第五話|再び歩き出す日々
「――もう一度!」
鋭い号令とともに、木剣が打ち合う音が響いた。
王都の近衛騎士団訓練場では、若い騎士たちが二人一組となり、剣術の鍛錬に励んでいた。幾度も踏み固められた地面を靴底が蹴り、互いの剣が交わるたびに乾いた音が響き渡る。少し離れた場所では、年長の騎士が新兵たちの構えを見ながら、時折厳しい声を飛ばしていた。
その間を、レオ・アルディオンが歩いていた。
「そこだ。踏み込みが少し浅いな」
彼が声をかけると、一人の若い騎士が慌てて剣を下ろした。
「はっ! 申し訳ありません!」
「謝ることはない。今のうちに直せばいい」
レオは手にしていた木剣で、自分の足元を示した。
「剣を振るうのは腕だけじゃない。重心の移動を意識しろ。もう一度だ」
騎士が頷いて構え直すと、レオはその動きを最後まで見届けた。
訓練場には、以前と変わらない光景が広がっていた。教官の号令に応じて騎士たちが動き、時には仲間同士で助言を交わす。休憩を告げる声が上がれば、額の汗を拭いながら水を飲み、互いの稽古を振り返る者たちもいた。
ただ、その輪の中には、一人分の空白があった。
エリオット・ウェストン。
誰よりも威勢よく返事をし、時には調子に乗った冗談で周囲を笑わせていた青年。彼が命を落としてから、まだ幾日も経っていない。
訓練が再開されたばかりの頃は、誰もがどこかぎこちなかった。組み合わせを決める際、いつもの癖で彼の名を呼びそうになり、言葉を飲み込んだ者もいた。
レオもまた、その不在を感じていた。
あの森で下した撤退の判断を、間違いだったとは思っていない。あれ以上戦い続けていれば、さらに多くの命が失われていただろう。
それでも、救えなかった一人の命があったことは、決して消えるものではなかった。
「隊長!」
呼びかけに振り返ると、一人の騎士が木剣を手に近づいてきた。
「先ほどの型について、もう一度ご指導いただけますか」
「ああ、構わない」
レオは頷き、相手の正面に立った。
「まずは構えてみろ」
騎士が剣を持ち上げる。その姿勢を確かめながら、レオも木剣を構えた。
森で遭遇した未知の存在については、王国でも調査の準備が進められていた。魔法研究者たちへの協力要請が行われ、騎士団内でも報告の精査が続いている。しかし、まだ確かな対抗手段が見つかったわけではない。
だからといって、立ち止まっているわけにもいかなかった。
「よし、来い」
レオの声に応じて、騎士が踏み込んだ。
木剣が鋭く交わり、再び訓練場に力強い音が響いた。
***
その頃、エリア・アステリアは王都の実家で、愛用の大剣を磨いていた。
床に敷いた布の上へ長い刀身を置き、傷や刃こぼれがないかを確かめながら、丁寧に布を滑らせていく。
慣れた作業だった。
長く使い込んできた大剣には、細かな傷がいくつも刻まれている。小柄な彼女には不釣り合いなほど大きな武器だが、その重みは今では身体の一部のように馴染んでいた。
各地を旅することの多いエリアにとって、こうして自分の部屋で過ごす時間は、普段ならそれほど長くはない。
だが、王都に戻ってからというもの、次の旅について考える気にはなれなかった。
磨いていた刀身に目を落とす。
あの森での戦い。
確かに剣は届いた。
渾身の一撃で、黒い影の身体を切り裂いたはずだった。それなのに、相手は何事もなかったかのように形を取り戻した。
あの不気味な感触を思い出し、エリアの手が止まった。
「……むぅ」
眉を寄せ、磨きかけの刀身を見つめる。
エリオットの葬儀から数日。エリアは、いつもより少し静かに過ごしていた。
何気ない会話の途中で、あの森の出来事が頭をよぎることもあった。
ふと、エリオットの声が思い出された。
『これ、本当に一人で振り回してるんですか!?』
森へ向かう道中、彼が大剣を持ち上げようとして目を丸くしていた姿が浮かぶ。
あまりにも大げさな反応がおかしくて、思わず笑ってしまった。彼もまた、少し照れくさそうに笑っていた。
「……エリオット」
名前を口にしてみる。
当然、返事はない。
エリアはしばらく黙っていたが、やがて磨いていた布を置き、両腕を頭上へ伸ばした。
「んんーっ!」
大きく背筋を反らし、息を吐く。そして、ぱん、と自分の頬を軽く叩いた。
「よしっ。落ち込んでても、何も意味ない!」
声に出してみると、少しだけ胸が軽くなった気がした。
悲しいものは悲しい。寂しいものは寂しい。
けれど、ずっと下を向いていたところで、何かが変わるわけでもない。
「……次は、ちゃんと守れるようにならなきゃ」
エリアは大剣を持ち上げ、磨き終えた刀身を確かめた。
あの影に剣が通じなかった理由は、まだ分からない。それでも、剣の振り方も、足運びも、間合いの取り方も、磨けるところはあるはずだった。
「うん。そうと決まれば……!」
立ち上がると、手入れの道具を手早く片づけ、大剣を背中へ担いだ。鏡の前で長い赤髪を整え、身支度を確かめる。
「お兄ちゃんのところ、行ってみようかな」
兄のシエルは、普段は騎士団の居住区で暮らしている。今日は特に約束をしていないが、訓練場へ行けば誰かしら知った顔がいるだろう。
そう考えると、自然と足取りが軽くなった。
「行ってきまーす!」
明るい声を残し、エリアは部屋を後にした。
***
王都の大通りを歩きながら、エリアは騎士団の訓練施設がある一角へ向かった。
昼前の街には多くの人々が行き交い、店先では商人たちが客と声を交わしている。荷車を引く男の脇を抜け、広場を横切ると、やがて訓練場の外壁が見えてきた。
市街地に面した訓練施設には、複数の稽古場や休憩所が設けられている。一般市民が見学できる区画もあり、民間の剣士が稽古に訪れることも珍しくなかった。
入口へ近づくと、見張りをしていた若い騎士が顔を上げた。
「あれ、エリアさんじゃないですか」
「こんにちは」
エリアが笑顔で手を振ると、騎士は会釈した。
「今日はシエル殿にご用ですか?」
「うん、それもあるんだけどね。今日は剣を振りに来たの」
そう言って、背中の大剣を示す。
騎士はその大きさを見上げ、感心したように息を漏らした。
「相変わらず、立派な剣ですね……」
「ふふっ、ありがとう」
「シエル殿は今、魔法研究所の方々との協議で席を外されています。レオ隊長なら、奥の稽古場にいらっしゃいますが」
「レオが?」
エリアの目がぱっと輝いた。
その名前を聞いて、ふと思い出したことがあった。
以前、王都で再会した時に交わした約束だ。
「あっ!」
突然声を上げたエリアに、騎士が驚いて瞬きをした。
「ど、どうしました?」
「そうだった。約束してたんだ!」
「約束、ですか?」
「うん。レオ、どこにいる?」
「あちらの奥にある広い稽古場です。今は若い騎士たちの指導を――」
「ありがとう!」
最後まで聞くより早く、エリアは嬉しそうに駆け出した。
見張りの騎士は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
数日前の葬儀では、彼女もずいぶん悲しそうにしていた。
けれど今は、いつもの明るい笑顔を浮かべている。
騎士は表情を和らげ、再び持ち場へ向き直った。
***
奥の訓練場では、レオが部下たちの稽古を見守っていた。
一人の騎士が繰り出した剣を受け止め、軽く押し返す。相手の体勢が崩れたところで、すかさず木剣の先を胸元へ向けた。
「そこまで」
レオが剣を下ろすと、若い騎士は悔しそうに息を吐いた。
「参りました……」
「悪くない踏み込みだった。ただ、最初の一撃に力を込めすぎたな」
「はい!」
「攻めることばかり考えるな。相手がどう動くか、常に次を考えておくことだ」
レオは騎士の肩を軽く叩いた。
「よし、少し休憩にしよう」
その声に、周囲の騎士たちがほっとしたように息をつく。
レオも木剣を下ろし、額に浮かんだ汗を拭った。
その時だった。
「レオー!」
訓練場の入口から、よく通る明るい声が響いた。
聞き覚えのある声に、レオが振り返る。
鮮やかな赤い髪を揺らしながら、小柄な女剣士がこちらへ歩いてくる。背中には、彼女の身体ほどもある大剣。
「エリア?」
少し驚いたように目を見開いたあと、レオは自然に笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。今日はどうした?」
「剣を振りに来たの」
「そうか。鍛錬か」
レオは彼女の背中にある大剣へ目を向けた。
「シエルなら、今は席を外しているが……」
「うん、入口で聞いた」
そう答えたエリアは、いたずらっぽく笑った。
「ねえ、レオ」
「ん?」
「約束!」
唐突な一言に、レオは一瞬目を瞬かせた。
エリアは楽しそうに目を細める。
「ほら。今度、お互いの剣を見せ合おうって言ったでしょ?」
「ああ……そうだったな」
レオの口元に笑みが浮かんだ。
「確かに、約束した」
「でしょ? だから今日は、レオの剣を見せてもらおうと思って」
「ははっ。なるほど、そういうことか」
レオは声を立てて笑った。
あの森から戻って以来、彼もまた忙しい日々を過ごしていた。思いがけない申し出だったが、不思議と気持ちが弾んだ。
「いいだろう。ちょうど休憩に入るところだった。少し付き合うか」
「やった!」
エリアは満面の笑みを浮かべた。
その様子を見ていた若い騎士たちが、顔を見合わせる。
「隊長が手合わせを?」
「相手は、あの女剣士か……」
森での調査に同行した者たちは、彼女の剣技を知っていた。しかし、普段の訓練場でレオと剣を交えたらどうなるのか、想像がつかない者も多かった。
レオは騎士たちへ目を向けた。
「せっかくだ。興味がある者は見ていくといい。剣の扱い方は、一つではないからな」
そして、エリアへ向き直る。
「さて、準備はいいか?」
「もちろん!」
元気な返事が訓練場に響いた。
***
訓練場の中央に、二人が向かい合った。
周囲では若い騎士たちが稽古の手を休め、広場の端へと移動していた。突然始まることになった隊長と民間剣士の手合わせに、興味を隠せない者も多い。
エリアは背中から大剣を下ろすと、近くにいた騎士へ声をかけ、訓練用の武器を借りられないかと尋ねた。
いくら腕に覚えのある者同士とはいえ、真剣を用いた手合わせには余計な危険が伴う。
だが、一般的な訓練剣では、彼女が普段扱っている武器との重量差が大きすぎた。
事情を聞いた騎士が武器庫を探し、やがて一振りの大型訓練剣を運んできた。刃は落とされているものの、厚みのある鋼で作られており、通常の木剣とは比較にならないほど重い。
「これならどうでしょう?」
「わぁ、ありがとう。ちょっと借りるね」
エリアは嬉しそうに受け取ると、両手で柄を握り、軽く持ち上げてみた。そして何度か振り心地を確かめるように動かし、頷いた。
「うん。ちょっと軽いけど、これなら大丈夫」
その言葉を聞いた騎士が、思わず目を丸くする。
運ぶだけでも苦労した剣を、彼女はまるで使い慣れた道具のように扱っていた。
レオも木剣を置き、代わりに刃を潰した訓練用の長剣を選んだ。エリアの大剣と比べれば細身だが、重心や握り心地は普段の愛剣に近い。
二人が中央へ歩み出ると、周囲の話し声が少しずつ静まっていった。
「先に仕掛けても構わないぞ」
レオが告げると、エリアは楽しそうに笑った。
「じゃあ、遠慮なく!」
彼女は大剣を構えた。
その瞬間、レオの表情も変わった。
直前まで無邪気に笑っていた少女の目が、まっすぐ自分を捉えている。
両手で握った大剣の切っ先をわずかに下げ、片足を後ろへ引く。踏み込みに合わせて身体の重心を移し、剣の重量を攻撃へと繋げるための構えだった。
レオも剣を構える。
「いつでもいいぞ」
「いくよ!」
エリアが地面を蹴った。
小柄な身体が一気に間合いを詰め、低い位置から大剣が振り上げられる。刃の重量と踏み込みの勢いが重なり、鋼が風を切る音が響いた。
レオは一歩退きながら剣を合わせ、真正面から受け止めるのではなく、斜めに力を逃がした。
重い衝撃が腕へ伝わる。
だが、エリアは弾かれた剣を無理に引き戻そうとはしなかった。流された勢いをそのまま利用し、身体を回転させながら次の一撃へ繋げてくる。
横薙ぎの大剣が迫る。
レオは素早く身を引き、剣先が通り過ぎる瞬間を見計らって踏み込んだ。
大剣は一度振り抜けば隙が生まれる。その機を逃さず、相手の懐へ入ろうとする。
しかし、彼の剣が届くより早く、エリアは後ろ足を軸に身体を捻り、振り抜いた大剣の軌道を変えた。
「――!」
思いがけない切り返しに、レオは咄嗟に剣を引き戻す。
鋼と鋼がぶつかり、甲高い音が訓練場へ響いた。
「ははっ、なるほど!」
レオの顔に笑みが浮かぶ。
大剣の重さを弱点にするどころか、その勢いを巧みに利用している。
腕力だけでは到底できない芸当だった。足運びと重心の移動を熟知し、剣がどの方向へ流れるのかを身体で理解していなければ、あのような動きは成立しない。
「いい動きだ、エリア!」
「ほんと? でも、まだまだだよ!」
嬉しそうな声とは裏腹に、彼女の剣先は少しも鈍らなかった。
レオはその攻撃を受け流しながら、徐々に間合いを詰めていった。
広い間合いを与えれば、エリアは大剣の長さと勢いを存分に活かしてくる。レオは剣筋を見極め、横薙ぎの一撃をかわすと、その内側へ滑り込むように踏み込んだ。
エリアが次の攻撃へ移るより早く、レオの剣が肩口へ迫る。
「っと!」
短く声を漏らしながら、エリアは柄を引き寄せ、剣身を立てる。
迫る刃を大剣の根元で受け止めると、身体を沈めて衝撃を逃がし、同時にレオの剣を外側へ押しやった。
互いの距離が、一瞬だけ近づく。
レオは目の前のエリアと視線を交わした。
彼女は笑っていた。
この剣の応酬そのものを、心から楽しんでいる顔だった。
「……やるな」
「レオこそ!」
二人はほぼ同時に距離を取った。
周囲から、感嘆の声が漏れる。
レオの剣技を知る者は多い。王国近衛騎士団の隊長として、その実力は誰もが認めるところだった。
だが、目の前の小柄な女剣士は、そのレオを相手に一歩も引いていない。
レオが攻めに転じれば、エリアは大剣の重量を活かしてその進路を阻む。エリアが間合いを広げれば、レオは軽快な足運びで距離を詰め、次の一撃を封じようとする。
時には互いの剣先が身体のすぐ脇を通り過ぎ、時には渾身の一撃が寸前で受け流される。
一進一退の攻防が続いていた。
「……すげえ」
誰かが呟いた。
「隊長と、互角だぞ……」
その声に答える者はいなかった。
誰もが、目の前の手合わせから視線を離せずにいた。
***
幾度目かの打ち合いを終え、二人は再び距離を取った。
互いの呼吸は少しずつ速くなっていたが、どちらの表情にも疲労より楽しさが浮かんでいた。
レオは剣を握り直し、エリアの動きを観察する。
打ち合いを重ねるほどに、彼女の剣の巧みさが見えてくる。
攻撃の軌道を変える判断力。相手の間合いを読み取る観察力。そして、ここぞという瞬間には一切の躊躇なく前へ出る、思い切りの良さ。
レオは構えを変え、剣先をわずかに下げた。
その変化を見逃さず、エリアが踏み込む。
大剣が斜め上から振り下ろされた。
レオは半歩だけ身体をずらし、剣身を合わせて受け流す。
だが、エリアの動きはそこで終わらなかった。
振り下ろした剣を引き戻す代わりに、踏み込んだ足をさらに前へ運ぶ。重心を低く落とし、腰を回転させる。
その動作を見た瞬間、レオの脳裏に、ある光景が蘇った。
王都北東の森。人里へ押し寄せる魔物たち。
その群れの中へ、迷いなく飛び込んでいった鮮やかな赤髪。
――あの時の。
彼女の身体が、滑らかに回転した。
長い赤髪が大きく広がり、陽光を受けて鮮烈な色を描く。大剣はその勢いを余すことなく受け取り、地面すれすれの低い位置から、鋭い弧を描いて振り上げられた。
初めて出会った日に見た、あの一閃だった。
ほんの一瞬、レオの反応が遅れた。
「――っ!」
咄嗟に剣を返す。
鋼同士が激しくぶつかり、重い衝撃が腕を伝った。受け流しきれなかった力に押され、レオの足が半歩後ろへ滑る。
踏みとどまると同時に、エリアの大剣が大きく弧を描いて通り過ぎた。
「わっ! さすがレオ!」
エリアが目を輝かせる。
「今の、結構自信あったんだけどなぁ」
レオは息を整えてから、笑った。
「……見事だった。今のは危なかったな」
「ほんと?」
「ああ。初めてエリアの剣を見た時のことを思い出した」
そう告げると、エリアは嬉しそうに笑った。
「ふふっ。あの時もいっぱい魔物がいたもんね」
「そうだったな。あんなところでエリアのような剣士に出会うとは思わなかった」
「私も、あんなに強い騎士に会えるなんて思ってなかったよ」
その言葉に、レオは笑みを浮かべた。
エリアはすでに大剣を構え直し、次の一撃を繰り出す機会をうかがっている。
「……さて」
レオも再び剣を構えた。
「今度はこちらから行くぞ」
「うん、来て来て!」
地面を蹴る音が重なり、二人は再び間合いを詰めた。
今度はレオが先手を取った。
鋭い突きから剣を返し、相手の構えが崩れるより早く次の攻撃へ移る。正確な動きでエリアの大剣を封じようとするが、彼女はその速さに怯むことなく、大剣の柄と剣身を巧みに使い分けて応じた。
攻めと守りが幾度も入れ替わる。
一撃を凌げば次の剣が迫り、好機と見れば互いに迷わず踏み込む。
二人のどちらにも、決定的な一撃は入らない。
それでいて、相手に勝ちたいという気持ちは少しも薄れていなかった。
剣を交えるほど、互いの動きに対する興味は増していくばかりだった。
***
訓練場の入口に、黒い鎧を身につけた騎士が姿を現した。
シエル・アステリアだった。
魔法研究所での協議を終え、詰所へ戻る途中で訓練場の賑わいに気づいたのだ。
すでに昼の休憩に入っていてもおかしくない時間だった。ところが、訓練場の一角には妙な人だかりができている。
何事かと思い、近づいてみると、騎士たちが揃って中央の稽古場へ視線を向けていた。
その先では、見慣れた二人が剣を交えていた。
「……何をしているんだ、あいつらは」
銀白色の髪を風に揺らしながら、シエルはしばらくその光景を眺めた。
レオの剣が鋭く踏み込み、エリアの大剣がそれを受け止める。続けざまに繰り出された一撃を、今度はレオが身を翻してかわす。
二人の動きは速く、剣筋には一切の迷いがなかった。
それでいて、どちらの顔にも楽しげな笑みが浮かんでいる。
シエルは軽く息を吐いた。
王都へ帰還してから、彼は何度か実家へ顔を出していた。
普段は各地を飛び回っている妹が王都にいる間くらいは、顔を合わせておきたい。だが、帰還して間もない頃のエリアは、食卓でもどこか上の空だった。
今は、目の前の剣の応酬に夢中になっている。
そして、その相手もまた、長年の友人だった。
「……まったく」
呆れたように呟きながらも、その口元には笑みが浮かんだ。
シエルは近くにいた騎士へ声をかけた。
「いつからやっている?」
「あ、シエル殿!」
騎士は慌てて姿勢を正した。
「それが……かなり前からです」
「かなり前?」
「はい。最初は少し手合わせをするだけのようでしたが、途中からお二人とも熱が入ってしまったようで……」
シエルは再び中央へ視線を向けた。
レオが剣を振るえば、エリアが笑う。エリアが大剣を振り抜けば、レオが楽しそうに応じる。
「……誰も止めなかったのか?」
そう尋ねると、騎士は少し困ったような顔をした。
「いえ、その……なかなか、お声をかけられる雰囲気ではなく……」
確かに、あの二人の間へ不用意に割って入るのは、なかなか勇気がいるだろう。
だが、だからといって、いつまでも続けさせるわけにもいかない。
シエルは訓練場の端から声を張った。
「おーい、そろそろ止めたらどうだ」
その声に、二人の動きが止まった。
互いに剣を引き、十分に間合いを取ってから、エリアが顔を上げる。
「……あれ? お兄ちゃん!」
兄の姿を見つけると、ぱっと笑顔を浮かべた。
「いつからいたの?」
「ついさっきだ。お前たちがあまりに夢中だからな」
シエルは歩み寄りながら、周囲の騎士たちへ目を向けた。
「おかげで、ほかの連中まで稽古を忘れているようだぞ」
その言葉に、レオが周囲を見渡した。
いつの間にか、訓練場の端には大勢の騎士たちが集まっていた。自分たちが手合わせを始めた時よりも、明らかに人数が増えている。
「……ずいぶん集まったな」
「今さら気づいたのか?」
「ああ。周りを見る余裕がなくなっていたらしい」
レオは苦笑し、剣を下ろした。
「悪い。つい夢中になった」
「お前がそこまで夢中になるとはな」
「それだけ面白い相手だったということだ」
悪びれる様子もなく答えたレオに、シエルは呆れたように首を振った。
エリアも楽しそうに笑っている。
「だってレオ、すっごく強いんだもん」
「それは俺の台詞だな。まさかここまで手こずるとは思わなかった」
「むー。手こずるってなに?」
「褒めているんだ」
「ほんとに?」
「ああ。見事な剣だった」
その言葉に、エリアは嬉しそうに笑った。
「ふふっ、ありがとう」
二人のやり取りを聞いていた騎士たちからも、笑い声が漏れる。
その時、若い騎士の一人が声を上げた。
「隊長! 次はぜひ、シエル殿も交えてください!」
「おい、勝手なことを言うな」
シエルが振り返ると、騎士は慌てて口を閉じた。しかし、その表情には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「だって、これだけ見事な手合わせを見せられたら、もっと見たくなるじゃないですか!」
「お前たちは、自分の稽古を忘れているんじゃないか?」
「そ、それは……」
返答に困った騎士を見て、また笑い声が広がった。
シエルはため息をついたが、それ以上咎めることはしなかった。
「……さて」
シエルはレオとエリアを見比べた。
「そろそろ昼にしないか。二人とも、十分に動いただろう」
「あっ!」
エリアが突然、思い出したように声を上げる。
「そういえば、お腹すいた!」
レオが思わず吹き出した。
「ははっ! あれだけ動けば当然だな」
「でしょ? もうぺこぺこ」
シエルは妹を見下ろし、やれやれと首を振った。
「お前はいつでも腹を空かせている気がするが」
「そんなことないもん。今日はいっぱい動いたんだから」
頬を膨らませるエリアに、レオがまた笑う。
「なら、武器を片づけてこい。昼にしよう」
シエルに促され、エリアは借りた大剣を返しに走っていった。
***
訓練場を後にした三人は、騎士団の施設からほど近い食堂へと足を運んだ。
昼の賑わいが少し落ち着いた店内には、まだ数組の客が残っていた。窓際の席では年配の男たちが談笑し、奥のテーブルでは仕事の合間らしい職人たちが遅めの昼食を取っている。厨房からは食器の触れ合う音が聞こえ、時折、店員が料理を運ぶために忙しなく行き来していた。
レオとシエルは仕事の合間に何度か利用したことがある店だった。気取った装飾こそないものの、料理はどれも評判がよく、量も十分にある。騎士たちにとっては、腹を満たすのにちょうどいい場所だった。
「ここ、初めて来たかも」
エリアは興味津々といった様子で店内を見渡している。席に案内されると早速、卓上に置かれた献立へ手を伸ばした。
「お兄ちゃん、ここのおすすめは?」
「そうだな。肉料理なら外れはないと思うが」
「お肉!」
その一言だけで、エリアの表情が明るくなる。
向かいに腰を下ろしたレオが笑った。
「煮込みも旨いぞ。肉が柔らかくてな」
「ほんと? じゃあ、それにしようかなぁ……でも、こっちの肉詰めパイもおいしそう……」
真剣な顔で献立を見比べる妹に、シエルは息をついた。
「そんなに悩むなら、両方頼めばいいだろう」
「えっ、いいの?」
「食べられるならな」
「食べられる!」
即答だった。
あまりの迷いのなさに、レオが声を立てて笑った。
「ははっ。あれだけ動いたんだ。しっかり食べておけ」
「うん、そうする!」
結局、エリアは肉の煮込み料理と焼きたての肉詰めパイを注文した。レオとシエルはそれぞれ日替わりの料理を選び、飲み物を頼むと、ようやく一息ついた。
レオは水を一口飲むと、満足そうに息を吐いた。
「それにしても、いい稽古になったな」
「私もすっごく楽しかった」
エリアは嬉しそうに頷いた。
「レオって、剣の動きに全然無駄がないよね。何回も攻撃したのに、するっと避けられちゃうんだもん」
「エリアの剣も見事だった。あの切り返しには何度も驚かされた」
「ほんと? あれ、結構得意なんだ」
得意げに胸を張る妹を見て、シエルが口元を緩める。
「昔から、剣を握ると時間を忘れるところは変わらないな」
「だって楽しいんだもん」
「それは見ていれば分かる。おかげで訓練場の連中まで、すっかり見物人になっていたぞ」
レオは苦笑した。
「そこは反省している。連中の稽古まで止めてしまったからな」
「お前も一緒になって夢中になっていただろう」
「ああ。否定はできないな」
長年の付き合いだからこそ遠慮のないやり取りに、エリアが楽しそうに笑った。
やがて料理が運ばれてくると、彼女の関心はすっかり目の前の皿へと移った。
深い器に盛られた煮込み料理からは白い湯気が立ち上り、濃い色のソースをまとった肉と茸がたっぷり入っている。その隣には、こんがりと焼き色のついた大きな肉詰めパイ。香ばしい生地の隙間から、熱々の肉汁がのぞいていた。
「わぁ……!」
エリアは両手を合わせた。
「いただきます!」
まず煮込み料理を一口。
柔らかい肉を噛みしめた途端、彼女の頬が緩んだ。
「んんっ……!」
そのまま目を細め、幸せそうに肩を揺らす。
レオは水杯を手にしたまま、その様子を眺めていた。
「そんなに旨いか?」
「ん!」
口の中のものを飲み込んでから、エリアは大きく頷いた。
「すっごくおいしい。お肉がほろほろなの!」
「そうか。気に入ったなら何よりだ」
レオは笑い、自分の料理へ手を伸ばした。
続いてエリアは肉詰めパイを切り分け、さくりと音を立てる生地を嬉しそうに見つめた。ひと口頬張ると、今度は目を丸くする。
「こっちもおいしい。生地がさくさく!」
シエルも食事を始めたが、隣では早くも妹が次の一口を頬張っている。
つい先ほどまで、鋼の大剣を自在に操り、レオと互角に渡り合っていた人物とは思えない。
もっとも、兄にとってはこちらの姿の方がずっと見慣れたものだった。
「……まったく」
思わず漏れた声に、エリアが顔を上げた。
「ん? なぁに?」
「いや。よく食べるなと思ってな」
「だって、おいしいんだもん」
あまりにも素直な返事だった。シエルは何かを言いかけたが、結局そのまま口を閉じ、笑った。
***
食事が半ばを過ぎた頃、レオが口を開いた。
「そういえば、シエル。今日は魔法研究所へ行っていたんだったな」
「ああ。先日の報告について、詳しく話を聞きたいとのことだった」
シエルは手にしていた食器を置き、水を一口飲んだ。
その声に、エリアも顔を上げる。
「この前の森のこと?」
「そうだ」
あの森から帰還した後、レオとシエルが上官へ提出した報告は、王国の魔法研究所にも届けられていた。
「研究所の者たちも、かなり関心を示していた。特に、あの影に魔力が触れた際の変化については、詳しく聞かれた」
シエルは記憶を辿るように言葉を続けた。
「あの時、俺の防壁が影に触れたことで、その輪郭が大きく乱れた。それだけなら、魔力による何らかの反発作用とも考えられる。だが……」
「背後の亀裂にも、変化があった」
レオが言葉を引き継ぐ。
「ああ。ただし、あれが偶然だったのか、直接の影響だったのかは分からない」
シエルは頷いた。
「研究者たちも、現段階では断定できないそうだ。そもそも、空間そのものにあのような亀裂が生じる現象について、確かな記録が見つかっていない」
「なるほどな……」
レオは腕を組み、考え込んだ。
「今後は過去の記録も含めて調べ直すそうだ。魔力の性質についても、いくつか検証したいことがあるらしい」
「もう一度、森へ調査に入ることになるのか?」
「いずれは、な。ただ、少なくとも今すぐではないだろう。あの場所へ十分な備えもなく近づく危険性は、向こうも理解している」
レオは頷いた。
あの異形が今も森の奥にいるのかさえ、分かっていない。まして、次に遭遇したときも同じように撤退できる保証など、どこにもなかった。
「焦っても仕方がない、か」
「そういうことだ。まずは、分かっていることを一つずつ整理するしかない」
シエルはそう答え、再び水杯を手に取った。
その横で、エリアが首を傾げた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「魔法があの影に効くかもしれないんだったら、魔法を使える人が戦えばいいってこと?」
「今のところは、その可能性が高いというだけだ。魔法が使えれば必ず倒せるというわけでもない」
「そっかぁ……」
エリアは少し考え込んだ。
手にしていた食器を皿の縁へ置き、真剣な顔で言葉を続ける。
「じゃあ、私たちみたいに魔法が使えない剣士は、どうすればいいんだろうね」
その問いに、レオもシエルもすぐには答えなかった。
「……今は、まだ分からないな」
やがてレオが答えた。
「だが、剣士にできることが何もないとは思わない」
エリアが顔を上げる。
「魔法が使えないからといって、戦うことを諦めるわけにはいかない。剣士には剣士の役割があるはずだ。それを見つける必要がある」
「……うん」
エリアは力強く頷いた。
「私も、もっと強くなりたい」
「今日の手合わせを見る限り、十分に強いと思うがな」
シエルが言うと、エリアは少し頬を膨らませた。
「まだまだだよ。結局、勝負つかなかったもん」
「それは俺も同じだ」
レオが笑いながら口を挟む。
「決着をつけられなかったのは、俺も悔しいな」
「ふふっ。じゃあ次こそ勝つんだから!」
「望むところだ」
互いに笑い合う二人を見て、シエルは呆れたように首を振った。
「お前たち、もう次の勝負の話か?」
「だって、まだ負けてないもん」
「俺も負けたつもりはないな」
レオまで平然と言い返したものだから、シエルは額を押さえた。
「……まったく、二人とも」
そんな兄の反応を見て、エリアは嬉しそうに笑うと、再び料理へ手を伸ばした。
「んーっ。やっぱりこれ、おいしい」
話題が戻るのも早かった。
シエルは、隣で幸せそうに料理を頬張る妹を見つめた。
王都へ戻ったばかりの頃、実家で共に食卓を囲んだ時には、こんな顔を見られなかった。
それが今は、残ったパイを楽しそうに切り分けている。
「……足りなければ、追加で頼めばいい」
「えっ、いいの?」
「ただし、食べきれる分だけだぞ」
「やったぁ! お兄ちゃん大好き!」
満面の笑みを向けられ、シエルは声を立てて笑った。
「まったく。そういう時ばかり調子がいいな」
「そんなことないもん」
隣で交わされる兄妹のやり取りに、レオもつられて笑う。
店内では客たちの話し声が続き、厨房からは新たな料理の香りが漂ってきた。
エリアは追加の皿が運ばれてくるのを待ちながら、先ほどの手合わせについてまた話し始めた。
次はあの切り返しをもっと速くしたい。踏み込みの角度を変えれば、レオの懐へ入れるかもしれない。
そんな話を身振り手振りを交えて語るエリアに、レオも負けじと応じる。
その横で、シエルは半ば呆れながらも、二人の会話に耳を傾けていた。
***
食事を終え、三人が店を出た頃には、午後の陽射しが通りを明るく照らしていた。
昼の混雑が落ち着いた大通りには、荷物を運ぶ商人や、買い物を終えた人々の姿が行き交っている。軒先に吊るされた小さな看板が風に揺れ、店先では品物を並べ直す店主の姿もあった。
「はぁーっ。おいしかったぁ」
エリアは満足そうに背伸びをした。
あれだけの料理を平らげたというのに、足取りには疲れが見えない。
レオはそんな彼女を眺め、感心したように笑った。
「よく食べたな。見事な食べっぷりだった」
「ふふっ、お腹いっぱい」
エリアは嬉しそうに頷いた。
そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「あっ、そうだ!」
その声に、レオとシエルが揃って振り返った。
「レオ、午後ももう一戦しようよ!」
「ほう?」
レオが面白そうに眉を上げる。
「まだ動けるのか?」
「もちろん。今度こそ一本取るんだから!」
自信満々に胸を張るエリアを見て、レオは笑った。
「ははっ。それは楽しみだな。俺も――」
「待て待て」
言い終えるより早く、シエルが横から口を挟んだ。
「お前たち、午前中にあれだけやって、まだ足りないのか?」
「えー、だってまだ決着ついてないもん」
「そもそも勝敗を決める稽古じゃなかっただろう」
シエルは呆れたように息をつき、今度はレオへ視線を向けた。
「それに、お前も午後の仕事があるんじゃないのか?」
「ああ……そうだったな」
レオは苦笑した。
机の上に残してきた書類のことを思い出したらしい。
「危うく忘れるところだった」
「隊長がそれでは困るぞ」
長年の友人らしい遠慮のない指摘に、レオも頷いた。
「確かにな。今日はこの辺りにしておこう」
「ええーっ」
不満そうな声を上げるエリアに、シエルは言った。
「エリア、お前もそろそろ帰った方がいい。日が短くなってきているんだ。暗くなる前に帰れよ」
「まだ明るいよ?」
「今はな。帰り道の時間も考えろ」
エリアは少しだけ頬を膨らませたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「……はぁい」
その返事に、シエルは笑った。
「そんなに残念がらなくても、訓練場は逃げないだろう」
「それはそうだけど……」
エリアはちらりとレオを見上げた。
「じゃあ、レオ。また今度、絶対に手合わせしてね」
「ああ。俺も次を楽しみにしている」
そう答えると、エリアはたちまち笑顔になった。
「約束だからね」
「分かった。約束だ」
三人は通りを歩きながら、しばらく他愛のない話を交わした。
やがて、騎士団の詰所へ向かう道と、エリアの実家へ続く道が分かれる場所へ差しかかる。
「じゃあ、お兄ちゃん、レオ。またね!」
エリアが元気よく手を振った。
「ああ。寄り道しすぎるなよ」
「もう、お兄ちゃんったら」
兄の言葉に頬を膨らませながらも、エリアは楽しそうに笑っている。
レオも軽く手を上げた。
「またな、エリア」
「うん!」
鮮やかな赤髪を揺らしながら、エリアは人々の行き交う通りへと歩いていった。
その後ろ姿を見送り、レオとシエルも詰所へ足を向ける。
「……元気になったな」
シエルがぽつりと呟いた。
「ああ」
レオは頷いた。
「いいことだ」
シエルはもう一度、妹が歩いていった通りへ目を向けた。
すでにその姿は人混みに紛れて見えなくなっていたが、少し先から、誰かに挨拶する明るい声が聞こえた気がした。
「……さて、俺たちも戻るか」
「ああ。午後の仕事が残っている」
「お前は特にな」
「分かっている」
レオは苦笑した。
「今日は少し、予定が狂ったな」
「自業自得だろう」
「ああ、まったくだ」
二人は顔を見合わせて笑い、それぞれの仕事へと戻っていった。
***
シエルと別れ、レオが執務室へ戻った頃には、窓の外にはまだ午後の陽光が残っていた。
机の上には、午前中に目を通しきれなかった書類が幾つか積まれている。森の調査報告に、騎士団の訓練計画、それから翌日の任務に関する連絡事項。
レオは椅子へ腰を下ろし、ひとつずつ書類の内容を確かめ始めた。
書類を読み進めるうち、窓から差し込む光が少しずつ柔らかな橙色へ変わっていった。
一通りの書類に目を通し終えたところで、レオは手を止めた。
思い返せば、ずいぶん賑やかな一日だった。
予定になかった手合わせに、思いがけず長引いた稽古。シエルに呆れられたことも、騎士たちが揃って見物人になっていたことも、今となっては少しおかしい。
何より、あの剣だ。
小柄な身体から繰り出された、鮮烈な一閃。
初めて出会った日に目にした剣技を、今度は自分の剣で受け止めた。あの重さも、速さも、彼女の思い切りのよさも、今なお腕に残っているような気がした。
「……本当に、見事だったな」
誰に聞かせるでもなく呟き、レオは笑った。
あの日、初めてエリアの剣を目にした時から、一度は正面から剣を交えてみたいと思っていた。
そして今日、ようやくその約束を果たした。
想像していた以上に手強く、何度も予想を裏切られた。次の一手を考える間さえ惜しいほど、互いの剣に集中していた。
ふと、昼間の声が蘇る。
『約束!』
訓練場へやってきた時の、あの明るい声。
手合わせの最中、楽しそうに笑っていた顔。
食堂で料理を頬張り、幸せそうに目を細めていた姿。
そして、別れ際に交わした新たな約束。
レオは椅子の背に身体を預け、窓の外へ目を向けた。
次に彼女と剣を交える時は、どんな技を見せてくれるのだろう。
「……次も、簡単にはいかなさそうだな」
自然と笑みが浮かんだ。
窓の外では、夕暮れを告げる鐘が鳴り始めている。
レオは新しい書類を手に取り、仕事へ戻った。
その口元には、まだほんの少しだけ、笑みが残っていた。




