第三話|森に潜む異変
王城の一角にある近衛騎士団の執務室では、朝早くから慌ただしく人々が行き交っていた。
前夜に提出された調査計画をもとに、北東の森林地帯における追加調査が正式に決定されたのである。
大きな机には王都周辺の地図が広げられ、複数の集落や街道に印が付けられていた。各地から届けられた報告書も整理され、魔物の目撃場所や時期を比較できるようになっている。
レオ・アルディオンは新たに届いた報告書を手に取り、記された内容を確かめていた。
「……北東での目撃報告が、また増えているな」
向かい側で資料を整理していたシエル・アステリアが顔を上げる。
「ああ。数日前にも、街道沿いで見慣れない魔物が目撃されたそうだ。幸い被害は出ていない」
レオは報告書を置き、地図へ視線を落とした。
北東の集落を中心に、複数の印が集中している。そこには以前、自ら部隊を率いて対応した場所も含まれていた。
あのときの魔物たちの行動については、すでに十分な報告がなされている。今必要なのは、異変がどこまで広がり、その中心に何があるのかを確かめることだった。
シエルは傍らに置かれた資料を引き寄せ、地図の一点を指さした。
「エリアが持ってきた記録も照合してみた。目撃時期には多少のばらつきがあるが、北東の森周辺では、ここ半月ほどの間に報告が集中している」
「西方や南部でも、同じ頃から異変が起きているんだったな」
「ああ。ただ、それらがすべて同じ原因によるものかは分からん。今回の調査では、まず北東の状況を詳しく確かめたい」
レオは頷き、机の上に置かれた編成表を手に取った。
「調査隊の編成は承認された。俺とお前を含めて騎士七名だ。王都の警備もあるから、今回はこの人数で調べる」
編成表には、レオとシエルのほか、五名の近衛騎士の名前が記されていた。いずれも訓練を積み、実地任務を経験している者たちである。
今回の任務は討伐ではなく、あくまで状況の確認と情報収集だった。危険が大きいと判断した場合には無理に交戦せず、調査結果を持ち帰るよう指示されている。
シエルも編成表に目を通し、地図に描かれた森の東側へ視線を移した。
「以前の調査では、森の奥までは踏み込めなかったな。今回はもう少し詳しく地形を確認したいところだが……」
「何か問題があるのか?」
「この辺りは獣道が多い。地図に載っていない道もあるはずだ。土地に詳しい者がいれば、ずいぶん助かるんだが」
そこまで言って、シエルはふと笑みを浮かべた。
「……そういえば、ちょうどいい協力者がいるな」
レオは一瞬考え、すぐにその意図を察した。
「エリアか」
「ご名答」
シエルは軽く肩をすくめた。
「森の周辺を歩き回って、住民や猟師から話を聞いている。地形もある程度は把握しているだろうし、何より腕が立つ」
レオは昨日の出来事を思い出していた。
騎士団本部の中庭で再会した赤髪の剣士。兄に届けるために持参した手帳には、目撃場所や時期、魔物の種類だけでなく、確認できた事実と未確認の証言が丁寧に整理されていた。
その記録は、今回の調査経路を検討する際にも役立っている。
「彼女の経験は役に立つだろう。だが、騎士団の任務に同行してもらう以上、本人の意思を確認する必要がある」
「ああ。それは俺から話してみる」
シエルは少し困ったように笑った。
「もっとも、事情を知れば、自分も行くと言い出しそうだがな」
「それなら話は早い。本人が望むなら、正式に協力者として同行してもらおう」
レオの返答に、シエルも笑みを返した。
妹のことをよく知る兄と、すでに彼女の剣を目にしている同僚。二人の考えは、どうやら一致しているらしかった。
***
「行く!」
シエルが調査の話を切り出すと、エリア・アステリアは勢いよく顔を上げた。
王都の一角にある小さな食堂。昼時の賑わいが落ち着き始めた店内で、兄妹は向かい合って食事をしていた。
テーブルにはパンと肉料理、それに温かなスープが並んでいる。もっとも、シエルの前にあるのは食べ終えた皿だけで、エリアのもとには追加で注文した料理が運ばれてきたばかりだった。
「……まだ最後まで話していないんだが」
呆れた声を出す兄に、エリアは満面の笑みを向けた。
「北東の森を調べに行くんでしょ? だったら私も行きたい!」
「遊びに行くわけじゃないぞ。何が起きているのか分からない以上、危険もある」
「分かってるってば」
エリアは手元のパンをちぎりながら、少しだけ真面目な表情になった。
彼女自身、北東の森周辺には何度も足を運び、住民から話を聞いてきた。魔物の痕跡を調べ、目撃情報を手帳にまとめてきたのも、単なる好奇心からではない。
人里へ現れる魔物が増えれば、それだけ暮らしを脅かされる人々も増える。
「森の奥まで調べられたら、何か手がかりが見つかるかもしれない。私が聞いた話や、見つけた道も役に立つと思うんだ」
シエルは頷いた。
妹の持つ現地での経験は、今回の調査でも貴重なものになるだろう。
「分かった。ただし、同行するなら隊の方針には従ってもらう。指揮を執るのはレオだ。危険だと判断すれば、調査を中断して撤退することもある」
「うん、もちろん。私だって、何でもかんでも斬りたいわけじゃないよ」
エリアはあっさりと頷いた。
「何が起きてるのか知りたいんだもん。それに、もし危ないものがいるなら、近くの村の人たちにも知らせなきゃ」
シエルは妹の顔を見つめた。
幼い頃から、エリアは興味を持ったことには真っ直ぐだった。剣術を学び始めたときも、一度決めたことは簡単には諦めなかった。
だが、今の彼女は自分の腕だけを頼りに旅をしているわけではない。各地で見聞きしたことを記録し、判断に必要な情報を自ら集めている。
その成長は、兄としても頼もしく感じられた。
「……よし。明朝、東門に集合だ。装備と食料は自分で用意しておけ。同行の件は、俺からレオに伝えておく」
「はーい!」
嬉しそうに返事をしたエリアは、早速目の前の料理に手を伸ばした。
ところが、何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、レオも一緒なんだよね?」
「ああ。あいつが隊を率いる」
「やった! この前、剣を見せてもらう約束したんだよね。調査が終わったらお願いしてみようかな」
先ほどまでの真剣な表情から一転、エリアの瞳が楽しげに輝いた。
「お前は本当に剣のことになると嬉しそうだな」
「だって、あんな綺麗な剣の使い方する人、なかなかいないもん。無駄がなくて、すごく速くてさ!」
エリアはフォークを置くと、片手で剣を振るう仕草をしてみせた。
「こう、すぱっ! って感じ!」
「……それで伝わると思っているのか?」
「お兄ちゃんなら分かるでしょ!」
「残念ながら、まったく分からん」
不満そうに頬を膨らませた妹を見て、シエルは声を立てて笑った。
その反応が気に入らなかったのか、エリアは「もう!」と抗議したものの、すぐにつられて笑い始める。
幼い頃、木剣を握っていた妹は、今では自分の背丈を超える大剣を自在に扱う剣士になっていた。
そんな彼女が、今も変わらず剣の話に夢中になる姿は、シエルにとってどこか懐かしくもあった。
やがて、シエルは空になった自分の皿を脇へ寄せた。
「……ところで、エリア。お前はまだ食べるつもりか?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
「明日からたくさん歩くんでしょ? ちゃんと食べておかなきゃ!」
「すでに二人前は食べているだろう」
「まだ食べられるよ?」
シエルは額に手を当てた。
妹の食欲だけは、どうやら昔から少しも変わっていないらしい。
***
翌朝、王都の東門には出発の準備を整えた騎士たちが集まっていた。
まだ朝靄の残る街道には人通りも少なく、馬たちが静かに鼻を鳴らしている。
今回の調査隊は、レオを含む近衛騎士七名と、協力者として同行するエリアの総勢八名。通常の討伐任務に比べれば小規模な編成だったが、それぞれが役割を分担し、行動できるよう準備が整えられていた。
隊員たちの装備を確認していたレオのもとへ、背中に大剣を携えたエリアが歩いてきた。
「おはよう!」
元気よく声をかける彼女に、レオも顔を上げた。
「おはよう。ずいぶん早いな」
「遅刻したらお兄ちゃんに怒られるからね」
その返事を聞いたシエルが、横から声を挟んだ。
「……それだけか?」
「もちろん、楽しみだったのもあるよ」
エリアは笑って答えると、森のある北東の方角へ視線を向けた。
「ずっと気になってたことだから。何か分かるといいなって」
「そうだな。君が集めてくれた情報は、今回の調査でも重要な手がかりになる。現地でも力を貸してくれ」
「うん! 分かることなら何でも聞いて!」
エリアは騎士団に所属しているわけではない。それでも、自らの意思でこの調査に参加しようとしている。その姿勢を、レオは頼もしく感じていた。
そのとき、装備の点検を終えた若い騎士が歩み寄ってきた。
「隊長! 携行品の確認、完了しました。予備の物資も問題ありません!」
エリオット・ウェストンは、明るい表情が印象的な若い近衛騎士だった。きちんと整えられた鎧に、腰には騎士団の制式剣。立ち姿には日頃の鍛錬で身につけた規律が感じられる。
「ご苦労、エリオット。ほかの隊員にも出発の準備を整えるよう伝えてくれ」
「はっ!」
歯切れよく返事をした青年は、そこでレオの隣にいるエリアに気づいた。
「あれ? そちらの方は……」
レオは二人を交互に見た。
「今回の調査に協力してくれるエリアだ。シエルの妹で、北東の森について詳しい」
「エリアです。よろしくね」
彼女が笑顔で挨拶すると、エリオットは一瞬目を丸くし、それから慌てて姿勢を正した。
「エリオット・ウェストンと申します! レオ隊長の部隊に所属しています。よろしくお願いします!」
少し勢いのよすぎる挨拶に、エリアがくすりと笑う。
エリオットも照れくさそうに笑い返したが、彼女の背中にある大剣へ目を向けると、興味深そうに尋ねた。
「それにしても……ずいぶん大きな剣ですね」
「うん! 私の相棒なんだ」
「これを普段から背負っているんですか?」
「そうだよ。もう慣れちゃったけどね」
エリオットはしばらく大剣を眺めていたが、ふと思いついたように口を開いた。
「あの、よろしければ俺が持ちましょうか? 森まで長い道のりですし、重いでしょうから!」
その申し出に、エリアは目を瞬かせた。
「え? いいの?」
「もちろんです!」
自信たっぷりに頷くエリオットを見て、シエルが何か言いかけたが、結局は黙って成り行きを見守ることにした。
エリアは背中から大剣を下ろすと、柄をエリオットへ差し出した。
「じゃあ、ちょっとお願いしようかな」
「お任せください!」
エリオットは片手で柄を握り、軽く持ち上げようとした。
「……っ!?」
予想以上の重さに腕が引かれ、慌ててもう片方の手を添える。
「お、おお……! これは、なかなか……!」
どうにか持ち上げることはできたものの、長い刀身が傾くたびに体勢を整えなければならない。
「だ、大丈夫です! 持てます!」
「エリオット」
シエルがとうとう口を開いた。
「無理はするな。腰を痛めるぞ」
その声に振り返ったエリオットの顔が、わずかに赤くなる。
「だ、大丈夫です、シエル殿! 少々予想と違っただけで……!」
近くで見ていた別の騎士が、とうとう吹き出した。
「お前、格好つけるからだぞ!」
「うるさいな! まだ落としてないだろ!」
仲間たちの笑い声に、エリアも堪えきれず笑い始めた。
「ごめんね、エリオット! 重いでしょ、それ!」
「い、いえ! まさかこれほどとは……!」
エリアは笑いながら大剣を受け取り、慣れた手つきで背中へ戻した。
あまりにも軽々と扱うものだから、エリオットは思わず彼女と剣を交互に見つめてしまった。
「……本当にすごいですね」
感心したように呟く青年へ、エリアはにっこり笑いかけた。
「慣れれば平気だよ!」
それを聞いたシエルが、呆れ半分に肩をすくめる。
「エリアの言う『慣れれば平気』は、あまり参考にしない方がいいぞ」
再び笑い声が広がった。
少し離れたところで一部始終を見ていたレオも、その様子を楽しんでいた。
エリオットは訓練にも任務にも真面目に取り組み、仲間への気配りも忘れない。時折こうして先走ることはあるものの、その明るさは部隊の空気を和らげることも多かった。
レオは頃合いを見て、隊員たちへ声をかけた。
「そろそろ出発する。エリオット、後方の隊列を確認してくれ」
その言葉を聞くと、エリオットはすぐに表情を引き締めた。
「はっ、了解しました!」
先ほどまでの照れ笑いは消え、きびきびとした動作で仲間たちのもとへ向かっていく。
エリアはその背中を眺めながら、感心したように呟いた。
「……切り替え、早いね」
「ああ。あいつはよく働く」
シエルも、エリオットの働きぶりはよく知っていた。
準備が整ったことを確認すると、レオは七名の騎士とエリアの配置を確かめ、出発の合図を送った。
王都の門が開き、一行は北東へ続く街道へ進み始めた。
***
王都を離れた一行は、街道沿いの農地や小さな集落を通り過ぎながら、北東を目指した。
騎士たちは馬を進め、エリアも用意された馬に跨って同行していた。街道の状態が悪い場所では速度を落とし、ときには下馬して周囲の安全を確かめながら進む。
王都から目的の集落までは、順調に進んでも三日ほどかかる。
初日は大きな問題もなく、夕暮れ前には街道沿いの宿場へ到着した。
翌朝も早くから移動を再開し、昼頃には周囲の景色が少しずつ変わり始めていた。
広く開けていた農地は次第に姿を消し、緩やかな丘陵と深い緑が続くようになる。遠くには北東の森林地帯を覆う木々の稜線が見え、その手前には背の高い草が風に揺れていた。
午後には街道も狭くなり、馬の速度を落とさなければならない場所が増えた。
隊列の中央付近を進んでいたエリアは、周囲の地形を確かめながら、ときおり手帳へ目を通していた。道中で見かけた魔物の痕跡や、以前聞き取った目撃情報と照らし合わせている。
その隣を進むエリオットは、彼女が何度も手帳を開く様子を興味深そうに眺めていた。
「エリアさん、その手帳には何が書いてあるんですか?」
「魔物の目撃情報だよ。いつ、どこで、どんな魔物が見つかったのかとか。自分で見たものと、人から聞いた話も分けてあるんだ」
「へえ……ずいぶん詳しいんですね」
差し出された手帳を覗き込んだエリオットは、細かな記録に目を丸くした。
「これ、全部ご自分で?」
「うん。旅をしてると、いろんな人から話を聞くことがあるからね。忘れないように書いておこうと思って」
エリオットは感心したように頷いた。
「すごいな。俺なんて、訓練で教わったことを覚えるだけでも精一杯なのに」
「それはそれですごいことだと思うよ。騎士さんって、覚えることいっぱいあるんでしょ?」
「ええ、それはもう!」
エリオットは少し大げさに肩を落としてみせた。
「剣術に隊列の維持、警備の手順、報告書の書き方……覚えることが多すぎて、最初の頃は頭がどうにかなりそうでした」
その言い方がおかしくて、エリアは思わず笑ってしまった。
だが、青年はすぐに表情を和らげ、少し前を進むレオへ視線を向けた。
「でも、隊長はそういうことも全部、きちんと見てくれるんです。俺たちがどこでつまずいているのか、すぐに気づくんですよ」
エリアもレオの背中へ目を向けた。
彼は隊の先頭で周囲の地形を確かめながら、ときおり後方の様子を振り返っている。
「……俺、いつか隊長みたいな騎士になりたいんです」
エリオットの声は、先ほどまでの陽気な調子とは少し違っていた。
「剣の腕ももちろんですけど、それだけじゃなくて。仲間から信頼されて、どんな状況でも冷静に判断できる。そういう騎士になりたくて、この部隊を志願したんです」
その横顔には、憧れだけではない真っ直ぐな決意が表れていた。
エリアはしばらく彼を見つめ、それから柔らかく笑った。
「そっか。エリオット、レオのこと大好きなんだね!」
「えっ!? い、いや、その言い方だとちょっと……!」
慌てるエリオットに、エリアは不思議そうに目を瞬かせた。
「違うの?」
「違わないですけど! いや、違わないっていうか、尊敬してるんです!」
その声が思いのほか大きかったのか、前方のレオが振り返った。
「どうかしたか?」
「な、何でもありません、隊長!」
エリオットは背筋を伸ばして答えたが、その耳はわずかに赤くなっていた。
レオは少し不思議そうに二人を見たものの、特に追及することなく前へ向き直った。
その様子を見ていたエリアは、また楽しそうに笑った。
「ふふっ。エリオットって面白いね」
「……エリアさんには敵わない気がします」
苦笑しながら答える青年に、彼女はにっこりと笑い返した。
エリオットは一瞬言葉を詰まらせ、それから慌てて前方へ視線を戻した。
少し離れたところで二人の会話を聞いていたシエルは、小さく肩をすくめる。
どうやら妹は、騎士団の中に新しい話し相手を見つけたらしい。
***
二日目の夕暮れ。
一行は街道から少し離れた林のそばで、野営の準備を始めていた。
近くには小さな沢が流れ、平らな地面も確保できる。周囲の見通しが利くことを確認したレオは、その場所で夜を明かすことを決めた。
八名の一行は手分けして準備に取りかかった。
数名が馬の世話と天幕の設営を進める一方、エリオットは荷を下ろし、別の騎士と協力して焚き火の支度を始めている。シエルは周囲の地形を確かめ、レオはその日の移動状況をもとに夜間警戒の配置を決めていた。
少人数の調査隊だけに、一人ひとりが複数の仕事を受け持つことになる。それでも、慣れた騎士たちの手際はよく、野営地は次第に整っていった。
エリオットも薪を組み終えると、近くで天幕を張っていた仲間のもとへ向かい、張り綱を固定するのを手伝った。
エリアも何か手伝おうと、彼のそばへ歩み寄る。
「ねえ、私も手伝うよ!」
「大丈夫ですよ。こういうのは慣れてますから。エリアさんは休んでいてください」
「えー、私だけ休んでるのも悪いよ」
エリオットは少し考え、焚き火のそばに積まれた薪へ目を向けた。
「では、もう少し薪を集めてきてもらえますか? あまり遠くへ行かなくて大丈夫です」
「了解!」
エリアは嬉しそうに頷くと、近くに落ちている枯れ枝を集め始めた。
やがて焚き火に火が入り、温かな明かりが周囲を照らし始める。
夕食は携行してきた食料を中心に、簡単な煮込み料理が用意された。特別なご馳走ではなかったが、長い移動を終えた身体には十分にありがたいものだった。
全員が一度に食事を取るわけではなく、周囲の警戒を交代しながら、順番に器を受け取っていく。
焚き火のそばでは、食事を終えた騎士たちが翌日の行程について話し合ったり、昼間の出来事を振り返ったりしていた。
その中で、エリアは誰よりも嬉しそうに器を抱えていた。
「これ、美味しい!」
「そうか。それはよかったな」
隣に座るシエルが答えると、エリアは早速鍋の方へ目を向けた。
「……おかわり、まだあるかな?」
「お前はさっきも食べただろう」
「だって、美味しかったんだもん!」
そのやり取りを聞いていたエリオットが、思わず吹き出した。
「エリアさん、本当にたくさん食べるんですね」
「うん! 食べるの大好き!」
「その細い身体のどこに入るんですか……?」
「さあ?」
エリアは首を傾げると、何の疑問も抱いていない様子で笑った。
そばにいた騎士もつられて笑い、焚き火の周りにはしばし和やかな空気が流れた。
少し離れた場所では、レオが地図を広げ、翌日の行程を確認していた。
そこへ食事を終えたエリオットが歩み寄ってくる。
「隊長、夜間警戒の配置を確認しました。予定通り交代できるよう、全員に伝えてあります」
「ああ、ご苦労」
レオは顔を上げ、青年の様子を確かめた。
「お前の担当は後半だったな」
「はい。ですが、必要なら前半も交代します。先輩たちにも休んでもらいたいので」
レオはしばらくエリオットを見つめ、それから首を振った。
「気持ちは分かるが、今日の移動でお前も疲れているだろう。明日も長い。交代は予定通りでいい」
「ですが、俺はまだ十分動けます!」
「なら、その力は明日のために残しておけ。休息も任務のうちだ」
エリオットは一瞬言葉を詰まらせた。
レオは地図を畳み、続けた。
「仲間を気遣うのはいいことだ。ただ、自分の状態を見極めることも忘れるな。無理を重ねれば、いざというときに周りへ負担をかけることになる」
その言葉に、エリオットは真剣な表情で頷いた。
「……はい。分かりました」
「食事は済ませたか?」
「はい! 十分いただきました!」
「そうか。なら、今のうちに休んでおけ。後半の警戒も頼むぞ」
「了解しました!」
エリオットは敬礼すると、焚き火のそばへ戻っていった。
そこではエリアがほかの騎士たちと楽しそうに話している。昼間は自分が大剣を持ち上げようとして苦戦した話を持ち出され、エリオットはまたも仲間たちにからかわれることになった。
「今度はもう少し鍛えてから挑戦しますよ!」
「うん! いつでも貸してあげる!」
「いや、エリア。そこは止めてやれ」
シエルの言葉に再び笑い声が上がる。
レオもその様子を眺めていたが、やがて立ち上がり、周辺の警戒位置を確認しに向かった。
夜が更けるにつれ、騎士たちは順番に休息を取り始めた。
焚き火の火は小さく保たれ、交代で警戒に立つ者たちの足音が、ときおり林に響く。
エリアも外套を肩に掛け、焚き火から少し離れた場所に腰を下ろしていた。
見上げれば、木々の隙間に星が瞬いている。
遠くで夜鳥の声が聞こえ、沢の水音が絶え間なく続いていた。
明日は、いよいよ北東の集落へ到着する。
手帳に残された記録と、これから自分たちが目にするものを、どこまで結びつけられるだろうか。
そんなことを考えていると、近くからシエルの声がした。
「エリア。そろそろ休んでおけ」
「うん。お兄ちゃんもね」
「ああ」
短く言葉を交わし、エリアは外套を引き寄せた。
焚き火の向こうでは、騎士たちが持ち場を交代している。
夜鳥の声を聞きながら、彼女もゆっくりと目を閉じた。
***
三日目の午後、一行は目的地である北東の集落へ到着した。
以前の魔物騒動による被害はある程度修復されていたが、街道沿いにはまだ壊れた柵や、踏み荒らされた畑の跡が残されている。
村の代表者はレオたちの姿を見ると、安堵した様子で迎え入れた。
騎士団が再び調査に訪れたことは、住民たちにとっても心強いものだったらしい。
レオは騎士たちに役割を分担させ、集落内での聞き取りを始めた。
自身は村の代表者から話を聞き、エリオットとほかの騎士二名には住民への聞き取りを任せる。残る二名は集落の周辺を確認し、シエルとエリアは街道沿いの痕跡を調べることになった。
エリアは乾きかけた泥に刻まれた足跡を見つけると、その場にしゃがみ込み、爪の形や大きさを確かめた。
「……やっぱり、こっちにも来てるんだ」
近くで周囲を警戒していたシエルが、その声に振り返った。
エリアが指さしたのは、大人の足よりもはるかに大きな、四足の魔物と思われる足跡だった。周囲の草も広い範囲で踏み倒されており、複数の個体が通ったことをうかがわせる。
「森の奥にいる種類だと思う。でも、普段はこの辺りまで下りてこないんだよね」
シエルは妹の示した痕跡へ視線を落とした。
足跡はいずれも森から街道へ向かって伸びており、周辺には争ったような形跡もない。別々の個体が同じ場所を通ったのだとしても、その行動には不自然なものがあった。
「足跡の深さが違うな。複数の個体が通ったのは確かだが、同時とは限らない」
「うん。地面の乾き方も違うから、少し時間が空いてるのかもしれない」
エリアは足跡の周辺をもう一度確かめ、手帳を取り出した。
「こっちで見つけたことも書いておこう。村の人が見た魔物と同じかもしれないし」
シエルは頷き、彼女が記録を終えるまで周囲の様子を確認していた。
その頃、エリオットは集落の外れで、一人の年配の女性から話を聞いていた。
女性は数日前に魔物を目撃したらしく、不安そうに森の方角を見つめている。
「大丈夫ですよ。今日はこちらで詳しく調べていますから」
エリオットは相手の目線に合わせるように少し身をかがめ、穏やかな声で話しかけた。
「ただ、原因が分かるまでは、できるだけ森に近づかないようにしてください。何か変わったことがあれば、すぐに村の代表の方へ知らせてくださいね」
女性が頷いたのを確認すると、彼は丁寧に礼を述べ、その場を離れた。
聞き取った内容を手早く手帳にまとめ、レオのもとへ向かう。
「隊長、集落の東側でも目撃情報がありました。三日前の夕方、森から出てきた魔物が二頭、畑の脇を通って北へ走り去ったそうです。住民への被害はありません」
レオは報告を受け、地図と照らし合わせた。
「よく聞いてきてくれた。目撃場所を記録に加えておこう」
「はっ!」
エリオットは返事をすると、ほかの隊員たちとの情報共有へ戻っていった。
その様子を見ていたエリアは、青年が住民に丁寧に接し、必要な情報を正確にまとめていることに感心していた。
出発前には大剣を持ち上げようとして仲間に笑われていたが、任務では自分の役割を理解し、真摯に取り組んでいる。
レオのような騎士になりたいと語っていたことを思い出し、エリアは改めて彼の背中を見送った。
やがて、一通りの聞き取りを終えたレオが、シエルとエリアのもとへ戻ってきた。
「こちらでも新しい目撃情報があった。二日前、森の方角から数頭の魔物が現れたらしい。村人たちが身構える間もなく、街道を横切って西へ走り去ったそうだ」
「それ、たぶんこの足跡の主と同じ種類かも」
エリアが地面を示すと、レオも膝を折って痕跡を確認した。
爪の形は深く、足跡の間隔も広い。相当な大きさの個体が、かなりの速さで移動したものと思われた。
「……なるほど。成体か」
「うん。この大きさなら、たぶんそうだと思う」
レオは足跡の向きを確かめながら、周囲に残された痕跡を見渡した。
「エリオットの報告とも合わせれば、この一帯を通った魔物は少なくとも数頭いることになるな」
「しかも、目撃された日は一致していない」
シエルは地図上の印を指で追った。
「同じ場所を通りながら、北へ向かったものも西へ向かったものもいる。移動の方向は異なるが、どの証言にも森へ戻ったという話はない」
エリアは手帳を開き、これまで記録した日付を確認した。
「少しずつ時期が違うんだね。だったら、森の中でも何日か続けて魔物が移動していたのかもしれない」
「その可能性はある」
レオは地図の北東側へ視線を移した。
目撃情報だけでは、森のどの辺りから魔物たちが移動してきたのかまでは特定できない。
それでも、調査隊が進むべき範囲は徐々に絞られてきていた。
「明日は東側の道から入ろう。まずは足跡が集まっている場所を確認する」
二人が頷いたのを見て、レオは隊員たちにも翌日の予定を伝えるよう指示した。
すでに日は傾き始めている。森の中では日没が早く、地形も十分に把握できていない。
その日のうちに深入りすることは避け、一行は集落で一夜を明かすことになった。
***
翌朝、調査隊は馬を集落に預け、北東の森へ足を踏み入れた。
高く伸びた木々が頭上を覆い、枝葉の隙間から差し込む陽光が、苔むした地面にまだらな模様を落としている。
湿った土と草木の匂いが漂い、ときおり鳥の声が遠くから聞こえてきた。
森の入口付近には、獣道がいくつも交差していた。古い足跡に混じって新しい痕跡も残されており、調査隊はそれらを確かめながら慎重に進んでいく。
八名の一行は、レオを先頭に、互いの姿が確認できる間隔を保ちながら進んでいた。
シエルとエリアはレオに近い位置で周囲の痕跡を調べ、ほかの騎士たちは前後の警戒を分担している。エリオットは最後尾を中心に、後方の安全を確認する役割を任されていた。
小規模な隊では、誰か一人が持ち場を離れるだけでも警戒に隙が生じる。レオは調査に必要なとき以外、隊列を崩さないよう指示していた。
奥へ入るにつれ、踏み荒らされた下草や樹皮に刻まれた傷が目立ち始めた。
特に目を引いたのは、大きさも形も異なる足跡が、いくつもの獣道から合流していることだった。
森に入ってからまだ魔物の姿は見ていない。しかし、残された痕跡からは、複数の種類がこの辺りを通過していることが分かる。
地面に残された足跡を調べていたシエルが、レオを呼び止めた。
「レオ、これを見てくれ」
湿った土には、大きさの異なる足跡が幾重にも刻まれていた。
いずれも森の外へ向かって伸びている。だが、注意深く見比べると、足跡の間隔や深さには違いがあった。
シエルは、重なり合った二種類の足跡を指さした。
「こっちは歩幅が一定だが、その上に残っているものは間隔が広い。かなりの速さで通ったようだな」
近くを歩いていたエリアも足を止め、足元を覗き込んだ。
「こっちの枝も折れてる。しかも、結構高いところだね」
エリアは近くの木を見上げた。
その高さからすると、背の高い魔物が通ったか、勢いよく枝に接触したのかもしれない。
「種類も大きさも違う魔物が、同じ道を使ってるんだね」
「ああ。入口付近で確認した痕跡ともつながっている」
レオは地図を広げ、現在地を確かめた。
複数の獣道が合流するこの場所は、森の奥へ続く緩やかな斜面の途中にあたる。
「この先も調べよう。足跡がどこから続いているのか確かめたい。ただし、隊列は崩すな」
隊員たちは短く返事をし、再び周囲への警戒を強めた。
シエルは盾を扱いやすい位置へ構え直し、エリアもいつでも大剣を抜けるよう背中の柄へ手を伸ばしている。
しばらく進んだところで、後方のエリオットから声がかかった。
「隊長、後方に異常はありません。ただ、少し前から新しい足跡が見当たらなくなっています」
レオは足を止め、エリオットが示した地面を振り返った。
「分かった。引き続き警戒を頼む。何かあればすぐに知らせてくれ」
「はっ!」
エリオットは短く返事をすると、再び周囲の確認に戻った。
レオは隊員たちの配置を確かめてから、森の奥へ足を踏み出した。
***
さらに奥へ進むと、森の様子は少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは、シエルだった。
足を止め、周囲に耳を澄ませる。先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりが、いつの間にか消えていた。
頭上では風に揺れる枝葉がかすかな音を立てている。だが、それ以外には何も聞こえない。
小動物が茂みを駆け抜ける気配も、虫の羽音さえもなかった。
シエルは後方へ視線を向け、隊員たちが揃っていることを確かめた。
「レオ。ここから先、生き物の気配がほとんどない」
その言葉に、エリアも足を止めた。
森の入口では枝の上を飛び回る鳥や、草むらに潜む小動物の姿も見かけた。しかし、今いる場所では、風が葉を揺らす音ばかりが耳に残る。
レオは周囲の地形を確認した。
木々の密度も、地面の状態も、それまで歩いてきた場所と大きな違いはない。枯れ木が増えたわけでも、草木が弱っているわけでもなかった。
見たところ、森そのものは変わらず生い茂っている。
それなのに、鳥も獣も姿を見せない。
「この辺りを調べよう。隊は一度停止する」
レオの指示で、一行は足を止めた。
騎士たちは周辺の警戒にあたり、シエルとエリアもそれぞれ周囲を確認する。
エリオットは近くの隊員と目配せを交わし、後方の警戒位置についた。木々の重なりで視界が遮られる場所を避け、互いの姿を確認できる距離を保ちながら周囲を見渡している。
シエルは足元の落ち葉を軽く払い、地面に残された痕跡を確かめた。
ここまで続いていた足跡は、少し手前で途切れていた。
さらに周囲を調べてみても、新しい足跡は見当たらない。木の根元には古い獣の巣穴があったが、最近使われた形跡はなかった。
シエルは立ち上がり、森の奥を見据えた。
「ここから先は、動物の痕跡まで少ない。森の入口とは明らかに違う」
レオも近くの巣穴へ目を向けた。
この一帯がいつからこうなっているのかは分からない。魔物の移動が始まった時期と関係しているのかどうかも、今の段階では判断できなかった。
「周囲をもう少し確認しよう。ただし、隊列から離れすぎるな」
レオはそう指示すると、自らも近くの木々や地面を調べ始めた。
七名の騎士は互いの位置を確認しながら警戒を続け、エリアも隊列から離れない範囲で周囲の景色に目を向けていた。
大剣は背負ったまま、視線をゆっくりと木々の間へ巡らせている。
何かが気になっていた。
けれど、それが何なのか、まだ分からない。
木の幹に絡みつく蔦も、地面を覆う苔も、枝葉の隙間から覗く空も、取り立てて変わったところはない。
それなのに、視線を動かすたび、ある場所だけが気にかかった。
目の前には太い木が一本立っており、その向こうには細い木が二本並んでいる。どこにでもありそうな景色だったが、何かがしっくりこない。
エリアは数歩右へ移動し、もう一度同じ場所を眺めた。
そして、元の位置へ戻る。
「……あれ?」
今度はゆっくりと左へ歩いてみた。
立つ位置が変われば、手前の木と奥の木の重なり方も変わるはずだった。しかし、二本の細い木の間だけ、景色の動きがほんのわずかに遅れているように見える。
気のせいだろうか。
エリアは目を細め、何度か位置を変えながら確かめた。
やはり、ほかの場所とは違う。
彼女が足を止めたことに気づき、レオが声をかけた。
「エリア? 何か見つけたのか?」
エリアはすぐには答えなかった。
視線は木々の間に向けられたままだった。
「……なんか、あそこだけ変……」
レオとシエルが顔を上げる。
「あそこって?」
近づいてきたシエルに、エリアは木々の隙間を指さした。
「ほら、あの大きな木の右側。奥に細い木が二本並んでるでしょ?」
レオも示された方向へ目を凝らした。
確かに、太い幹の向こうに二本の木が立っている。だが、それ以外に目立ったものはない。
「何か見えるのか?」
「ううん。そうじゃなくて……」
エリアは少し考え、言葉を探した。
「なんていうか、そこだけ景色がずれてるような……?」
レオは彼女の示した場所へ視線を戻した。
「ずれている?」
「うん。ちょっとこっち来て」
彼女はレオの袖を軽く引き、自分が立っていた場所へ案内した。
「ここから見て。それで、少しだけ右に動いてみて」
レオは言われた通りに視線を向けたまま、一歩横へ移動する。
その瞬間、彼の表情が変わった。
手前の木の位置が変わるにつれ、奥に見える景色も少しずつ移り変わる。しかし、二本の木の間にある一点だけ、その動きがわずかに噛み合っていない。
まるで、そこだけ別の景色を重ね合わせているかのようだった。
「……なるほど。確かに見え方が違うな」
レオの言葉を聞き、シエルも二人の隣へ並んだ。
エリアに教えられた通り、視線を固定したまま立つ位置を変えてみる。
初めは何も見つけられなかったが、二度、三度と繰り返すうちに、彼もその違和感を捉えた。
「……そこか」
シエルは木々の間に視線を据えた。
奥に立つ木の幹が、ある角度からだけわずかに歪んで見える。目の錯覚と片づけるには、三人が同じ場所で、同じ現象を確認していた。
彼は一歩前へ出ようとして、足を止めた。
「不用意に近づかない方がいい。何が起きているのか分からん」
レオも同じ考えだった。
「ああ。隊員たちを下がらせよう」
レオは後方の騎士たちへ向き直った。
「全員、現在の位置から後退! あの木々には近づくな。距離を取って警戒態勢を維持しろ!」
すぐさま騎士たちが動き出した。
「エリオット、後方を頼む。ほかの四名をまとめて、安全な位置まで下がらせろ」
「はっ、了解しました!」
エリオットは仲間たちへ声をかけ、互いの位置を確かめながら後退を始めた。
四名の騎士は周囲への警戒を解かず、木々の重なりで死角が生まれない位置へ移動する。エリオットも最後尾で後方を確認し、全員が十分な距離を取ったことを確かめた。
レオはその動きを見届けてから、隣に立つシエルへ視線を向けた。
「シエル、どう見る?」
「分からん。少なくとも、俺の知っている魔法による現象とは違う。近づいて確かめるのは危険だな」
「なら、まずは備えよう」
「ああ。防壁を展開する」
シエルは右手を持ち上げた。
掌に魔力が集まり、三人の前方に淡い光の膜が広がっていく。
やがて、それは地面に沿って丸みを帯び、三人を覆う半球状の防壁となった。
薄く透き通った障壁の向こうには、先ほどと変わらず木々が立ち並んでいる。
シエルは防壁を必要以上に広げず、目の前の現象に注意を向けた。
展開した防壁に変化はなく、何かが接触したような反応も感じられない。
それでも、彼は警戒を解かなかった。
目の前の現象が何なのか分からない以上、防壁に反応がないからといって、安全だと判断することはできなかった。
エリアも背中の大剣へ手を伸ばしたが、まだ抜こうとはしなかった。
「……あそこ、さっきより見えやすくなってない?」
その声に、二人は再び木々の間へ目を凝らした。
確かに、先ほどまで僅かな見え方の違いでしかなかった場所に、薄い揺らぎが生じている。
木漏れ日が揺れているのかと思ったが、周囲の枝葉が動いても、その揺らぎだけは同じ場所に留まっていた。
やがて、何もないはずの空間に、ごく細い線のようなものが浮かび上がった。
陽光の反射にも、水面の揺れにも似た、かすかな歪み。
その向こう側にある木の幹が、ほんの一瞬、あり得ない角度へ折れ曲がって見えた。
シエルは防壁を維持したまま、レオへ声をかけた。
「……レオ。あの線、広がっているぞ」
「ああ。見えている」
レオは視線を逸らさずに答えた。
彼の隣で、エリアも目の前の現象をじっと見つめている。
「ねえ……あれ、何?」
誰も答えられなかった。
シエルの知る魔法の中に、これと似た現象はなかった。少なくとも、自然の中で何の前触れもなく現れるようなものではない。
レオもまた、これまでの任務で数多くの魔物と戦ってきたが、目の前の光景を説明する術を持たなかった。
そして、最初に違和感を見抜いたエリアでさえ、ただその変化を見つめることしかできなかった。
細い歪みは、ゆっくりと縦へ伸びていく。
周囲の木々は変わらずそこに立ち、風も枝葉を揺らしている。
けれど、その一点だけが、まるで別の理に従っているかのように形を変えていた。
レオは剣の柄に手を添えた。
傍らでは、シエルが防壁を維持しながら盾を構え、エリアも大剣の柄をしっかりと握っている。
少し離れた場所では、エリオットをはじめとする五名の騎士たちが、隊長の指示に従って周囲を警戒していた。
三人は言葉を交わさなかった。
ただ、目の前で起きていることが、これまで自分たちの知っていた何ものとも異なるのだということだけは、確かに感じ取っていた。
森の奥で、世界そのものが静かに裂け始めていた。




