第六話|兆しの先に
王都へ戻る調査隊の姿が、日を追うごとに増えていた。
西部の山岳地帯、南部に広がる森林、東の辺境に点在する集落。王国各地で相次いでいた魔物の異常行動を調べるため、近衛騎士団は複数の調査隊を派遣していた。
その報告が、ようやく王都へ集まり始めたのである。
北東の森で未知の異形が確認されて以降、王国は各地の異変をこれまで以上に重く受け止めるようになっていた。しかし、調査隊が持ち帰る情報は多岐にわたり、そのすべてが同じ現象を示しているとは限らなかった。
山奥に棲むはずの魔物が麓へ下りてきたという報告。異なる種類の魔物が、争うこともなく同じ方向へ移動していたという証言。普段なら獣の鳴き声が絶えない森で、生き物の気配が奇妙なほど薄れていたという記録。
現地へ赴いた調査員たちは、それぞれが目にしたものを可能な限り詳しく書き残していた。だが、観測した時期も場所も異なれば、得られる情報にも差が生じる。
ある隊が異常と判断した現象を、別の隊は季節的な生息域の変化と捉えていることもあった。魔物の移動方向についても、目撃者によって証言が食い違う例が少なくない。
それらを一つの結論へ結びつけるには、まだ材料が足りなかった。
王国は近衛騎士団と王立魔法研究所による合同の調査協議を設け、各地の報告を精査することを決定した。
北東の森で起きた出来事を、単なる一地域の事件として終わらせるわけにはいかない。
ただし、現時点で空間の亀裂と未知の異形が確認されたのは、あの森の一か所だけだった。他の地域では魔物の異常行動が続いているものの、同じ現象が起きていると断定できる証拠はない。
そのため王国は、周辺地域の警戒を継続しながら、まずは情報の収集と検証を優先する方針を取っていた。
そして、その中心を担うことになったのが、王立魔法研究所の主任研究官、ヴァルター・グレイヴであった。
***
王立魔法研究所の会議室には、壁一面を覆う書架と、年代の異なる地図が収められた収納棚が並んでいた。
部屋の中央には大きな長机が据えられ、その上には王国全域を描いた地図と、各地から届けられた報告書が広げられている。調査隊の派遣先には色の異なる印が付けられ、余白には研究員たちの細かな書き込みが残されていた。
窓から差し込む昼の光が、机上の紙束を明るく照らしている。
その一角で、シエル・アステリアは西部から届いたばかりの報告書に目を通していた。
「……移動の時期が一致しないな」
山岳地帯から魔物が姿を消し始めた時期と、麓で目撃例が増えた時期。その間には数日の隔たりがあった。単純に同じ群れが移動したと考えるには、距離や移動速度の面で疑問が残る。
シエルは別の記録を引き寄せ、目撃地点を地図上で確認した。
その背後から、低くよく通る声が響いた。
「何か気になることでもあるのか」
振り返ると、分厚い資料を片手にした白髪の男が立っていた。
長い白髪を後ろへ流し、深い紫の研究官服をまとっている。年齢を重ねた顔には深い皺が刻まれていたが、その広い肩と堂々とした立ち姿には、かつて戦場で名を馳せた武人の面影が色濃く残っていた。
「先生」
シエルは立ち上がりかけたが、男は片手を上げてそれを制した。
「よい、座っていろ。ここは戦場でも謁見の間でもない」
ヴァルターは、かつて王国の魔法戦力を率い、幾多の戦いで功績を残した歴戦の魔法武人だった。
その名は今なお騎士たちの間で語り継がれており、魔法を志す者なら一度は耳にするほどの人物である。
そしてシエルにとっては、幼少期から魔法の基礎と実戦での応用を教わった師でもあった。
「西部の記録を確認していました。魔物が山を下りた時期について、報告ごとに食い違いがあります」
「ほう。見せてみろ」
ヴァルターは差し出された書類を受け取ると、しばらく文章を追い、地図に記された位置を確かめた。
「この二つの報告は、同じ群れを追ったものなのか?」
「それが確認できていません。魔物の種類は一致していますが、個体の識別までは行われていないようです」
「ならば、別の群れだった可能性もあるな」
「はい。目撃地点の距離を考えても、その方が自然かもしれません」
「報告した調査員に再確認を取れ。観測した場所と時刻も、できる限り正確にな」
シエルが承知すると、ヴァルターは地図上の二つの地点を指でなぞった。
「推測を重ねるのは構わん。だが、確かめられることを確かめずに話を進めるな。後でその推測が間違っていたと分かれば、積み上げたものをすべて崩すことになる」
師の言葉に、シエルは改めて資料へ目を落とした。
異なる二つの証言を無理に結びつける必要はない。別の群れだったと仮定して初めて説明できることもあれば、そこから新たな疑問が生まれることもある。
早く結論を出そうとするほど、見落としてしまうものがあるのだ。
そのやり取りを少し離れた場所で聞いていたレオ・アルディオンは、手元の資料を閉じた。
「ヴァルター殿。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ、レオ隊長」
「各地の魔物の異常行動と、北東の森で確認された亀裂。現時点で、両者に関連があると考えられるのでしょうか」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
机に両手をつき、王国全域を描いた地図へ目を落とす。
「可能性はある」
やがて、低い声で答えた。
「だが、まだそれだけだ。私も長く魔物と戦ってきたが、生息域の変化そのものは珍しいことではない。餌が減れば移動する。縄張りを追われれば別の土地へ向かう。理由はいくらでも考えられる」
「しかし、今回は複数の地域で異常が確認されています」
「ああ。だからこそ調べている。お前たちが北東の森で目にしたものが、他の地域にも関わっているのか。それとも、まったく別の現象なのか。今はまだ、どちらとも言えん」
レオは地図に視線を戻した。
報告書に記された一つひとつの事実の向こうには、実際に森や山を歩き、危険を冒して情報を持ち帰った調査員たちがいる。
彼らの働きを無駄にしないためにも、その情報を正しく扱わなければならなかった。
「……時間が必要ですね」
「そういうことだ」
ヴァルターは口元に笑みを浮かべた。
「戦場では一瞬の判断が命運を分ける。だが、研究まで同じ速さで進めようとすれば、見えるものも見えなくなる」
そう言って、傍らの椅子を引いた。
「さて、続きを始めようか。まだまだ調べることは山ほどあるぞ」
その声に、研究員たちは再び資料へ向き直った。
シエルは師の横顔を見ながら、幼い頃の訓練を思い出していた。
術式を覚えたばかりの自分が、少しでも早く次の魔法を使いたくて先を急ぐと、ヴァルターは決まって手を止めさせた。
正しく扱えない力は、時として何も持たないことより危険になる。
当時は厳しすぎると感じた教えも、今ではその意味がよく分かる。
まして今回相手にしているのは、これまでの常識が通じない未知の存在なのだ。
シエルは羽ペンを手に取り、食い違いのあった二つの報告に印を付けた。必要な確認事項を書き出すうちに、隣の机からも紙を繰る音が聞こえてくる。
窓の外では、いつもと変わらない王都の午後が過ぎていた。
その穏やかな景色とは裏腹に、机上に広げられた地図には、まだ説明のつかない異変がいくつも残されていた。
***
報告の精査は、その後も続いた。
帰還した調査員への聞き取り、現地へ残した警戒要員との連絡、曖昧な記録の確認。新しい報告書が届くたび、研究員たちは以前の資料を引き出し、地図に書き込まれた情報を更新していった。
ある調査員は、魔物の群れを追跡している途中で縄張りの境界を見失っていた。別の調査隊は、地元の猟師から聞いた話と自分たちの観測結果が一致せず、報告を保留していた。
細部を確かめるにつれ、それまで一つの異変と思われていた出来事が、実際には別々の現象だったと分かることもあった。反対に、関連がないように見えた記録が、同じ区域の変化を異なる方向から捉えていたと判明することもある。
容易に答えは出なかったが、散らばっていた情報は少しずつ整理されていった。
とはいえ、王国の営みが調査のために止まるわけではない。
騎士団は従来どおり王都の警護を続け、各地の魔物への対応にも追われていた。レオもまた、研究所との協議に参加しながら、隊長としての日常業務をこなしている。
訓練場では若い騎士たちが剣を振るい、巡回の交代時刻になれば、担当の隊員が次々と詰所を出ていく。
エリオット・ウェストンの不在は、今も部隊の中に残っていた。
彼がよく声をかけていた若い隊員たちは、以前よりも真剣に鍛錬へ取り組むようになっていた。後輩の指導を進んで引き受ける者もいれば、任務の後に残って剣を振り続ける者もいる。
誰もが同じように悲しみを乗り越えたわけではない。
それでも、かつてエリオットと共に過ごした日々は、彼らの中に確かに残っていた。
レオはそうした変化を見守りながら、自身もまた日々の職務へ向き合っていた。
そんな日々が二週間ほど続いた、ある午後のことだった。
***
騎士団の門を出たレオは、通りの向こうに見慣れた赤い髪を見つけた。
エリア・アステリアだった。
道端の小さな露店で何かを眺めていたらしい彼女は、レオの姿に気づくと、ぱっと顔を輝かせた。
「レオ!」
こちらへ手を振りながら駆け寄ってくる。
鮮やかな赤髪が肩のあたりで揺れ、足取りにはいつもの軽やかさがあった。
「エリア。今日はどうした?」
「近くまで来たから、ちょっと寄ってみたの。お仕事終わった?」
「いや、まだ少し残っている。だが、今は休憩を取ろうと思っていたところだ」
「ほんと? じゃあ、お茶でも飲みに行かない?」
期待に満ちた眼差しを向けられ、レオは自然と口元を緩めた。
「いいだろう。少しなら付き合える」
「ふふっ、よかった」
嬉しそうに笑うエリアは、当然のようにレオの隣へ並んだ。
先日の手合わせ以来、二人は何度か顔を合わせていた。
エリアが訓練場を訪れることもあれば、こうして公務の合間に短い時間を過ごすこともある。
初めのうちは剣術や戦い方について語り合うことが多かったが、最近では話題も少しずつ変わってきていた。
エリアは旅先で出会った人々のことや、立ち寄った村で食べた料理のことを楽しそうに話す。レオもまた、任務の合間に起きたちょっとした出来事や、若い騎士たちの成長について話すようになっていた。
顔を合わせれば言葉を交わし、時間があれば共に過ごす。
互いに意識して決めたわけではないが、そんな関係が少しずつ形になり始めていた。
「ねえ、レオ」
歩きながら、エリアが顔を上げた。
「今度の手合わせ、いつにする?」
「またその話か」
「だって、まだ勝負がついてないもの」
エリアは少し不満そうに唇を尖らせる。
その様子にレオは笑った。
「忘れてはいない。ただ、しばらくは予定が詰まっていてな」
「お仕事なら仕方ないけど……」
残念そうに呟いたエリアだったが、すぐに何かを思いついたらしい。
「じゃあ、それまでに私がもっと強くなっておくね」
「それは困るな」
「え?」
「俺も鍛錬を怠れなくなる」
その返答に、エリアは楽しそうに笑った。
「次こそ勝つからね」
「望むところだ」
互いの剣技を知っているからこそ、その言葉には冗談だけではない響きがあった。
エリアの大剣は、見た目の豪快さに反して細やかな技術に支えられている。力と速度だけでなく、相手の動きを読み、瞬時に攻撃の軌道を変える判断力も備えていた。
あの日、訓練場で剣を交えたレオは、その実力を改めて思い知らされた。
次はどのような剣を見せてくれるのか。
それを考えるだけで、手合わせの日が待ち遠しくなる。
街路樹の枝先を風が揺らし、道行く人々の間を秋の気配が通り抜けていく。エリアは通りに並ぶ店先を興味深そうに眺め、ときおり足を緩めては、珍しい品物についてレオに尋ねた。
各地を旅している彼女にとっても、王都にはまだ知らないものがいくらでもあるらしい。
気になったものを見つければ立ち止まり、面白そうなものがあれば目を輝かせる。そのたびにレオも自然と足を緩め、彼女が何を見つけたのか確かめていた。
通りを少し進んだところで、向こうから二人の若い騎士が歩いてきた。
巡回を終えたばかりなのだろう。軽い装備を身につけた二人は、レオの姿に気づくと背筋を伸ばした。
「お疲れ様です、隊長!」
「ああ。巡回、ご苦労だった」
レオが応じると、片方の騎士がエリアへ目を向けた。
「あれ? この前、訓練場にいらした……」
「こんにちは」
エリアが微笑むと、若い騎士は思い出したように声を上げた。
「ああ! 隊長と手合わせしてた方ですよね!」
「そうだよ」
「あの勝負、すごかったですよ! 自分たち、見ているだけで精一杯でした!」
「ありがとう。私もすごく楽しかったよ」
エリアは嬉しそうに答えた。
その隣にいたもう一人が、二人を交互に見比べる。
訓練場では互いに一歩も譲らぬ剣を交えていた二人が、今は肩を並べて楽しそうに歩いている。
その光景が、若い騎士には少し意外だったのかもしれない。
「ところで隊長」
「なんだ?」
騎士の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「もしかして、デートですか?」
隣の騎士が慌てて肘で小突いた。
「お、おい! 隊長に何言ってるんだよ!」
しかし、当のレオは気分を害した様子もなく、若い部下を一瞥した。
「ほう。ずいぶん余裕があるようだな」
「え?」
「午後の訓練は少し増やしてもよさそうだ」
その言葉に、騎士の顔色が変わった。
「えっ!? い、いえ! 決してそういう意味では!」
「はは、冗談だ」
レオは軽く笑った。
「巡回、ご苦労だった。持ち場へ戻れ」
「は、はい! 失礼します!」
二人は慌てて敬礼すると、足早にその場を離れていった。
その背中を見送りながら、エリアは不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、レオ」
「なんだ?」
「私たち、デートしてたの?」
あまりにも真っ直ぐな問いだった。
レオは少し考え、それから笑った。
「さて、どうだろうな」
「そうなの?」
「ただ、エリアと過ごす時間は楽しいぞ」
気負いのない言葉だった。
レオにとっては、ただ思ったことをそのまま口にしただけである。
けれど、エリアはその返答がよほど嬉しかったらしい。
「ほんと? 私もレオと一緒にいるの、楽しいよ」
満面の笑みを浮かべて、少し考えるように空を見上げる。
「じゃあ、今日はデートってことにしよっか」
レオは思わず声を上げて笑った。
「ははは! ずいぶん簡単に決まるんだな」
「だって、二人とも楽しいんだからいいじゃない」
「確かにな」
エリアの理屈は、時折驚くほど単純だった。
だが、難しく考える必要のないことを、わざわざ難しくしない。そんな彼女といると、レオも自然と肩の力が抜けるのだった。
「あっ、レオ。あのお店!」
エリアが足を止めた。
視線の先には、小さな菓子店があった。
店先の窓には焼き菓子が並べられ、飾り棚には色とりどりの包みが置かれている。
「あそこのお菓子、すごく美味しいんだよ」
「そうなのか?」
「うん。この前買って食べたんだけど、また食べたいなって思ってたの」
エリアは期待に満ちた目でレオを見上げた。
その表情だけで、何を言いたいのかは十分に伝わってくる。
「……寄っていくか」
「うん!」
嬉しそうに店へ向かうエリアを追いながら、レオは笑みを浮かべた。
店の扉を開けると、香ばしい甘い匂いが二人を迎えた。棚には木の実を練り込んだ菓子や、果実の蜜を使った小さな焼き菓子が並んでいる。
エリアは迷うことなく目当ての品を選んだものの、隣に置かれた別の菓子を見つけると、途端に真剣な顔になった。
「……どうしよう、こっちも美味しそう」
「両方買えばいいんじゃないか?」
「……それもそうだね」
納得したように頷いたエリアは、店員へもう一つ追加を頼んだ。
あまりに迷いのない決断に、レオは笑いを堪えられなかった。
結局、エリアは二種類の菓子を買い、店を出るなり片方の包みを開いた。
「はい、レオにも」
「俺にもか?」
「もちろん。一緒に食べた方が美味しいもの」
差し出された菓子を受け取り、レオは礼を言った。
外側は香ばしく焼き上げられ、中には細かく砕いた木の実が練り込まれている。ひと口かじると、控えめな甘さが口の中に広がった。
「……確かに美味いな」
「でしょ?」
エリアは得意げに笑い、もう一つの包みを大切そうに抱え直した。
午後の陽射しが、街路樹の間から通りへ落ちている。
レオは隣を歩くエリアに足並みを合わせながら、残りの公務のことを思い出した。
少しの休憩のつもりが、思いのほか長くなってしまったらしい。
それでも、今日くらいは悪くない。
そう思いながら、レオは最後のひと口を味わった。
***
調査協議が始まってから三週間ほどが過ぎた頃、研究所に一つの報告が届いた。
南部の森林地帯からの追加調査記録である。
その日の会議室には、普段よりも多くの資料が持ち込まれていた。
これまでの報告を整理する中で、研究員たちは魔物の移動先だけでなく、元の生息域の状態にも注目し始めていた。
ある地域では、移動した魔物の群れがその後どこへ向かったのか分からなくなっている。別の地域では、魔物が去ったにもかかわらず、周囲の野生動物が元の生息域へ戻っていないという記録があった。
それまでは、調査の主な対象である魔物の動向に重点が置かれ、小動物や鳥類に関する記述は補足的な情報として扱われていた。
しかし、いくつかの報告を読み比べるうちに、その補足部分に気になる一致が見つかり始めていたのである。
ヴァルターは届いたばかりの書類を読み進めていたが、ある箇所で手を止めた。
「……ふむ」
隣で別の資料を整理していた研究員が顔を上げた。
「何かございましたか?」
「南部の報告だ。魔物が姿を消した区域について、追加の確認が取れたらしい」
ヴァルターは書類を机へ置いた。
「ここを読んでみろ」
研究員は指定された箇所に目を通した。
「……鳥類、小型獣、昆虫類の活動も確認できず……?」
「ああ。魔物だけではない。森に棲むほかの生き物まで、姿を消しているという」
調査隊は数日にわたって周辺の区域を確認し、獣道や水場も調べていた。しかし、通常なら残されているはずの足跡や餌を探した痕跡がほとんど見つからなかったという。
さらに、異常が確認された区域から離れた場所では、鳥や小動物が普段どおり活動していることも記録されていた。
単に季節的な要因で生き物の数が減ったのであれば、ここまで局所的な違いが生じるものだろうか。
シエルはその記述を聞き、すぐに別の書類へ手を伸ばした。
「先生。西部の報告にも、似た記述があったはずです」
積み重ねられた資料の中から一冊の記録を取り出し、該当する頁を開く。
「……ありました。山岳地帯の一部で、魔物が移動した後も野生動物の姿がほとんど確認されていないと」
「東部にも同じような記録があります」
別の研究員が声を上げた。
「魔物の分布を調べた際、一部の区域で鳥の鳴き声すら聞こえなかったと記されています。こちらは短期間の観測ですが……」
「それでも重要な記録だ。観測条件を明記して残しておけ」
ヴァルターは地図を広げ直した。
研究員たちが各地の報告地点に新たな印を付けていく。
西部、南部、東部。
離れた土地で起きている異変には、魔物の種類も移動の仕方も異なるという違いがあった。
それでも、その中心付近で生き物の活動が著しく減少しているという点は、驚くほど似通っていた。
「……我々は、魔物がどこへ向かったのかばかり調べていた」
ヴァルターは地図を見渡しながら言った。
「だが、重要なのは移動した先ではなく、移動する前に何が起きていたのか、ということかもしれんな」
レオが地図へ視線を落とした。
「魔物が、生息域から逃げ出している可能性があると?」
「そう考えれば、いくつかの報告に説明がつく。何から逃げているのかまでは分からんがな」
シエルは北東の森を示す印を見つめていた。
頭の中に、あの日の光景が蘇る。
森の奥へ進むにつれて薄れていった生き物の気配。
風に揺れる枝葉の音ばかりが耳につき、鳥のさえずりも、小動物が下草を踏む物音も聞こえなかった。
そして、森の奥で発見した不自然な空間の歪み。
「……北東の森でも、同じことが起きていました」
シエルが口を開いた。
「あの場所には、鳥も獣もほとんどいませんでした。森の奥へ進むほど、生き物の気配が失われていた」
レオも当時の様子を思い返した。
村での聞き取りを終えて森へ入ったとき、彼らが最初に気にしていたのは魔物の足跡だった。
ところが奥へ進むほど、その痕跡は減っていった。
当時は何らかの理由で魔物が別の場所へ移動したのだろうと考えていたが、今になって思えば、その周辺には普通の獣や鳥の姿さえなかった。
「確かにそうだった。あの森の奥では、追っていた魔物の気配も途絶えていた」
ヴァルターは北東の森を示す印の上へ指を置いた。
「……そして、その先で亀裂を発見した」
研究員たちの視線が、一斉に地図へ集まった。
王国各地で確認されている生物の消失と、北東の森で起きた異変。
それらの間に関連があるのだとすれば、これまで別々に扱われてきた報告の意味も変わってくる。
「各地の異変も、あの亀裂に関係しているのでしょうか」
若い研究員が問いかけた。
ヴァルターは地図の上に置いていた手を引いた。
「それを確かめる必要がある。他の地域で亀裂が確認されたわけではないが、北東の森には実際に調べられるものがある」
シエルは師の言葉を聞きながら、先日の協議で示された報告書を思い返していた。
あの異形に防御魔法が触れた瞬間、黒い輪郭が乱れた。
その背後では、空間の亀裂にも変化が見られたように思えた。
魔力が異形に干渉したことは確かだが、その理由も、亀裂との関係も分かっていない。
もし再び現地で観測できれば、新しい手がかりが得られるかもしれない。
しかし、それには危険が伴う。
前回の調査で、彼らは未知の敵に対抗する術を持たないまま戦わざるを得なかった。
「先生」
シエルは顔を上げた。
「再調査を行うなら、攻撃魔法を扱える者の同行が必要だと思います」
「私も同じ考えだ」
ヴァルターは深く頷いた。
「お前の防壁が異形に干渉したという事実は重要だ。だが、それだけでは魔法そのものが有効なのか、あるいは特定の性質が影響したのか判断できん」
「はい。異なる属性や術式で反応を比較できれば、少なくとも今より多くのことが分かるはずです」
「ただし、検証のために命を失っては意味がない。撤退の条件も含め、慎重に計画を立てる必要があるな」
机上の地図には、調査隊が前回辿った経路が細い線で記されていた。
森の入口から、亀裂を発見した地点まで。
その線を目で追いながら、レオは一つひとつの地形を思い起こしていた。足場の悪い斜面、木々が密集した区域、部隊の進行を妨げる倒木。
あの場所をもう一度訪れるのなら、前回の経験は必ず役に立つ。
「追加調査を行うなら、俺も同行します」
レオが口を開くと、ヴァルターはその顔を見た。
「……あの森へ、もう一度行くつもりか」
「はい。地形も、亀裂のあった場所も把握しています。何より、あの異形と実際に交戦した経験があります」
そして、一度言葉を切った。
あの森で失った命のことを、忘れた日はない。
しかし、それだけが再び向かおうとする理由ではなかった。
「次は、同じ犠牲を出さないための準備をして向かいたい」
その声には、指揮官としての確かな意志があった。
ヴァルターはしばらくレオを見つめていた。
かつて戦場で幾度となく部隊を率いた彼には、その言葉の重さが分かる。
どれほど慎重に計画を立てても、戦場では予想外のことが起こる。完璧な指揮など存在しない。
それでも、経験した失敗や喪失を次の判断に活かそうとする姿勢は、指揮官に欠かせないものだった。
「……よかろう」
ヴァルターは頷いた。
「正式な派遣については騎士団の上層部と協議せねばならんが、お前たちの経験は今回の調査に必要だろう」
そして会議室の全員へ視線を向けた。
「ただし、忘れるな。今回の目的は、異形を倒すことではない」
その声に、室内のざわめきが収まった。
「何が起きているのかを知ることだ。情報を持ち帰ることができれば、それだけで大きな成果になる」
レオは地図に記された北東の森を見つめた。
前回、そこへ向かったときには知り得なかったことが、今は手元の資料に数多く書き込まれている。
その一つひとつを確かめるために、再びあの場所へ向かう。
ただし、今度は何が起こるか分からないという事実を、最初から受け入れたうえで。
レオとシエルは互いに目を合わせ、それぞれに小さく頷いた。
***
それから数日後、王国は北東の森への追加調査を正式に決定した。
今回の調査隊には、前回の経験を持つレオとシエルに加え、攻撃魔法を扱える魔法騎士と、現地での観測を担当する研究員が同行することになった。
調査計画は、以前よりも慎重に組み立てられた。
北東の森までの移動経路、周辺の村との連絡手段、負傷者が出た場合の搬送方法。現地での観測に必要な器具についても、持ち運びやすさと安全性を考慮して選定された。
そして、最も重視されたのが撤退の判断基準だった。
亀裂の現状を確認し、異形に対する魔法的な干渉を検証する。しかし、危険が大きいと判断した場合には、結果を求めて戦闘を継続しない。
その方針は、編成に加わる全員へ明確に伝えられた。
ヴァルター自身は研究所に残り、王国各地から届く報告の分析と、追加調査隊が持ち帰る情報の精査を担うことになった。
出発までは、あと数日。
そして、その知らせは間もなくエリアの耳にも届いた。
***
「私も行く!」
王都の実家へ顔を出したシエルに、エリアは迷いなくそう告げた。
夕食にはまだ早い時間だった。
部屋の片隅には、手入れを終えたばかりの大剣が置かれている。エリアはその傍らに腰を下ろしていたが、追加調査の話を聞くなり勢いよく立ち上がっていた。
シエルは、妹の反応を予想していたようだった。
「今回は駄目だ」
落ち着いた声で答える。
「えっ、どうして?」
「今回の目的は、魔法による検証だ。前回とは任務の内容が違う」
「でも、私だってあの場所を知ってるよ」
「分かっている」
「それに、何かあったら私も戦えるし……」
エリアは一歩も引こうとしなかった。
その瞳には、いつもの好奇心とは違う強い意志が宿っている。
シエルは妹の顔を見つめた。
あの森から帰還して以来、エリアがどのような日々を過ごしてきたのか、すべてを知っているわけではない。
それでも、王都へ戻ってしばらく元気をなくしていたことも、自分の意思で再び剣を握り、訓練場へ向かったことも知っていた。
エリアは、過去の出来事に囚われたまま立ち止まるような性格ではない。
しかし、あの戦いで自分の剣が通じなかったことは、今も胸のどこかに残っているのだろう。
「エリア」
シエルは、普段よりも少し厳しい声で名前を呼んだ。
「お前の腕を疑っているわけじゃない。レオも俺も、お前の強さはよく知っている」
「だったら……」
「だが、今回は剣の腕を確かめに行くわけじゃない」
エリアは口を閉じた。
「魔法による検証が目的だ。研究員を守りながら、限られた時間で必要な情報を集める。そのために、同行する者の役割も慎重に決められている」
その説明に、エリアはしぶしぶ頷いた。
「お前が加われば、できることが増えるかもしれない。だが、同時に計画を変えなければならない部分も出てくる」
シエルは妹をまっすぐに見た。
「行きたいという気持ちだけで、決めていい任務じゃない」
エリアは唇を結んだ。
兄の言っていることが間違っているとは思わない。
自分の剣を信頼してくれていることも分かっている。
それでも、あの森へ再び向かうという話を聞いて、何もせずに待っていることができるのだろうか。
そんな思いが、胸の内に渦巻いていた。
「……でも」
言いかけたエリアを、シエルは遮らなかった。
妹が言葉を探している間、ただ待っていた。
「私だって、何かできるかもしれないのに……」
その声には、悔しさが滲んでいた。
シエルはゆっくりと息を吐いた。
妹を危険から遠ざけることが目的なのではない。エリアが独立した剣士として各地を旅し、数多くの魔物と戦ってきたことを、シエルは誰よりも理解している。
今回の判断も、兄としての心配だけで下したものではなかった。
だからこそ、曖昧な言葉でごまかしたくはなかった。
「エリア。今は我慢しろ」
強く言い聞かせるのではなく、しかし譲るつもりもない声だった。
「お前が必要になる時は、きっとある。だが、今回は俺たちに任せてくれ」
エリアはしばらく俯いていた。
兄の言葉を受け入れなければならないことは分かっている。
それでも、胸の奥に残った悔しさを、どう扱えばよいのか分からなかった。
やがて、ようやく小さく頷く。
「……分かった」
その返事に、シエルは何も付け加えなかった。
妹が完全に納得したわけではないことくらい、長年の付き合いで分かっている。
それでも今は、無理に結論を急がせる必要はなかった。
エリアは自分で考え、答えを出せる。
シエルは、そう信じていた。
***
翌日の午後、エリアは王立魔法研究所を訪れていた。
普段なら、兄に用事があるときでもなければ足を運ぶことの少ない場所だった。磨き上げられた床には高い窓から光が差し込み、廊下の両側には見慣れない魔道具や、用途の分からない器具が並べられている。
研究員たちが資料を抱えて行き交う中、エリアは奥へと続く廊下を進んでいた。
昨夜、シエルに言われたことが、まだ頭から離れなかった。
兄の説明は理解できる。けれど、同行を諦めようとするたびに、あの森で何もできなかった自分の姿が思い浮かんだ。
何度剣を振っても、異形には傷一つ負わせられなかった。
いつもなら敵の動きを読み、隙を見つけて剣を振るうことができる。しかし、あの黒い人影のような存在には、培ってきた技術がまるで通じなかったのだ。
そして、エリオットは帰ってこなかった。
自分がもっと強ければ、何か違ったのだろうか。
そう考えても答えは出ない。それでも、次にあの森へ向かう者たちの中に自分がいないという事実を、簡単には受け入れられなかった。
やがて見覚えのある扉の前に辿り着くと、エリアは一度立ち止まり、軽く拳を握った。
そして、扉を叩いた。
「入れ」
奥から聞こえてきたのは、昔から変わらない、低くよく通る声だった。
「おじいちゃん!」
扉を開けるなり声を上げると、大きな机に向かっていたヴァルターが顔を上げた。
「おお、エリアか! 久しぶりだな」
厳めしい顔に、たちまち豪快な笑みが浮かぶ。
「元気にしていたか?」
「うん。おじいちゃんも元気そうだね」
「はっはっは! まだまだ若い連中には負けんぞ」
その笑い声を聞いて、エリアの表情も自然と緩んだ。
幼い頃から、ヴァルターはこういう人だった。
兄に魔法を教えているときは厳しく、少しでも気を抜けば容赦なく叱る。けれど、訓練が終わればよく笑い、エリアが遊びに来ると、どれほど忙しくても話を聞いてくれた。
長い年月が経ち、自分も兄も大人になった。
それでも、こうして向き合っていると、昔と変わらない安心感があった。
「それで、今日はどうした?」
ヴァルターは手元の書類を閉じた。
「シエルに用事か? あいつなら今日は騎士団に戻っているぞ」
「ううん。今日はおじいちゃんに会いに来たの」
「ほう?」
ヴァルターは面白そうに片方の眉を上げた。
「それは嬉しいことを言ってくれる。だが……何やら浮かない顔だな」
「えっ、そう?」
「私の目をごまかせると思うなよ」
そう言って、向かいの椅子を示す。
エリアは少しだけ笑い、素直に腰を下ろした。
机の上には、各地から集められた調査報告が積み重なっている。王国の地図にはいくつもの印がつけられ、その脇には細かな文字で埋め尽くされた資料が広げられていた。
その中には、見覚えのある北東の森の地図もあった。
「……ねえ、おじいちゃん」
「何だ?」
「今度の北東の森の調査なんだけど……」
言いかけて、エリアは一度口を閉じた。
兄に話したときは、あんなにも勢いよく言葉が出てきたのに、今は何から話せばよいのか分からなかった。
「私も行きたいって言ったの。でも、お兄ちゃんに駄目だって言われちゃった」
「そうか」
ヴァルターは、それだけ答えた。
意外そうな顔もしなければ、シエルの判断をすぐに肯定することもしない。
「それで、納得できんのだな?」
「……うん」
エリアは膝の上で指を組んだ。
「お兄ちゃんの言ってることは分かるんだよ。今回は魔法の調査だから、私が行ってもできることは少ないかもしれないって」
窓の外から、遠くで鳴る鐘の音が聞こえてきた。
「でも、私もあの森にいたんだもの。どんな敵だったか知ってるし、今度は何かできるかもしれないって……」
最後の方は、自分でも何を言いたいのか分からなくなっていた。
あの森にもう一度行きたい。
それは確かだった。
だが、そこで何をしたいのかと問われれば、明確な答えが出てこない。
異形と戦いたいのか。
前回の悔しさを晴らしたいのか。
それとも、もう誰かを失いたくないだけなのか。
自分の中で、いくつもの思いが絡まり合っていた。
「……あの時ね」
エリアは、膝の上の手に視線を落とした。
「私、何もできなかったんだ」
ヴァルターは黙って聞いていた。
「何度剣を振っても、全然通じなくて。どうすればいいのかも分からなくて……」
思い浮かぶのは、黒い人影のような異形と、倒れたエリオットの姿だった。
「もっと強かったら、何か違ったのかなって……」
口にして初めて、エリアは自分の中にあった思いをはっきりと理解した。
あの森へ行きたいのは、ただもう一度戦いたいからではない。
何もできなかった自分のままでいることが、嫌だったのだ。
ヴァルターはしばらく黙っていた。
やがて、椅子の背から体を起こす。
「エリア。お前は、自分が弱かったと思っているのか?」
「……分かんない」
エリアは正直に答えた。
「今までだって、強い魔物とはいっぱい戦ってきたよ。でも、あんなの初めてだった。剣が当たってるのに、全然倒せないなんて……」
「そうだな。お前の剣は、あの敵には通じなかった」
それは、エリアが何度も思い返してきた事実だった。
だが、ヴァルターの声には責める響きも、慰めようとする気配もなかった。
「では、レオの剣はどうだった?」
「……通じなかった」
「シエルは?」
「防壁でみんなを守ってくれた。でも……最後は破られちゃった」
「そうだ。お前たちは、誰一人としてあの異形を倒す方法を知らなかった。相手が何者かも、どうすれば傷つけられるのかも分からないまま戦っていたのだ」
ヴァルターはそこで言葉を切り、エリアの顔を見た。
「それは、お前の剣が弱かったという話とは違う」
その言葉に、エリアはすぐには答えられなかった。
「……でも、エリオットは……」
名前を口にした途端、胸の奥が締めつけられた。
ヴァルターの表情から笑みが消える。
「ああ。若い騎士が一人、命を落としたと聞いている」
彼はしばらく言葉を選ぶように沈黙した。
「それは、決して取り戻せんことだ」
エリアは唇を結んだ。
「私も戦場で、幾人もの仲間を失ってきた。もっと早く気づいていれば、違う判断をしていればと、考えたことも一度や二度ではない」
ヴァルターの声は、いつもの豪快さとは違っていた。
幾度もの戦いを経験してきた者だけが持つ、深く落ち着いた響きがあった。
「だがな、エリア。起きたことを忘れぬのと、何もかも自分の力不足だったと思い込むのは、同じことではない」
エリアは、その言葉を胸の内で繰り返した。
忘れないこと。
自分を責め続けること。
今まで、その二つをどこかで混同していたのかもしれない。
「……じゃあ、私はどうすればいいの?」
ヴァルターは机上の報告書へ手を伸ばし、一冊を開いた。
「まずは、これを見てみろ」
そこには、北東の森での調査結果が整理されていた。
空間の歪みが確認された地点、異形に対する剣による攻撃、シエルの防御魔法が触れた際の反応、撤退中に確認された異形の行動。それぞれの記録には、観測した者の証言と、研究所による補足が添えられている。
どれも、エリア自身が見聞きしたことだった。
「これらの情報がなければ、今回の調査計画は立てられなかった」
ヴァルターは書類の一節を指した。
「通常の剣が通じなかった。ならば、別の方法を探す必要がある。防御魔法が異形に干渉した。ならば、攻撃魔法ではどうなるのか」
指先が、次の頁へ移る。
「お前たちの経験が、次に何を確かめるべきかを教えてくれたのだ」
エリアは報告書に目を落とした。
そこには、自分が無力だったと感じていた出来事が、少し違う形で残されていた。
剣が通じなかったことも、防壁が破られたことも、決して望ましい結果ではない。
けれど、それを知っているからこそ、次に調べるべきことが見えてくる。
目の前に積まれた書類は、あの日の戦いを終わった出来事として片づけるものではなかった。あの森で何が起きたのかを、少しでも明らかにしようとする人々の仕事そのものだった。
「……私たちが見てきたことが、役に立ってるんだね」
「ああ。間違いなくな」
ヴァルターは頷いた。
「それに、今回の調査隊がすべてを解き明かせるとも限らん。新たな疑問を持ち帰るだけで終わるかもしれん。そのときは、また別の者が考え、試すことになる」
そして、エリアへ目を向けた。
「お前の剣が必要になる日も来るだろう」
「でも、今はまだ、その方法が分からない……」
「そういうことだ」
ヴァルターは椅子に深く腰を下ろした。
「お前が強い剣士であることと、今回の調査に同行すべきかどうかは、別の話だ」
その言葉を聞いたとき、エリアはようやくシエルが伝えようとしていたことを、違う角度から理解できた気がした。
兄は、自分が足手まといになると言ったわけではない。
剣が弱いと言ったわけでもない。
今回の調査には、今回の調査で果たすべき役割がある。
そして、その役割を果たすために必要な人たちが選ばれている。
もし自分が無理に同行したとしても、あの異形を倒す方法が分からないことに変わりはない。
むしろ、もう一度同じ状況に陥れば、レオやシエルたちの判断を難しくしてしまうかもしれない。
それは、自分が望んでいることではなかった。
エリアは膝の上で組んでいた指を、ゆっくりと解いた。
「……そっか」
小さな声がこぼれた。
今度は、昨夜シエルに返した言葉とは違っていた。
諦めたからではない。
自分にもできることがあったと分かったから。
そして、今は別の誰かがその続きを担うのだと理解できたから。
「私、あの森で何もできなかったって、ずっと思ってた」
エリアは顔を上げた。
「でも……私たちが見てきたことが、ちゃんと次に繋がってるんだね」
「ああ。お前たちが持ち帰ったものを、無駄にはせん」
ヴァルターの力強い返答に、エリアの表情がようやく和らいだ。
「……じゃあ、今回はおじいちゃんたちに任せるね」
「うむ。それでよい」
「でも、何か分かったら教えてね。私もちゃんと知りたいから」
「もちろんだ」
「約束だよ」
「ああ、約束しよう」
エリアは立ち上がり、椅子を元の位置へ戻した。
研究室を訪れたときには重く感じていた足取りが、今はずいぶん軽くなっている。
あの森へ行きたい気持ちは、まだ残っていた。
きっと、レオたちが出発するときには少し羨ましくなるだろう。
それでも、今は待つことを選べる。
何もせず諦めるのではなく、次の機会に備えながら、自分にできることを続けていけばいい。
そう思えるようになったことが、エリアには嬉しかった。
「ありがとう、おじいちゃん」
いつもの明るい声が、研究室に響いた。
ヴァルターは満足そうに笑い、扉へ向かうエリアを見送った。
「まったく。昔から変わらん娘だ」
「えー? 私、ちゃんと大人になったよ?」
「はっはっは! それは知っている!」
長い白髪を揺らしながら笑うヴァルターに、エリアもつられて笑った。
その賑やかな声は、扉の向こうの廊下まで聞こえていた。
***
追加調査隊の出発当日。
王都の門前には、旅装を整えた騎士たちが集まっていた。
馬車には観測用の器具や食料、必要な装備が積み込まれている。同行する魔法騎士たちは持ち物を確かめ、研究員たちは観測器具に不備がないか、最後の確認を進めていた。
北東の森までは、片道三日。
現地近くの村で情報を集めた後、森の奥へ向かう計画だった。
門前は早くから慌ただしい空気に包まれていた。馬の手綱を引く音、荷台の固定具を締め直す金属音、装備の確認を交わす騎士たちの声。出発を控えた一行は、それぞれの役割を果たしながら、最後の準備を進めていた。
レオは隊員たちの装備を確認し、積み荷の固定と馬車の状態に問題がないことを確かめた。
今回の調査隊には、前回の森での戦闘を経験していない者も多い。
彼らには事前に報告書を共有し、異形について確認されている事実と、まだ分かっていないことを説明してあった。
未知の敵に対して不用意に接近しないこと。
独断での交戦を避け、指揮官の指示に従うこと。
そして、何よりも生還を優先すること。
準備を終えたレオは、馬の傍らに立つシエルのもとへ歩み寄った。
「準備は整ったか」
「ああ。魔法騎士たちも問題ない。研究員の装備も確認済みだ」
「そうか」
レオは、門の向こうへ続く街道に目を向けた。
遠くには、なだらかな丘陵と、その先へ続く山々の稜線が見えている。
あの向こうに、かつて仲間を失った森がある。
調査隊の指揮を執る以上、個人的な感情だけで判断するつもりはない。それでも、再びあの土地へ向かうことを、何も感じずに受け止められるわけではなかった。
レオは手綱を握り直し、出発を待つ隊員たちの姿を確かめた。
そのとき、聞き慣れた声が響いた。
「レオ!」
振り向くと、エリアがこちらへ駆けてくるところだった。
人の間を器用に抜け、二人の前で足を止める。
「間に合った……!」
「エリア」
レオは笑顔で迎えた。
シエルは妹の姿を見て、少し意外そうに目を細める。
「……今日は随分と素直だな」
「え? なにそれ」
「また同行すると言い出すかと思っていた」
エリアは頬を膨らませた。
「もう言わないよ。ちゃんと考えたんだから」
「そうか」
その返答を聞いたシエルは、ふと思い当たったように尋ねた。
「……先生と話したのか」
「うん。昨日、研究所に行ってきたの」
エリアは少し照れくさそうに笑う。
「今回は、みんなに任せることにしたよ」
シエルは妹の表情を見つめた。
同行を断ったときには、あれほど悔しそうにしていた。その気持ちがすべて消えたわけではないだろう。
けれど、今のエリアには、無理に自分を納得させている様子がなかった。
何を話したのかは分からない。それでも、師が妹の思いを丁寧に聞いてくれたのだろうということは想像できた。
「……そうか」
シエルはそれ以上尋ねず、穏やかに微笑んだ。
エリアは今度はレオへ向き直った。
「レオ」
「なんだ?」
「絶対、無事に帰ってきてね」
明るい声だった。
だが、その言葉には確かな願いが込められていた。
レオはエリアをまっすぐに見た。
彼女が何を心配しているのか、聞かずとも分かる。
「ああ。必ず戻る」
力強い返答に、エリアの顔が明るくなる。
「約束だよ」
「分かっている」
「それと、帰ってきたらまた手合わせしようね」
その言葉に、レオは笑った。
「はは、まだ覚えていたか」
「当たり前でしょ。まだ勝負がついてないもの」
「いいだろう。次こそ決着をつけよう」
「ふふっ、負けないからね」
いつもどおりのやり取りだった。
レオもエリアも、次の手合わせが実現することを疑っていない。まるで少し先の予定を決めるように交わされたその約束が、二人の間に穏やかな時間を生んでいた。
やがて、隊員の一人が出発準備の完了を告げた。
レオは頷き、馬へ向かう。
シエルも妹へ手を上げた。
「行ってくる」
「うん。お兄ちゃんも気をつけてね」
「ああ」
騎士たちが馬に跨り、隊列がゆっくりと動き始める。
調査器具を積んだ馬車が続き、一行は王都の門を抜けていった。
エリアはその姿が遠ざかるまで、手を振り続けた。
やがて街道の向こうへ続く隊列が小さくなり、先頭を進むレオたちの姿も見分けられなくなる。
それでも、しばらくは遠くの道を眺めていた。
自分も行きたかった。
その気持ちが、すっかり消えたわけではない。
けれど、今はレオたちが無事に戻ってくることを願っていられる。
「……頑張ってね」
街道の彼方へ向けて呟き、エリアは踵を返した。
帰ってきたら、また手合わせをする約束だ。
そのときまで、自分も鍛錬を続けていよう。
次に剣を交えたとき、レオを驚かせられたら面白いかもしれない。
そんなことを考えながら、エリアは王都の中へ戻っていった。
***
王都の城壁が背後へ遠ざかるにつれ、街道を行く調査隊の足並みは落ち着いたものになっていった。
先頭を進む騎士たちの後ろには、観測器具や食料を積んだ馬車が続いている。車輪が道の凹凸を越えるたびに荷台が揺れ、金具の触れ合う音が馬の蹄の響きに混じった。街道の両側には収穫を終えた畑が広がり、その向こうでは低い丘陵が幾重にも重なっている。
まだ旅は始まったばかりだった。
レオは馬上から隊列を見渡し、各員の配置を確かめた。先行する騎士たちは周囲の警戒を怠らず、馬車の前後には護衛がついている。今回同行する魔法騎士たちも、それぞれの役割を理解したうえで行動していた。
前回の調査隊とは、編成も目的も異なる。
あのときは魔物の異常行動を調べ、その原因を突き止めることが任務だった。森の奥で未知の存在と遭遇するなど、誰も予想していなかった。
しかし今回は違う。
すでに危険な存在が確認されている土地へ、明確な目的を持って向かっている。
空間の亀裂は今も残っているのか。異形はどのような条件で姿を現すのか。そして、シエルの防御魔法が引き起こした反応は、別の魔法でも再現できるのか。
確かめるべきことは多い。
だが、どれほど準備を重ねたところで、現地で何が起こるかを完全に予測できるわけではなかった。
レオは前方へ視線を戻した。
かつて自分が率いた調査隊にも、十分な経験を積んだ騎士たちがいた。若い隊員たちは任務に真剣に取り組み、互いに協力しながら森を進んでいた。
エリオットも、その一人だった。
出発前、仲間たちと交わしていた何気ない会話。任務の合間に見せた明るい笑顔。誰よりも懸命に剣を握り、自分の部隊に誇りを持っていた若い騎士。
今も、その姿を鮮明に思い出せる。
彼が仲間を庇ったことも、最期までその身を案じていたことも、レオは忘れるつもりがなかった。
だが、過去の出来事を悔やむだけでは、次の命を守ることはできない。
だからこそ、今度は何を得るために向かうのか、どこまで踏み込み、どの時点で引き返すのか。その判断を曖昧にするつもりはなかった。
隊列の様子を確かめ終えた頃、隣を進んでいたシエルが口を開いた。
「……エリアも、ずいぶん大人になったものだな」
不意に妹の名前が出たことに、レオは隣へ目を向けた。
「そうだな。もっとも、あの様子では、まだ少し不満もありそうだったが」
「はは、違いない」
シエルは軽く笑った。
出発前、王都の門で見せたエリアの笑顔が思い浮かぶ。
同行を断ったときには、あれほど納得できない様子だった。幼い頃から、一度こうと決めたら簡単には引き下がらない娘である。
それでも今朝は、自分から調査隊を見送りに来た。
何度も行きたいと言い張ることもなく、ただ無事に帰ってきてほしいと笑っていた。
「先生と話して、何か思うところがあったんだろう」
「ヴァルター殿か」
「ああ。昔から、あの人の言葉には素直に耳を傾けるところがある」
シエルは前方を見ながら続けた。
「俺が同じことを言っても、なかなか納得しないんだがな」
「兄妹とは、そういうものなのかもしれん」
「……まあ、俺もあいつの言い分を聞かずに決めつけることがあるからな」
シエルは自嘲気味に笑った。
「先生のようには、なかなかいかん」
「お前は十分、いい兄だと思うが」
「そう言ってもらえるのはありがたいが、エリアがどう思っているかは別の話だ」
その返答に、レオは笑った。
シエルが妹のことを大切に思っているのは、今さら確かめるまでもない。
だが、本人を前にすると素直に褒めることが少ないのも、長年の付き合いでよく知っていた。
「次に会ったら、そう伝えておこうか」
「やめてくれ。何を言われるか分からん」
二人は顔を見合わせ、短く笑った。
その後しばらく、言葉を交わさず馬を進めた。
街道は緩やかな上り坂に差しかかり、遠くに見えていた山々が少しずつ輪郭をはっきりさせ始めていた。道沿いの木々は秋の深まりを告げるように葉の色を変え、時折吹き抜ける風が枝先を揺らしている。
シエルは手綱を握り直した。
「レオ」
「なんだ?」
「先生から、伝言を預かっている」
「ヴァルター殿から?」
「ああ」
シエルは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「『結果を急ぐな。生きて持ち帰った情報にこそ価値がある』そうだ」
その言葉を聞き、レオはすぐには答えなかった。
ただ前方へ目を向け、しばらく馬の歩調に身を任せていた。
ヴァルター・グレイヴ。
レオにとって、その名は幼い頃からよく知るものだった。
代々近衛騎士を輩出してきた家に生まれ、武人たちの功績を聞いて育ったレオにとって、ヴァルターは戦場で幾度も名を挙げた偉大な先達の一人だった。
しかし、実際に顔を合わせ、言葉を交わすようになってからは、その強さが単なる魔法の腕前によるものではないことを知った。
豊富な知識と経験を持ちながら、未知の現象を前にすれば自分にも分からないことがあると認める。どれほど有力な仮説が浮かんでも、十分な裏付けが得られるまで結論を急がない。
そして、戦場を知る者として、命を懸けるべき場面と、退くべき場面を決して混同しない。
今回の伝言も、その経験から生まれた言葉なのだろう。
「……さすがだな」
レオは、ようやく口を開いた。
「俺たちが今、最も忘れてはならないことだ」
「ああ」
シエルも頷いた。
かつて師から魔法を教わっていた頃、何度も同じようなことを言われた覚えがあった。
強い術を使うことばかりに気を取られるな。
目の前の敵だけを見るな。
自分が何を守るためにそこに立っているのかを忘れるな。
若い頃は、そうした教えを理解したつもりになっていた。だが実際に騎士として任務を重ねるうちに、その意味を思い知らされる場面が幾度もあった。
北東の森での戦いも、その一つだった。
防壁を展開したとき、シエルは自分の魔法で仲間たちを守りきるつもりだった。
しかし、異形の攻撃は予想を超えていた。魔力を注ぎ続けても防壁の一部が破られ、エリオットは命を落とした。
あの瞬間の無力さは、今も忘れられない。
それでも、撤退を決断したレオの指示に従い、残った仲間たちを守りながら森を抜けることはできた。
もしあのとき、失ったものを取り返そうとして戦い続けていたなら、さらに多くの犠牲者を出していたかもしれない。
シエルは隣を進む友人へ目を向けた。
「前回は、お前の判断に救われた」
レオは少し意外そうに振り向いた。
「急にどうした?」
「いや。あの森で撤退を決めたときのことを思い出してな」
シエルは前方へ視線を戻した。
「俺は防壁を維持することに必死だった。あのまま戦い続けていたら、どうなっていたか分からない」
「……俺一人の判断ではない。お前が防壁を維持してくれたからこそ、撤退できた」
「それでも、退くと決めたのはお前だ」
その言葉には、長年共に戦ってきた友人への信頼があった。
レオは少しの間、黙っていた。
あの日の判断が正しかったのかと問われれば、今でも迷いなく答えられる。
あの状況で戦闘を続けるべきではなかった。
だが、正しい判断をしたからといって、失った命への思いが軽くなるわけではない。
「……あのときは、あれ以上誰も失うわけにはいかなかった」
レオは言った。
「それだけだ」
シエルはそれ以上、何も言わなかった。
彼が何を背負っているのか、すべてを理解できるとは思わない。それでも、長く共に任務に就いてきたからこそ、今は言葉を重ねる必要がないことも分かっていた。
しばらくして、レオが続けた。
「今回は、前回とは違う」
「ああ」
「調査の目的も、撤退の条件も明確にしてある。魔法騎士たちも、自分たちが何を確かめるために向かうのか理解している」
レオは隊列の後方へ目を向けた。
馬車の周囲では護衛の騎士たちが警戒を続け、その近くを進む魔法騎士が研究員と何かを確認し合っている。
彼らの多くは、異形を直接目にしたことがない。
それでも、未知の危険が待つ場所へ向かうと知ったうえで、この任務に参加している。
その覚悟に応えることも、指揮官である自分の役割だった。
「何も得られずに戻ることもあるだろう。だが、無理をして犠牲を増やすつもりはない」
「俺も同じ考えだ」
シエルの返答に、レオは口元を緩めた。
「頼りにしているぞ、シエル」
「今さらだな」
「はは、違いない」
長年の付き合いの中で、二人は何度もこうして同じ戦場へ向かってきた。
状況が違えば、任務も違う。互いに担う役割が変わることもある。
それでも、背中を預けられる相手が隣にいるという事実は、何も変わらなかった。
やがて街道は丘陵の間を抜け、遠くまで見渡せる緩やかな高台へ差しかかった。
北東へ連なる山々の稜線が、澄んだ空の下にはっきりと浮かび上がっている。その山々の麓には深い森が広がり、さらに奥へ進めば、かつて彼らが未知の異形と遭遇した場所へ辿り着く。
レオはその方角へ目を向けた。
あの亀裂は、今も開いたままなのだろうか。
異形は再び姿を現すのだろうか。そして、各地で起きている生物の異常行動と、どのような関係があるのか。
答えはまだ見えていない。
それでも、各地を歩いた調査員たちの報告と、研究者たちが重ねてきた検証によって、以前にはなかった手がかりが生まれている。
その積み重ねを、今度は自分たちが確かめる番だった。
レオは隊列の進み具合を確認し、先行する騎士へ合図を送った。道はまだ長い。日が傾く前に、予定している野営地まで進まなければならなかった。
「行こう、シエル」
「ああ」
二人は馬の歩調を合わせ、北東へと続く街道を進んでいった。
背後には、少しずつ遠ざかっていく王都。
前方には、深い森を抱く山々。
かつて仲間を失ったその土地へ、再び向かうことに迷いはなかった。
まだ見ぬ答えを求めて、調査隊は長い道のりを進んでいった。




