第四話|未知なる脅威
森の奥で、何かが軋んでいた。
耳に届くその音は、木々の擦れ合う音にも、獣の唸り声にも似ていなかった。硬い硝子の表面を、目に見えない何かがゆっくりと引き裂いていくような、不快な響きだった。
木々の間に現れた細い歪みは、先ほどよりも明らかに長くなっていた。周囲の景色は変わらずそこにあるというのに、その一点だけが別の場所から切り取られたかのように揺らぎ、向こう側にある木の幹をあり得ない角度へ曲げている。
レオ・アルディオンは剣の柄に手を添えたまま、亀裂を見据えていた。
その周囲では、騎士たちが互いの位置を確かめながら警戒を続けている。シエル・アステリアの展開した防壁が一行を包み、外界との間に淡い光の境界を作っていた。
「……広がってる」
エリア・アステリアが呟いた。
彼女が発見した景色のずれは、もはや見間違いでは済まされないほど大きくなっていた。木々の輪郭が歪み、その向こう側にあるはずの景色が、少しずつ失われていく。
シエルは盾を構えたまま、亀裂へ目を向けた。
魔法が関わる現象であれば、何らかの魔力の反応が現れることもある。しかし、これほど不可解な異変が目の前で起きているにもかかわらず、普段とは異なる魔力の動きを捉えることはできなかった。
長年培ってきた魔法の知識をもってしても、その原因を説明する手がかりが見つからない。
「レオ、何が起きているのか分からない。警戒を続けた方がいい」
「ああ。全員、その場から動くな。何が出てきても、俺の指示を待て」
騎士たちが短く応じる。
レオはこれまで数多くの魔物と対峙してきた。獰猛な獣も、巨大な身体を持つものも、毒や炎を操るものもいた。しかし、どれほど危険な相手であっても、その存在自体を理解できないという経験はほとんどなかった。
今、目の前にあるものは、生き物なのかどうかさえ分からない。
不意に、空間の亀裂が大きく震えた。
木々の向こうに見えていた景色が一瞬だけ引き伸ばされ、縦に走る黒い線がゆっくりと左右へ開き始める。
その内側には、森の景色が続いていなかった。
差し込む陽光も、木々の影もない。ただ、底の知れない闇が広がっている。
まるで世界そのものに穴が開いてしまったかのようだった。
誰もが息を潜めるなか、その暗闇の奥で何かが動いた。
最初は、濃い霧が揺らいでいるように見えた。
やがて霧のようなものは一か所へ集まり、ゆっくりと輪郭を形作っていく。頭部のような膨らみが生まれ、その下から細長い腕らしきものが伸びた。さらに胴体と思われる部分が現れ、黒い靄は少しずつ人の姿に近づいていった。
しかし、そこに明確な顔はなかった。
目も、口も、鼻もない。ただ、絶えず揺らめく黒い表面があるだけだった。
「……何だ、あれは」
後方で警戒していたエリオット・ウェストンが、思わず声を漏らした。
黒い人影は、亀裂から這い出るように姿を現した。
足と思われる部分が地面に触れた瞬間、周囲の草が不自然に揺れ、乾いた落ち葉が滑るように動いていく。
「……魔物、なのかな」
エリアの問いに、シエルは首を横に振った。
「少なくとも、俺は見たことがない」
黒い影は、人の数倍はある大きさだった。腕と思われた部分が胴体へ溶け込んだかと思えば、別の場所から再び伸びてくる。その姿には、生き物が本来持つはずの骨格も、一定の形も見当たらなかった。
レオは剣を抜いた。
「全員、構えろ。ただし、こちらからは仕掛けるな」
騎士たちが一斉に武器を構える。
黒い影は、しばらくその場から動かなかった。
こちらを見ているのかどうかも分からない。ただ、頭部に見える部分がゆっくりと傾き、まるで騎士たちを観察しているようにも思えた。
次の瞬間、その身体から伸びた黒い腕が、不自然なほど長く引き伸ばされた。
「――防御!」
レオの声が森に響いた。
シエルが盾を前へ突き出す。
伸びてきた黒い腕が防壁へ衝突し、淡い光の表面に激しい波紋が走った。
衝撃は防壁全体へ広がり、シエルの踏みしめた足元の土がわずかに抉れる。
「っ……!」
予想を上回る重さだった。
シエルは魔力を送り込み、押し込まれかけた防壁を支える。
黒い腕がいったん退いた瞬間、レオが声を上げた。
「シエル、開けろ!」
シエルは防壁の前面に一時的な通路を作った。
レオがそこから踏み出し、エリアも大剣を背中から抜いて続く。二人が外へ出たのを確かめると、シエルはすぐに防壁を閉じた。
レオは黒い腕へ向かって踏み込んだ。
付け根を狙い、正確に剣を振り下ろす。
磨き抜かれた刃は、その輪郭を確かに捉えた。
しかし、手応えがなかった。
硬い外殻を砕く感触も、肉を断つ抵抗もない。刃は黒い影の中を通り抜け、空を斬ったかのように振り抜かれていた。
レオは勢いを殺して体勢を整え、間合いを取り直す。
斬撃を受けた部分の輪郭が、一瞬だけ大きく乱れた。黒い靄が周囲へ散り、腕の形が崩れかける。
だが、それも束の間だった。
散った靄は再び集まり、元の形へ戻っていく。
「……妙だな」
レオが剣を構え直す。
黒い影は何事もなかったかのように動き始めた。
先ほどまで一本だった腕が途中から三つに分かれ、それぞれ異なる方向からレオへ襲いかかる。
彼は最初の一撃を剣で払い、続く二撃目を身を捻って避けた。しかし、三本目は剣を構え直すよりも早く背後へ回り込んでいた。
「レオ、離れて!」
エリアの声とともに、横合いから大剣が振り抜かれた。
彼女は踏み込んだ足を軸に身体を回転させ、刀身の重さと遠心力を乗せて黒い腕を薙ぎ払う。
通常の魔物であれば、分厚い外殻すら断ち割る一撃だった。
しかし、その刃もまた、ほとんど抵抗を受けることなく影の中を通り抜けた。
「……っ!?」
エリアは後ろ足で踏みとどまり、反動を利用して大剣を引き戻した。
その直後、黒い影の胴体が大きく膨らむ。
内側から鋭い突起が伸び、エリアの胸元へ迫った。
「エリア、下がれ!」
シエルが防壁の内側から腕を伸ばした。
彼女の前方に無属性の光が広がり、迫る突起を受け止める。衝撃によって光が揺らいだが、その隙にエリアは後方へ跳び、攻撃の間合いから離れた。
「お兄ちゃん!」
「俺はいい。相手を見ろ!」
エリアは頷き、大剣を構え直した。
今までの魔物とは違う。
それは、もう十分に理解していた。
しかし、何が違うのかを正確に掴めない。
腕と思われたものが突然消え、胴体から別の刃が現れる。攻撃を避けたと思えば、足元へ落ちた影そのものが伸びてくる。
これまで彼女は、相手がどれほど巨大でも、観察によって隙を見つけてきた。獣が頭を下げれば突進を警戒し、肩が動けば爪の軌道を読む。敵の重心や足運びから次の一手を予測することも、長い戦いのなかで身につけた技術だった。
だが、目の前の影には、そのどれも当てはまらない。
「レオ! どうする!」
エリアは迫る腕を払いながら声を上げた。
「まずは動きを抑える! 深追いするな!」
レオは影の動きに合わせて間合いを変え、エリアと互いの死角を補い合った。
背後では、防壁の内側にいる騎士たちも警戒を続けていた。
攻撃を受けた場所へシエルが魔力を集中させ、必要に応じて防壁の強度を補う。ほかの隊員たちは周囲の様子を確かめ、いつでも指示に従って動けるよう備えている。
そのうち一人は、飛び散った木片で腕に浅い傷を負っていた。治癒術を扱える仲間が短い処置を施し、再び警戒に戻る。
しかし、黒い影の攻撃は少しずつ激しさを増していた。
レオとエリアが斬り払っても、影はすぐに形を整える。繰り返される攻撃を避け続けるうち、二人の呼吸にも疲労が滲み始めていた。
一方、影には衰える様子がない。
「シエル!」
レオは防壁へ視線を向けた。
「こちらの剣では決定打にならない。何か分かったか!」
「まだだ。だが――」
そのとき、黒い腕が再びドームの側面へ叩きつけられた。
防壁の表面に淡い光が走る。
激突した影の先端が、何かに弾き飛ばされたように大きく崩れた。
シエルは目を細めた。
盾で攻撃を受けたときにも、似た変化は起きていた。だが、今度はよりはっきりと見えた。防壁に触れた部分から黒い靄が散り、腕の形が一時的に失われている。
剣で斬られたときよりも、明らかに大きな変化だった。
「レオ! 魔法に触れた部分が崩れている!」
レオは黒い影へ目を向けた。
「攻撃に使えるか!」
「試してみる!」
シエルは防壁を維持したまま、その前面へ魔力を集中させた。
半球状の光が一部だけ強く輝き、厚みを増した壁となって前方へせり出す。
迫っていた黒い腕が、その光へ押し返された。
接触した部分から靄が散り、腕の輪郭が大きく乱れていく。
「効いてる……!」
エリアが声を上げた。
確かに、それまでとは違う反応だった。
しかし、シエルの表情は険しい。
広い防壁を維持しながら一部分だけを強く押し出すには、相当な負担がかかる。魔力を集中させるたび、ドーム全体の輝きがわずかに弱まっていた。
しかも、崩れた影はほどなく再び集まり、元の姿へ戻っていく。
一時的に形を乱すことはできる。
だが、それが致命傷につながっているようには見えなかった。
そのとき、シエルは影の背後にある亀裂が、かすかに揺らいだように見えた。
木々の輪郭が一瞬だけ歪み、黒い裂け目の縁が細かく震える。
魔法の光が影へ触れた直後だった。
しかし、確かめようとしたときには、その変化はすでに収まっていた。
「……今のは」
考える間もなく、影が再び腕を伸ばしてきた。
シエルは魔力を送り込み、迫る攻撃を防壁で受け止める。
「シエル、どうだ!」
「……これ以上は厳しい。押し返せても、倒せるわけじゃない!」
「分かった。攻撃への転用は中止だ。防御を優先しろ!」
シエルは即座に魔力の流れを戻した。
弱まりかけていたドームが、再び淡い光を取り戻す。
だが、その直後だった。
黒い影の動きが、それまでとは大きく変わった。
人の姿に似ていた輪郭が突然崩れ、巨大な黒い塊が地面へ沈むように広がっていく。
レオは剣を構え直し、その変化を注視した。
地面を覆った影の一部が、太い柱のように立ち上がる。
一本、二本。
さらにその先端が幾重にも枝分かれし、騎士たちの頭上へ覆いかぶさった。
黒い塊の先端が細く尖り、無数の刃へと姿を変えていく。
その変化を察知したレオが声を張り上げた。
「――下がれ!」
防壁の外側にいたエリアが後方へ跳び、レオも身を翻した。
直後、頭上に広がった黒い刃が一斉に降り注いだ。
大部分は光のドームへ激突し、重い衝撃音が幾重にも響く。
内部の騎士たちは咄嗟に身を屈めた。
光の表面に激しい波紋が走り、頭上から側面へと幾筋もの亀裂が伸びていく。
シエルは盾を掲げ、魔力を注ぎ込んだ。
最初の攻撃は防げた。
しかし、黒い影は攻撃を止めなかった。
降り注いだ刃は地面へ突き刺さると、再び黒い靄となって立ち上がり、今度はドームの側面へ集中するように襲いかかってきた。
一本の刃が防壁へ深く食い込み、光の表面に細い亀裂が走る。
そこへ別の刃が重なった。
さらに三本目が、同じ場所へ叩きつけられる。
シエルは即座にその部分へ魔力を集中させた。
だが、先ほどまでの戦闘で消耗した魔力は、すぐには取り戻せない。広い範囲を守りながら、一点へ集中する衝撃を受け止め続けることには限界があった。
額に汗が滲む。
防壁の内側にいた騎士たちも、異変に気づき始めていた。
淡い光に細かな亀裂が走り、今にも砕けそうな音を立てている。
エリオットは近くの同僚へ視線を向けた。
その騎士は防壁の側面を警戒し、いつでも動けるよう剣を構えていた。エリオットも周囲を確かめ、隊員たちの位置を把握する。
そのとき、鋭い破砕音が響いた。
防壁の一部が砕け散ったのだ。
シエルが即座に修復を試みる。
しかし、欠けた光を繋ぎ直すよりも早く、黒い影が裂け目から内部へ流れ込んできた。
つい先ほどまで安全だったドームの中に、黒い刃が姿を現す。
その先端が向かったのは、破れた防壁の近くにいた騎士だった。
「危ない!」
誰よりも早く動いたのは、エリオットだった。
彼は迷わず駆け出し、黒い刃の進路にいた同僚の肩を掴んだ。
「下がれ!」
力いっぱい突き飛ばされた騎士が、地面を転がる。
その身体が攻撃の軌道から外れた瞬間、黒い刃はエリオットへ向かっていた。
青年は剣を構えた。
避けるための時間は、もうなかった。
それでも彼は、迫る影へ刃を振るった。
金属が空を切る音。
次の瞬間、黒い刃が彼の脇腹を深く貫いた。
エリオットの身体が大きく揺れた。
握っていた剣が指先から滑り落ち、地面へ転がる。
助けられた騎士が振り返った。
「エリオット!」
彼は慌てて立ち上がり、倒れかけた青年へ駆け寄ろうとした。
しかし、破れた防壁の隙間からは、なおも黒い影が流れ込んでいた。
「待って!」
外側で敵を牽制していたエリアが叫んだ。
彼女は地面を蹴り、破れた防壁へ向かって駆けた。
大剣を振りかぶり、騎士へ迫る影を横から薙ぎ払う。
黒い輪郭が乱れる。
だが、完全には防ぎきれなかった。
影の先端が騎士の胸元を掠め、鎧を砕いた。
鈍い衝撃音とともに、騎士の身体が地面へ叩きつけられる。
エリアは倒れた騎士の前へ立ち、迫る影を大剣で払いながら距離を確保した。
「お兄ちゃん! こっち!」
シエルは防壁の破れた部分へ魔力を集中させた。
光の縁が再び伸び、侵入していた影を外側へ押し戻していく。完全な修復には至らなかったものの、裂け目が広がるのを辛うじて食い止めた。
「エリア、負傷者を頼む!」
「うん!」
エリアは大剣を地面へ突き立て、倒れた騎士の身体を支えた。
胸元の鎧は砕け、呼吸は浅く、苦しげだった。
それでも意識はある。
「大丈夫、今助けるから……!」
彼女は騎士の身体をドームの中央へ引きずり込んだ。ほかの隊員たちが駆け寄り、負傷者を受け取る。
エリアはすぐに大剣を握り直した。
視線の先には、倒れたエリオットの姿があった。
そのもとへ向かおうとした瞬間、レオが彼女の横を駆け抜けた。
「エリア、後方を頼む!」
その声に、彼女は反射的に頷いた。
レオがエリオットのもとへ辿り着くまで、これ以上影を近づけさせるわけにはいかない。
大剣を構え、迫る黒い腕を迎え撃つ。
一方、レオはすでにエリオットの傍らへ膝をついていた。
「エリオット!」
青年の顔は、すでに血の気を失い始めていた。
脇腹の傷は深く、鎧の隙間から血が止めどなく流れている。
「治癒術を! 急げ!」
命じられた騎士が傍らへ駆け寄り、傷口へ手をかざした。
淡い光が広がり、損傷した身体を包み込む。
しかし、傷はあまりにも深かった。治癒術によって損傷を塞ごうとしても、流れ出る血に処置が追いつかない。
「……隊長、傷が……!」
術者の声が震えていた。
レオはエリオットの身体を支えながら、その顔を覗き込んだ。
「エリオット。聞こえるか」
青年の瞼が、かすかに動いた。
「……隊長……」
「喋るな。今、治療している」
エリオットは小さく息を吸った。
苦しげな呼吸の合間に、視線が少しだけ動く。
「……あいつ……無事、ですか……」
レオは顔を上げた。
少し離れた場所では、負傷した騎士が仲間たちに支えられ、応急処置を受けていた。
「……ああ。お前が守った」
その答えを聞いたエリオットの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……よかった……」
レオは青年の肩を支える手に力を込めた。
「もういい。今は何も考えるな」
しかし、エリオットはゆっくりと首を振った。
「……俺……」
掠れた声が漏れる。
「……隊長の……部隊に……」
言葉を続けようとするたび、呼吸が途切れた。
レオは顔を近づけ、彼の声を聞き取ろうとした。
「……入れて……本当に……」
そこで、青年の言葉が止まった。
唇がもう一度だけ動いたが、声にはならなかった。
エリオットの視線が、ゆっくりと宙を彷徨う。
そして、その瞳から光が失われた。
「……エリオット」
レオは名を呼んだ。
返事はなかった。
腕の中の身体から、少しずつ力が抜けていく。
数日前、王都の東門で元気よく返事をしていた青年。
道中では誰よりも率先して仕事を引き受け、仲間たちが休めるよう気を配っていた。
訓練も、任務も、いつもひたむきだった。
あのときと同じ声で名前を呼べば、また勢いよく返事が返ってくるような気がした。
レオは青年の瞼をそっと閉じさせた。
「……よくやった」
それ以上、言葉は続かなかった。
遠くで、防壁の一部が砕ける音が響いた。
魔力の光が不安定に揺らぎ、シエルの苦しげな声が戦場に届く。
「レオ! これ以上は持たない!」
レオは顔を上げた。
黒い影はまだそこにいる。
仲間たちも、まだ戦っている。
そして、これ以上の犠牲を出すわけにはいかなかった。
レオはエリオットの身体を慎重に地面へ横たえると、立ち上がった。
「全員、撤退する!」
その声が森に響く。
「負傷者を最優先で運べ! 隊列を崩すな!」
残る騎士たちが一斉に動き出した。
治癒術を扱える騎士が重傷者の出血を抑え、ほかの二人が身体を支える。鎧の一部を外して負担を減らし、慎重に抱え上げた。
レオはエリオットの亡骸へ目を向けた。
「……エリオットも連れて帰る」
その声に迷いはなかった。
治癒術を終えた騎士が頷き、エリオットの身体を背負った。
レオは仲間たちが移動の準備を整えたことを確かめると、シエルへ声をかけた。
「シエル! 退路を確保できるか!」
「ああ。だが、負傷者を守るなら防壁を広げる必要がある!」
シエルの顔には疲労が滲んでいた。
防御魔法を維持しながら攻撃への転用も試みたことで、魔力の消耗は相当なものになっているはずだった。
それでも、彼は視線を逸らさない。
「……できるな?」
「ああ。任せろ」
短い返答だった。
レオは頷き、エリアへ目を向けた。
「俺と一緒に防壁の外側を守ってくれ。敵を引きつけ、シエルたちを先に進ませる」
エリアは一瞬だけエリオットの方へ視線を向けた。
彼の身体は、仲間の背に担がれていた。
その光景に胸が締めつけられる。
けれど、今は立ち止まれない。
「……うん!」
彼女は強く頷いた。
「絶対、みんなで帰ろう!」
レオは頷き、黒い影へ向き直った。
シエルは盾を構え直し、残る魔力を集中させた。
足元の光が再び強まり、欠けていたドームの輪郭が修復されていく。
そして、その光がさらに外側へ広がった。
負傷者を支える騎士たちと、エリオットを背負う仲間までを包み込むための、普段よりも大きな防壁。
広げた分だけ、維持に必要な魔力も増していく。強度を保つためには、絶えず魔力を送り続けなければならない。
シエルは盾を構えたまま、内部の隊員たちが移動を始めるのを待った。
「行くぞ!」
レオの号令とともに、一行は後退を始めた。
レオとエリアは防壁の外側で剣を振るい、追撃を食い止める。
二人が黒い影の注意を引きつけている間に、シエルは少しずつ歩を進めた。防壁も彼とともに移動し、内部の騎士たちを守り続ける。
頭上から伸びる黒い刃がドームへ激突し、そのたびに光の表面が大きく揺らいだ。
シエルは盾を構えたまま、一歩ずつ後退する。
魔力を維持するための集中が途切れれば、防壁は崩壊するだろう。
それを理解しているからこそ、彼は足を止めなかった。
レオとエリアも、決して深追いはしなかった。
黒い影が腕を伸ばせば、互いに声を掛け合って払い、退路を塞ごうとすれば素早く位置を変える。
「右から来る!」
「分かってる!」
エリアは大剣を振り抜き、迫る黒い刃の輪郭を乱した。
その直後、彼女の背後へ伸びた別の影をレオが斬り払う。
互いの動きを見ながら、わずかな隙を補い合う。
まだ完成された連携ではなかった。しかし、相手の判断を信じなければ成り立たない戦い方だった。
やがて、防壁に守られた騎士たちが木立の向こうへ進んでいく。
レオはその移動を確かめると、エリアへ目配せした。
二人は同時に踏み込み、黒い影を大きく押し戻す。
輪郭が乱れた隙を突き、一気に後退した。
「走れ!」
レオの号令とともに、調査隊は森の奥から離脱した。
エリアは最後まで大剣を構え、背後を警戒しながら走る。
黒い影はなおも騎士たちを追おうとしていた。
しかし、木立を抜けて距離が開くにつれ、その動きに奇妙な変化が現れ始めた。
長く伸ばされた腕の先端が、煙のように崩れていく。
影は再び形を整えようとしたが、輪郭は不規則に揺らぎ、先ほどまでの勢いを失っていた。
それでも、なおも腕を伸ばそうとする。
だが、その先端は騎士たちへ届く前に薄くほどけ、黒い靄となって消えていった。
やがて、何かに引き戻されるように腕が縮み、巨大な身体は森の暗がりへと溶けていった。
レオは一度だけ背後を振り返った。
あの存在が追撃をやめた理由は分からない。
ただ、亀裂から遠ざかるにつれて、明らかに動きが変わったことだけは確かだった。
今は立ち止まって確かめるわけにはいかなかった。
彼の背後には、守り抜かなければならない仲間たちがいた。
「……このまま進むぞ」
誰も異を唱えなかった。
それからしばらくして、黒い影が追ってこないことを確かめると、シエルはようやく足を止めた。
頭上を覆っていた光のドームが、ゆっくりと薄れていく。
最後の光が消えた瞬間、シエルの身体がわずかに傾いた。
「お兄ちゃん!」
エリアが咄嗟に駆け寄り、その腕を支えた。
シエルは息を整えながら、妹へ顔を向けた。
「……大丈夫だ。少し魔力を使いすぎただけだ」
その声には、普段よりも疲労が滲んでいた。
レオも傍らへ歩み寄り、同僚の様子を確かめる。
「助かった、シエル」
「ああ。だが、あと少し長引いていたら危なかったな」
シエルはそう答え、後方へ目を向けた。
重傷を負った騎士は、仲間たちに支えられながら地面へ横たえられている。
その傍らでは、エリオットの身体も静かに下ろされていた。
レオはそちらへ歩み寄り、青年の顔を見つめた。
もう、声をかけても返事はない。
それでも、彼をここまで連れて帰ることができた。
レオは膝をつき、乱れた装備を整えた。
「……もう少しだ。王都まで連れて帰る」
返事のない青年へ告げると、レオは立ち上がった。
傷の状態を確認し、騎士たちへ休息と応急処置を命じる。
村までの道のりは、まだ残っていた。
調査隊は短い休息を終えると、再び歩き始めた。
その隊列には、もう二度と自分の足で歩くことのできない青年がいた。
***
日が傾き始めた頃、調査隊はようやく村へ辿り着いた。
村の入口では、畑仕事を終えた人々が家路につこうとしていた。出発時とは明らかに異なる騎士たちの姿に、村人たちは足を止め、驚いた様子で互いに顔を見合わせた。
泥と血に汚れた鎧。仲間に肩を貸されながら歩く騎士。そして、数人がかりで慎重に運ばれる負傷者。
異変に気づいた村の代表者が駆け寄ってくる。
レオは事情を簡潔に説明し、負傷者を休ませる場所と、王都への帰路に必要な荷馬車の手配を頼んだ。
村人たちはすぐに動いてくれた。
空いている建物には寝床が用意され、清潔な布や水が運び込まれる。治癒術を扱える隊員は重傷者の容態を確かめ、移動中に悪化した傷の処置を続けた。
エリオットの亡骸も、村人たちの協力によって丁重に安置された。
レオは隊員たちの状態を一人ずつ確認し、帰路に備えて休息を取るよう命じた。
その夜、調査隊は村に留まった。
重傷者の容態は予断を許さなかったが、治癒術によって出血を抑え、慎重に安静を保つことで、どうにか翌朝の移動に耐えられる状態まで落ち着いた。
村の夜は静かだった。
遠くで犬の鳴く声が聞こえ、家々の窓には温かな灯りがともっている。
数日前、この村を訪れたときには、調査隊の中にも穏やかな会話があった。
今は、誰も多くを語ろうとしなかった。
翌朝、騎士たちは王都へ向けて出発した。
村人たちが用意してくれた荷馬車には、重傷者が横になれるよう厚い布と寝具が敷かれていた。車輪の揺れが傷に響かないよう速度を落とし、道の状態を確かめながら慎重に進んだ。
エリオットの亡骸も別の荷台へ安置し、清潔な布で丁重に覆われていた。
帰路には三日を要した。
途中では何度も休息を取り、治癒術による処置を続けた。負傷者の容態が安定していることを確かめながら、調査隊は少しずつ王都へ近づいていった。
道中、レオは幾度となく隊列の最後尾へ目を向けた。
そこには、エリオットが担っていた役割を引き継いだ騎士の姿があった。
若い隊員たちは互いに声を掛け合い、荷馬車の様子を確かめ、遅れる者がいないよう気を配っている。
かつてエリオットが率先して行っていたことを、今は別の誰かが引き受けていた。
それでも、隊列には埋まらない空白があった。
レオは視線を前へ戻し、歩みを進めた。
***
王都の門が見えたのは、帰路について三日目の夕方だった。
街道沿いの畑では、農夫たちが一日の仕事を終えようとしていた。荷馬車が行き交い、遠くからは家路につく人々の声が聞こえてくる。
調査隊の騎士たちは、その光景をほとんど言葉もなく眺めていた。
王都を出発したとき、隊列には笑い声があった。
若い騎士がエリアの大剣を持とうとして、思いがけない重さに慌てていた。仲間たちはそんな彼をからかい、シエルは呆れたように忠告し、レオもまた、そのやり取りを見ていた。
あれから、まだ幾日も経っていない。
それなのに、今は誰も口を開こうとしなかった。
王都へ到着すると、重傷者はただちに治療院へ運ばれた。
騎士団の治癒術師たちが処置にあたり、砕けた骨や深い裂傷の治療が始まる。エリオットが庇った騎士は胸部に深刻な損傷を負っており、道中の治癒術だけでは完全に回復させることができなかった。
レオは治療院の廊下で報告を待った。
鎧には泥と血の痕が残り、籠手の隙間にも乾ききらない汚れがこびりついていた。それでも彼は着替えようともせず、治療室の扉へ視線を向けていた。
やがて、扉が開いた。
姿を現した治癒術師は疲れた表情をしていたが、レオを見ると頷いた。
命は取り留めたという。ただし、砕けた肋骨や深い傷の回復には、しばらく時間がかかるらしかった。
その報告を受けたレオは、ようやく小さく息を吐いた。
「……そうか。感謝する」
彼は治癒術師へ頭を下げた。
「引き続き、よろしく頼む」
それから、騎士団本部へ向かった。
上官への報告は、避けて通れない責務だった。
会議室には重苦しい空気が漂っていた。
レオは調査の経緯、森で確認した異変、未知の存在との交戦、そして撤退の判断に至るまでを、順序立てて説明した。
傍らにはシエルも控え、必要に応じて魔法による観測結果を補足している。
戦死者の名を報告するとき、レオは一度だけ言葉を切った。
「……近衛騎士エリオット・ウェストン、一名戦死。ほか一名が重傷を負いました」
上官はしばらく沈黙した。
窓の外からは、夕刻を告げる鐘の音が聞こえていた。
「それほどの相手だったのか」
「はい。既存の魔物とは明らかに異なる存在です。剣による攻撃では輪郭を乱すことはできましたが、討伐には至りませんでした」
レオは机上に置かれた報告書へ目を向けた。
森で確認した空間の異常についても、可能な限り正確に記録してある。だが、そもそも何が起きていたのかを説明する言葉が見つからなかった。
人の形に似た黒い影。
実体があるのかさえ判然としない身体。
そして、自在に変化する攻撃。
どれほど詳細に書き記しても、あの場で感じた異質さを十分に伝えられるとは思えなかった。
「魔法による対処はできなかったのか」
上官の問いに、シエルが一歩前へ出た。
「一定の効果は確認できました。ただし、討伐には至っていません」
シエルは、自身が展開した無属性の防御魔法と、その際に確認した影の変化について説明した。
防壁が接触した部分では、剣による斬撃よりも大きく輪郭が崩れ、一時的に動きが鈍ったこと。しかし、崩れた影はほどなく再び形を取り戻し、防御魔法を攻撃へ転用し続けることにも限界があったこと。
「相手の身体が何でできているのかは分かりません。ただ、魔法によってあの姿を一時的に崩せたことは確かです」
上官は腕を組み、考え込むように視線を落とした。
「魔物とは違う性質を持っている可能性がある、ということか」
「はい。それに、もう一つ気になることがあります」
シエルは戦闘中の光景を思い返した。
黒い影を防壁で押し戻したとき、その背後にある空間の亀裂が、かすかに震えたように見えた。
「確証はありません。ただ、あの影に魔力が触れたとき、背後の空間にも変化が見られました」
部屋に沈黙が落ちた。
「……空間そのものに、か」
「はい。しかし、魔法が直接作用したのか、それとも影の変化に伴うものだったのかは分かりません」
シエルは慎重に続けた。
「亀裂そのものからは、通常の魔力による異常を確認できませんでした。何が原因で生じた現象なのか、現段階では判断できません」
魔法が影へ作用したことは、確かに目で確認できた。
だが、それと亀裂の変化を結びつけるには、あまりにも情報が少ない。
上官はしばらく考え込んだ後、頷いた。
「分かった。すべて記録に残しておこう。今後は王立魔法研究所にも協力を求める必要があるな」
その言葉を受け、レオはわずかに目を伏せた。
今回の調査で得られたものは少ない。しかし、何もなかったわけではない。
未知の存在が確かに現れたこと。既存の戦闘方法だけでは対処が難しいこと。そして、魔法が何らかの手がかりになるかもしれないこと。
その情報を持ち帰るために、部下たちは命を懸けた。
レオは報告を終えると、深く一礼した。
「今回の犠牲については、隊を率いた私に責任があります」
上官はすぐには答えなかった。
やがて、低い声で告げた。
「撤退の判断は適切だった。お前が部隊を連れ帰ったことも、報告から理解できる」
「……はい」
「…だが、そう言われて納得できるものでもあるまい」
レオは顔を上げなかった。
その沈黙が、答えだった。
***
翌日、レオは再び治療院を訪れた。
重傷を負った騎士は、まだ寝台から起き上がれない状態だった。治癒術によって命の危険は脱していたものの、砕けた肋骨や深い傷の回復には時間がかかるという。
胸元には厚く包帯が巻かれ、寝具の上に置かれた手にも、いくつもの小さな傷が残っていた。
扉を開けたレオの姿に気づくと、騎士は慌てて身体を起こそうとした。
しかし、わずかに肩を動かしただけで胸元に痛みが走り、苦しげに顔を歪める。
「た、隊長……!」
「無理をするな。そのままでいい」
レオは制すると、寝台の傍らへ椅子を引き、腰を下ろした。
騎士が無理に顔を上げなくても話せるよう、少し身を乗り出す。
「具合はどうだ」
「……おかげさまで、だいぶ」
騎士は枕に頭を預けたまま、弱々しく笑った。
しかし、その笑みは長く続かなかった。
視線がゆっくりと下がり、寝具の上に置かれた指先が白い布を握り締める。
「申し訳ありません、隊長」
レオはすぐには答えず、彼が言葉を続けるのを待った。
「自分がもっと早く動けていれば……エリオットは……」
声が震えた。
騎士は唇を噛み、天井へ目を向けた。深く息を吸おうとするたびに胸が痛み、言葉が途切れてしまう。
「あいつが俺を庇ったんです。俺は、何もできなかった……」
治療院へ運ばれてから、彼は何度も同じ光景を思い出していた。
迫る黒い刃。
自分の肩を掴み、力いっぱい突き飛ばしたエリオットの手。
そして、振り返った先で、黒い影に貫かれていた友の姿。
何度思い返しても、結果は変わらなかった。
レオはその言葉を遮らず、耳を傾けていた。
「お前は命令に従い、最後まで隊の一員として行動した。それを責める理由はない」
「でも……」
「エリオットも同じだ」
騎士の視線が、レオへ戻った。
「お前を守ろうとした。騎士として、自分の意思で行動したんだ」
レオは窓の外へ一瞬だけ目を向けた。
秋の日差しが、白い寝具を柔らかく照らしている。
「……すまない」
その言葉に、騎士が目を見開いた。
「隊長……?」
「俺は、お前たち全員を無事に連れ帰りたかった」
レオの声には、言い訳も、過度な感傷もなかった。
ただ、率直な思いが込められていた。
「だが、それは叶わなかった。……その事実は変わらない」
騎士は唇を噛んだ。
彼にとって、レオはずっと憧れの存在だった。
的確な判断で部隊を率い、どれほど危険な任務でも冷静さを失わない。その背中を追いかけながら、自分もいつか一人前の近衛騎士になりたいと願ってきた。
だからこそ、目の前で謝罪する隊長の姿が、たまらなく胸に迫った。
「……違います」
騎士は枕に頭を預けたまま、かすかに首を横へ振った。
「隊長が撤退を命じてくださらなかったら、俺たちは……きっと、誰も帰ってこられませんでした」
レオは黙って耳を傾けた。
「俺は、隊長の判断で生きています。ほかのみんなもそうです」
騎士の目尻から涙がこぼれ、こめかみを伝って枕へ染み込んでいった。
「だから……謝らないでください」
レオはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
短い言葉だった。
だが、そこには確かな温かさがあった。
レオは椅子から立ち上がり、寝台の傍らへ身を寄せた。
「今は傷を治すことだけを考えろ。焦る必要はない」
「……はい」
「戻れるようになったら、また訓練場へ来い」
そう言って、寝具の上に置かれた騎士の手へ、自分の手を重ねた。
「お前の帰る場所は、残しておく」
騎士はレオを見上げたまま、何度も小さく頷いた。
レオはその様子を見届けると、手を離し、病室を後にした。
廊下へ出たところで、足を止める。
窓の外には、いつもと変わらない王都の街並みが広がっていた。
人々が行き交い、遠くからは市場の賑わいが聞こえてくる。
守るべき日常が、そこにはあった。
レオはしばらくその光景を見つめ、それから再び歩き始めた。
***
王都へ帰還してから三日後、エリオットの葬儀が執り行われた。
王都の外れにある近衛騎士団の墓地は、古い石壁と背の高い木々に囲まれた場所だった。長い年月を王国へ捧げた騎士たちが眠るその一角に、新たな墓標が一つ加わっている。
秋の空は高く、穏やかだった。
薄い雲がゆっくりと流れ、木々の間を抜ける風が、墓前に供えられた白い花を揺らしている。
参列した騎士たちは正装で整列し、誰もが厳粛な面持ちで式の始まりを待っていた。
レオは最前列に立っていた。その隣にはシエルがいる。少し後方には、エリアの姿もあった。
彼女は普段の明るい表情を浮かべることなく、墓標に刻まれた名前を見つめていた。
エリオット・ウェストン。
ほんの数日前まで、その名前を呼べば、彼はすぐに笑顔で振り返った。
王都の東門で顔を合わせたときのことを、エリアは鮮明に覚えている。
きちんと整えられた鎧に、少し勢いのよすぎる挨拶。自分の大剣を見て目を輝かせ、重いだろうからと持つことを申し出てくれた。
あのとき、彼は予想以上の重さに慌てていた。
仲間たちにからかわれて顔を赤くしながらも、最後まで落とすまいと必死に踏ん張っていた姿を思い出すと、今でも少し笑ってしまいそうになる。
そのあと、街道を歩きながら交わした会話も。
レオへの憧れを語り、自分もいつか仲間から信頼される騎士になりたいと、少し照れくさそうに話していた。
あのときの真っ直ぐな眼差しが、今も忘れられない。
エリアは唇を結んだ。
これまで何度も魔物と戦ってきた。
傷を負ったことも、命の危険を感じたこともある。
しかし、こんなふうに、一緒に笑い合った仲間を失ったことはなかった。
あの日、森の奥で何度も大剣を振るった。
迫る影を切り裂き、倒れた騎士を守り、必死に仲間たちの退路を確保した。
それでも、エリオットを救うことはできなかった。
もし、もっと早く動けていたら。
もし、あの影の動きを見抜けていたら。
そんな考えが、何度も頭をよぎった。
けれど、答えは出なかった。
葬儀が始まり、厳かな声でエリオットの功績が読み上げられる。
若くして近衛騎士団へ入り、日々の鍛錬を怠らず、任務に真摯に取り組んできたこと。
民を守る騎士としての責務を果たし、最後は仲間を守るために身を挺したこと。
その一つひとつが、墓地に響いていく。
レオは微動だにせず、墓標を見つめていた。
彼の脳裏にもまた、幾つもの記憶が浮かんでいた。
訓練場で何度も剣を振るっていた青年。
失敗しても、翌朝には誰より早く姿を見せていた青年。
時には仲間を笑わせ、時には真剣な表情で任務に取り組み、少しずつ成長していった青年。
その姿を、レオはずっと見てきた。
決して特別扱いをしていたわけではない。
だが、部下の一人ひとりがどのような努力を重ね、どのように成長しているのかを知ることも、隊を率いる者の務めだと考えていた。
エリオットは、確かに立派な騎士へと成長していた。
そのことを、もっと早く伝えてやればよかった。
そんな思いが、胸の奥に残っていた。
式が終わると、参列者たちは一人ずつ墓前へ進み、白い花を手向けていった。
エリオットと親しかった若い騎士たちの中には、涙を堪えきれず俯く者もいた。彼と訓練を共にした者、任務で肩を並べた者、そして何気ない冗談を交わした者たち。
誰もが、それぞれの記憶を胸に抱いていた。
やがて人々は、一人、また一人と墓地を後にしていく。
シエルは隣に立つレオへ、そっと視線を向けた。
レオは墓標を見つめたまま、動こうとはしない。
その横顔には、普段と変わらない落ち着きがあった。
しかし、長年ともに任務をこなしてきたシエルには、その静けさの奥にあるものが分かるような気がした。
彼は何も言わなかった。
ただ、レオが部下を悼む時間を邪魔しないよう、列を離れた。
少し後方に立っていたエリアのもとへ歩み寄る。
妹はまだ墓標を見つめていた。
シエルが隣に来たことには気づいたようだったが、何も言わなかった。
彼もまた、言葉をかけることなく、その傍らに立った。
やがて墓前に残ったのは、三人だけになった。
風が、白い花を揺らしている。
レオはしばらく墓標を見つめていた。
それから、懐へ手を入れた。
取り出したのは、小さな銀色の徽章だった。
精緻な銀細工に、青い石が一粒あしらわれている。
レオの率いる部隊において、特別な功績を認められた騎士にのみ授けられる、名誉の証。
レオ部隊の名誉の徽章だった。
彼はゆっくりと墓前に膝をつき、白い花の傍らへ、そっと徽章を置いた。
その動作は、まるで生きている部下へ勲章を授けるときのように、丁寧だった。
「……エリオット」
レオの声が、墓地に落ちる。
「訓練場での努力も、任務での働きも、俺は見ていた。お前が少しずつ成長していたことも、よく知っている」
風が木々を揺らした。
「いつも前向きで、仲間のために動ける奴だった。……お前のそういうところを、俺は誇りに思っていた」
レオは墓標へ視線を落とした。
「……お前はもう、立派な騎士だった」
午後の淡い光を受けて、銀の徽章が輝いている。
「仲間を守るために、迷わず剣を取った。その勇気を、俺は決して忘れない」
レオはほんのわずかに目を伏せた。
「……ありがとう、エリオット」
その言葉を告げるまでに、少しだけ時間がかかった。
やがて彼は顔を上げ、墓前に置かれた徽章へ視線を向けた。
「これは、お前のものだ」
レオは立ち上がった。
そして、墓標へ向かって右手を胸に当てた。
近衛騎士としての、正式な敬礼だった。
少し後方では、シエルも姿勢を正し、墓標へ敬意を示していた。
エリアは、墓前に立つレオの大きな背中を見つめていた。
その背中は、普段と変わらず堂々としていた。けれど、今の彼が胸の内に抱えているものは、きっと自分が想像するよりもずっと大きいのだろう。
やがて彼女の視線は、白い花の傍らに置かれた銀の徽章へと移っていった。
エリオットがずっと憧れていた人から贈られた、名誉の証。
きっと、ものすごく喜んだだろう。
少し照れくさそうに笑って、それから背筋を伸ばして、いつものように元気よく返事をしたに違いない。
『はっ、ありがとうございます!』
そんな声が、今にも聞こえてきそうだった。
エリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
けれど、次の瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
もう、その声を聞くことはできない。
どれほど願っても、あの明るい笑顔が戻ることはない。
頬に、温かいものが伝った。
エリアは不思議そうに瞬きをした。
涙だった。
自分が泣いていることに気づいて、慌てて拭おうとする。
けれど、その手が頬に届くより先に、隣にいたシエルが肩を抱き寄せた。
何も言わなかった。
ただ、妹を自分の傍へ引き寄せ、幼い頃から何度もそうしてきたように、赤い髪を優しく撫でた。
エリアは兄を見上げた。
シエルは墓標を見つめたままだった。
その横顔はいつもと変わらず穏やかで、けれど、どこか寂しそうにも見えた。
エリアは何も言わず、兄の肩に額を寄せた。
シエルの腕の温かさを感じながら、もう一度、墓前の青年へ目を向ける。
「……ありがとう、エリオット」
小さな声が、秋の風に溶けていった。
風が吹き抜けた。
白い花びらが一枚、宙へ舞う。
それはゆっくりと落ちて、銀の徽章の上へ重なった。
レオはしばらく、その光景を見つめていた。
やがて、深く一礼する。
「……行こう」
シエルが頷き、エリアも兄の腕から離れた。
三人は並んで墓地を後にした。
誰も、無理に言葉を探そうとはしなかった。
ただ、その歩みは出会った頃よりも、わずかに近くなっていた。
***
夕暮れの王都に、鐘の音が響いていた。
墓地から王城へ続く道は、穏やかな夕陽に照らされていた。石畳の上には長い影が伸び、遠くの家々からは夕餉の支度をする煙が細く立ち上っている。
三人はしばらく、言葉を交わさずに歩いていた。
やがて、王都を囲む城壁が見える場所まで来たところで、レオが足を止めた。
その向こうには、広大な森が続いている。
あの森の奥には、今も未知の存在が潜んでいる。
何者なのか。
どこから来たのか。
どうすれば倒せるのか。
分からないことばかりだった。
「……また、行くんだよね」
隣から、エリアが声をかけた。
レオは彼女を見た。
「いずれは、な」
その答えに、エリアは頷いた。
彼女もまた、遠くに見える森へ視線を向ける。
あの黒い影を思い出すと、今でも胸の奥が冷たくなる。
どれほど大剣を振るっても、確かな手応えが得られなかった。相手の動きを見極めることも、弱点を探ることもできなかった。
これまで積み重ねてきた経験が、まるで通用しない相手だった。
怖くなかったわけではない。
むしろ、初めて知る種類の恐怖だった。
それでも、もう一度向き合わなければならない日が来るのだろう。
エリアは拳を握った。
「私、もっと強くなる」
その声には、いつもの明るさとは違う、決意があった。
「次にあんなのが出てきても、ちゃんと守れるように」
シエルは妹を見つめた。
何か言いかけたが、結局、何も言わなかった。
代わりに、その赤い髪を軽く撫でる。
「……お前だけで背負うなよ」
「分かってるよ、お兄ちゃん」
エリアは小さく笑った。
レオは二人のやり取りを見ながら、口を開いた。
「強さだけでは、守れないものもある」
エリアが顔を上げる。
「今回、俺たちが知ったのは、それだ」
レオは再び森の方角へ視線を向けた。
「だからこそ、知らなければならない。あれが何なのか。どうすれば対処できるのか」
その言葉に、シエルが頷いた。
「俺たちだけで解決できる問題ではなさそうだな」
「ああ。だが、必ず道はある」
レオは答えた。
夕陽が三人の影を長く伸ばしていた。
あの日、森の奥で失われた命。
必死に守ろうとしても、届かなかった手。
その記憶が消えることはない。
けれど、だからこそ。
彼らは再び、剣を取るのだろう。
今度こそ守るために。
そして、まだ見ぬ脅威の正体を突き止めるために。
王都の鐘が、もう一度鳴った。
三人は再び歩き始めた。
その背中を、暮れゆく空が照らしていた。




