第十一話|雪の森に息づくもの
王都に、本格的な冬が訪れていた。
昨夜から降り続く雪は街路を白く染め、王城の尖塔や石造りの家々の屋根にも厚く積もっている。市場へ続く大通りでは、商人たちが店先の雪を払い、荷車が通れるよう道を整えていた。
王立魔法研究所の窓からも、そうした冬の営みが見渡せた。
暖炉の薪が静かに燃える研究室では、ヴァルター・グレイヴが机に広げられた報告書へ目を通していた。
王都北東の森で異形の討伐に成功してから、すでに幾月かが過ぎている。
光属性魔法が有効であると判明したことは、大きな成果だった。続く西部山岳地帯での調査では、別の異形に対して水属性魔法が有効であることも確認されている。
未知の存在に対抗する手段は、少しずつ見つかり始めていた。
しかし、その成果を並べても、なお解決できない問題が残されている。
「……異形は倒せた。だが、肝心の狭間は開いたままだ」
ヴァルターが報告書を机へ戻した。
白髪を後ろへ流した大柄な男は、ゆったりと椅子に腰掛けていても、長年戦場に身を置いてきた者らしい堂々とした風格を失わない。
向かいで記録を整理していたノエル・アシュフォードが顔を上げた。
「北東の森では、討伐後も狭間の状態に変化は見られませんでした。魔法を直接作用させた際には一時的な反応がありましたが、閉じるには至っていません」
「西部山岳地帯の狭間も同様か」
「はい。こちらは異形の討伐自体がまだ難しい状況ですが、亀裂に対する観測結果は大きく変わりません」
ヴァルターは腕を組み、窓の外へ一度視線を向けた。
北東の森で初めて遭遇した異形は、狭間から遠ざかるにつれて輪郭を崩し、追撃を断念していた。その性質が今後も変わらないという保証はなく、別の場所に現れた異形にも当てはまるとは限らない。
狭間が存在する限り、異形が再び現れる可能性も残されている。
「現れるたびに騎士団を派遣するわけにもいかん。対抗手段を増やすことは必要だが、それだけでは後手に回る」
「ええ。そこで、少し気になっていることがあるんです」
ノエルは新たな地図を広げた。
王国各地の調査地点に、小さな印がつけられている。北東の森と西部山岳地帯には狭間の位置が示され、その周辺には動物の活動が確認されなくなった区域が記されていた。
「南部の森林地帯と東部の辺境でも、似たような報告がありましたよね」
「ああ。だが、そちらではまだ狭間が見つかっていない」
「もちろん、調査が十分でない可能性はあります。ですが……」
ノエルは地図の上で指を止めた。
「私たちはこれまで、狭間が現れたことで周囲の環境が変化したと考えてきました。けれど、もしその順序が逆だったとしたら?」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「狭間が現れる前から、土地に何らかの異変が起きていたかもしれん、ということか」
「はい。狭間が環境に影響を及ぼしているのか、それとも、環境に起きた変化が狭間の出現と関係しているのか。現状では、どちらとも判断できません」
ヴァルターは地図の印を見比べた。
狭間が確認された二つの場所と、そうでない場所。
共通するのは、生物が近寄らなくなったという不可解な現象だった。
「なるほど。狭間そのものを調べるだけでは、見落としているものがあるかもしれんな」
「ええ。それで、北東の森の冬季調査を提案したいんです」
「冬季調査か」
「これまでの観測は秋季のものが中心でした。今は気温も植生も、動物の活動状況も大きく変わっています。季節が変わったことで何か違いが現れていないか、確かめておきたいと思いまして」
ノエルは窓の外へ目を向けた。
中庭の木々は雪をまとい、秋には色づいていた枝も、今は白く覆われている。
「狭間から離れた場所も含め、同じ条件で観測を行います。魔力の反応だけでなく、積雪や植物の状態、動物の痕跡も記録しておけば、比較できる材料が増えるはずです」
「よし。調べてみよう」
ヴァルターは大きく頷いた。
「ただし、狭間は今も開いたままだ。異形が再び現れることも考えて、騎士団には十分な護衛を頼むぞ」
「その件については、同行をお願いしたい方がいます」
「ほう。誰だ?」
「アルヴィン殿です。以前の遠征で北東の森を訪れていますし、光属性魔法による異形の討伐経験もあります」
「ああ、あの若い魔法騎士か」
ヴァルターは少し考え、満足そうに頷いた。
「よい人選だ。現地を知る者がいてくれるのは心強い。騎士団へ相談してみよう」
ノエルは礼を述べると、早速調査計画の作成に取りかかった。
窓の外では、相変わらず雪が降り続いていた。
***
数日後、調査隊は王都を出発した。
北東の森までは、およそ三日の道程である。
冬の街道は雪に覆われ、調査器具や野営のための荷物を運びながらの移動は、秋の遠征よりも慎重さを要した。
幸い大きな吹雪には見舞われず、一行は街道沿いの宿場や野営地で夜を明かしながら、予定した行程を進むことができた。
三日目の午後、調査隊は北東の森の外縁へ到着した。
白く染まった枝の間を冷たい風が抜け、雪の重みで木々が低く軋んでいる。
翌朝。
装備を整えた一行は、狭間のある区域を目指して森へ踏み入った。
「……思っていた以上に積もっていますね」
ノエルが足元を確かめながら呟いた。
厚手の外套を羽織り、観測器や記録帳を収めた鞄を肩に提げている。慎重に歩いてはいるものの、深い雪に何度か足を取られ、そのたびに歩幅を調整していた。
「この先は少し傾斜が緩くなります。そこまで行けば歩きやすくなると思いますよ」
前方から声をかけたのは、アルヴィン・クロフォードだった。
淡い茶色の髪に雪を散らしながら、彼は慣れた足取りで斜面を登っていく。雪の下に隠れた石や窪みを見極め、足場の安定した場所を選ぶ動きには、長年の経験が感じられた。
「クロフォード殿は、ずいぶん雪道に慣れているんですね」
「故郷では、冬になるとこれくらい積もるのが普通でしたから」
「そうなんですか?」
「ええ。山の中の小さな村なんです。冬は村の外へ出るのも一苦労で」
アルヴィンは木々の間に広がる雪景色を見渡した。
「子供の頃は、雪が積もると友達と森へ遊びに行っていました。大人たちにはよく叱られましたけど」
「それは……なかなか元気な子供だったようですね」
「今思えば、危ないこともしていたと思います」
後ろを歩く騎士が、二人の会話に加わった。
「雪山育ちとは心強いな。帰り道も頼むぞ」
「はい。任せてください」
その返事には、以前のような硬さはなかった。
アルヴィンにとって、北東の森を訪れるのは初めてではない。
以前の遠征では、この森で未知の異形と戦った。
魔法を放っても思うように損傷を与えられず、仲間たちが必死に攻撃を重ねる中、自分も恐怖に呑まれそうになった。
あのとき、レオがかけてくれた言葉を今でも覚えている。
――恐怖を感じることと、それに呑まれることは別だ。
その言葉に支えられ、アルヴィンは光属性魔法を放った。
異形が消滅した瞬間の光景も、仲間たちの声も、忘れることはないだろう。
けれど、今の彼はあの日ほど身構えてはいなかった。
警戒を怠っているわけではない。木々の間に目を配り、隊列から離れないよう注意を払いながらも、周囲の景色を落ち着いて眺める余裕があった。
雪の重みで垂れ下がる枝。
幹に残された小動物の爪痕。
吹き溜まりの向こうに、わずかに見える獣の足跡。
それらはどこか、故郷の森を思い出させた。
「……あ、そこは気をつけてください」
アルヴィンが足を止め、後ろを振り返る。
ノエルの進もうとしていた場所には、雪に隠れた小さな窪みがあった。
「右側から回った方が安全です」
「ありがとうございます。危うく足を取られるところでした」
「雪が積もると、見えていたものまで隠れてしまいますからね」
そう言って、アルヴィンは再び歩き始めた。
***
やがて一行は、風を避けられる岩陰に差しかかった。
まだ狭間のある区域までは距離があるが、朝から歩き続けていたこともあり、ここで休憩を取ることになった。
騎士たちが周囲の安全を確認する間、ノエルは鞄を下ろし、何やら入念に中身を探り始めた。
「……さて。せっかくですから、こちらも試しておきましょうか」
取り出されたのは、脚のついた低い円筒形の金属器具だった。
上部には鍋を載せるための平らな加熱部があり、側面には小さなつまみと魔法石の収容部が設けられている。
アルヴィンが興味深そうに覗き込んだ。
「それは何ですか?」
「魔導火炉です」
「魔導火炉?」
「ええ。研究所で開発している、携行型の加熱魔道具ですよ」
ノエルは器具を平らな場所へ据え、脚を固定した。
「まだ開発途中なんですけどね。せっかく雪深い森まで来たんですから、実地試験には絶好の機会でしょう?」
「……調査の荷物に、そんなものまで入れていたんですか?」
「もちろんです」
ノエルの返事には、妙な自信があった。
「それに、温かいお茶も飲めます。一石二鳥ですよ」
近くにいた騎士が、器具を覗き込む。
「こいつで火が起こせるのか?」
「いえ、炎は出ません。魔法石に蓄えられた魔力を利用して、加熱部に熱を生み出す仕組みです。薪を集める必要もありませんし、雨の日でも湯を沸かせます」
「ほう。そいつは便利だな」
「でしょう?」
ノエルは嬉しそうに小鍋を取り出した。
研究室で試すのと、実際の遠征先で使うのとでは勝手が違う。荷物に収めた際の扱いやすさや、寒冷地での動作も確かめておきたかったのだ。
鍋に水を注ぎ、魔導火炉の上へ載せる。
「では、始めましょうか」
側面のつまみをゆっくりと回す。
しかし、しばらく待っても鍋には何の変化も見られなかった。
「……あれ?」
ノエルが首を傾げる。
「動かないんですか?」
アルヴィンが覗き込むと、ノエルはつまみを確かめた。
「いえ、魔力の供給は始まっているはずなんですが……」
もう少しだけ、つまみを回す。
それでも、水面は静かなままだった。
「……寒さの影響でしょうか」
「壊れてるんじゃないのか?」
近くにいた騎士が尋ねた、そのときだった。
――ゴボッ!
突然、鍋の底から大きな泡が浮かび上がった。
「おっ!?」
続けて、ぼこぼこと激しい音を立てながら湯が沸き立つ。
鍋の縁から熱い湯が跳ね、白い蒸気が勢いよく立ち上った。
「うわっ!」
アルヴィンが慌てて身を引く。
ノエルもすぐにつまみを戻したが、沸騰はなかなか収まらなかった。
ようやく湯の勢いが弱まると、岩陰に何ともいえない沈黙が落ちた。
「…………」
「…………」
ノエルが小さく咳払いをした。
「……やはり、操作に対する出力の反応が遅れていますね」
「やはり、って……」
アルヴィンは鍋とノエルを交互に見た。
「さっきまで何ともなかったのに、急にあんなに沸騰するなんて!」
「ええ。そこが現在の課題でして」
「分かってたんですか!?」
「可能性としては……」
「先に言ってくださいよ!」
後ろで見守っていた騎士たちが、とうとう堪えきれずに笑い始めた。
「いや、驚いたな! これじゃ、お茶を淹れる前に全部蒸発しちまうぞ!」
「まったくだ。湯を沸かすだけなら、焚き火の方が安心できそうだ!」
ノエルは少し困った顔をしながらも、すぐに記録帳を取り出した。
「寒冷地においても出力変化の遅延を確認。操作量に対して熱量が急増……と」
「……ちゃんと直してくださいね、それ」
「もちろんです。こうして問題点を確認できたことも、実地試験の成果ですから」
どこまでも真面目な返答に、アルヴィンは呆れたように肩を落とした。
それでも、慎重につまみを調整し直すと、魔導火炉はやがて安定した熱を生み出し始めた。
小鍋に新しく水を足し、今度はゆっくりと湯を沸かしていく。
しばらくして杯に注がれた温かな茶は、冷えた指先をじんわりと温めてくれた。
「……ああ、これはいいですね」
アルヴィンが杯を両手で包み、ほっと息をつく。
「でしょう? 完成すれば、遠征の負担もずいぶん減らせるはずです」
ノエルは満足そうに魔導火炉へ視線を向けた。
「ただ、次に使うときは、もう少し離れていた方がよさそうですね」
「……それも、検討課題に加えておきましょう」
ノエルの真剣な返答に、アルヴィンはとうとう声を立てた。
雪の森に、しばし穏やかな笑い声が響いた。
***
調査隊が北東の森へ向かっていた頃、王都でも雪が降り続いていた。
近衛騎士団本部の執務室で、レオ・アルディオンは机に向かっていた。
冬季の巡回計画、街道警備の報告、各部隊から提出された訓練記録。窓の外では雪が降り積もっているというのに、机の上の書類だけは一向に減る気配がない。
最後の一枚に署名を済ませ、レオは筆を置いた。
凝り固まった肩を軽く回し、椅子の背にもたれる。
中庭の石畳は、いつの間にかすっかり白く覆われていた。
巡回から戻った騎士たちの足跡が新しい雪の上に残り、それもやがて降り積もる雪に薄く埋もれていく。
「……よく降るな」
窓の向こうを眺めているうちに、ふと赤い髪が頭に浮かんだ。
ここ数日、エリアの姿を見ていない。
先日、また魔物討伐の依頼を受けて王都を離れたと聞いていた。
もう戻っている頃だろうか。
冬の街道は雪で足場が悪くなる。慣れた道であっても、移動には普段以上に時間がかかるだろう。
もっとも、あのエリアのことだ。
大きな剣を背負い、寒いだの腹が減っただのと言いながらも、元気に歩き回っている姿が容易に想像できた。
「……風邪でもひいてなければいいが」
小さく呟き、レオは口元を緩めた。
あれだけ動き回っているのだから、体調を崩すこともあるかもしれない。
次に会ったときには、少し聞いてみるか。
そう思いながら新しい書類を引き寄せたところで、扉が叩かれた。
「隊長、失礼します。午後の巡回計画について、確認をお願いしたいのですが」
「ああ、入れ」
レオは姿勢を正し、部下から差し出された報告書を受け取った。
窓の外では、雪が変わらず静かに降り続いていた。
***
一方、王都の屋内訓練場では、木剣を打ち合わせる乾いた音が響いていた。
「お兄ちゃん、もう一回!」
「今ので三本目だぞ」
「まだ三本!」
エリア・アステリアは訓練用の大剣を肩に担ぎ、不満そうに頬を膨らませた。
数日前に受けた魔物討伐の依頼を終え、王都へ戻っていた彼女は、久しぶりに兄を訓練場へ誘っていた。
シエル・アステリアも今日は仕事に一区切りがつき、こうして剣を交える時間ができたのだった。
壁際には、エリアが普段背負っている愛用の大剣が立てかけられている。
向かいに立つシエルは、片手に木剣、もう片方には訓練用の盾を持っていた。
「次で最後だ」
「えー! じゃあ絶対勝つ!」
「そう簡単にいくか?」
シエルが軽く肩をすくめる。
その余裕のある態度が気に入らなかったのか、エリアはむっとした顔で大剣を構え直した。
「いくよ!」
床を蹴る音とともに、エリアが間合いを詰めた。
上段から振り下ろされた大剣を、シエルは盾の角度を変えて受け流す。そのまま身体を半歩ずらし、木剣を繰り出した。
だが、エリアはすでに身体を反転させていた。
剣の腹で兄の一撃を弾き、勢いを殺さず横薙ぎへとつなげる。
シエルの木剣が、その軌道を迎え撃った。
乾いた衝突音が響き、二人の足が床を滑る。
エリアはすぐさま大剣を引き戻し、再び踏み込んだ。
シエルは盾を構え直し、妹の剣筋を見極める。
幼い頃から何度も剣を交えてきた相手だ。踏み込みの癖も、力を込める瞬間も、よく知っている。
だが、エリアの剣は以前よりも鋭さを増していた。
大剣の重さを十分に利用しながらも、次の一撃へ移る動きに無駄がない。
大きく踏み込んだ一撃を盾で受けようとした瞬間、彼女の大剣は鋭く軌道を変えた。
盾の外側を回り込み、脇腹へと迫る。
「――っ!」
シエルの目がわずかに見開かれた。
次の瞬間、彼の身体の前に半透明の防壁が広がる。
瞬時に展開された無属性の防御魔法が、大剣を弾き返した。
「わっ!?」
予想外の反動に、エリアが一歩後退する。
シエルはその隙を逃さず間合いを詰め、木剣の切っ先を彼女の肩口で止めた。
「一本」
「…………」
エリアは目を丸くしたまま、兄を見つめていた。
そして。
「もーーーーっ!!」
訓練場に大きな声が響いた。
「またそれ!! ずるいーー!!」
「何がずるいんだ」
「魔法!! 今、絶対当たってたもん!!」
「当たってないだろう」
「魔法がなかったら当たってた!!」
エリアは悔しそうに大剣を下ろした。
シエルは何食わぬ顔で木剣を肩に担ぐ。
「相手が俺のような戦い方をする奴だったらどうするんだ?」
「うっ……」
「剣だけを見ていても勝てんぞ。相手の使える手段を考えて動かなきゃならない」
「……でもさ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「魔法で攻撃してくる魔物なんて、いないよね?」
「…………」
「ねえ?」
シエルは一瞬だけ視線を逸らした。
「……今後も現れないとは限らんだろう」
「絶対いま適当に言ったーー!!」
エリアが大剣を抱えたまま抗議する。
シエルは涼しい顔をしていたが、先ほどの一撃が予想以上に鋭かったことは確かだった。
盾では間に合わず、木剣で受けるには角度が悪い。
気づいたときには、すでに防御魔法を展開していた。
最初から魔法を使うつもりなどなかったのだが、そのあたりをわざわざ妹に説明する必要もないだろう。
「ほら、休憩だ」
「もう一回!」
「さっき最後だと言っただろう」
「だって、納得いかない!」
「負けた理由を考えておけ」
そう言って歩き出した兄の背中を、エリアはじっと睨んだ。
「……次は魔法も突破するからね!」
シエルは肩越しに振り返った。
「期待してる」
「むーー!」
エリアは口を尖らせたまま、壁際へ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、シエルは手にした木剣を軽く握り直す。
幼い頃から教えてきた妹の剣は、確実に鋭さを増していた。
次に同じ攻め方をされたとして、今度も簡単に防げるとは限らない。
それでも、次は負けてやろうなどとは少しも思わなかった。
***
北東の森では、休憩を終えた調査隊が再び歩き始めていた。
日が高くなったとはいえ、木々の間に差し込む光は弱く、雪に覆われた地面には長い影が落ちている。
ノエルは一定の距離を進むたびに立ち止まり、観測器の数値と周囲の環境を記録していた。
気温、積雪の深さ、木々の状態。
これまでの観測結果と比較できるよう、狭間から離れた区域でも同じ項目を調べている。
「……魔力の反応に、目立った変化はありませんね」
記録帳に数値を書き込み、ノエルは周囲を見渡した。
「積雪量にも大きな違いは見られません。少なくとも、季節が変わったことで明確な変化が生じた様子はなさそうです」
アルヴィンは頷き、少し先の雪面へ視線を向けた。
先ほどまで見られた動物の足跡が、いつの間にか途絶えている。
以前の調査でも報告されていた現象だった。
小動物の姿が消え、鳥の声も聞こえなくなる。
雪の上に足跡が残りやすい冬は、その違いがいっそう分かりやすかった。
「……ここから先は、動物の痕跡がありませんね」
「ええ。秋季の記録でも、この付近から生物の活動が確認されなくなっています」
ノエルが地図に目を落とす。
「位置としては、ほぼ一致しています」
調査隊はさらに奥へ進んだ。
狭間のある場所までは、まだ少し距離がある。
アルヴィンは木々の間を見渡しながら、雪を踏みしめた。
そのときだった。
「……あれ?」
思わず足が止まった。
何かが気になった。
目の前に広がる景色は、それまでと何も変わらない。
雪に覆われた木々。冷たい風。白く曇る息。
けれど、どうにも落ち着かない。
アルヴィンはしばらくその場に立ち、周囲の様子を確かめた。
「クロフォード殿?」
後ろからノエルが声をかける。
「どうしました?」
「いえ……」
アルヴィンは少し言い淀んだ。
何がおかしいのかと聞かれても、すぐには答えられそうになかった。
「うまく言えないんですが……森の空気が、どこか重たいというか。いつもと違うんです」
「空気、ですか?」
「はい」
ノエルは周囲へ目を向けた。
「気温や湿度のことでしょうか?」
「いえ、そういうことじゃなくて……」
アルヴィンは近くの木を見上げた。
枝に積もった雪が風に揺れ、細かな粒となって舞い落ちる。
故郷の森でも、こんな景色を何度も見てきた。
雪が深く積もった朝。冷たい風が吹く夕暮れ。雨上がりの湿った土の匂い。
森は季節や天候によって、いくらでも表情を変える。
けれど、今感じているものは、そうした変化とはどこか違っていた。
「故郷の森でも、天気が悪い日はありました。でも、こういう感じじゃなかったんです」
アルヴィンは言葉を探した。
「何というか……あまり長くいたくないような」
ノエルはすぐには答えず、手元の記録帳を開いた。
「それは、この場所へ来てから感じたものですか?」
「……そうですね。さっきまでは、何ともなかったと思います」
ノエルは少し考え込んだあと、来た道へ視線を向けた。
「一度、戻ってみませんか?」
「戻るんですか?」
「ええ。どの辺りからそう感じたのか、確かめてみたいんです」
調査隊は、アルヴィンの案内で来た道を引き返した。
途中、ノエルは何度か立ち止まり、その都度アルヴィンへ感覚の変化を尋ねた。
やがて、先ほど動物の足跡を確認した区域の近くまで戻ったところで、アルヴィンが顔を上げた。
「あ……」
「どうですか?」
「ここは、さっきほど嫌な感じがしません」
「本当ですか?」
「はい。……うまく説明できませんけど」
ノエルはその場所を記録帳に書き留めた。
続いて、もう一度狭間の方向へ歩き始める。
アルヴィンは周囲に意識を向けながら、ゆっくりと進んだ。
しばらくして、再び足が止まった。
「……この辺りです」
「ここから?」
「はい。急に変わるというより、少しずつ……重たくなっていく感じがします」
ノエルは観測器を取り出した。
表示された数値を確認し、先ほどの記録と照らし合わせる。
魔力の観測値には、目立った違いがなかった。
気温にも、特別な変化は見られない。
ノエルはもう一度、周囲の木々を見渡した。
アルヴィンが示した区域は、野生動物の痕跡が途絶え始める場所とも近かった。
「……興味深いですね」
「何か分かったんですか?」
「いいえ。まだ何も」
ノエルは記録帳へ視線を戻した。
「ただ、少なくとも今の観測方法では説明できない違いがあるのかもしれません」
アルヴィンは少し不安そうに眉を寄せた。
「……僕の勘違いだったら、すみません」
「謝る必要はありませんよ」
ノエルは顔を上げた。
「勘違いかどうかを確かめるのも、調査の仕事ですから」
その言葉に、アルヴィンの表情が和らいだ。
もう一度、森の奥へ目を向ける。
以前ここを訪れたときには、異形への警戒で頭がいっぱいだった。
木々の様子も、風の冷たさも、ただ目の前を通り過ぎる景色でしかなかった。
けれど今は違う。
仲間の位置を確かめ、足元に注意を払いながらも、周囲の小さな変化に目を向けることができる。
故郷の森を歩いていた頃のように。
「……僕、もう少し詳しく確かめてみたいです」
アルヴィンが言うと、ノエルは記録帳を閉じた。
「ええ。ただし、無理に狭間へ近づく必要はありません。今日は確認できた範囲を記録して、いったん持ち帰りましょう」
「はい」
アルヴィンは素直に頷いた。
新たな手がかりを得られたからといって、危険な場所へ踏み込む理由にはならない。
それもまた、以前の遠征で学んだことだった。
***
その日の調査は、日が傾く前に切り上げられた。
一行は森の外縁に設けた野営地へ戻り、翌朝から王都への帰路についた。
帰り道にも雪は降り続いたが、幸い大きな天候の崩れはなく、街道沿いの宿場や野営地で休みながら、三日をかけて王都へ戻った。
研究所へ到着した頃には、街路の雪も出発した日よりいっそう厚く積もっていた。
ヴァルターは研究室で資料を読んでいたが、二人の姿を見るなり顔を上げた。
「おう、戻ったか。ずいぶん雪に降られたようだな」
「ええ。思っていた以上に歩くのが大変でした」
ノエルが外套を脱ぐ。
「ですが、なかなか興味深い結果が得られました」
「ほう。聞かせてもらおうか」
机の上に地図を広げ、ノエルは今回の観測結果を説明した。
気温や積雪量に目立った異常はなく、魔力観測器にも従来と異なる反応は現れなかったこと。
動物の痕跡が途絶える区域は、秋季の調査記録とほぼ一致していたこと。
そして、その付近でアルヴィンが奇妙な違和感を覚えたこと。
「……クロフォード殿から直接お話しいただいた方がよいかもしれません」
ノエルが視線を向ける。
アルヴィンは少し驚いたが、すぐに姿勢を正した。
「はい」
ヴァルターが興味深そうに身を乗り出した。
「何を感じた?」
「……うまく説明できないんですが、森の空気が重たく感じたんです」
アルヴィンは言葉を選びながら、故郷のことも交えて話し始めた。
山間の小さな村で育ち、幼い頃から森に親しんできたこと。
森の中では、天候や季節によって空気の感じ方が変わること。
けれど、北東の森で感じた違和感は、それらとは明らかに異なっていたこと。
ヴァルターは途中で口を挟むことなく、最後まで耳を傾けた。
「……なるほど」
話を聞き終えると、ヴァルターは腕を組んだ。
「魔力の数値には変化がない。だが、君には確かに違いが感じられた、と」
「はい。ノエルさんと一緒に何度か行き来しましたが、同じ辺りで感じました」
ノエルが地図の上に記録した地点を示す。
「こちらが違和感を覚え始めた場所です。そして、この付近から動物の足跡も確認できなくなっています」
ヴァルターの目が、地図の上をゆっくりと動いた。
「……面白いな」
北東の森だけではない。
西部山岳地帯でも、狭間の周辺から生物が姿を消している。
南部や東部でも同じような報告がありながら、そちらではまだ狭間そのものが確認されていない。
「ノエル。出発前に話していたことを覚えているか」
「ええ。狭間が現れる前から、周辺の環境に何らかの異変が起きていた可能性ですね」
「そうだ」
ヴァルターは地図の一点を指した。
「今回の報告を聞く限り、やはり狭間だけを調べていても足りんのかもしれんな」
「私もそう思います」
ノエルが頷く。
「動物が近寄らないことと、クロフォード殿が感じた違和感に関係があるのか。まずはそこから調べてみたいです」
「だが、観測器には何も映らん」
「はい。だからこそ、別の方法も考える必要があります」
ノエルは記録帳を開いた。
「今後は魔力観測だけでなく、現地の環境そのものを継続して調べたいと思います。動植物の分布や変化、地形や水の状態、それに今回のような人が感じる違和感も、できる限り記録していきたいです」
ヴァルターは地図から目を離さなかった。
研究所がこれまで調べてきたのは、主に狭間そのものと、そこから現れる異形だった。
だが、その場所に何が起きているのか。
狭間が開く以前から、何かが変わっていたのではないか。
もしそうなら、調べるべきものは目に見える亀裂だけではない。
「……土地そのもの、か」
ぽつりと漏れた言葉に、ノエルが顔を上げた。
「主任?」
ヴァルターはしばらく考え込んでいた。
やがて、何かを思い出したように眉を動かす。
「……そういえば、昔読んだ記録に妙なものがあったな」
「記録、ですか?」
「古い術式の文献だ。今ではほとんど使われていないものだが……確か、土地の異変を鎮めるために光を用いた、という記述があったはずだ」
ノエルは意外そうに目を瞬かせた。
「土地の異変を?」
「ああ。私も当時は、何を意味しているのか分からなかった。古い伝承の類いかと思って、それきりになっていたが……」
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
「まだ書庫に残っているはずだ。探してみるか」
***
研究所の奥にある書庫は、普段の研究室とは違い、ひっそりと静まり返っていた。
高い書架には古い記録や研究資料が並び、長い年月を経た紙の匂いが漂っている。
壁際には閲覧用の机が置かれ、その上に灯された魔法灯が、積み重なった書物の背表紙を淡く照らしていた。
ヴァルターは大きな歩幅で奥の書架へ進み、古い術式に関する資料を探し始めた。
「確か、この辺りだったはずだが……」
いくつかの書物を取り出しては頁を確かめ、再び棚へ戻していく。
ノエルも隣の書架を調べていた。
アルヴィンは少し離れた場所で待ちながら、棚に並ぶ書物を眺めていた。
騎士団の訓練や任務では、魔法の扱いを学ぶことはあっても、こうした古い術式に触れる機会はほとんどない。
読めないほど古い文字が刻まれた背表紙を見ていると、研究者たちが日々向き合っている世界の広さを、改めて感じさせられた。
やがて。
「……おお、あったぞ」
ヴァルターが、一冊の古びた書物を取り出した。
厚い表紙には年月を経て薄くなった文字が刻まれ、角はところどころ擦り切れている。
「これだ。間違いない」
三人は閲覧用の机へ移動した。
ヴァルターが慎重に頁を開く。
古い文字で綴られた記録には、現在ではほとんど見かけない術式や、その使用に関する断片的な記述が残されていた。
いくつか頁をめくったところで、ノエルが身を乗り出す。
「……ここでしょうか」
ヴァルターが目を向けた。
頁の中央には、古い言い回しで短い文章が記されている。
――光をもって、土地の乱れを鎮める。
「……これだな」
ヴァルターがゆっくりと頷いた。
ノエルはその一節を何度か読み返した。
「土地の乱れ……。何を指しているんでしょうか」
「さてな。当時の術者たちが、どのような現象をそう呼んでいたのか。そこまでは分からん」
頁の端には、円と曲線を複雑に組み合わせた図が描かれていた。
現代の魔法陣にも似た構成が見られるものの、細部には見慣れない線や記号がいくつも並んでいる。
「……これは、光属性の魔法陣でしょうか」
ノエルが図を覗き込む。
「そのようだ。ただ、今の術式とはずいぶん違う」
「この部分は何を意味しているんでしょう。魔力の制御に関係しているようにも見えますが……」
ノエルは指先を止め、図の構成を目で追った。
いくつかの線には見覚えがある。
しかし、それらがどのような目的で組み合わされているのかまでは読み取れない。
「……これだけでは、再現は難しそうですね」
「当然だ。発動方法も、必要な魔力量も、ほとんど記されていない」
ヴァルターは頁の下に残された短い文章を確かめた。
「それに、そもそも何を鎮めようとしていたのかも分からんからな」
ノエルは静かに頷いた。
土地の乱れを鎮める。
その言葉が現在の狭間と関係しているのか、それともまったく別の現象を指しているのか。
判断できる材料は、まだあまりにも少なかった。
「……ですが、調べる価値はありそうです」
ノエルが顔を上げた。
「ええ。少なくとも、私たちが知らない術式が存在していたことは確かです」
「そうだな」
ヴァルターは古い魔法陣へ目を落とした。
「異形を倒すための魔法と、土地に働きかける魔法。同じ光属性であっても、目的が違えば術式も変わるだろう」
「北東の森では光属性が有効でしたが、西部山岳地帯の異形には水属性が有効でした」
「そのとおりだ。だからこそ、この記録が狭間に役立つと決まったわけではない」
ヴァルターは古い魔法陣へ目を落とした。
「だが、狭間そのものに魔法を放つ以外の方法があるとすれば……試す前に、まずはその仕組みを知る必要がある」
書庫に、しばし沈黙が落ちた。
アルヴィンは二人の会話を聞きながら、机の上の書物を眺めていた。
古い文字も、複雑な魔法陣も、彼にはほとんど理解できない。
それでも、自分が森で感じた小さな違和感が、こうして新しい研究のきっかけになろうとしていることは分かった。
「……あの」
控えめに声をかけると、ヴァルターが顔を上げた。
「どうした?」
「僕にも、何か手伝えることはありますか?」
ノエルが少し意外そうに彼を見た。
「クロフォード殿?」
「魔法の研究については詳しくありません。でも、森のことなら……少しは役に立てるかもしれません」
アルヴィンは少し照れくさそうに続けた。
「故郷では、ずっと森の中で育ちましたから。今回みたいに、何か気づけることがあるかもしれませんし」
ヴァルターはしばらく彼を見つめていた。
やがて、その顔に大きな笑みが浮かぶ。
「もちろんだ!」
その声に、アルヴィンの表情が明るくなった。
「次の調査でも、君の目を借りたい。それに、故郷の森についても詳しく聞かせてもらおう」
「はい!」
アルヴィンは力強く頷いた。
ヴァルターはその返事を聞くと、再びノエルへ向き直った。
「さて。忙しくなるぞ」
「ええ。まずは今回の観測記録を整理して、ほかの地域の報告とも比較してみます」
「よし。それと、この文献に関連する記録がないかも調べておこう」
「分かりました」
ノエルは手元の記録帳へ新たな項目を書き加えた。
魔力観測器による測定だけに頼らず、土地や自然環境の状態を継続して記録すること。
生物の活動が途絶える区域について、季節や地域ごとの共通点を探ること。
そして、古い時代に用いられていた術式を調べ直すこと。
いずれも、すぐに答えが出るものではない。
けれど、これまでとは異なる方向へ研究を進めるための、確かな出発点だった。
***
夜更けの王都では、雪が静かに降り続いていた。
街灯の柔らかな光が白い道を照らし、建物の屋根には新しい雪が積もっていく。
研究所の書庫では、ヴァルターとノエルが古い術式の記録を整理していた。
机の上には、北東の森の地図と調査記録、そして先ほど見つけた古い書物が並べられている。
ノエルは魔法陣の図を別の紙へ丁寧に写し取り、ヴァルターは関連する記述がないか、古い頁をめくっていた。
「……主任」
「何だ?」
「この記録が、今回の狭間と本当に関係しているかは、まだ分かりませんよね」
「もちろんだ」
ヴァルターは書物から顔を上げた。
「だが、今まで何も見つからなかったところに、ようやく調べるべきものが増えた。それだけでも十分な収穫だろう」
ノエルは机の上の地図へ視線を落とした。
北東の森。
西部山岳地帯。
そして、狭間こそ確認されていないものの、同じような異変が報告されている南部と東部。
離れた場所で起きている出来事には、何か共通するものがあるのだろうか。
「……土地そのものに、何かが起きているとしたら」
ノエルが小さく呟く。
ヴァルターはその続きを急かさなかった。
「これまでの魔力観測だけでは、見つけられないものがあるのかもしれません」
「そうだな」
ヴァルターは古い書物へ目を戻した。
「ならば、見つける方法から考え直せばよい」
その声には、少しも迷いがなかった。
長い年月を研究に費やしてきたヴァルターにとって、分からないことが増えるのは、決して悪いことではない。
むしろ、これまで見えていなかったものに手を伸ばせるようになったことが、何よりも興味深かった。
「……それにしても」
ヴァルターは古い魔法陣を眺めながら、ふと口元を緩めた。
「昔の連中も、なかなか面白いことを考えたものだな」
「まだ何の術式かも分かっていませんよ」
「だから面白いんだろうが!」
ヴァルターの豪快な声が、静かな書庫に響いた。
ノエルは呆れたように息をつきながらも、再び図へ視線を落とした。
その指先は、すでに次の記録を書き始めている。
窓の向こうでは、雪が音もなく舞い降りていた。
かつて、誰かが土地の異変に向き合い、何かを知ろうとした時代があった。
その知識は長い年月の中で忘れられ、今では意味さえ定かではない。
だが、雪深い森で一人の若い魔法騎士が感じた小さな違和感が、埋もれていた記録を再び開かせた。
異形を討伐することはできた。
それでも、狭間は今も開いたままである。
ならば、なぜそこに狭間が生まれたのか。
その土地で、いったい何が起きているのか。
研究者たちが向き合う問いは、少しずつ形を変え始めていた。
まだ、誰も答えを知らない。
けれど、白銀の森から持ち帰られた小さな発見は、確かに新しい道を示していた。
冬の静けさの中で、世界の謎を解くための研究が、また一歩動き始めていた。




