第十三話|冬を越える刃
冬の朝、近衛騎士団の訓練場には、剣戟の音が響いていた。
前夜に降った雪は、騎士たちが行き交ううちに踏み固められ、ところどころ灰色の地面をのぞかせている。陽の当たる場所では雪解けが進んでいたが、建物の陰にはまだ氷が残り、足を踏み入れれば滑りそうな箇所も少なくなかった。
騎士たちは鎧の下に防寒着を着込み、普段よりも動きにくい装備で訓練に臨んでいた。白い息を吐きながら剣を交え、足を運ぶたびに雪が小さく音を立てる。
その一角で、レオは若い騎士と向かい合っていた。
相手が踏み込み、上段から剣を振り下ろす。
レオはそれを斜めに受け流し、わずかに身体を開いた。若い騎士は間髪入れずに追撃しようとしたが、大きく踏み出した足が雪の下の氷を捉えた。
「うわっ……!」
身体が傾く。
慌てて立て直そうとしたときには、レオの剣先が胸元へ向けられていた。
「そこまでだ」
若い騎士は悔しそうに息を吐いた。
「申し訳ありません。足元を見ていませんでした」
「普段なら悪くない踏み込みだ。だが、雪の上では話が違う。足元を確かめずに動けば、今みたいに隙ができる」
レオは剣を下ろし、相手が滑った場所へ目を向けた。
「特に今日は、雪の下が凍っている場所もある。踏み込む力が強ければ、それだけ滑ったときに立て直しにくいからな」
「はい!」
「もう一度やってみるか?」
「お願いします!」
若い騎士は剣を構え直した。
今度は先ほどよりも歩幅を抑え、足元を確かめながら間合いを詰めてくる。レオはその変化を見て取り、相手の攻撃を受けながら少しずつ動きを速めていった。
剣が打ち合わされるたび、乾いた音が冷たい空気に響く。
やがて、騎士が横薙ぎの一撃を放った。
レオは半歩退いてかわし、返す刃で相手の剣を弾く。若い騎士は咄嗟に身を引いたが、そこへレオが踏み込み、勝負は決した。
「よし、今の方がいい」
レオが声をかけると、若い騎士は肩で息をしながら顔を上げた。
「ありがとうございます!」
「最後は少し慌てたな。そこは次の課題だ」
そう言って笑うと、騎士も照れくさそうに笑った。
周囲では、ほかの隊員たちも二人一組となって訓練を続けている。
一対一の手合わせだけではない。複数人で位置を変えながら、互いの動きを補う訓練も行われていた。
レオが隣の組へ目を向けると、一人の騎士が攻撃を受け止め、もう一人が側面へ回り込もうとしていた。だが、雪を避けようとしたことで二人の距離が開き、相手に入り込む隙を与えてしまう。
「そこで止めろ」
レオが声をかける。
「今の位置だと、二人の間を抜かれるぞ。互いの動きが見える距離を保て」
隊員たちは頷き、改めて位置を取り直した。
普段なら難なくこなせる連携も、足場が変われば同じようにはいかない。
それでも、何度か動きを繰り返すうちに、互いの歩幅や間合いが少しずつ揃っていった。
レオはその様子を見守りながら、次の指示を出そうとした。
そのときだった。
「隊長!」
訓練場の入口から、慌ただしい足音が近づいてきた。
騎士団の伝令だった。
息を切らして駆け寄ってきた男の表情を見て、レオは足を止めた。
「どうした?」
「西方街道へ派遣された討伐隊から、緊急報告が届きました」
周囲の剣戟が、次第に静まっていく。
「大型の猪に似た魔物の群れと交戦しましたが、討伐に至らず撤退したとのことです。負傷者も複数出ています」
「容体は?」
「重傷者が二名。ほかにも数名が負傷しています。現在は近隣の集落で手当てを受けており、死者は確認されていません」
レオの表情が引き締まった。
西方街道では、数日前から魔物による輸送隊への襲撃が報告されていた。
王都へ向かう荷車が足止めされ、通行を見合わせる商人も増えているという。その対応に向かった部隊が、撤退を余儀なくされたのだ。
「想定より数が多かったのか?」
「はい。それに、現地の積雪が予想以上に深かったそうです。凍結した地面で転倒した騎士もいたと」
「なるほど……」
レオは訓練場の地面へ一度目を落とした。
王都の中でさえ、この足場だ。除雪の行き届かない街道や林の中であれば、さらに厳しい状況だろう。
「上からの指示は?」
伝令が姿勢を正した。
「隊長の部隊に出動命令が下りました。速やかに現地へ向かい、魔物を討伐。西方街道の安全を確保せよ、とのことです」
「分かった」
レオは短く頷き、隊員たちへ向き直った。
「訓練はここまでだ。全員、出動準備に入れ!」
張りのある声が訓練場に響く。
「現地はここより雪が深いそうだ。防寒具と足元の装備を確認しろ。予備の手袋も忘れるなよ!」
「はっ!」
隊員たちは一斉に動き始めた。
レオは伝令に向き直る。
「詳しい報告書は届いているか?」
「はい。執務室へ届けられています」
「なら、先に目を通しておく。追加の情報が入ったら知らせてくれ」
伝令が頷き、足早に去っていく。
レオは訓練用の剣を片づけると、白く曇った空を見上げた。
西方街道は、王都へ食料や日用品を運び込む大切な道の一つだ。
冬の輸送が滞れば、市場に並ぶ品が減るだけでは済まない。王宮や騎士団へ届けられる物資にも影響が出る。
これ以上、通行を止めておくわけにはいかなかった。
***
王都を出発してから、街道の景色は少しずつ変わっていった。
城壁の近くでは雪の少なかった道も、林や丘陵の間を進むにつれて白く覆われていく。道の両脇には吹き溜まりができ、風にさらされた場所では凍りついた轍が硬く残っていた。
ときおり馬の蹄が雪を深く踏み込み、乾いた音を立てる。
レオは先頭近くで手綱を取りながら、道の状態を確かめていた。
陽の当たる斜面では雪解けが進んでいる一方、木陰には厚く積もったままの場所もある。荷車の通った跡は残っていても、最近になってつけられた新しい轍はほとんど見当たらなかった。
「隊長、思った以上の雪ですね」
隣を進む騎士が、馬の首を軽く撫でながら言った。
「ああ。先遣隊も苦労しただろうな」
「この先は、さらに深くなるそうです」
「急ぎたいところだが、馬に無理はさせるなよ。帰りの足まで失ったら困るからな」
騎士は頷き、後続へ速度を落とすよう伝えた。
やがて、街道沿いに小さな集落が見えてきた。
家々の屋根には雪が積もり、煙突からは細い煙が立ちのぼっている。村の広場には何台もの荷車が停められ、積み荷を覆う布の上にも白い雪が残っていた。
通行を見合わせている商隊だろう。
御者たちは軒先で火に当たりながら、時折、心配そうに街道の先を見つめていた。
レオは隊員たちに馬と装備の確認を命じ、自らは先遣隊の指揮官を訪ねた。
案内された建物の中には、負傷した騎士たちが休んでいた。
包帯を巻いた腕を吊る者もいれば、脚を痛めて寝台に横たわる者もいる。室内には薬草の匂いが漂い、村の人々が湯や布を運び込んでいた。
レオの姿を見た指揮官が、椅子から立ち上がる。
「アルディオン隊長」
「座っていてくれ。負傷者の具合はどうだ?」
「手当ては済んでいます。重傷者も、今のところ容体は落ち着いています」
「そうか。よかった」
レオは室内の騎士たちへ目を向けた。
疲労の色は濃いものの、互いに声を掛け合う様子からは、ようやく安全な場所へ戻れた安堵が感じられた。
「討伐を果たせず、申し訳ありません」
指揮官が口を開いた。
「思った以上に魔物の数が多く、雪にも足を取られました。これ以上戦闘を続ければ、負傷者を連れて戻ることも難しくなると判断しまして……」
「それでいい」
レオは落ち着いた声で答えた。
「全員を連れて戻ったんだろう。無理をして被害を増やすより、ずっといい判断だ」
指揮官はわずかに目を見開いた。
「ありがとうございます」
「礼なら、部下たちにも言ってやってくれ。よく持ちこたえたな」
そう言ってから、レオは机に広げられた地図へ視線を移した。
「それで、詳しい状況を聞かせてもらえるか?」
指揮官は地図の一角を指した。
「襲撃は主に、この林に挟まれた区間で起きています。魔物は大型の猪に似た種類で、普段はもっと森の奥にいるはずなんですが、冬に入ってから街道付近へ現れるようになりました」
「食料を求めて下りてきたのか」
「おそらく。特に穀物や保存食を積んだ荷車が狙われています。馬が襲われた例もあります」
レオは頷き、続きを促した。
「一頭ずつなら対処できない相手ではありません。ただ、群れが大きい。こちらが一頭を仕留めても、すぐに別の個体が突進してくるんです」
指揮官の指先が、地図上の街道をなぞった。
「ここは両側を林に挟まれています。街道そのものはまだ歩けますが、少し外れると雪が深い。魔物の突進を避けるために踏み込んだ騎士が、凍結した地面で転倒しました」
「魔物の動きは?」
「目の前の相手へ、ほとんど躊躇なく突進してきます。仲間が倒れても退こうとしません。かなり興奮しているようでした」
レオは地図を見つめた。
巨大な猪型の魔物。
強い突進力。
数の多さに加え、自由に動けない足場。
先遣隊が苦戦した理由が、少しずつ見えてきた。
「分かった。十分参考になった」
地図から顔を上げる。
「負傷者の搬送は手配してあるのか?」
「はい。王都へ連絡済みです」
「なら、こちらは任せた。街道の魔物は俺たちが引き受ける」
指揮官は立ち上がり、姿勢を正した。
「ご武運を」
「ああ。そちらも気をつけて帰れ」
建物を出ると、冷たい風が頬を打った。
広場では隊員たちが馬に水を与え、装備の点検を進めている。
レオは林の向こうへ続く街道を見つめた。
あの先で、何台もの荷車が止められている。
冬の王都を支える物資を、これ以上滞らせるわけにはいかなかった。
***
翌朝、レオたちは魔物の出没する区間へ向かった。
集落を離れると、街道の両脇には背の高い木々が増え、雪を被った枝が道の上へ張り出していた。
ところどころに古い轍が残っているものの、最近通った荷車の跡は見当たらない。
魔物の襲撃によって、通行が途絶えているのだろう。
レオは林の手前で隊を止めた。
馬を安全な場所へ移し、見張りを残す。
そこから先は徒歩だった。
移動中に身につけていた厚手の外套を外し、馬のそばに置いた荷物へまとめる。隊員たちも必要な装備だけを残し、互いの鎧や留め具を確認した。
レオは剣を抜き、隊員たちを見渡す。
「正面から突進を受けるな。進路を外して側面を狙え。深追いはするなよ。互いの位置を確認しながら動け」
隊員たちは頷いた。
やがて、偵察に出ていた騎士が戻ってくる。
「前方に魔物を確認しました。見える範囲だけで十数頭います。林の奥にも動きがありました」
「分かった」
レオは剣を握り直した。
「行くぞ」
雪を踏みしめながら、一行は林へ入っていった。
最初に聞こえてきたのは、低く荒々しい鼻息だった。
続いて、雪を掻く音。
木々の間から、黒褐色の巨体が姿を現した。
普通の猪とは比べものにならないほど大きい。硬い毛に覆われた肩は盛り上がり、口元からは鋭く湾曲した牙が突き出していた。
鼻先から白い息を噴き出しながら、魔物は騎士たちを睨みつける。
その背後から、さらに二頭が現れた。
やがて別の木陰でも雪が揺れ、次々と巨体が姿を見せ始める。
「……確かに多いな」
レオは低く呟いた。
先頭の魔物が地面を掻く。
短く荒々しい鳴き声が響いた次の瞬間、巨体が猛烈な勢いで突進してきた。
「左右へ開け!」
レオの声が飛ぶ。
前衛の騎士たちは素早く位置を変え、魔物の進路を外した。
巨体がすぐ脇を駆け抜ける。
雪が跳ね上がり、地面を蹴る鈍い音が腹の底に響いた。
すれ違いざま、騎士の一人が魔物の側面へ剣を走らせる。
硬い毛皮の下に刃が入り、魔物が甲高い声を上げた。
しかし、勢いは止まらない。
負傷したまま数歩走り抜け、荒々しく向きを変えようとする。
そこへ別の騎士が斬り込み、ようやく巨体が雪の上へ崩れ落ちた。
だが、一息つく間もなかった。
林の奥から別の個体が飛び出し、隊列の右側へ突進する。
「右、二頭!」
「見えてる!」
二人の騎士が声を掛け合いながら動いた。
一人が魔物の注意を引き、もう一人が側面へ回り込む。互いの位置を確かめながら、隙を見て剣を振るった。
最初の一頭が倒れる。
だが、続く一頭は仲間の身体を避けるように方向を変え、別の騎士へ突っ込んでいった。
「下がれ!」
レオが叫んだ。
騎士は間一髪で身体をかわしたものの、魔物の牙が鎧の脇をかすめた。衝撃に体勢を崩しかけたところへ、レオが踏み込む。
右手の剣を斜めに振り下ろす。
魔物の首筋を捉えた刃が深く食い込み、巨体が雪を巻き上げながら倒れた。
「大丈夫か?」
「はい!」
「なら、左側を頼む!」
「了解!」
レオはすぐさま周囲へ目を向けた。
隊員たちはよく動いている。
それぞれが魔物の進路を読み、互いの隙を補いながら戦っていた。
しかし、敵の数が多い。
一頭を仕留めても、林の奥から新たな個体が現れる。疲労が蓄積すれば、わずかな判断の遅れが大きな危険につながるだろう。
魔物たちは腹を空かせ、ひどく興奮しているようだった。
仲間が倒れても退こうとせず、目の前の騎士を追って何度も突進してくる。
レオは迫る一頭をかわしながら、剣を振るった。
このまま同じ戦いを続けるわけにはいかない。
「左翼、間隔を詰めろ! 右側は少し下がっていい!」
指示を飛ばした、そのときだった。
別の騎士を追っていた一頭が、街道脇の林へ突っ込んでいった。
追われた騎士は深雪に足を取られかけながらも、近くの木を回り込むようにして逃れる。
魔物はその動きを追い、勢いよく地面を蹴った。
次の瞬間。
鈍い音とともに、魔物の前脚が雪を踏み抜いた。
白い塊が崩れ落ちる。
巨体が大きく傾き、そのまま林の下方へ転がっていった。
激しい音が響き、雪煙が舞い上がる。
「……何だ?」
レオは視線を向けた。
崩れた雪の下には、急な斜面が隠れていた。
林の中を横切るように、小さな谷が続いている。
積雪と枝葉に覆われていたため、遠目にはほとんど分からなかったのだ。
魔物は谷底で身をよじっていたが、斜面を登り返そうとしても、前脚が滑ってうまく踏ん張れない。
レオは周囲の地形を素早く見渡した。
街道から谷へ向かって、緩やかに地面が下っている。
その途中には雪の浅い場所があり、木々の根元には比較的安定した足場も見える。
魔物たちは目の前の相手に気を取られ、一度突進を始めると容易には止まれない。
その巨体と勢い。
今は騎士たちを苦しめているものが、逆に弱点になるかもしれなかった。
「……よし」
レオは剣を構え直した。
「全員、聞け!」
戦場に声が響く。
「陣形を変える! 右側の谷へ群れを誘い込むぞ!」
近くの騎士が顔を上げた。
「谷へ、ですか?」
「ああ。あの突進を利用する」
レオは剣先で方向を示した。
「誘導役は魔物を引きつけ、合図で左右へ退け。ただし谷の縁には近づくな。退避する場所を先に確かめろ!」
「了解!」
「左側は進路を絞れ。右側は退避路を確保! 無理に追い込もうとするな。向こうから走ってくるのを利用するんだ!」
隊員たちが動き出した。
互いの位置を確認しながら、広がっていた隊列が少しずつ形を変えていく。
最初の誘導役となった二人の騎士が、魔物の注意を引いた。
巨大な猪型の魔物は荒々しく鼻息を吐き、地面を蹴る。
騎士たちは距離を保ちながら後退し、あらかじめ確認した足場へ向かった。
魔物が突進する。
雪が激しく跳ね上がった。
「今だ!」
レオの声に合わせ、二人の騎士が左右へ身をかわした。
勢いのついた魔物は、目の前から相手が消えてもすぐには止まれない。
そのまま雪の斜面へ突っ込んだ。
足元が崩れる。
巨体が傾き、激しい音を立てて谷へ転落していった。
「よし、次だ!」
レオの指示が飛ぶ。
騎士たちは同じ動きを繰り返すだけでなく、魔物の進路や足場に応じて位置を変えた。
谷に近い場所では無理に剣を交えず、街道へ戻ろうとする個体には側面から圧力をかける。
魔物の突進をかわすたびに、別の隊員が退避路を確保した。
これまで数の多さに押されていた戦況が、少しずつ変わっていく。
巨大な猪型の魔物は、その力強さゆえに勢いを制御しきれず、次々と雪の斜面へ落ちていった。
だが、すべての魔物が同じように動くわけではなかった。
隊列の右側で、二人の騎士が位置を入れ替えようとしたときだった。
林の奥から一頭が飛び出してきた。
それまでの群れより一回り大きな個体だった。
興奮した魔物は、開いたばかりの隊列の隙間へ向かって突進する。
「右側!」
警告の声が上がった。
狙われた若い騎士はすぐに反応した。
剣を構え、身体を横へ逃がそうとする。
だが、踏み出した足が雪の下の氷を滑った。
身体が傾く。
立て直そうとしても、もう一方の足にも力が入らない。
巨体が迫る。
魔物の牙は、すでに目の前だった。
「伏せろ!」
鋭い声が響いた。
レオは陣形の側面を確認していた位置から、すでに駆け出していた。
短く足を運びながら距離を詰め、体勢を崩した騎士の前へ割って入る。
右手の剣を斜めに振り下ろした。
刃が魔物の頭部を捉えた。
硬い骨にぶつかった衝撃が、腕を伝わる。
レオは剣の角度を変え、巨体の進路をわずかに逸らした。
しかし、突進の勢いはあまりに強かった。
魔物の頭が横へ流れた瞬間、湾曲した牙の先端がレオの左肩へ食い込んだ。
金属の肩当ての縁をかすめ、その下の衣服を裂く。
鋭い痛みが走った。
「っ……!」
レオは歯を食いしばり、身体をひねった。
魔物の巨体がすぐ脇を通り抜ける。
その勢いに押され、足が半歩滑った。
だが、膝を落として踏みとどまる。
「隊長!」
体勢を立て直した騎士が、叫びながら剣を振り上げた。
魔物はすぐに方向を変えようとしたが、その前に別の隊員が側面へ回り込む。
二人の剣が続けざまに巨体を捉え、魔物は雪の上に崩れ落ちた。
「隊長、肩が!」
レオの左肩から、赤い血が滲んでいた。
裂けた衣服の下で、傷口が焼けるように痛む。
だが、周囲ではまだ戦闘が続いている。
「分かってる。それより、動けるか?」
レオは助けた騎士を見た。
「はい! 自分は大丈夫です!」
「なら持ち場へ戻れ。まだ終わってないぞ!」
「はっ!」
騎士は一度深く頷くと、すぐに仲間たちのもとへ戻っていった。
レオは左腕の状態を確かめた。
肩を動かすと強く痛む。
右手の剣は握れるが、これ以上前線で激しく動けば傷を広げかねない。
戦場を見渡す。
谷へ落ちた魔物はすでに複数。
街道に残る個体も、最初に比べればかなり減っている。
ここから先は、無理に自分が前へ出る必要はなかった。
「前衛はそのまま押さえろ! 俺はここで指揮を執る!」
レオは少し高い位置へ移動し、部隊全体の動きを見渡した。
「右翼、谷へ誘導を続けろ! 左翼は回り込みを防げ。残った個体を一頭ずつ確実に仕留めろ!」
隊員たちは即座に応じた。
負傷した隊長へ気遣う視線を向ける者もいたが、誰も持ち場を離れない。
それぞれが自分の役割を理解し、互いの動きを見ながら戦っている。
レオもまた、彼らを信頼していた。
最後の大きな群れが、谷の方向へ誘導されていく。
魔物の荒い鼻息。
雪を蹴散らす重い足音。
騎士たちが間合いを保ちながら後退する。
「引きつけろ……まだだ!」
レオは魔物の動きを見極めた。
先頭の一頭が頭を下げ、地面を蹴る。
「今だ! 退け!」
誘導役が左右へ飛び退いた。
直後、巨体が雪の斜面へ突っ込む。
雪が崩れ、魔物が激しい音を立てて谷底へ転がり落ちた。
続いた個体も勢いを止められず、その後を追う。
街道に残った魔物は、騎士たちが慎重に包囲した。
前衛が突進をかわし、側面へ回った隊員たちが連携して剣を振るう。
最後の一頭が倒れたとき、森には荒い呼吸と、雪を踏む音だけが残っていた。
レオは周囲を見渡した。
木々の間に、もう新たな動きは見えない。
「……隊長。街道周辺の魔物は制圧しました」
隊員の報告に、レオは頷いた。
「よし。谷底も確認しろ。動ける個体が残っていれば、無理に近づかず安全な位置から対処するんだ」
「了解!」
「負傷者の確認も頼む。軽傷でも必ず報告させろ。まだ警戒は解くなよ」
命令を出し終えると、レオはようやく剣を鞘へ収めた。
左肩に手を当てる。
手袋に血が滲んだ。
想像していたよりも傷は深そうだった。
「隊長、手当てを!」
近くの騎士が駆け寄ってきた。
「ああ。頼む」
レオは街道脇の倒木に腰を下ろした。
隊員は携行していた布を取り出し、傷口へ押し当てる。肩当ての留め具を緩め、出血している部分を確かめながら、手早く布を固定した。
寒さの厳しい屋外で、十分な処置を行うことは難しい。
ひとまず出血を抑え、集落へ戻ってから改めて手当てを受けることになった。
「痛みますか?」
「まあな。さすがに無傷とはいかなかった」
レオが答えると、手当てをしていた騎士が困ったように眉を寄せた。
「隊長でも怪我をするんですね」
「当たり前だ。俺だって血は赤いぞ」
レオが笑うと、近くにいた隊員たちからも小さな笑いが漏れた。
張りつめていた空気が、わずかに和らぐ。
レオは改めて周囲を見渡した。
隊員たちは疲れていた。
鎧には泥や雪が付着し、肩で息をする者もいる。
それでも、誰も命を落とさずに済んだ。
「よくやった。全員、よく持ちこたえてくれたな」
その言葉に、隊員たちが顔を上げる。
「だが、まだ任務は終わっていない。街道の安全を確認したら、輸送隊へ連絡を入れるぞ」
レオは立ち上がろうとして、左肩に走った痛みに一瞬顔をしかめた。
すぐそばの騎士が手を貸そうとする。
「大丈夫だ」
そう言いながらも、レオは差し出された手を素直に借りた。
「助かる」
雪の戦場には、少しずつ静けさが戻り始めていた。
***
戦闘を終えたあとも、レオたちは街道周辺の安全確認を続けた。
林の奥に別の群れが残っていないかを調べ、谷底へ転落した魔物についても、上から様子を確かめる。
斜面を登り返そうとする個体には慎重に対処し、荷車が通る区間に危険が残らないよう確認を進めた。
戦闘によって崩れた雪や枝が道を塞いでいる場所では、隊員たちが通行の妨げになるものを取り除いていく。
レオも状況を見ながら指示を出していたが、左肩の傷は思った以上に痛み、無理に身体を動かすことは避けていた。
すべての確認を終えた頃には、冬の陽が傾き始めていた。
近隣の集落へ使いを出し、輸送隊の通行を再開できることを知らせる。
その報告を受けて、足止めされていた商隊が少しずつ動き始めた。
長いあいだ動けずにいた荷車が、次々と王都へ向かっていく。御者たちの声が響き、静まり返っていた街道には、少しずついつもの賑わいが戻り始めていた。
レオは街道の脇に立ち、荷車が通り過ぎていくのを見送った。
肩には応急処置を施した布が当てられ、鎧の一部を緩めたままになっている。
傷の痛みは残っていたが、出血は落ち着いていた。
「騎士様!」
一台の荷車を操る御者が、声を上げた。
「本当に助かりました! これでようやく王都へ帰れます!」
「ああ。道中も気をつけてな」
男は何度も頭を下げ、馬車を進めていった。
車輪が凍った轍を軋ませながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
「ようやく動き始めましたね」
隣に立った騎士が言った。
「ああ。長引かせずに済んでよかった」
レオは荷車の列へ目を向けた。
「商人たちも、随分困っていただろうな」
「王宮へ運ぶ品もありますからね」
「そうだな。陛下だって、何もないところから食事を出せるわけじゃない」
レオがそう言うと、騎士は少し笑った。
「確かに、そうですね」
レオは通り過ぎていく荷車を眺めた。
積み荷を覆う布にはまだ雪が残り、馬たちは白い息を吐きながらゆっくりと進んでいく。御者同士が声を掛け合う様子に、レオの表情も自然と和らいだ。
しばらくその様子を眺めていたが、冷たい風が吹き抜けると、思わず左肩をかばうように身体を縮めた。
「……隊長」
隣の騎士が、すかさず声をかける。
「その肩、王都へ戻ったら必ず医療班に診てもらってくださいよ」
「分かってる」
「本当にお願いします」
「おいおい、そんなに信用がないか?」
「怪我をしたあとも、ずっと指示を出しておられましたから」
「仕事を途中で投げ出すわけにもいかないだろう」
「それはそうですが……」
騎士が何とも言えない顔をする。
レオはその表情を見て、声を立てて笑った。
「分かった、分かった。ちゃんと診てもらう。これでいいか?」
「はい!」
今度は騎士も笑った。
冬の街道には、再び馬車の車輪が軋む音と、人々の声が戻っていた。
***
王立魔法研究所では、ノエルが机いっぱいに広げられた記録を整理していた。
魔力の観測値が書き込まれた紙、何度も修正された設計図、小さな魔法石。
その中央には、以前よりも少し厚みを増した携行型魔導火炉が置かれている。
北東の森での冬季調査から帰還して以来、ノエルは出力調整の問題に取り組み続けていた。
あのとき、寒さの厳しい野外で湯を沸かそうとした際、魔導火炉はつまみを操作してもすぐには反応しなかった。ところが、しばらくして加熱板の温度が急激に上がり、鍋の湯が勢いよく沸騰したのだ。
慌てて出力を下げても、加熱板に残った熱はすぐには収まらなかった。
幸い大きな事故には至らなかったものの、野外で使用する道具としては看過できない問題だった。
原因を探るなかで、ノエルは魔力の放出量と調整操作の間に、わずかなずれが生じていることを突き止めていた。
そして幾度もの試験を重ね、魔力の通り道を複数に分け、段階的に開閉する調整機構を考案した。
一度に流れる魔力量を制限し、出力の急激な変化を防ぐ仕組みである。
小規模な試験では、すでに良好な結果が得られていた。
今日はその機構を組み込んだ魔導火炉の、最終的な動作確認を行うことになっている。
「準備は整ったか?」
ヴァルターが研究室へ入ってきた。
その後ろには、シエルの姿もある。
「はい。観測器の調整も終わっています」
ノエルは顔を上げ、二人を迎えた。
ヴァルターは机上の魔導火炉を見下ろした。
「随分と手を入れたな」
「内部の構造を変更したので、以前より少し厚みが出ています。ただ、持ち運びには支障のない大きさに収まりました」
「それなら結構。あとは実際に動かしてみるだけだな」
ノエルは頷き、小鍋に水を注いだ。
シエルは隣の観測器を確認し、記録用紙を手元へ引き寄せる。
「前回と同じように、出力を段階的に上げていくんだな?」
「はい。ただ、今回は急な操作に対する反応も確かめたいと思っています」
「なるほど。それなら違いがはっきり分かりそうだ」
準備を終えると、ノエルは調整つまみに指を掛けた。
「では、始めます」
ゆっくりとつまみを回す。
内部に収められた魔法石から魔力が供給され、上部の加熱板が静かに熱を帯び始めた。
ほどなくして、小鍋の底から細かな気泡が浮かび上がる。
ノエルは観測器へ目を向けた。
「低出力での加熱は安定しています。魔力の供給量にも異常はありません」
「まずは問題ないな」
ヴァルターが頷く。
ノエルは少しずつつまみを回した。
観測器の数値が緩やかに上昇し、それに伴って鍋の中の気泡も増えていく。
やがて、湯が静かに沸き始めた。
「ここまでは順調だな」
シエルが記録を確かめる。
「はい。問題はこの先です」
ノエルは一度息を整えた。
以前の試作品では、出力を大きく変更した際に魔力が過剰に流れ込んだ。
今回の改良が正しく働くなら、同じ操作をしても急激な温度上昇は起きないはずだった。
「では、最大出力へ切り替えます」
ノエルはつまみを大きく回した。
観測器の数値が、段階を追って上昇していく。
加熱板から伝わる熱によって、鍋の湯が勢いよく沸騰し始めた。
ノエルは数値を見つめた。
上昇を続けていた魔力の供給量が、設定した値で止まる。
そのまま安定した状態を保っていた。
「……最大出力、安定しています」
ノエルの声が、わずかに弾んだ。
ヴァルターはすぐには答えず、しばらく観測器を見ていた。
「よし。今度は一気に弱めてみろ」
「はい!」
ノエルはつまみを戻した。
観測器に示された魔力の供給量が、段階的に減少していく。
加熱板にはまだ熱が残り、鍋の湯はしばらく沸騰を続けていたが、やがてその勢いも穏やかになっていった。
シエルが記録を確認し、顔を上げた。
「操作に対して、かなり正確に出力が変化しているな」
「はい。新しい調整機構が、想定どおりに働いています」
ノエルは嬉しそうに頷いた。
「これなら急に火力を上げようとしても、魔力は段階的に供給されます。以前のように一度に大量の魔力が流れ込むことはないはずです」
「うむ。だが、もう少し続けよう」
ヴァルターは腕を組み、魔導火炉へ視線を向けた。
「一度うまく動いただけでは足りん。何度操作しても同じ結果が得られることを確かめなければな」
「もちろんです」
ノエルは再びつまみを操作した。
弱火から強火へ。
強火から弱火へ。
同じ操作を繰り返しても、魔力の供給量は安定したままだった。
一定の出力を維持する試験でも、観測値に大きな乱れは見られない。
魔法石の消耗量も、設定した出力に応じた範囲に収まっていた。
すべての記録を確認し終えると、ノエルは調整つまみを停止位置へ戻した。
観測器の数値が下がり、魔法石から加熱板への魔力供給が止まる。
鍋からは、まだ白い湯気が立ちのぼっていた。
研究室に、しばしの沈黙が訪れた。
「……成功です」
ノエルは観測器から顔を上げた。
その表情には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
ヴァルターが大きく頷く。
「よくやった、ノエル」
「ありがとうございます!」
「出力制御の問題は、これで解決したと見てよさそうだな。残る確認事項を済ませれば、実用に移せる」
「はい。報告書もすぐにまとめます」
ノエルは嬉しそうに記録用紙を揃えた。
ヴァルターは小鍋から立ちのぼる湯気を眺めると、満足げに笑った。
「しかし、普通に湯が沸くというのはいいものだな」
「前回は皆さんを驚かせてしまいましたからね」
ノエルが少し照れくさそうに答える。
「今回は、驚くほど普通に沸いたでしょう?」
シエルが笑った。
「ああ。野営で使うなら、それが一番ありがたい」
「まったくだ!」
ヴァルターも声を上げて笑った。
「湯を沸かすたびに吹きこぼれていては、落ち着いて茶も飲めんからな!」
研究室に笑い声が広がる。
これまで何度も試作を重ね、失敗の原因を調べ、改良を続けてきた。
その成果が、ようやく実用に耐えられる一つの魔道具として形になった。
携行型魔導火炉。
雨や雪の降る野外でも、魔法石があれば湯を沸かし、簡単な調理を行うことができる。
長時間の高出力での使用には魔法石の容量という制約があるものの、騎士団の遠征や調査隊の野営では十分に役立つだろう。
ノエルは完成した魔導火炉を眺め、満足そうに息を吐いた。
その隣で、シエルは調整機構の図面に目を留めていた。
魔法石から必要な量の魔力を取り出し、安定して送り出す。
今回の改良によって実現したのは、単に加熱の強さを調節する技術だけではない。
魔力の供給量を細かく制御する仕組みそのものだった。
シエルは図面の一角を指でなぞり、しばらく考えていた。
「……先生」
ヴァルターが顔を上げた。
「何だ?」
「ひとつ、相談したいことがあります」
その声に、ノエルも顔を向ける。
シエルは机上の魔導火炉を示した。
「今回、魔法石から取り出す魔力を、必要な量だけ安定して送り出せるようになりました」
「ああ」
「この技術を、加熱以外にも応用できないでしょうか」
ヴァルターの目に、興味の色が浮かんだ。
「ほう。何か考えがあるのか?」
「ええ。以前から、少し気になっていたことがありまして」
シエルは一度言葉を切った。
「以前、エリアが言っていたんです。剣にも魔法の力があればいいのにね、と」
ノエルが首を傾げた。
「剣に、ですか?」
「ああ」
シエルは頷いた。
「異形との戦闘では、通常の剣撃がほとんど通用しない。俺たちのように魔法を扱える者なら別の手段を取れるが、剣しか使えない騎士たちはそうはいかない」
シエルは一度言葉を切り、続けた。
「魔法を使えない剣士にも、異形へ有効な攻撃手段を持たせることができればと考えていました」
ヴァルターは黙って続きを待っていた。
「そこで、魔法石を利用して剣へ魔力を供給する仕組みを考えています。必要なときだけ魔力を刃へ伝え、異形に作用させることはできないでしょうか」
ノエルは魔導火炉の図面へ視線を戻した。
「なるほど……魔力の供給量を調整するという点では、今回の技術を利用できる可能性がありますね」
「ああ。ただ、それだけでは足りない」
シエルは答えた。
「魔力を取り出せても、それを刃へ伝え、異形に作用させられるかどうかは別の問題だ」
「そのとおりだ」
ヴァルターが頷いた。
「魔力を流すことと、魔法として作用させることは同じではない。そこを確かめずに話を進めるわけにはいかんな」
「はい。まずは、魔力を金属へ伝える方法から調べる必要があると思っています」
シエルは自身の剣の柄へ軽く手を添えた。
「それから、実用上の問題もあります。剣はただ振るうだけのものではありません。相手の攻撃を受け、払い、場合によっては強い衝撃を受けることもあります」
彼は剣と盾を組み合わせた自分の戦い方を思い浮かべながら続けた。
「柄に媒体を取り付けるなら、握りを妨げない構造でなければなりません。重心が大きく変われば、剣の扱いそのものに影響します」
「なるほど。それは実際に剣を扱う者でなければ気づきにくい問題ですね」
ノエルが頷き、手元の紙へ書き込んだ。
「媒体の大きさと重量、それから衝撃への耐久性も調べる必要がありそうです」
「ああ。それに、魔法石の容量にも限界がある」
ヴァルターが続ける。
「小型化すれば、蓄えられる魔力量は少なくなる。長時間の使用を前提にするのは難しいかもしれんぞ」
「その点については、短時間の使用を想定しています」
シエルは答えた。
「常に刃へ魔力を流し続ける必要がないのなら、攻撃の瞬間だけ供給する方法も考えられます」
「必要なときだけ、か」
「はい。異形との戦闘では、剣で輪郭を乱すことはできても、決定的な損傷を与えるのが難しい。もし一撃でも魔力を作用させられれば、戦い方は大きく変わるはずです」
ヴァルターは腕を組み、しばらく考え込んだ。
机上には、完成した魔導火炉が置かれている。
ノエルが長い時間をかけて解決した魔力の出力制御。
その技術が、これまでとはまったく異なる用途へつながろうとしていた。
「……面白い」
ヴァルターが口を開いた。
その表情には、研究者としての好奇心がはっきりと表れていた。
「実現できるかどうかは、まだ分からん。だが、検討する価値は十分にある」
シエルが頷く。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いぞ。これからが大変だ」
ヴァルターは笑った。
「まずは魔力の伝達だ。剣に取り付けることを考える前に、金属へどの程度の魔力を安定して流せるか確かめよう」
「材質による違いも調べたいですね」
ノエルが図面の余白に新たな項目を書き加えた。
「魔力が伝わりやすい金属と、そうでない金属があるかもしれません」
「そうだな。それから、媒体を小型化した場合の出力も重要になる」
シエルも考えを巡らせる。
剣へ取り付けるのであれば、戦闘中に邪魔にならない大きさが望ましい。
だが、小さくすればそれだけ魔法石の容量にも制約が生まれる。
どの程度の魔力が必要なのか。
どれほどの時間、刃へ作用させればよいのか。
確かめなければならないことは、まだ山ほどあった。
「よし。まずは研究計画をまとめてみろ」
ヴァルターが言った。
「推測を重ねるのは構わん。だが、確かめられることを確かめずに話を進めるな。できるところから一つずつだ」
「はい」
シエルは頷いた。
ノエルも新たな記録用紙を取り出し、研究項目を整理し始める。
その様子を見て、ヴァルターが口元を緩めた。
「しかし、ノエル。魔導火炉の完成報告は忘れるなよ」
「あっ、もちろんです!」
ノエルが顔を上げた。
「せっかく一つ完成したと思ったら、もう次の研究が始まるんですね」
「研究とはそういうものだ」
ヴァルターが豪快に笑う。
「一つ答えが出れば、次の疑問が生まれる。退屈している暇などないぞ」
シエルも笑みを浮かべた。
机上の魔導火炉は、すでに加熱を終えて静かに置かれている。
何度も試験を重ねてきた小さな魔道具。
その完成によって得られた技術が、今度は剣士たちの戦い方を変える研究へとつながろうとしていた。
***
数日後、王都には西方街道からの荷車が再び到着するようになっていた。
市場には各地の品が運び込まれ、商人たちの威勢のよい声が響いている。
冬の寒さは変わらない。
それでも、街道が開かれたことで、人々の暮らしにはいつもの賑わいが戻り始めていた。
レオは医療班で傷の状態を確認してもらったあと、執務室へ戻っていた。
左肩にはまだ包帯が巻かれている。
幸い経過は良好だったが、剣を振るうのはもうしばらく控えるよう言い渡されていた。
「……しばらくは書類仕事か」
机の上に積まれた報告書を見て、レオは小さく息を吐いた。
討伐の経緯、負傷者の状況、街道の安全確認。
提出しなければならない書類は、普段よりも多い。
椅子に腰を下ろし、羽根ペンを取ったところで、扉が軽く叩かれた。
「入れ」
扉が開き、シエルが顔を覗かせた。
「戻っていたか」
「ああ。ついさっきな」
シエルは室内へ入ると、レオの左肩へ目を向けた。
「怪我をしたと聞いたぞ」
「少しな。もう手当ては済んでる」
「少し、で済む傷ならいいが」
シエルは机のそばまで歩いてきた。
「隊長が肩を負傷したと聞いて、騎士団内でも随分話題になっていたぞ」
「大げさだな。俺だって怪我くらいするさ」
「それは分かっているが、無理はするなよ」
「ああ。医療班にも散々言われた」
レオは苦笑した。
「おかげで、しばらく剣は振るわせてもらえそうにない」
「当然だろう」
「お前まで同じことを言うのか」
「何度でも言うさ」
二人は顔を見合わせて笑った。
レオは椅子の背に軽く身体を預けた。
「それで、今日はどうしたんだ?」
「ああ。研究所でひとつ進展があってな」
シエルの表情が少し明るくなった。
「魔導火炉が完成した」
「おお、本当か!」
「ああ。出力調整の問題が解決してな。試験も良好だった。ノエルも随分喜んでいたよ」
「それはよかったな。次の遠征から使えるのか?」
「残る確認事項を済ませれば、実用に移せるはずだ」
「ありがたい話だ」
レオは先日の討伐任務を思い出した。
雪の中での移動は、身体を冷やす。
冷え切った手足を温めるために火を起こすだけでも、場所や天候によっては手間がかかる。
携行できる加熱用の魔道具があれば、遠征の負担は随分と軽くなるはずだった。
「それで、先生たちと新しい研究の話も始めたところだ」
シエルの言葉に、レオは顔を上げた。
「新しい研究?」
「ああ。以前、エリアが言っていただろう。剣にも魔法の力があればいいのにね、と」
「覚えてるぞ」
レオは頷いた。
「剣が異形に通じないって話をしていたときだったな」
「ああ。あの言葉が、ずっと頭に残っていてな」
シエルは机のそばに立ったまま続けた。
「今回の魔導火炉で確立した出力制御の技術を、剣にも応用できないかと考えている」
レオは興味深そうに身を乗り出した。
「なるほど。あの話が、いよいよ研究になるわけか」
「まだ可能性を探り始めたところだがな」
「それでも大きな一歩だ。実現すれば、俺たちにとっては心強い」
レオは少し考えてから続けた。
「ただ、実際に使うとなると、剣の扱いに影響が出るかもしれないな」
「ああ。そこは俺も気になっている」
シエルが頷いた。
「柄に媒体を取り付けるなら、握りや重心を妨げない構造が必要だ。魔力を伝える方法だけでなく、実際に剣を振るったときの使い勝手も確かめなければならない」
「そうだな。試験が必要になったら声をかけてくれ。魔法を使わない剣士としての意見なら出せるぞ」
「もちろん、そのつもりだ」
シエルはレオの左肩を見た。
「もっとも、今すぐというわけにはいかないがな」
「ああ。まずはこの肩を治さないとな」
レオが笑う。
「研究が進む頃には、元どおり動けるようになっているさ」
「それならいい」
シエルも笑った。
窓の外では、冬の陽射しが王都の屋根を淡く照らしていた。
レオは机の上の報告書へ目を落としたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、エリアはどうしてる?」
「ああ。南部へ出かけている。以前訪れた村から、手紙が届いたらしくてな」
「南部か。随分遠くまで行ったな」
「今回は馬で出た。しばらく戻らないだろう」
「そうか」
レオは頷いた。
「あいつのことだ。道中もあちこち寄り道しているかもしれん」
シエルがそう言うと、レオは笑った。
「ありそうだな」
星灯祭の夜から、エリアとは顔を合わせていない。
いつものように突然現れては、何か面白いことを見つけたと楽しそうに話し始める姿が、ふと頭に浮かんだ。
「今頃は、どこかの街で美味いものでも見つけているんだろうな」
レオがそう言うと、シエルは肩をすくめた。
「十分あり得るな。仕事を忘れていなければいいが」
「その辺は心配ないだろう。エリアはやるときはやるからな」
「ああ。それは分かっている」
シエルの口元にも、穏やかな笑みが浮かんでいた。
遠く離れた土地を旅する妹のことを、少しだけ思い浮かべたのだろう。
やがて、レオは再び羽根ペンを手に取った。
「さて、俺も仕事に戻るか。報告書が山ほど残っている」
「肩が痛むなら、無理はするなよ」
「分かってる。剣を振るうよりは楽だ」
「そうとも限らないぞ」
シエルが机の上の書類を見て笑う。
「それだけあれば、別の意味で骨が折れそうだ」
「……勘弁してくれ」
レオが笑い返すと、シエルも声を立てて笑った。
窓の向こうには、雪を残した王都の街並みが広がっている。
西方街道には再び荷車が行き交い、人々の暮らしを支える物資が届けられていた。
王立魔法研究所では、一つの魔道具が完成し、新たな研究が動き始めている。
冬はまだ続く。
けれど、その厳しい季節の中でも、人々はそれぞれの役割を果たしながら、少しずつ前へ進んでいた。




