第七話|闇を穿つ光
王都を発って二日目の昼過ぎ。
街道沿いの休憩地では、調査隊の騎士たちが馬を休ませ、束の間の休息を取っていた。
緩やかな丘陵には赤や黄金色に染まった木々が連なり、時折吹き抜ける冷たい風が、乾いた葉を道の上へ散らしていく。陽射しにはまだ温もりが残っているものの、日陰に入れば晩秋の冷え込みが感じられた。
レオ・アルディオンは周辺の警戒にあたる騎士たちへ指示を出したあと、井戸のそばで水筒を満たしていた。
そこへ、一人の若い魔法騎士が歩み寄ってきた。
淡い茶色の髪を持つ青年、アルヴィン・クロフォードだった。
「あの、レオ隊長」
振り返ると、アルヴィンはやや緊張した面持ちで立っていた。
「アルヴィンだったな」
「はい。アルヴィン・クロフォードです」
青年は背筋を伸ばして答えた。
今回の調査に同行する五人の魔法騎士の一人。光属性の魔法を得意とする彼は、魔法の制御能力を高く評価されている一方、今回のように未知の脅威への対処を目的とした調査に参加するのは初めてだった。
「何か気になることでもあるのか」
「一つ、お聞きしたいことがありまして」
アルヴィンは少し言い淀み、手にしていた水筒を握り直した。
「隊長は、実際にあの異形と剣を交えられたんですよね」
「ああ」
「その……恐ろしくは、ありませんでしたか」
レオは水筒の蓋を閉め、青年へ向き直った。
アルヴィンは問いかけたことを後悔しているのか、わずかに視線を落としていた。
騎士として選抜された身でありながら、恐怖を口にすることにためらいがあるのだろう。
「恐ろしくないと言えば嘘になるな」
率直な返答に、アルヴィンが顔を上げた。
「剣が通じず、何をしても相手の動きを止められない。ああいう相手は、俺も初めてだった」
「……そう、ですか」
「だが、恐怖を感じることと、それに呑まれることは別だ」
レオは井戸の縁に水筒を置いた。
「怖いと思ったなら、何が怖いのかを考えろ。相手の力か、自分の魔法が通じないことか。それとも、仲間を守れないことか」
アルヴィンは黙って耳を傾けていた。
「正体が分からないものを恐れるのは当然だ。だからこそ、俺たちは調べに行く」
「……はい」
「お前たちの魔法が必要だ。頼りにしているぞ」
青年の表情が変わった。
緊張が完全に消えたわけではない。それでも、レオの言葉を受けた目には、先ほどまでとは違う強さが宿っていた。
「必ず、お役に立ってみせます」
「期待している」
レオが肩を軽く叩くと、アルヴィンは一礼して仲間たちのもとへ戻っていった。
その背中を見送っていたところへ、シエル・アステリアが昼食の包みを片手にやってきた。
「随分と真面目な話をしていたな」
「少し緊張しているようだった」
「無理もない。報告書で読むのと、実際に目の前にするのとでは違う」
シエルは近くの木陰に腰を下ろし、包みを開いた。
「お前も食べておけ。午後もまだ長いぞ」
「ああ」
レオも隣へ腰を下ろした。
少し離れた場所では、五人の魔法騎士たちが食事を取りながら談笑している。その様子を見て、シエルが口元を緩めた。
「なかなか良い顔ぶれじゃないか」
「そうだな。魔法部門から選ばれただけのことはある」
「俺たちとは違う経験を積んできた連中だ。頼もしいものだな」
「その力を活かせるかは、俺の指揮次第だ」
レオがそう答えると、シエルは少し笑った。
「お前なら大丈夫だろう」
「随分と簡単に言ってくれるな」
「長い付き合いだからな」
シエルは平然と答え、食事に戻った。
レオもそれ以上は何も言わず、手にした昼食へ口をつける。
休憩地には馬の鼻息や水を汲む音が響き、騎士たちの間では穏やかな会話が交わされていた。
やがて休息を終えると、一行は再び北東へ向けて出発した。
***
三日目の夕刻、調査隊は森の手前にある村へ到着した。
前回の調査でも滞在した村は、ひと月ほど前と大きく変わらない姿を見せていた。畑仕事を終えた村人たちが家路につき、煙突からは夕餉の支度を知らせる煙が上がっている。
村の入口では、以前レオたちと顔を合わせた村人が一行に気づき、驚いた様子で声をかけてきた。
「あんたたち、また森へ?」
「ああ。今回は研究所の者たちも同行している」
レオが答えると、男は後方の馬車を見渡し、神妙な顔になった。
「そうですか……。あの森は、まだおかしいままなんです」
話によれば、村の近くでは鳥や獣の姿が見られるものの、森の奥へ進むと生き物の気配がなくなるという。様子を確かめに行った猟師たちも、その不自然さに耐えきれず引き返してきたらしい。
レオは村長への取り次ぎを頼み、隊員たちには宿泊と翌日の準備を指示した。
その夜、村長の家では簡単な打ち合わせが行われた。
暖炉の火が室内を温める中、レオとシエル、魔法騎士班をまとめるセリナ・ヴェルティス、研究員のノエル・アシュフォードらが地図を囲む。
村長の話からは、亀裂のある区域で生き物が戻っていないことが窺えたが、異変の範囲が広がっているかどうかまでは分からなかった。
ノエルは村人たちの証言を書き留め、翌日の調査で生物の痕跡と魔力の状態を照らし合わせる方針を示した。
レオは前回の経路を地図で確認し、研究員の護衛と緊急時の退避について指示を出した。
打ち合わせを終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
***
翌朝、調査隊は馬と馬車を村に預け、徒歩で森へ入った。
村に近い林では、まだ鳥の声が聞こえていた。
落ち葉の積もった地面には小動物の足跡もあり、木々の間には晩秋の朝陽が差し込んでいる。
しかし、奥へ進むにつれて、人が踏み固めた道は途切れ、周囲の様子が少しずつ変わり始めた。
研究員たちは途中で何度か足を止め、生物の痕跡や周辺の魔力を調べていた。
ノエルが取り出したのは、金属製の枠に青い結晶を収めた観測用の魔道具だった。周囲の魔力に反応し、その変動を測定できる。
しばらく進んだところで、ノエルが地面に膝をついた。
湿った落ち葉を払い、土の表面を慎重に確かめる。
「……虫が見当たりませんね」
研究員たちが近くの倒木や草の根元を調べたが、生き物の姿は確認できなかった。
レオが顔を上げる。
いつの間にか、鳥の声も聞こえなくなっていた。
風に揺れる枝葉の音と、一行の足音だけが森に響いている。
その一方で、ノエルの観測器具には目立った魔力の変動が現れていなかった。
「周囲の環境は明らかに変わっているのに……」
ノエルは結晶の反応を確かめた。
「測定できる魔力には、ほとんど差がありません」
「魔法が原因ではない、ということか?」
セリナが尋ねる。
「それも含めて、まだ何とも言えません。今ある器具では捉えられない現象なのかもしれませんし」
ノエルは結果を書き留め、顔を上げた。
「少なくとも、通常の魔力だけでは説明できそうにありませんね」
シエルは観測器具を一瞥し、前方の木々へ目を向けた。
そこには、以前の調査で見覚えのある苔むした大岩があった。
近くには、幹の途中から大きく二股に分かれた古木も立っている。
「レオ」
「ああ。この先だ」
レオは隊列を止めた。
「研究員はここで待機。俺とシエルが先を確認する」
二人は木々の間を抜け、緩やかな斜面を下った。
足元の乾いた葉が音を立てる。
やがて視界が開けた。
そこには、記憶にあるものと変わらない黒い裂け目が浮かんでいた。
何もないはずの空間が縦に引き裂かれ、周囲の景色を微かに歪ませている。
陽光を受けても、その内側には光が届かない。
「……残っていたか」
シエルが呟いた。
「ああ」
レオは亀裂の周囲を確かめた。
形状に大きな変化はなく、新たな破壊の痕跡も見当たらない。
後方へ合図を送り、研究員たちを護衛と共に呼び寄せる。
ノエルは亀裂が視界に入ると足を止め、すぐに観測器具を取り出した。
「……魔力反応に異常はありません」
結晶を亀裂へ向けても、反応はほとんど変わらなかった。
彼が測定位置を変えようとした、そのときだった。
黒い裂け目の縁が、大きく波打った。
「全員、構えろ!」
レオの鋭い声が響く。
亀裂の奥から、煙のような黒いものが滲み出してきた。
それはゆっくりと輪郭を持ち、細長い腕と歪んだ胴体を形作っていく。
やがて、人影に似た異形が亀裂の前へ姿を現した。
ノエルは息を呑んだ。
報告書の中でしか知らなかった存在が、今まさに目の前に立っている。
「研究員は後方へ! 護衛は防御位置を維持!」
レオが剣を抜く。
シエルも盾を構え、異形の動きを見据えた。
「魔法騎士班、攻撃準備!」
セリナの号令で、四人の騎士たちが配置につく。
異形は亀裂の前で身体を揺らしていた。
顔に目や口と呼べるものはなく、その輪郭は絶えず形を変えている。
やがて、頭部と思われる部分が騎士たちへ向いた。
次の瞬間、黒い身体が滑るように距離を詰めてきた。
異形の腕が不自然に伸び、先頭に立つレオへ振り下ろされた。
レオは横へ踏み込み、その一撃を躱す。間髪入れずに剣を振るったが、刃は黒い身体をすり抜けた。
手応えはない。
前回の戦闘と同じだった。
「セリナ! 攻撃を開始しろ!」
「了解!」
セリナが掌を掲げると、赤い魔法陣が展開した。
収束した炎が異形へ向けて放たれ、黒い胴体を包み込む。
轟音とともに炎が弾け、揺らめく輪郭が大きく崩れた。
しかし、火勢が弱まると、散った影は再び集まり始めた。
「……戻った?」
セリナが目を見開く。
その直後、異形の腕が炎の残滓を突き抜けて伸びてきた。
「下がれ!」
レオの声に、セリナが後方へ跳ぶ。
彼女の立っていた場所を黒い腕が薙ぎ払い、落ち葉が巻き上がった。
シエルが盾を構えて前へ出る間に、レオは次の攻撃を指示した。
水属性のルーカス・フェルンが放った鋭い水流が異形の側面を貫き、続いてフィン・エルディールの風刃が反対側からその輪郭を切り裂く。
いずれも確かに身体を乱したが、致命的な損傷には至らなかった。
異形はすぐに形を取り戻し、フィンへ向けて腕を伸ばした。
「右へ!」
レオの声と同時に、フィンが地面を蹴る。
黒い腕がそのすぐ横を通り抜けた。
異形は攻撃を受けても退かない。それどころか、騎士たちの動きに反応して狙いを変え、次々と距離を詰めようとしてくる。
セリナが再び魔法を構えたが、味方が近すぎた。広範囲の炎を放てば、仲間を巻き込む危険がある。
「ガレス、進路を塞いで!」
土属性の騎士、ガレス・ヴァルドが地面へ手を向けた。
魔力を受けた土と岩が盛り上がり、異形の前方に厚い壁を形成する。
だが、黒い腕が岩壁へ叩きつけられると、鈍い破砕音が響いた。
表面に亀裂が走り、続く一撃で岩片が弾け飛ぶ。
「伏せろ!」
シエルが魔力を展開した。
半球状の防壁が騎士たちを覆い、飛散した岩片を受け止める。
透明な障壁に無数の破片がぶつかり、乾いた音を立てて地面へ落ちた。
異形は崩れた壁を越え、なおも前進しようとしていた。
「全員、左へ移動! 研究員たちから引き離す!」
レオは剣を構え直し、異形の前へ踏み込んだ。
刃はその身体をすり抜けたが、異形は近づいてきたレオへ腕を振り下ろす。
その動きを見極めて後退し、木々の間が比較的広く開けた場所へ誘導していく。
セリナはすぐに意図を察した。
「ルーカス、右から牽制! フィンは反対側へ!」
二人の魔法が異なる方向から異形へ迫る。
水流が右腕を押し流し、風刃が左側の輪郭を乱した。
だが、異形は身体を捩らせ、フィンへ向かって腕を伸ばす。
「フィン、下がれ!」
シエルが前へ出た。
展開した防壁が黒い腕の一撃を受け止め、激しい衝撃に表面が揺らぐ。
シエルは足を踏ん張り、異形の攻撃が収まったところで防壁を解除した。
「助かりました!」
「礼は後だ。距離を取れ!」
防壁を維持し続ければ、それだけ魔力を消耗する。いつ再び異形が猛攻を仕掛けてくるか分からない以上、無駄な消耗は避けたかった。
一方、セリナの額にも汗が滲んでいた。
魔法は命中している。
しかし、これまでの魔物との戦闘なら十分な威力を発揮していた炎も、この相手には決定打にならない。
セリナは魔力をさらに収束させ、強い火球を放った。
炎が異形の胴体を大きく崩す。
それでも黒い影は再び集まり始めた。
「くっ……!」
「セリナ、無理に威力を上げるな!」
レオが叫ぶ。
「消耗するだけだ。反応を見極めろ!」
「……了解!」
セリナは呼吸を整え、炎を収めた。
そのとき、後方で観測を続けていたノエルが声を上げた。
「レオ隊長! どの攻撃でも損傷は確認できますが、輪郭が回復しています!」
研究員たちは護衛の後ろから、戦闘の様子を記録していた。
攻撃が通じないわけではない。だが、相手を倒すには至らない。
レオは剣を握り直した。
「セリナ! まだ試していない属性はあるか!」
「光属性です! アルヴィンが!」
レオは青年へ視線を向けた。
アルヴィンは仲間たちの動きを追いながら、攻撃の機会を窺っていた。
彼が得意とするのは、光を一点へ収束させ、狙った場所へ正確に届ける術だった。しかし、絶えず動き続ける異形を捉えるには、味方の援護が必要になる。
「アルヴィン! 準備はできるか!」
「はい!」
「よし。セリナ、射線を確保しろ!」
「了解!」
ルーカスとフィンが左右から牽制し、ガレスが地面を隆起させて異形の進路を狭める。
セリナ自身も炎を放ち、黒い腕の動きを抑えた。
その間に、アルヴィンが両手を前へ掲げる。
淡い金色の光が、掌の間に集まり始めた。
それは炎のように揺らぐことも、水のように形を変えることもなかった。
収束する輝きは徐々に強まり、青年の顔を明るく照らしていく。
アルヴィンは呼吸を整え、異形の動きを見据えた。
魔法陣が展開する。
「――光よ、貫け!」
放たれた光が、一直線に森を走った。
眩い閃光が異形の胸元へ命中する。
その瞬間、黒い身体が大きく弾けるように崩れた。
炎や水の攻撃では、散った影がすぐに集まり始めていた。
だが、今度は違った。
光が貫いた胸元には、ぽっかりと空白が残っている。
異形は身体を捩らせ、失われた部分を埋めようとするかのように影を集め始めた。
しかし、その輪郭は元の形へ戻らなかった。
「……今のは」
ノエルが息を呑む。
隣の研究員が記録帳から顔を上げた。
「損傷が……戻っていない?」
レオもまた、その違いを捉えていた。
「アルヴィン!」
鋭い声が戦場に響く。
「もう一撃! 今の魔法をもう一度放て!」
青年の肩が跳ねた。
だが、すぐに両手を構え直す。
「はい!」
「セリナ! 他の四人で援護しろ!」
「全員、アルヴィンの射線を確保! 異形を近づけさせないで!」
魔法騎士たちが一斉に動いた。
それまで各自の属性による反応を確かめていた彼らの戦い方が、明確に変わった。
水流と風刃が異形の両側から迫り、ガレスが足元の地形を変えて前進を妨げる。セリナの炎が黒い身体を牽制する間に、アルヴィンは再び光を収束させていた。
異形が青年へ向かって腕を伸ばした。
「シエル!」
「分かっている!」
シエルはすでに動いていた。
アルヴィンの前へ防壁を展開し、黒い腕の一撃を受け止める。
激しい衝撃が障壁を揺らした。
だが、シエルは踏みとどまった。
「今だ!」
レオが叫ぶ。
アルヴィンは迷わず魔法を解き放った。
二度目の光が、異形の身体を貫く。
今度は肩口から胴体にかけて黒い影が大きく崩れ、異形が後方へよろめいた。
失われた部分は、再び元の形へ戻ることがなかった。
「……効いている」
セリナの声には驚きが混じっていた。
しかし、彼女はすぐに表情を引き締めた。
「アルヴィン! もう一度いける!?」
「はい! まだ魔力は残っています!」
レオは異形を見据えた。
黒い身体は、なおも形を保とうとしている。
だが、先ほどまでの滑らかな動きは失われ、腕を伸ばすたびに輪郭が大きく乱れていた。
「セリナ、仕上げるぞ!」
「はい!」
レオが前へ踏み込むと、異形は彼へ向き直った。
振り下ろされた腕を躱し、さらに一歩退いてその注意を引きつける。
その間に、セリナたちが左右から魔法を重ねた。
動きを制限された異形の正面で、アルヴィンが三度目の光を集め始める。
先ほどまでの迷いは、もうなかった。
青年の目は、崩れかけた異形の中心を真っ直ぐに捉えている。
「――穿て!」
光が放たれた。
眩い閃光が森を貫き、異形の中心へ突き刺さる。
その瞬間、黒い身体が大きく膨れ上がった。
まるで内側から押し広げられるように輪郭が歪み、無数の影の筋が四方へ伸びる。
異形は腕を振り上げた。
何かを掴もうとするように、空中へ手を伸ばす。
しかし、その指先から黒い影が崩れ始めた。
肩が消え、胴体がほどけ、頭部の輪郭が不規則に揺らぐ。
そして――。
黒い人影は、光の中で完全に形を失った。
砕けた影は地面へ落ちることもなく、霧が陽射しに溶けるように薄れていく。
やがて、そこには何も残らなかった。
騎士たちが息を詰めたまま見守る中、黒い輪郭が再び現れることはなかった。
「……消えた、のか」
フィンが呟いた。
「まだ警戒を解くな。亀裂から目を離すな」
レオの指示で、護衛の騎士たちが周囲を確認する。
シエルは防壁を解除し、深く息を吐いた。
魔力の消耗は小さくなかったが、負傷者はいない。研究員たちも、後方の護衛に守られたまま無事だった。
セリナはまだ光の余韻を見つめているアルヴィンへ歩み寄った。
「よくやったわ」
「いえ……皆さんが援護してくださったおかげです」
青年の声には、驚きが残っていた。
自分の魔法が、あの異形を消滅させた。
それまで訓練や魔物との戦闘で幾度となく使ってきた術が、未知の存在に対してこれほどの効果を発揮するとは、本人にも予想できなかったのだろう。
「それでも、あなたの魔法が決定打になったのよ。胸を張りなさい」
セリナが肩に手を置くと、アルヴィンはようやく笑みを浮かべた。
「……はい!」
その少し離れた場所では、ノエルが研究員たちと記録を照合していた。
「光属性による損傷は、三度とも明らかに異なっていましたね」
「ええ。ほかの属性では回復していた輪郭が、光属性では戻らなかった」
ノエルは異形の消滅した場所を見つめた。
「この結果は、必ず持ち帰らなければ……」
彼の記録帳には、戦闘中に観測された現象が細かく書き込まれていた。
未知の敵に対して、初めて有効な攻撃手段が見つかった。
だが、レオの視線はすでに亀裂へ向けられていた。
異形が消滅したあとも、黒い裂け目は以前と変わらず浮かんでいる。
「……あれは残ったままだな」
シエルが隣へ並ぶ。
「ああ。異形を倒しても、亀裂が消えるわけではないらしい」
レオはセリナに五人の状態を確認させ、魔力を大きく消耗したアルヴィンをいったん休ませるよう指示した。
それから、記録帳を閉じたノエルへ歩み寄る。
「亀裂の観測に移れるか」
研究員は一瞬、黒い裂け目を見つめた。
先ほどまで、そこから現れた異形が騎士たちを襲っていた。
いつ再び同じことが起こるかも分からない。
それでもノエルは、手にした観測器具を握り直した。
「はい。準備はできています」
「よし。ただし、俺の許可なく近づくな。異常があればすぐに報告しろ」
「承知しました」
レオは護衛騎士たちに周囲の警戒を命じ、シエルへ視線を向けた。
「研究員たちのそばを頼む」
「ああ。任せておけ」
研究員たちは器具を抱え、護衛に守られながら前へ進んだ。
目の前には、底知れぬ闇が広がっていた。
***
亀裂の縁では周囲の景色が不規則に歪み、向こう側に見えるはずの木々が奇妙に引き伸ばされていた。
闇の中には奥行きを測るための目印が何ひとつなく、薄い影が浮かんでいるようにも、果てしなく深い穴が口を開けているようにも見える。
ノエルは足を止め、観測器具を構えた。
先ほどまで異形が存在していた場所には、魔法によって砕かれた岩や、抉れた地面が残されている。
レオは研究員たちが安全に作業できるよう、ガレスに足場を整えさせた。
土と岩が魔力によって動き、地面の凹凸が均されていく。
護衛の配置を確かめると、レオはノエルへ告げた。
「これ以上は近づくな。亀裂には絶対に触れるなよ」
「承知しました」
ノエルは青い結晶を収めた器具を持ち上げ、亀裂の中心へ向けた。
「……魔力反応に変化なし」
測定位置を変え、縁の部分も調べてみる。
それでも結晶の輝きはほとんど変わらなかった。
「器具の不具合という可能性は?」
シエルが尋ねる。
「念のため、確かめてみましょう」
ノエルはシエルに少量の魔力を放出してもらい、結晶の反応を調べた。
掌の上に魔力が集まると、器具は即座に反応する。
シエルが魔力を収めれば、結晶の輝きも元に戻った。
別の器具でも結果は同じだった。
「正常に機能していますね……」
ノエルは記録帳を見下ろした。
目の前の空間が明らかに歪んでいるにもかかわらず、既知の魔力に目立った異常は見られない。
器具で捉えられない何かが作用しているのか。それとも、まったく別の現象なのか。
今ある情報だけでは、判断できなかった。
「前回、異形が森の途中で輪郭を崩したこととも関係があるのかもしれんな」
シエルが亀裂を見据えたまま言った。
ノエルはその言葉を書き留めた。
「可能性はあります。ですが、亀裂との距離が影響したのかどうかは、まだ分かりませんね」
異形が亀裂から現れたことは、今回も確認できている。
しかし、亀裂が何をもたらし、周囲の環境にどのような影響を与えているのかを説明するには、観測結果が足りなかった。
「次は内部を調べてみます」
ノエルは別の器具を取り出した。
透明な結晶を備えた細長い魔道具で、光を一点へ集め、離れた場所を照らすことができる。
研究員たちはそれを亀裂へ向け、出力を抑えた状態から光を照射した。
しかし、光は亀裂の奥を照らさなかった。
縁では輝きが確認できるものの、その内側へ入った光は闇に呑み込まれるように見えなくなる。
出力を上げても結果は変わらず、何かに反射した様子もなかった。
「……反応がありません」
研究員が呟く。
ノエルはしばらく器具を見つめていたが、やがて照射を止めるよう指示した。
「今の器具では、これ以上は難しそうですね」
明かりが消えると、亀裂の奥には再び深い闇だけが残された。
レオはその黒さを見据えた。
あの奥に何があるのか。
光さえ届かない場所から異形が現れるという事実が、改めて不気味に感じられた。
研究員たちは測定結果を記録し、次の観測方法について短く意見を交わした。
やがてノエルが、レオへ向き直った。
「最後に、もう一つ確かめたいことがあります」
「何だ?」
「亀裂そのものに対する、魔法の干渉です」
シエルも顔を上げた。
「前回、防壁が異形に触れた際、背後の空間にも変化があったかもしれない、という話か」
「はい。異形には複数の属性魔法が作用しました。亀裂そのものについても、確かめておきたいのです」
レオは少し考えた。
直接魔法を放つことで、どのような変化が起きるかは分からない。
しかし、亀裂への対処方法を見つけるためには、必要な検証でもあった。
「分かった。ただし、威力を抑えて一つずつ試す。異常があれば即座に中止だ」
「ありがとうございます」
レオはセリナを呼び、検証の内容を伝えた。
まず選ばれたのは、水属性のルーカスだった。
研究員たちは安全な距離まで下がり、シエルがその前で盾を構える。
ルーカスは小さな水の刃を生み出し、亀裂の縁へ放った。
次の瞬間。
乾いた、奇妙な音が響いた。
硬い硝子を細い針で突いたような音だった。
黒い裂け目の縁に、細かな線が走る。
「……!」
ノエルが思わず身を乗り出した。
まるで、目に見えない硝子の板にひびが入ったかのようだった。
しかし、その変化は長く続かなかった。
細いひびは端から少しずつ薄れていき、やがて何事もなかったように消えてしまった。
「今のを見たか?」
「はい。確かに変化がありました!」
研究員たちは素早く記録を取り始めた。
続いてフィンが風刃を放ち、セリナも威力を抑えた炎を亀裂の縁へ向けた。
いずれの魔法でもひび割れが生じたものの、時間が経つにつれて消えていく。
研究員たちはそれぞれの反応を記録し、属性による違いを確かめていった。
「魔法によって変化を与えられることは、間違いなさそうですね」
ノエルは記録帳を見比べた。
「ですが、どの属性でも元の状態へ戻ってしまう……」
「亀裂そのものが修復しているということか?」
レオが尋ねる。
「そう見えます。ただ、ひびが何に生じているのかさえ分かっていません。実際に修復が行われているのか、それとも別の現象なのか……」
ノエルはそこで言葉を切った。
そのとき、セリナが口を開いた。
「アルヴィンの光属性も試してみますか?」
研究員たちの視線が、後方で休息を取っていた青年へ向いた。
先ほどの戦闘で、異形に最も大きな損傷を与えた魔法。
それが亀裂に対してどのような反応を示すのか。
レオはアルヴィンを呼び寄せた。
「魔力は残っているか?」
「はい。先ほどほどの威力は出せませんが、検証に必要な程度であれば」
「無理はするな。少しでも異常を感じたら中止しろ」
「承知しました」
アルヴィンが前へ出る。
掌の間に、淡い金色の光が集まり始めた。
異形を消滅させたときとは違い、今回は威力を抑えた細い光だった。
彼は亀裂の縁へ慎重に狙いを定め、魔法を放った。
命中した瞬間――。
鋭い破砕音が響いた。
それまでとは、明らかに違う反応だった。
亀裂の縁を中心に、無数の細かなひびが一気に広がったのだ。
黒い空間の周囲に幾重もの線が走り、重なり合う。
それまで揺らめくばかりだった亀裂の輪郭が、砕けかけた硝子のような姿へ変わっていた。
「……これは!」
ノエルが目を見開いた。
研究員たちも一斉に記録を取り始める。
亀裂の縁では、ひび割れがさらに細かく枝分かれしていた。
しかし、やがてその変化にも終わりが訪れた。
広がった線が、一本、また一本と薄れていく。
複雑に重なり合っていたひび割れは徐々に消え、亀裂は元の形を取り戻し始めた。
しばらくすると、そこには再び、底知れぬ闇を湛えた裂け目だけが残された。
「……光属性の方が、明らかに大きな変化を生じさせていますね」
ノエルは記録帳を見比べた。
「異形だけではない。亀裂そのものにも、属性によって異なる反応が現れる……!」
その声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「今回の条件では、光属性による干渉が最も顕著でした。正確な比較にはさらに検証が必要ですが、これは重要な手がかりになるはずです」
「だが、閉じることはできなかった」
レオの言葉に、ノエルは顔を上げた。
「……はい」
興奮の中に、わずかな悔しさが混じる。
しかし、彼はすぐに表情を改めた。
「それでも、変化を与えられることは分かりました。王都へ戻れば、また別の方法を考えられます」
シエルも亀裂を見据えていた。
異形を倒すことはできた。
亀裂にも魔法が作用することが分かった。
だが、目の前の裂け目は何事もなかったかのように存在し続けている。
レオはそれ以上の検証を行わないと決めた。
魔法騎士たちはすでに戦闘で相応の魔力を消耗しており、日も傾き始めていた。新たな異形が現れる可能性もある以上、これ以上の滞在は危険だった。
「ノエル。記録は持ち帰れるか」
「はい。十分な情報を得られました」
「よし。撤収する」
騎士たちが周囲を警戒する中、研究員たちは器具を片づけ始めた。
ノエルの記録帳には、幾頁にもわたる観測結果が残されている。
その一つ一つが、これまで知られていなかった現象を示していた。
シエルがレオの隣へ歩み寄る。
「大きな成果だな」
「ああ」
レオは亀裂を見据えた。
「だが、まだ分からないことばかりだ」
「そうだな」
「それでも、今日持ち帰るものが次の手になる」
シエルは頷いた。
「先生にも、良い報告ができそうだ」
撤収の準備が整うと、レオは全員の無事と装備を確かめた。
「出発する。帰りも警戒を怠るな」
調査隊は森の外へ向かって歩き始めた。
レオは最後にもう一度、黒い亀裂を振り返った。
光属性の魔法を受けた痕跡は、すでにどこにも残っていない。
そこにはただ、底知れぬ闇が浮かんでいた。
レオはその光景を目に焼きつけると、シエルと並んで仲間たちの後を追った。
***
調査隊が森の手前にある村へ戻ったのは、陽が西の山並みに沈みかけた頃だった。
村人たちは一行が全員揃って戻ってきたことに安堵し、村長も心からの労いを伝えた。
レオは滞在中の協力に感謝を述べ、森の奥にある亀裂には引き続き近づかないよう伝えた。翌朝、調査隊は村を発ち、王都への帰路についた。
三日後、一行は一人の犠牲者も出すことなく、無事に王都へ帰還した。
***
王立魔法研究所の一室には、午後の陽光が差し込んでいた。
部屋の中央に据えられた長卓には、調査隊が持ち帰った記録帳と、亀裂の様子を描いた図面が広げられている。
レオ、シエル、セリナ、ノエルらが席につく中、ヴァルター・グレイヴは報告書を読み進めていた。
「……光属性によって、異形を完全に消滅させたか」
ヴァルターは頁をめくり、攻撃ごとの反応を描いた図面へ目を落とした。
「他の属性では損傷が回復し、光属性では残った。しかも、繰り返し同じ反応が確認されたのだな」
「はい」
ノエルが答えた。
「現地で観測できた範囲では、明確な違いがありました。ただ、その理由についてはまだ分かっていません」
「ふむ……」
ヴァルターはしばらく図面を眺め、それからセリナへ向き直った。
「光属性の術者は、アルヴィン・クロフォードだったな」
「はい。彼の魔法が有効だと判明してからは、他の四人で援護し、攻撃を集中させました」
「見事な連携だ」
ヴァルターは頷き、レオへ視線を向けた。
「レオ殿。よく部隊をまとめてくれた」
「ありがとうございます。ただ、今回は魔法騎士たちの働きが大きかった。私とシエルだけでは、あの異形を倒すことはできませんでした」
「だが、彼らの力を活かしたのは貴殿の指揮だろう」
ヴァルターは満足そうに笑った。
「それぞれが役割を果たした結果だ。誰か一人の功績ではあるまい」
レオは静かに頷いた。
あの森では、剣を振るう者も、魔法を放つ者も、仲間を守る者も、誰一人として欠けてよい役割などなかった。
そして、危険を承知で観測を続けた研究員たちも。
それぞれの判断が重なったからこそ、全員が生きて帰ることができたのだ。
ヴァルターは次の資料を手に取った。
「さて、問題はこちらだな」
亀裂への魔法的干渉について記された報告書だった。
ヴァルターはひび割れの様子を描いた図を注意深く見比べ、とりわけ光属性による反応に目を留めた。
「……修復された、か」
「はい。属性によってひび割れの大きさには違いがありましたが、いずれも時間とともに消失しました」
「光属性が最も顕著だったという結果については?」
「有力な手がかりだと考えています。ただし、威力や消費魔力を完全に揃えた検証ではありません。正確な比較は、今後の課題です」
ヴァルターは頷き、別の頁を開いた。
「それで、魔力の測定結果は?」
「通常の魔力反応に、目立った異常はありませんでした。観測器具は正常に機能していましたが、亀裂そのものや周辺では、測定できる変化がほとんどなかったのです」
ヴァルターは腕を組んだ。
亀裂は確かに存在し、空間を歪ませている。
その周囲では生き物が姿を消し、未知の異形が現れる。
それほどの現象が起きていながら、既存の魔力測定器は異常を捉えられないという。
「我々の知る魔力とは異なる力……か」
ヴァルターは図面を見下ろし、しばらく考え込んだ。
「何らかの作用があるとしても、今はそれを捉える手段がない。ならば、まずは観測の方法から見直す必要があるな」
ノエルが顔を上げた。
「新しい観測器具の開発も視野に入れる、ということでしょうか」
「当然だ。今ある道具で測れぬのなら、別の方法を探せばよい」
ヴァルターは豪快に笑った。
「何もかも最初から分かっていたら、研究者など必要ないだろう!」
研究員たちの間からも笑みがこぼれる。
しかし、ヴァルターはすぐに表情を引き締めた。
「ただし、異形を倒す手段が見つかったからといって、脅威が去ったわけではない」
彼は卓上の亀裂の図面へ指を置いた。
「あれが存在する限り、再び異形が現れる可能性は残る」
レオが頷く。
「現地でも、異形の消滅後に亀裂を確認しています。形状に大きな変化はありませんでした」
「ならば、次に考えるべきは二つだ」
ヴァルターは指を一本立てた。
「異形に対抗する手段を確かなものにすること」
続いて、もう一本。
「そして、亀裂そのものをどうにかする方法を見つけることだ」
室内の視線が、彼へ集まった。
「光属性の有効性については、魔法部門とも協力して検証を進めよう。亀裂への干渉については、研究所で引き受ける」
ヴァルターはシエルへ目を向けた。
「お前にも、いずれ力を借りることになるだろう」
「いつでも呼んでください、先生」
「うむ。頼りにしているぞ」
師弟の間に、自然な笑みが交わされた。
それからヴァルターは、一同を見渡した。
「何より、全員が生きて帰ってきたことを喜びたい」
その声は、先ほどまでの研究主任としてのものとは少し違っていた。
長い年月を戦場で過ごし、幾度も仲間を見送ってきた男の、実感のこもった言葉だった。
「よくやった。皆、ご苦労だった」
レオは背筋を伸ばした。
「ありがとうございます、ヴァルター殿」
報告を終えたあとも、研究員たちは卓上の記録を囲み、今後の検証方法について意見を交わしていた。
ノエルも早速、新たな観測器具の構想を話し始めている。
レオはその様子を眺めながら、今回の任務がようやく次の段階へ進んだことを実感していた。
***
研究所を出る頃には、陽が西へ傾き始めていた。
石造りの建物が並ぶ王都の通りには、夕暮れ前の賑わいが広がっている。
仕事を終えた職人たちが肩を並べて歩き、市場では商人たちが店じまいの準備を始めていた。食堂の開いた窓からは夕食の支度をする香ばしい匂いが漂い、軒先に吊るされた看板が冷たい風に揺れている。
レオは研究所の階段を下りながら、肩を軽く回した。
森での戦闘から数日が経っているとはいえ、長旅と帰還後の報告が続き、身体を十分に休める時間はまだ取れていなかった。
「ようやく一区切りだな」
隣を歩くシエルが言った。
「ああ。研究所への報告も済んだ」
「セリナたちも、今日は魔法部門へ戻って報告するそうだ」
「そうか。あの五人にはよく働いてもらったな」
「特にアルヴィンは、今回の経験で随分と変わるだろう」
レオは、街道の休憩地で青年と交わした会話を思い出した。
恐ろしくはなかったか。
そう尋ねてきた青年は、自分の魔法が通じるかどうかも分からない相手を前にして、最後まで仲間と共に戦った。
「あいつは良い騎士になる」
「俺もそう思う」
シエルは頷き、行き交う人々を避けながらレオと並んで歩いた。
王都では、いつもと変わらない暮らしが続いている。
店先で買い物をする者。荷物を抱えて帰路を急ぐ者。楽しげに話しながら歩いていく若者たち。
レオはその光景を眺めながらも、頭の片隅には、まだ北東の森で見た亀裂の姿が残っていた。
異形を討ち取ることはできた。
だが、あの黒い裂け目は今も存在している。
明日にも新たな異形が現れるかもしれないという懸念を、完全に拭い去ることはできなかった。
「……ん?」
不意に、シエルが足を緩めた。
レオが視線を向けると、彼は通りの向こうを見ながら、どこか愉快そうに口元を緩めていた。
「どうした?」
「いや。見覚えのある赤い頭がいると思ってな」
シエルの視線を辿った先。
通りの向こう側に、小柄な赤髪の少女――エリア・アステリアが立っていた。
片手には紙袋を抱え、もう片方の手には小さな焼き菓子を持っている。
店先に並んだ菓子を覗き込みながら、店主と何やら楽しそうに話していた。
鮮やかな赤い髪が、夕陽を受けて柔らかく輝いている。
「エリアか」
「ああ。相変わらずだな」
シエルは呆れたように言ったが、その声には妹の姿を見つけた喜びが滲んでいた。
レオもまた、自然と歩みを緩めていた。
出発の日、王都の門前まで見送りに来た彼女の姿が思い出される。
必ず帰ってくるようにと念を押し、次に会ったらまた手合わせをしようと約束した。
あれから数日。
エリアは今、そんな約束を交わしたときと変わらない様子で、菓子屋の店先に立っている。
ちょうどそのとき、エリアがこちらへ顔を向けた。
人々の間に立つ二人の姿を見つけた瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
「あっ!」
次の瞬間には、ぱっと表情が輝いた。
「レオ! お兄ちゃん!」
エリアは店主へ何かを告げると、紙袋を片手に持ち替え、こちらへ駆け出した。
赤い髪が背中で大きく揺れ、軽やかな足取りが石畳を駆けてくる。
「帰ってきてたんだ!」
「ああ。今日の昼前に――」
レオが答え終わるより早く、エリアが彼の胸元へ飛び込んできた。
「おかえりっ!」
「おっと……!」
予想していなかった勢いに、レオは思わず片足を引いて身体を支えた。
小柄な身体が鎧越しにぶつかり、ふわりと赤い髪が揺れる。
エリアは片腕を彼の背中へ回し、ぎゅっと抱きしめていた。もう片方の手には紙袋を持ったままで、それを潰さないように少し横へ突き出している。
「よかったぁ……! 二人とも無事に帰ってきてくれて!」
胸元から聞こえてくる声には、隠しきれない喜びが満ちていた。
レオは驚いたまま、腕の中のエリアを見下ろした。
剣を交えたことも、共に食事をしたこともある。最近では二人で街を歩くことも、すっかり自然になっていた。
けれど、こうして彼女から抱きつかれるとは思ってもみなかった。
どう応じたものかと一瞬迷ったものの、嬉しさをそのまま伝えてくるエリアを前に、戸惑いは長く続かなかった。
レオは彼女の背中へ片手を添え、もう片方の手で肩を支えた。
「ああ。ただいま、エリア」
そう告げると、エリアが顔を上げた。
すぐ近くに、いつもと変わらない笑顔があった。
明るく、屈託がなく、嬉しいという気持ちを少しも隠そうとしない。
その表情を見た途端、レオは胸の奥に張りつめていた何かが、ゆっくりと解けていくのを感じた。
北東の森へ向かってから、常に周囲へ気を配っていた。
隊員たちの安全を確かめ、異形の動きを見極め、研究員たちを守りながら亀裂の観測を進めた。
撤退の判断を誤れば、再び仲間を失うかもしれない。
そんな緊張を抱えながら、一つ一つの判断を重ねてきた。
王都へ戻ってからも、報告を終えるまでは任務のことが頭を離れなかった。
けれど今、エリアはそんな彼の心境など知らないまま、ただ無事に帰ってきたことを喜んでいる。
鎧越しに伝わる小さな身体の温もり。
顔を上げた彼女の、弾けるような笑顔。
それらが、レオの心を思いがけないほど穏やかにしていた。
彼女に会ったことで、ようやく王都へ帰ってきたのだという実感が湧いてくる。
「……心配をかけたな」
「うん! でも、帰ってきてくれたからいいの!」
エリアは嬉しそうに答えると、ようやくレオから身体を離した。
その勢いのまま何か言おうとして、ふと隣に立つ兄へ目を向ける。
シエルは腕を組み、二人の様子を眺めていた。
「……俺も帰ってきたんだがな」
「え?」
エリアは一瞬きょとんとした。
それから、兄の言いたいことを理解したのか、声を上げて笑った。
「あははっ! お兄ちゃんも、おかえり!」
今度はシエルへ飛びついた。
「うおっ! ……まったく、お前は」
口では呆れたように言いながらも、シエルは妹をしっかりと受け止めた。
長年見慣れた、エリアらしい愛情表現だった。
嬉しさが先に立つと、彼女は幼い頃からこうして勢いよく抱きついてくる。成長した今でも、その性格は少しも変わっていない。
シエルは妹の背中へ腕を回し、乱れた赤い髪に目を落とした。
「元気そうだな」
「うん! お兄ちゃんも怪我してない?」
「ああ。見てのとおりだ」
「そっかぁ……よかった!」
エリアはもう一度兄を抱きしめてから身体を離し、二人を交互に見上げた。
レオはそんな兄妹を眺めながら、思わず笑った。
出発前と何も変わらない。
シエルは妹に軽口を叩き、エリアはそれに遠慮なく応じる。
彼らにとっては、ごくありふれたやり取りなのだろう。
だが、北東の森で命を懸けて戦い、未知の闇と向き合ってきたレオには、その何気ない光景がひどく温かなものに感じられた。
「それで、調査はどうだったの?」
エリアが二人を見比べながら尋ねた。
「いろいろと分かったことがある」
レオが答える。
「詳しい話はまた今度だが、大きな成果はあったぞ」
「ほんと!?」
「ああ。お前たちが最初に持ち帰った情報も、今回の調査に役立った」
その言葉に、エリアは目を輝かせた。
「そっか! それならよかった!」
彼女はそれ以上、詳しい話を急かそうとはしなかった。
今は、二人が無事に戻ってきたことの方が嬉しいのだろう。
エリアは満足そうに笑うと、抱えていた紙袋を持ち直した。
その様子を見ていたシエルが、ふと目を細める。
「ところでエリア。それは何だ?」
「ん? これ?」
エリアは紙袋を持ち上げた。
「新しくできたお菓子屋さんで買ってきたの! すっごく美味しいんだよ!」
「……また菓子か」
「またって何よー! ちゃんとご飯も食べてるもん!」
「それならいいが」
兄の呆れたような声に、エリアは頬を膨らませた。
もっとも、そんな表情も長くは続かない。
すぐに何かを思いついたようにレオへ向き直り、紙袋の中を覗き込んだ。
「あっ、そうだ! レオも食べる?」
取り出されたのは、掌に収まるほどの小さなタルトだった。
薄く切られた林檎が花びらのように重ねられ、焼き色のついた生地の上で艶やかに輝いている。果実の淡い黄金色と、外側の香ばしい焼き色が美しく、見た目にも楽しめる菓子だった。
「これね、林檎を使ったタルトなんだって! 甘酸っぱくて、すっごく美味しいの!」
エリアは自分が作ったわけでもないのに、どこか誇らしげだった。
その様子がおかしくて、レオは笑いながら差し出された菓子を受け取った。
「ありがとう。ちょうど腹が減っていたところだ」
「でしょ! 旅から帰ったばっかりだもんね!」
彼女は満足そうに頷いた。
その隣で、シエルが無言のまま片手を差し出していた。
しばらく待っても妹が気づかないため、とうとう自分から口を開く。
「……俺の分は?」
「えっ?」
エリアが振り返った。
「お兄ちゃんも食べたいの?」
「なぜそんなに意外そうなんだ」
「だって、また菓子かって言ったじゃん」
「それとこれとは別だろう」
真顔で答える兄に、エリアは堪えきれずに笑い出した。
「ふふっ! しょうがないなぁ!」
紙袋を覗き込み、もう一つタルトを取り出す。
シエルはそれを受け取ると、何とも言えない表情を浮かべた。
「……どうも」
「どういたしまして!」
そのやり取りに、レオも声を上げて笑った。
エリアは自分の分のタルトを頬張りながら、今日あった出来事を楽しそうに話し始める。
新しくできた店を偶然見つけたこと。店主に勧められた菓子が思った以上に美味しかったこと。ほかにも食べてみたい種類がいくつもあって、どれを買うか随分迷ったこと。
その様子を見ていたシエルが、袋の中身を覗いた。
「……それにしても、随分買ったな」
「だって、どれも美味しそうだったんだもん!」
「一度に全部食べるつもりじゃないだろうな」
「食べないよ! ……たぶん」
「おい」
呆れる兄の声に、エリアは楽しそうに笑った。
レオは手にしたタルトを一口かじる。
さくりとした生地の食感に続いて、焼き林檎の柔らかな甘みと、ほのかな酸味が口の中に広がった。
「……うまいな」
「でしょ!?」
エリアが嬉しそうに顔を輝かせた。
「今度、一緒に買いに行こうよ!」
「ああ。いいぞ」
「やった!」
何のためらいもなく返された約束に、エリアは心底嬉しそうな顔をした。
レオもまた、その反応を見て自然と笑みを浮かべていた。
「そういえばさ!」
不意に、エリアがレオを見上げた。
「何だ?」
「手合わせの約束、覚えてる?」
レオは一瞬目を丸くしたあと、笑った。
「もちろんだ」
「よかった! 忘れてたらどうしようかと思った!」
「忘れるわけがないだろう。俺も楽しみにしていたんだ」
その言葉に、エリアの顔がさらに明るくなった。
「じゃあ、また訓練場に行こうね!」
「ああ。ただし、少し休ませてくれ。さすがに今日は疲れた」
「もちろん! ちゃんと休んでからね!」
エリアは勢いよく頷いた。
その様子を見ていたシエルが、タルトの最後の一口を食べ終えながら口を挟む。
「お前も少しは加減を覚えろよ。前みたいに夢中になって、周りが見えなくなるんだからな」
「えー! お兄ちゃんだって、手合わせしたら絶対本気になるくせに!」
「俺はちゃんと周りを見ている」
「ほんとかなぁ?」
エリアはわざとらしく首を傾げ、兄の顔を覗き込んだ。
シエルはそんな妹を見下ろしていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……何だ、その顔は」
「べつにー?」
口元を緩めたまま答える妹に、シエルはそれ以上何も言わなかった。
レオは二人のやり取りを聞きながら、笑みを深めた。
エリアの剣の腕は、すでに並の騎士を遥かに凌いでいる。
幼い頃から彼女に剣を教えてきたシエルも、その実力を誰よりよく理解しているはずだった。
それでも兄妹で顔を合わせれば、こんな他愛のない言い合いになる。
互いに遠慮のない関係が、レオには少し羨ましくもあり、微笑ましくもあった。
やがて、通りの向こうから夕刻を告げる鐘の音が響いてきた。
王都の建物の間を抜けて広がる鐘の音に、道行く人々が少しずつ帰路を急ぎ始める。
商人たちは店先の商品を片づけ、開いた窓からは家族を呼ぶ声が聞こえてきた。
石畳の上に伸びる三人の影も、随分と長くなっている。
「さて、そろそろ戻るか」
シエルが空を見上げた。
「俺も今日は早めに休みたい」
「お兄ちゃん、宿舎に戻るの?」
「ああ。まだ片づけるものがあるからな」
「そっか。じゃあ、また明日ね!」
エリアは兄へ手を振り、それからレオへ向き直った。
「レオも、ちゃんと休んでね!」
「ああ。分かっている」
「絶対だよ?」
念を押すように見上げてくるエリアに、レオは苦笑した。
「そんなに心配するな。今日はもう休むつもりだ」
「うん! それならよし!」
エリアは満足そうに頷くと、紙袋を抱え直した。
「それじゃあ、またね!」
「ああ。またな、エリア」
赤い髪を揺らしながら、エリアは夕暮れの通りを歩いていった。
少し進んだところでふいに立ち止まり、振り返ってもう一度大きく手を振る。
レオも片手を上げて応えた。
彼女はそれを見届けると、嬉しそうに笑い、再び歩き始めた。
やがてその姿が人々の間に紛れ、見えなくなる。
シエルが穏やかな声で言った。
「元気そうで何よりだ」
「ああ」
レオは短く答えた。
二人は並んで、宿舎へ向かう道を歩き始めた。
王都の空は、夕陽を受けて淡い金色に染まっている。
北東の森には、今もあの亀裂が残されていた。
その奥に何があるのか、なぜ異形が現れるのか。解き明かさなければならない謎は、まだ数多くある。
明日になれば、またそれぞれの務めが待っているだろう。
だが、今はそれでよかった。
「レオ?」
不意に声をかけられ、レオは隣へ顔を向けた。
シエルがこちらを見ていた。
「どうした。随分と機嫌がよさそうだな」
「……そう見えるか?」
「ああ。少なくとも、研究所を出たときよりはな」
レオは少し考え、それから笑った。
「そうかもしれんな」
シエルはそれ以上追及することなく、前へ視線を戻した。
二人の足音が、夕暮れの石畳に重なる。
通りには人々の話し声が響き、家々の窓には温かな明かりが灯り始めていた。
レオは、つい先ほど胸元へ飛び込んできたエリアの姿を思い出した。
いつもと変わらない笑顔。
取り留めのない話。
次に会う約束を交わし、またねと手を振って別れる。
そんな当たり前の時間が、思いがけないほど心を安らがせてくれた。
レオは夕陽に染まる空を見上げた。
その胸には、任務を成し遂げた達成感とは少し異なる、穏やかな温もりが残っていた。
それが何に由来するものなのか、まだ深く考えることはなかった。
ただ、あの笑顔をまた見られたことが、嬉しかった。
それだけは、確かだった。




