒はすっかり遠くなっていた。
馬車の音も、人々の話し声も聞こえない。
代わりに耳へ届くのは、草を渡る風と、時折遠くから聞こえてくる鳥の声だった。
「……ここ、いいなぁ」
エリアは小さく呟いた。
誰かが手入れをしている様子もなく、休憩のためのベンチもない。
人が集まるような場所ではなさそうだった。
それでも、不思議と居心地がよかった。
彼女は大きな木のもとへ戻ると、背負っていた大剣を下ろした。
鞘に収めたままの剣を太い幹のそばに立てかけ、肩から提げていた鞄も下ろす。
地面から張り出した根の間には、ちょうど腰を下ろせそうな場所があった。
エリアはそこへ座ると、幹に背中を預けてみた。
少しごつごつしていたので座り直し、身体が落ち着く場所を見つけて、ようやく満足そうに息をつく。
「ふぅー……」
歩いてきた身体に、秋の風が心地よかった。
鞄から水筒を取り出し、ひと口飲む。
それから、大切に持ってきた菓子の包みを膝の上に広げた。
木の実を練り込んだ焼き菓子は、こんがりとした焼き色がついていて、甘い蜂蜜の香りがした。
「いただきまーす」
ひと口かじる。
香ばしい木の実の風味と、やさしい甘さが口いっぱいに広がった。
「んーっ、おいしい」
思わず足をぱたぱたと揺らした。
いつも食べている菓子なのに、こんな場所で食べると、なんだか特別においしく感じられる。
エリアはもうひと口かじりながら、遠くの景色を眺めた。
丘の下には緩やかな草地が広がり、その向こうを細い道が続いている。
遠景の王都は、ここから見ると小さな模型のようだった。
あの街の中には、たくさんの人々の暮らしがある。
騎士たちが訓練をして、商人たちが店を開き、子どもたちが通りを走り回っている。
いつも自分が歩いている場所なのに、遠くから眺めると少し違って見えるのがおかしかった。
「こんなところ、知らなかったなぁ」
エリアは頭上を見上げた。
木の枝が風に揺れている。
色づいた葉の間から、陽射しがきらきらとこぼれ落ちていた。
こんなに綺麗な場所なのに、誰もいない。
自分だけが見つけた秘密の場所みたいだ。
そう思うと、少し嬉しくなった。
菓子を食べ終えないうちに、エリアはふと考えた。
ここに誰かが一緒にいたら、きっともっと楽しいだろう。
おいしいお菓子を分け合って、遠くの景色を眺めながら、のんびり話をして。
そうしたら、どんな話をするだろう。
お兄ちゃんだったら、きっと帰りが遅くならないようにと言うだろうし、おじいちゃんだったら、この木について何か知っているかもしれない。
そして――。
ふと、レオの顔が浮かんだ。
訓練場で剣を構える、真剣な横顔。
エリアが勢いよく踏み込んでも、動じることなく剣を受け止める姿。
食事の席では、彼女がおかわりを頼むたびに、呆れたような顔で笑うこともある。
そんなレオが、ここに座っていたら。
この景色を見て、何と言うだろう。
きっと、綺麗な場所だと言ってくれる気がする。
エリアは菓子をもうひと口頬張った。
――ここに、レオもいたらいいな。
そう思ったら、なんだか楽しくなってきた。
二人でお菓子を食べるのもいい。
木の下で昼寝をするのも気持ちよさそうだ。
それに、これだけ広い場所なら、剣の練習だってできるかもしれない。
もっとも、せっかくの静かな場所で剣を振り回すのは、少しもったいない気もした。
「……ふふっ」
エリアは小さく笑った。
風が吹き抜けた。
頭上の枝がさらさらと音を立て、赤く色づいた葉が一枚、ゆっくりと膝の上へ落ちてきた。
「あ」
エリアはそれをつまみ上げた。
小さな葉だった。
ところどころ橙色が混じり、陽に透かすと細い葉脈が浮かび上がる。
「きれい……」
何となく捨ててしまうのが惜しくなり、エリアは鞄の中から小さな手帳を取り出した。
頁の間へ葉をそっと挟み、手帳を閉じる。
それから残っていた菓子を食べ終えると、包みを丁寧に畳んで鞄へしまった。
もう少しだけ、ここにいよう。
そう決めて、エリアは幹へ背中を預け直した。
木漏れ日が、頬に暖かい。
ときおり風が吹くものの、陽の当たる根元は思いのほか過ごしやすかった。
歩いてきた疲れと、満たされたお腹。
心地よい静けさに包まれているうちに、自然とまぶたが重くなる。
「……ちょっとだけ」
誰にともなく呟き、エリアは目を閉じた。
遠くで鳥の鳴く声がした。
風に揺れる葉の音が、穏やかに耳をくすぐる。
やがて彼女の呼吸は、静かな寝息へと変わっていった。
目を覚ましたとき、陽は少し西へ傾いていた。
「……ん?」
エリアはゆっくりと目を開けた。
頭上には、相変わらず色鮮やかな葉が広がっている。
けれど、木漏れ日の角度が先ほどとは違っていた。
「……あれ、寝ちゃってた?」
身体を起こし、目をこする。
思っていた以上に気持ちよく眠ってしまったらしい。
陽射しはまだ暖かかったが、風には少し冷たさが混じり始めていた。
エリアは立ち上がると、大きく伸びをした。
「んーっ、よく寝た!」
誰もいない丘の上で、元気な声が響く。
改めて周囲を見渡すと、遠くの王都にも夕方の光が差し始めていた。
帰り道のことを考えれば、そろそろ出発した方がよさそうだ。
エリアは根元に置いていた鞄を手に取り、忘れ物がないか中身を確かめた。
それから、幹に立てかけていた大剣を持ち上げる。
背中へ収めて固定具を整え、歩いてもずれないことを確認すると、鞄を肩へ掛け直した。
そして、大きな木を振り返った。
ここへ来るつもりなど、最初はまったくなかった。
ただ天気がよかったから、少し遠くまで歩いてみただけ。
けれど、おかげで思いがけず素敵な場所を見つけることができた。
「また来ようっと」
エリアは笑顔で幹へ手を当てた。
ごつごつとした樹皮の感触が、掌に伝わる。
それから踵を返し、来た道へ足を向けた。
丘を下り始めると、背後で風が吹いた。
色づいた葉が何枚も枝を離れ、夕陽の中をゆっくりと舞っていく。
エリアは一度だけ振り返り、その光景を眺めた。
そして満足そうに微笑むと、王都へ続く道を歩き始めた。
丘の上には、再び静けさが戻った。
大きな木は変わらず枝を広げ、遠くの王都を見渡していた。
***
王都へ戻ってからも、エリアの日常は変わらず続いていた。
訓練場には騎士たちの声が響き、市場には人々が集まる。
研究所では各地の調査記録の整理が続いており、ヴァルターも相変わらず忙しくしているらしかった。
遠征中のレオたちがいつ帰ってくるのか、エリアにはまだ分からない。
それでも、帰ってきたら話したいことはいくつもあった。
訓練場で確かめた新しい踏み込み。
農地で魔物を倒したこと。
お礼にもらった果物が、とてもおいしかったこと。
それから、あの丘で見つけた大きな木のことも。
もっとも、その場所については、今はまだ自分だけの秘密にしておこうという気持ちもあった。
また行きたいと思える場所を見つけたことが、少し嬉しかったのだ。
そんなある日の昼下がり。
エリアは王都の通りを歩きながら、菓子屋の前で足を止めた。
以前から噂を聞いていた店だった。
硝子窓の向こうには、焼きたての菓子が綺麗に並べられている。
その中でも、エリアの目を引いたのは林檎のタルトだった。
薄く切られた林檎が幾重にも重なり、表面には蜜のような艶がある。
「……おいしそう」
気づけば、店の扉を開けていた。
店内には甘い香りが満ちていた。
棚に並ぶ焼き菓子も、色とりどりの小さな菓子も、どれも魅力的に見える。
散々迷った末、エリアはやはり最初に目をつけた林檎のタルトを選んだ。
店主が丁寧に包んでくれるのを、待ち遠しそうに眺める。
「ありがとうございました!」
紙袋を受け取ると、エリアは上機嫌で店をあとにした。
外へ出ると、午後の陽射しが賑やかな通りを照らしていた。
家に帰ったら、お茶を淹れてゆっくり食べよう。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと、こちらへ向けられた視線に気づいた。
顔を上げる。
人々の行き交う通りの向こうに、見慣れた二人の姿があった。
金色の髪に、見上げるほどの長身。
その隣には、長い銀白色の髪。
「……あっ!」
エリアの表情が、ぱっと明るくなった。
レオとシエルだ。
二人とも、無事に帰ってきた。
そう思った瞬間には、もう足が動いていた。
大切な紙袋を抱え直し、満面の笑みを浮かべて駆け出す。
「レオ! お兄ちゃん!!」
秋の陽射しの下、鮮やかな赤髪がふわりと揺れた。




