第十二話|星灯祭
冬の王都には、少しずつ星が増えていた。
雪を被った建物の軒先には小さな星形の飾りが吊るされ、大通りには色鮮やかな布が渡されている。
中央広場へ続く道では、職人たちが屋台の設営に追われていた。積み上げられた木材の傍らには、まだ取り付けられていない灯具が並び、梯子に上った男が通りの上から仲間へ声を掛けている。
「もう少し右だ! そっちの金具を締めてくれ!」
「分かってる! おい、誰か下から支えてくれ!」
賑やかな掛け声に混じって、金槌の乾いた音が響いた。
朝のうちに雪を除けた石畳には、荷車の轍と人々の足跡が幾重にも残っている。商店の煙突から立ち上る白い煙は冬空へと溶け、通りを行き交う人々は、日に日に華やかになっていく街並みを楽しそうに眺めていた。
星灯祭が近づいている。
***
「あっ……!」
菓子店の前を通りかかったエリア・アステリアが、ふいに足を止めた。
店先に、新しい看板が掛けられている。
そこには、星形の砂糖飾りを乗せた小さな焼き菓子が描かれていた。
「今年もあるんだ!」
思わず駆け寄ると、店の奥から主人が顔を出した。
「おや、今年も来てくれたのかい?」
「こんにちは! ねえ、今年も星飾りの焼き菓子、出すんだよね?」
「ああ、もちろん。去年よりは少し多めに用意するつもりだよ」
「ほんと?」
エリアは目を輝かせた。
去年の星灯祭では、この菓子を食べ損ねていた。
楽しみにして店を訪ねたときには、すでに売り切れ。翌日も早めに足を運んだものの、今度は目の前で最後の一つが売れてしまったのだった。
今年こそは、何としてでも食べたい。
「じゃあ、絶対に早く来るね!」
「ははは。そこまで楽しみにしてくれるなら、腕によりをかけないとな」
「楽しみにしてる!」
エリアは元気よく手を振り、店を後にした。
通りの向こうでは、別の菓子店が大きな石窯を運び込んでいる。少し先には肉料理の屋台が並ぶ予定らしく、店主らしき男が香草の束を軒先に吊るしていた。
まだ準備中の店ばかりだというのに、何を食べようか考えるだけで楽しくなってくる。
去年食べた串焼きも、今年は違う味が出るらしい。
果実のパイを売る店も来ると聞いた。
それに、初めて見る屋台だってあるかもしれない。
「何から食べようかなぁ……」
エリアは看板を一つひとつ眺めながら、大通りをゆっくり歩いた。
雪を踏む足取りは軽い。
あれも食べたいし、これも食べたい。けれど、せっかくなら誰かと一緒がいい。
違うものを買って、少しずつ分け合って。
気に入ったものがあれば、もう一度買いに戻るのも楽しそうだ。
「……そうだ!」
エリアはぽん、と手を打った。
「お兄ちゃんとレオも誘ってみよう!」
思い立ったら、じっとしてはいられない。
彼女はくるりと向きを変え、近衛騎士団の施設へと歩き出した。
細かな雪が、鮮やかな赤い髪に舞い降りていた。
***
近衛騎士団の受付には、数人の兵士が詰めていた。
エリアが姿を見せると、受付にいた若い兵士が顔を上げた。
「エリア様。こんにちは」
「こんにちは。お兄ちゃんとレオに会いたいんだけど、いるかな?」
「少々お待ちください」
兵士は手元の記録を確かめ、近くにいた同僚にも確認を取った。
「シエル様は本日、王都の外へ任務に出られています。夕刻にはお戻りになる予定ですが」
「そっかぁ。じゃあ、お兄ちゃんには後で聞こうかな」
「レオ隊長でしたら、現在は執務室にいらっしゃいます。お取り次ぎいたしましょうか?」
「うん、お願い!」
兵士が奥へ向かう間、エリアは受付脇の長椅子に腰を下ろした。
外套の肩に残っていた雪が、建物の暖かさで少しずつ溶けていく。
窓の向こうでは、相変わらず白い雪が降り続いていた。
ほどなくして戻ってきた兵士が、エリアへ声を掛ける。
「レオ隊長がお会いになるそうです。ご案内いたします」
「ありがとう」
エリアは兵士に続いて廊下を進み、執務区域の奥にある一室へ向かった。
扉の前で兵士が足を止め、控えめにノックする。
「レオ隊長、エリア様をお連れしました」
「入れ」
聞き慣れた声が返ってきた。
扉が開くと、エリアは満面の笑みで顔を覗かせた。
「レオ!」
机に向かっていたレオ・アルディオンが、書類から顔を上げる。
「エリアか。どうした、今日は」
「えへへ、ちょっとお誘いに来たの」
「誘い?」
レオは椅子から立ち上がった。
近づいてきたエリアの赤い髪には、外を歩いてきたときの雪がまだいくつか残っている。
「ずいぶん雪がついてるな」
そう言って、ごく自然に手を伸ばした。
ぽん、ぽん。
髪に散っていた雪が、彼の指先で払われる。
「寒かっただろう。紅茶でも淹れるか」
「うん、ありがとう!」
レオが椅子を勧めると、エリアは腰を下ろした。
ほどなくして温かな紅茶が二人の前に置かれる。エリアはカップを両手で包み込み、立ち上る湯気にほっと息をついた。
「あったかい……」
「外はまだ降ってるのか?」
「うん。でも街はもう星灯祭の飾りでいっぱいだよ」
「ああ。もうそんな時期か」
レオは窓の外へ目を向けた。
数日前から、大通りの飾り付けが進んでいることには気づいていた。王宮周辺の警備計画にも星灯祭の予定が組み込まれ、騎士団内でも準備が始まっている。
とはいえ、こうしてエリアの弾んだ声を聞くと、祭りがすぐそこまで近づいていることを改めて実感した。
「それでね」
エリアは待ちきれない様子で身を乗り出した。
「今年も星飾りの焼き菓子が出るんだって!」
「星飾り?」
「ほら、小さなお星さまが乗ってるやつ。去年、売り切れてて食べられなかったの」
「そうだったのか」
「そうなの。だから今年こそ絶対に食べたいんだ」
レオは楽しそうに話すエリアへ目を向けた。
「なるほど。それでそんなに張り切ってるのか」
「それもあるんだけどね」
エリアは紅茶をひと口飲み、カップを受け皿に戻した。
「せっかく星灯祭なんだし、お兄ちゃんとレオも一緒にどうかなって思って」
「俺たちを?」
「うん。一人で屋台を回るのも楽しいけど、みんなで行けばいろいろ分け合えるし」
「なるほどな」
「それに、レオとも一緒に行きたいなって」
レオはカップを置き、エリアに向き直った。
「いいぞ。ちょうどその日は休みを取れる」
「ほんと?」
「ああ。たまにはゆっくり祭りを見て回るのも悪くない」
「やった! じゃあ、約束ね」
「ああ、約束だ」
エリアは満足そうに頷き、再び紅茶へ手を伸ばした。
「お兄ちゃんにも聞こうと思ったんだけど、今日は任務でいないんだって」
「ああ。近郊の巡回に出ている。夕方には戻るはずだ」
「そっか。じゃあ帰ってきたら聞いてみる」
その後もエリアは、通りで見つけた屋台の話を聞かせた。
今年は新しい店がいくつも出ること。果実のパイを売る店が、去年とは違う種類の果実を使うらしいこと。
レオも昨年の星灯祭で食べた料理を思い出し、あの店は今年も出るのだろうかと尋ねた。
「あっ、そこも準備してたよ」
「そうか。あそこの煮込みはなかなか良かったからな」
「じゃあ、そこにも行こう」
そうして二人は、当日訪ねてみたい屋台をいくつも挙げていった。
窓の外では雪が降り続いている。
机にはまだ書類が残っていたが、レオは急いで話を切り上げることもなく、しばらくエリアとの時間を楽しんでいた。
***
星灯祭の当日。
王都は朝から活気に満ちていた。
雪を被った建物の軒先には星形の飾りが揺れ、大通りには色とりどりの屋台が並んでいる。
薪窯から立ち上る煙が冬空へ溶け、焼きたてのパンや肉料理の香りが通りに漂っていた。
子どもたちは屋台の間を駆け回り、商人たちの呼び声が賑やかに響いている。
「レオ! こっちこっち!」
エリアが人混みの向こうから手を振った。
「そんなに急ぐな。転ぶぞ」
「大丈夫だってば」
今日は大剣を屋敷に置き、防寒用の外套を羽織っている。
エリアは赤い髪を冬風になびかせながら、待ちきれない様子で屋台を見回していた。
レオも騎士としての装備ではなく、厚手の外套を羽織っている。
任務のない一日を、二人でゆっくり過ごすつもりだった。
「まずはあそこ!」
エリアが真っ先に向かったのは、例の菓子店だった。
店先にはすでに人だかりができている。
木箱の中には、小さな丸い焼き菓子が綺麗に並んでいた。
こんがりと焼けた生地には薄い砂糖衣が掛けられ、その中央には小さな星形の砂糖菓子が一つずつ乗っている。
「……あった!」
エリアは思わず足を速めた。
「レオ、まだある!」
「よかったな。間に合ったじゃないか」
二人は列に並び、順番を待った。
窯の奥からは甘い香りが漂い、店主が焼き上がったばかりの菓子を慎重に型から外している。
やがて順番が来ると、エリアは待ちきれない様子で注文した。
「二つください!」
店主は顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「おや、今年は間に合ったね!」
「うん。去年からずっと楽しみにしてたの」
「ははは、それなら焼いた甲斐があったよ」
小さな木皿に載せられた焼き菓子を受け取ると、エリアはしばらくその姿を眺めていた。
「見て、レオ。このお星さま」
「ああ。ずいぶん細かく作ってあるな」
「可愛いよねぇ……」
薄く透き通るような白い星は、指先ほどの大きさだった。
角の先まで丁寧に形作られ、表面には細かな砂糖の粒が煌めいている。
エリアは少し迷ってから、星の飾りを避けるように焼き菓子の端をかじった。
柔らかな生地がほろりと崩れ、焼きたての香りが広がる。
彼女は目を細め、しばらく何も言わずに味わっていた。
「……来年も絶対買おう」
ぽつりと呟いた言葉に、レオが笑った。
「まだ今年の分も食べ終わってないぞ」
「もう決めたの!」
「気が早いな」
レオも自分の焼き菓子をひと口食べた。
エリアは星の砂糖菓子を最後まで残しながら、少しずつ生地をかじっている。
その様子を眺めていたレオは、ふと自分の菓子に目を落とした。
そして、上に乗っていた星を指先でつまみ上げる。
「そんなに嬉しいなら、ほら」
エリアの焼き菓子の上へ、もう一つの星をちょこんと乗せてやった。
「……えっ!」
エリアが目を丸くする。
「いいの?」
「ああ。俺は菓子だけでも十分だ」
「でも……」
「遠慮するな。せっかく楽しみにしてたんだろう?」
エリアは二つ並んだ小さな星を見つめ、それから顔を上げた。
「ありがとう、レオ!」
「どういたしまして」
「お星さまが二つになっちゃった」
大事そうに木皿を持ち直すエリアの隣で、レオは残りの焼き菓子を口へ運んだ。
エリアはしばらく二つの星を眺めていたが、やがて一つをそっと口に含んだ。
小さな砂糖菓子は、舌の上でゆっくりとほどけていく。
彼女は満足そうに頬を緩め、もう一つを大切そうに眺めたあと、それも口へ運んだ。
去年から楽しみにしていた焼き菓子。
今年は、思いがけず二つの星まで味わうことができた。
***
その後も二人は、賑わう大通りをゆっくりと歩いた。
香草をまぶした串焼き肉。
根菜と肉をじっくり煮込んだ温かなスープ。
石窯で焼かれた、具だくさんの包みパン。
どの屋台も人々で賑わい、あちこちから食欲をそそる香りが漂っていた。
エリアは気になる店を見つけるたびに足を止め、レオもその隣で品定めを楽しんだ。
やがて、果実のパイを売る屋台の前でエリアが立ち止まった。
「……あ、これ」
木箱に並んだ小さなパイは、どれもこんがりと焼き上がっている。
表面には細かな切り込みが入り、中から赤い果実の蜜が覗いていた。
「これも食べたいな」
「まだ入るのか?」
「もちろん」
「まったく、底なしだな」
「レオだって結構食べてるじゃない」
「それは否定しない」
エリアは楽しそうに笑い、パイを一つ買った。
少し冷ましてから二つに割ると、中には煮詰められた果実の餡がぎっしりと詰まっていた。
温かな湯気とともに、甘酸っぱい香りが立ち上る。
「はい、レオ。半分食べる?」
「ああ、ありがとう」
レオは差し出された半分を受け取った。
二人で石畳の端へ寄り、熱々のパイを口に運ぶ。
さくりとした生地の中から、濃厚な果実の味が広がった。
エリアは満足そうに頷き、通りの向こうへ視線を移した。
「ねえ、あっちのお店も見ていい?」
「もちろんだ」
レオは残りのパイを食べ終え、彼女の隣に並んだ。
「今日はそのために来たんだからな」
エリアは軽い足取りで歩き出した。
通りには人々の笑い声があふれ、店先からは温かな湯気が立ち上っている。
何を話すでもなく、次に気になる屋台を探して歩く。
ときにはエリアがレオの腕を引き、ときにはレオが混み合った通りの先に空いた道を見つける。
同じものを眺め、同じものを食べ、何気ない会話を交わしながら。
二人は冬の王都をゆっくりと歩いていった。
***
やがて、空が夕暮れの色に染まり始めた。
王都の中央広場には、多くの人々が集まっていた。
広場の中心には、葉を落とした大樹が立っている。
その幹は何人もの大人が手をつないでも囲みきれないほど太く、枝は冬空へ向かって大きく広がっていた。
広場の一角では、小さな星形の魔道具が人々へ手渡されていた。
「レオ、私たちも」
「ああ」
二人は星のかけらを受け取った。
エリアは掌に乗せた小さな星を、じっと見つめる。
淡い金色の光が、指先を柔らかく照らしていた。
周囲では、家族連れが寄り添い、子どもたちは掌の星を大事そうに包み込んでいる。
年老いた夫婦が穏やかな表情で大樹を見上げ、友人同士で肩を並べる者もいれば、一人静かに星を手にする者もいた。
やがて、王都の鐘が鳴り始めた。
澄んだ音が、夕闇の広がる街へゆっくりと響いていく。
人々が一斉に掌を開いた。
エリアもそっと手を差し出す。
その上にあった星のかけらが、ふわりと宙へ浮かび上がった。
「あ……」
小さな光が、ゆっくりと昇っていく。
一つ、また一つ。
広場のあちらこちらから、無数の星が舞い上がった。
淡い金色の光は冬の冷たい空気の中を漂い、やがて大樹の枝へと集まっていく。
枝先に一つ。
その隣に、また一つ。
幹に近い太い枝にも、細く伸びた梢にも、次々と小さな星が宿っていった。
夜空から降りてきた星々が、そのまま木に留まったかのようだった。
雪は静かに降り続いている。
舞い落ちる白い結晶が光を受け、幾千もの小さな煌めきとなって広場を包んだ。
エリアは言葉もなく、その光景を見上げていた。
レオもその隣で、星々の行方を見つめている。
人々の手から離れた星のかけらは、生命の宿る木へと還っていく。
亡き者の魂を鎮めるために、遠い昔から捧げられてきた光だった。
やがて最後の星が枝に宿ると、広場のあちらこちらから感嘆の声が上がった。
「……すごいね」
エリアが小さく呟く。
「ああ」
レオは頷いた。
「何度見ても、見事なものだな」
エリアはもう一度、大樹を見上げた。
光を宿した枝が、夜風に揺れている。
そのとき、遠くから音楽が聞こえてきた。
王宮の方角だった。
「あっ、レオ。舞踏会が始まるよ!」
「もうそんな時間か」
「行こう!」
「ああ」
二人は最後にもう一度、星を宿した大樹を振り返った。
冬の夜に輝くその姿を背に、王宮へ続く道を歩き始めた。
***
星灯祭の夜、王宮の門は大きく開かれていた。
普段なら限られた者しか通れない石畳の道を、多くの人々が行き交っている。
華やかな衣装を纏った貴族もいれば、仕事帰りの服装に外套を羽織った職人もいる。
家族に手を引かれた子どもたちや、友人同士で楽しそうに笑う若者たちの姿もあった。
大広間には、無数の灯りがともされていた。
高い天井から下がる豪華な灯具が金色の光を落とし、磨き上げられた床には人々の姿が柔らかく映っている。
壁際には料理や飲み物が用意され、楽団が優雅な旋律を奏でていた。
「わあ……」
エリアが思わず声を漏らす。
「今年もすごいね」
「ああ。見事なものだ」
レオは大広間を見渡した。
近衛騎士として王宮を訪れる機会は多いが、今夜の大広間は普段とはまるで違って見えた。
格式ある宮殿の中に、人々の笑顔と賑わいが満ちている。
やがて楽団の演奏が始まると、広間の中央では王族や貴族たちが優雅に踊り始めた。
ゆったりとした旋律に合わせ、男女が手を取り合う。
衣装の裾が床の上に美しい弧を描き、その周囲では人々が楽しそうに眺めていた。
エリアはしばらくその光景を見つめていたが、やがてレオへ顔を向けた。
「ねえ、レオ」
「ん?」
「私たちも踊ろうよ」
レオは手を差し出した。
「ああ。一曲どうだ?」
エリアは迷うことなく、その手を取った。
レオが軽く身をかがめると、エリアも優雅に一礼して応じる。
楽団の旋律が流れ始めると、二人は滑らかに足を運び、舞踏の輪へ加わった。
レオの手がエリアの背に添えられる。
エリアは彼の肩へ手を置き、軽やかに身体を動かした。
ゆったりとした旋律に合わせ、二人の足並みが自然に揃っていく。
レオが一歩踏み出せば、エリアもその動きに合わせる。
エリアが身体を返せば、レオが滑らかに導いた。
「ふふっ、レオ、踊るの上手だね」
「エリアもな」
「こういうのもちゃんと習ったんだから」
「知ってるさ。シエルからも聞いている」
「もう、お兄ちゃんったら……」
エリアは苦笑しながらも、レオの次の動きに軽やかに応じた。
旋律に合わせて身体を回すたび、赤い髪が柔らかく揺れる。
大広間の灯りが、その髪に温かな色を落としていた。
やがて楽団が曲の終わりへ向けて旋律を重ねていくと、二人の足取りもゆっくりと落ち着いていった。
最後の音が響き、レオが軽く一礼する。
エリアもそれに応じ、顔を上げた。
「楽しかった。もう一曲踊らない?」
「ああ、いいぞ」
次の曲が始まると、二人は再び舞踏の輪へ加わった。
***
少し離れた場所で、その光景を見つめている男がいた。
シエル・アステリアだった。
長い銀白色の髪を後ろへ流し、整った装いで大広間に立っている。
知人との挨拶を終えたところで、舞踏の輪に見覚えのある二人を見つけ、足を止めていた。
妹が踊っていること自体は珍しくない。
だが、その相手の表情には少し驚かされた。
「……あいつ、あんな顔するんだな」
「誰のことだ?」
横から聞き慣れた声がした。
振り向くと、そこにはヴァルター・グレイヴが立っていた。
白髪を整え、立派な体躯に品のよい礼服を纏っている。
「先生」
「何を見ていた?」
「あそこです」
シエルが舞踏の輪を示す。
ヴァルターは視線を向け、金髪の男と赤髪の娘を見つけると、口元を緩めた。
「ほう。レオとエリアか」
「ええ。レオが随分楽しそうで」
ヴァルターはしばらく二人を眺め、それから愉快そうに笑った。
「はっはっは! 確かに珍しいものを見たな」
「でしょう?」
「あの男は普段から責任を背負い込むところがある。今夜くらいは存分に楽しめばいい」
シエルも頷いた。
舞踏の輪では、レオとエリアが何かを話して笑っている。
長年付き合ってきた友人の、少しばかり珍しい姿だった。
シエルはその光景を眺めながら、自然と口元を緩めた。
そのときだった。
「あなた?」
柔らかな女性の声が、二人の背後から届いた。
振り返ると、上品な衣装を纏った美しい女性が立っていた。
ヴァルターの妻だった。
彼女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、右手をすっと差し出した。
それ以上、何も言わない。
ヴァルターは差し出された手を見つめ、それから豪快に笑った。
「はっはっは! そうだったな。待たせた」
大きな手で妻の手を取る。
その所作は驚くほど自然で、長年連れ添った二人の親しさが感じられた。
シエルは思わず口元を緩めた。
「……先生にも、勝てないものがあるんですね」
ヴァルターは振り返り、片眉を上げた。
「シエル。勝てない相手と、勝ってはならん相手は違うぞ」
「なるほど」
「もっとも、私の場合は両方だがな!」
豪快な笑い声が響いた。
奥様は呆れたように微笑みながら、夫の腕を軽く引いた。
「あなた、皆さんが踊り終えてしまいますよ?」
「おっと、それはいかんな」
ヴァルターは妻へ向き直り、堂々とした足取りで舞踏の輪へ進んでいった。
その背中を見送りながら、シエルは肩を揺らした。
「まったく、先生には敵わないな……」
ところが、彼がひと息つく間もなく、今度は別の声が掛かった。
「シエル様」
振り向くと、華やかな衣装を纏った若い女性が立っていた。
「よろしければ、一曲ご一緒いただけませんか?」
シエルは穏やかに微笑んだ。
「ええ、喜んで」
差し出された手を取り、舞踏の輪へ向かう。
そして一曲を終えれば、また別の女性から声が掛かった。
今夜のシエルも、なかなか忙しいようだった。
***
夜が深まるにつれ、王宮の大広間はますます賑やかになっていった。
最初は優雅だった楽団の演奏も、いつしか軽快な曲調へと変わっている。
人々が手拍子を打ち、笑い声が広がった。
貴族の青年が職人の娘と踊り、年配の夫婦が若者たちに混じって足を踏み鳴らす。
子どもたちは大人の手を引いて輪の中へ入り、楽しそうにくるくると回っていた。
大広間の隅では、王宮の料理人たちが用意した料理や菓子が振る舞われている。
小さく切り分けられたケーキや、繊細な砂糖細工。艶やかな褐色をしたチョコレート菓子も、銀の皿に美しく並べられていた。
「……レオ」
「ん?」
「あそこ……!」
エリアが菓子の並ぶ卓を指さした。
レオはその先を見て、思わず笑った。
「まだ食べるつもりか?」
「だって、チョコレートがあるんだよ」
「ああ、見えてる」
「ちょっとだけ、食べてきてもいい?」
「もちろんだ。俺も一つもらおう」
エリアは小さなチョコレートを一つ取り、口に含んだ。
濃厚な香りが広がり、ほろ苦さのあとから控えめな甘みが追いかけてくる。
エリアはゆっくりと味わい、満足そうに息をついた。
「……お兄ちゃんが前に持って帰ってきたのとは、ちょっと違う味」
「そうなのか?」
「うん。あっちの方が少し苦かったかな」
レオも一つ手に取り、口へ運んだ。
「なるほど。こっちは香りが柔らかいな」
「うん。どっちも好きだけどね」
エリアはもう一度菓子の並ぶ卓を眺めたが、今度は何も取らずにレオへ顔を向けた。
「よし。じゃあ、また踊ろう!」
「もう休憩は終わりか?」
「うん。せっかくのお祭りだもん」
レオは差し出されたエリアの手を取り、再び舞踏の輪へ向かった。
広間の中央では、軽快な音楽に合わせて人々が大きな輪を作っている。
その中には、王の姿まであった。
誰かが王へ手を差し出し、王も笑いながらその手を取る。
周囲から歓声が上がった。
「レオ、見て!」
「ああ。陛下も随分楽しそうだな」
「私たちも行こう」
二人はその輪の中へ加わった。
先ほどまでの優雅な舞踏とは違い、今度は誰もが思い思いに音楽を楽しんでいる。
隣の人と手を取り、くるりと回る。
軽快な旋律に合わせて足を踏み鳴らす。
ときには見知らぬ者同士が手を取り合い、笑いながら踊る。
レオとエリアも、その賑やかな輪の中に溶け込んでいった。
王宮の大広間には、人々の笑い声がいつまでも響いていた。
***
どれほど踊っていただろう。
楽団がひと息つく頃には、さすがのエリアも少し疲れた様子だった。
「ふぅー……いっぱい踊ったぁ」
「そうだな。少し休むか」
「うん」
二人は広間の端へ移動した。
果実の飲み物を受け取ったエリアが、ようやくひと息つく。
すると、聞き慣れた声がした。
「やっと見つけた」
「お兄ちゃん!」
シエルが近づいてくる。
その表情には、どこか疲れたような笑みが浮かんでいた。
「二人とも、随分楽しんでいたな」
「うん。すっごく楽しかったよ」
「それは何よりだ」
レオが口元を緩める。
「シエルも随分忙しそうだったな」
「見ていたのか?」
「何度か見かけたぞ。なかなかの人気者じゃないか」
「まったく……一曲終えるたびに次の誘いが来るんだ。ありがたいことだが、少し休ませてほしいものだな」
「えー、お兄ちゃん、そんなに踊ってたの?」
「エリアたちほどじゃないと思うがな」
三人の間に笑い声が広がった。
やがてシエルが広間の外へ目を向けた。
「少し外の空気を吸わないか?」
「いいね」
エリアが頷く。
レオも飲み物を置き、二人とともにテラスへ向かった。
扉を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。
雪はまだ細かく降り続いている。
王宮の庭園には薄く雪が積もり、その向こうには王都の灯りが広がっていた。
街路にともる明かりが、雪の白さに柔らかく滲んでいる。
そして、中央広場。
人々が捧げた無数の星のかけらを宿した大樹が、冬の夜空に輝いていた。
「わあ……まだあんなに綺麗」
エリアは手すりのそばへ歩み寄った。
赤い髪が夜風に揺れる。
レオとシエルも、その隣に並んだ。
しばらく三人は、光に満ちた王都を眺めていた。
背後の広間からは、まだ楽しそうな音楽と笑い声が聞こえてくる。
「そういえばさ」
エリアがふと思い出したように口を開いた。
「お兄ちゃん、今年の星灯祭の屋台、全然一緒に回れなかったね」
「ああ。昼間は用事があったからな」
「いいお店がいっぱいあったんだよ。来年は一緒に行こうね」
シエルは妹の顔を見て、穏やかに頷いた。
「ああ。都合がつけばな」
「レオもね。また一緒に行こう」
「ああ、そうだな」
レオは自然に応じた。
「ただし、来年は少し腹を空かせてから行かないとな」
「えっ、どうして?」
「エリアの食べ歩きに付き合うなら、それくらいの準備は必要だろう」
「もう、そんなに食べてないもん」
シエルが吹き出した。
「いや、そこはさすがに否定できないだろう」
「お兄ちゃんまで……!」
エリアが頬を膨らませる。
けれど、すぐに自分でもおかしくなったのか、声を上げて笑った。
レオもシエルも、つられて笑う。
白い雪が静かに舞い降りる中、三人の笑い声が夜空へ溶けていった。
レオは隣に立つエリアへ目を向けた。
兄と言い合いながら、楽しそうに笑っている。
今日一日、何度も見た笑顔だった。
この笑顔が、これからも変わらず続くように。
レオはそんなことを思いながら、静かに王都へ視線を戻した。
「レオ?」
エリアが顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「いや」
レオは小さく笑った。
「いい祭りだったなと思ってな」
「うん。誘ってよかった」
「ああ。ありがとう、エリア」
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
遠くで鐘が鳴った。
王都の屋根には雪が積もり、街路には温かな灯りが続いている。
中央広場の大樹には、人々が捧げた星のかけらが輝いていた。
そのとき、王宮の大広間から再び軽快な音楽が聞こえてきた。
「あっ、また始まった!」
エリアが振り返る。
「まだ踊るつもりか?」
シエルが呆れたように尋ねる。
「もちろん。だって、星灯祭はまだ終わってないもん!」
レオとシエルは顔を見合わせた。
「まったく、元気な奴だ」
「昔からこうなんだ。諦めろ、レオ」
「そうらしいな」
「ほら、二人とも!」
エリアが両手を差し出す。
レオとシエルは、それぞれその手を取った。
三人は笑いながら、温かな光と音楽の満ちる大広間へ戻っていった。
その背後では、冬の王都に降る雪を受けながら、星々を宿した大樹が静かに輝き続けていた。
星灯祭の夜は、まだ続いている。




