第十話|剣と魔法のあいだ
冬の訪れとともに、王都を取り巻く景色も少しずつ色を変えていた。
街路樹はすっかり葉を落とし、朝には石畳の隙間に薄い霜が降りる。市場には厚手の外套を羽織った人々が行き交い、軒先に並ぶ冬物の衣服や毛織物が、冷たい風に揺れていた。
城壁の上を巡回する騎士たちの吐く息も白い。
そんな冬のある日、エリア・アステリアは王都の南門をくぐった。
鮮やかな赤髪を風に揺らし、背中には自身の身長を超える大剣を背負っている。外套の裾には乾いた泥が付き、長靴にも山道を歩いてきた跡が残っていた。
数日前、王都の南に位置する街道沿いの集落から、魔物討伐の依頼が寄せられていた。
森の奥から現れた魔物が街道近くに居着き、荷馬車を襲うようになったという。幸い大きな被害は出ていなかったものの、冬を前に物資の運搬が滞ることを、集落の人々はひどく心配していた。
依頼を引き受けたエリアは現地へ赴き、魔物の足跡を追って森の外れでこれを討伐した。
帰り際には集落の人々から何度も礼を言われ、手土産に焼き菓子まで持たされてしまった。
その包みは、今も鞄の中に大切にしまわれている。
「さて、と」
門を抜けたところで、エリアは大きく伸びをした。
数日ぶりの王都だった。
行き交う人々の声や、荷馬車が石畳を鳴らす音が耳に馴染む。外套の襟元を少し引き寄せると、彼女は人通りの多い大通りへ足を向けた。
まずは討伐の報告を済ませなければならない。
それが終わったら、久しぶりに兄と手合わせでもしようか。帰り道には、馴染みの菓子屋にも寄ってみたい。
そんなことを考えながら、エリアは軽やかな足取りで騎士団本部へ向かった。
***
近衛騎士団本部の受付には、今日も幾人かの騎士が出入りしていた。
壁際には各地から届いた報告書が分類され、奥の事務卓では数人の騎士が書類を整理している。開け放たれた内扉からは、廊下を行き交う靴音が途切れ途切れに聞こえてきた。
エリアが顔を出すと、窓口にいた若い騎士が顔を上げた。
「ああ、エリアさん。お帰りなさい!」
「ただいま。討伐の報告に来たよ」
「南の街道の件ですね。お疲れ様でした」
騎士は手元の記録を確かめ、報告用の紙を取り出した。
「現地からも連絡が届いています。魔物は無事に討伐されたそうですね」
「うん。森の外れで見つけたから、そこで倒してきたの」
「ほかに魔物の姿はありませんでしたか?」
「私が見た範囲ではいなかったよ。集落の人にも、しばらく気をつけてねって伝えておいた」
「分かりました。ありがとうございます」
騎士は頷き、必要な事項を書き留めていく。
その間、エリアは受付台の横に置かれた地図へ目を向けた。
王都から南へ延びる街道。今回訪れた集落は、そこからさらに細い道を進んだ先にある。
冬が深まれば、山沿いの道は今よりも通りにくくなるだろう。集落の人々が荷馬車の往来を心配していたのも無理はなかった。
「これで結構です。お疲れ様でした」
「はーい」
エリアは笑顔で答え、鞄を肩に掛け直した。
そのまま立ち去ろうとして、ふと思い出す。
「あ、そうだ。お兄ちゃんは?」
「シエル殿ですか?」
「うん。今日いる?」
「今は研究所へ向かわれていますよ。午前中は合同訓練に参加されていたんですが」
「研究所かぁ……」
エリアは少し残念そうに唇を尖らせた。
「久しぶりに手合わせしてもらおうと思ったのになぁ」
「最近はお忙しいようですからね。合同訓練の指導に、研究所での検証もあるそうです」
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
すぐに気を取り直したエリアへ、騎士が声をかけた。
「それでしたら、レオ隊長はいらっしゃいますよ」
「レオ?」
「はい。今日は執務室で仕事をされているはずです」
「そっか。じゃあ、レオに会っていこうかな」
エリアの表情がぱっと明るくなる。
「執務室までご案内しましょうか? あちらは関係者以外の立ち入りが制限されていますので」
「いいの? ありがとう!」
騎士は近くの同僚に受付を頼むと、エリアを連れて奥の廊下へ向かった。
***
執務区画へ続く廊下は、訓練場の賑わいとは対照的に静かだった。
磨かれた石床に二人の足音が響き、窓から差し込む冬の日差しが、壁に掛けられた王国各地の地図を淡く照らしている。
書類を抱えた騎士たちがときおり行き交い、そのたびに案内役の若い騎士は軽く会釈を交わした。
「へぇ……こんなところがあったんだ」
エリアは物珍しそうに周囲を見回した。
「こちらへ来るのは初めてでしたね」
「うん。いつも訓練場に行くくらいだもん」
「レオ隊長は、任務や訓練がない日はこちらで執務をされていることが多いんですよ」
「そうなんだぁ」
エリアは廊下の先に並ぶ扉を眺めた。
いつも訓練場で剣を振るっているレオが、こうした場所で机に向かっているところは、あまり想像したことがなかった。
「そういえば、お兄ちゃんって最近ずっと忙しいの?」
何気なく尋ねると、若い騎士は頷いた。
「そうですね。特に最近は、戦闘部門と魔法部門の合同訓練に参加されることが多いようです」
「お兄ちゃん、訓練の先生してるの?」
「ええ。私も以前、剣術と盾術の指導を受けたことがあります」
「へぇ、どうだった?」
「それはもう……見事でした」
騎士は少し照れくさそうに笑った。
「実はそのとき、私は盾の扱いには少し自信があったんです。所属部隊でも、それなりに評価していただいていましたから」
「うんうん」
「ところが、シエル殿に手合わせをお願いしたら、三度続けて剣を弾かれてしまいまして」
「三回も?」
「ええ。しかも、ほとんど同じ動きで」
エリアは思わず笑った。
「あはは! お兄ちゃん、そういうの得意だもんね」
「こちらとしては、情けないやら悔しいやら……。ですが、その後の指導が素晴らしかったんです」
騎士は歩きながら、当時を思い出すように自分の左腕を動かしてみせた。
「私が盾を構えるとき、どうしても剣の動きにつられて重心が前に寄ってしまうそうで。そこを直していただいたら、驚くほど動きやすくなったんです」
「へぇー」
「しかも、すぐに答えを教えるのではなく、何度か試させてくださるんですよ。自分で違いを感じられるように」
エリアは嬉しそうに頷いた。
「分かる! 私も小さい頃、そうやって教えてもらったの」
「そうだったんですか!」
「うん。最初は全然できなくて、何回も転んじゃったけどね」
騎士が笑う。
「エリアさんにも、そんな頃があったんですね」
「もちろん。今だって、お兄ちゃんにはなかなか勝てないんだよ?」
「そうなんですか……」
騎士は感心したように息を吐いた。
「それほどの剣術に加えて、魔法まで使いこなされるんですから。本当に大した方です」
エリアは少し誇らしげに笑った。
それから、ふと尋ねる。
「そういえば、お兄ちゃんって魔法部門の人なんだよね? なのに、どうして剣の訓練にも来るの?」
「独立上級魔法騎士だからですよ」
「独立?」
「ええ。上級魔法騎士にも、特定の部隊に所属する方と、独立配置で任務にあたる方がいるんです」
騎士は廊下の角を曲がりながら続けた。
「シエル殿は後者ですね。部隊に固定されず、必要に応じて各部門と協力する立場です。今日のような合同訓練にも参加されますし、研究所での仕事を任されることもあります」
「ふぅん……」
「剣士と魔法騎士では、戦うときの考え方も違いますからね。両方をよく理解している方がいてくださると、私たちも助かるんです」
騎士の声音には、隠しきれない尊敬が滲んでいた。
「以前、魔法部門との合同訓練でうまく連携できなかったことがありまして。そのときもシエル殿が、前衛の動きと魔法の射線を一緒に見直してくださったんです」
「お兄ちゃんが?」
「はい。それまで私は、魔法騎士の攻撃を邪魔しないように下がることばかり考えていたんですが……」
騎士は苦笑した。
「下がり方によっては、かえって味方の邪魔になるんですよね。あの方に教わるまで、そこまで考えられていませんでした」
「へぇ……」
エリアは少し考え込んだ。
兄が強いことは、もちろん知っている。
幼い頃から剣を教わり、何度も手合わせを重ねてきた。どれほど力をつけても、兄の剣には簡単に届かない。その悔しさも、追いかける楽しさも、彼女にとっては慣れ親しんだものだった。
けれど、こうしてほかの騎士が嬉しそうに兄の話をする姿は、なんだか新鮮だった。
「……へぇ。お兄ちゃんって、なんか凄い人だったんだ……」
「えっ!?」
隣を歩いていた騎士が思わず足を緩めた。
「ご存じなかったんですか?」
「強いのは知ってるよ?」
エリアはきょとんとした顔で答える。
「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだし……」
騎士は一瞬言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「……確かに、ご家族からするとそういうものなのかもしれませんね」
「えへへ。今度会ったら教えてあげよっと」
「きっと喜ばれますよ」
そんな話をしているうちに、二人は執務区画の奥へ差しかかった。
廊下の突き当たりに近い場所で、騎士が足を止める。
「あ、あそこがレオ隊長の執務室ですよ」
示された先には、一つの扉があった。
普段は閉じられているというその扉が、今日は開いている。
そこからは、大きな机と窓際に並ぶ書棚、そして机に向かう金髪の男性の姿が見えた。
「あ、いた」
エリアは声を潜め、開いた扉からひょこっと顔を覗かせた。
***
レオ・アルディオンは机に向かい、何枚もの報告書を広げていた。
各部隊から提出された訓練記録に、物資の補充申請、巡回任務の報告。西部山岳地帯への今後の派遣計画に関する書類も加わり、机の上にはいくつもの紙の山ができている。
朝から確認を続けているものの、ようやく片づいたと思えば新しい書類が届く。
先ほども、提出された記録の数字に食い違いを見つけ、別の報告書と照らし合わせていたところだった。
「……こっちの記録とは合わんな」
低く呟き、もう一枚の紙を引き寄せる。
日付を確かめ、記載された数量を指で追う。
眉間には深い皺が刻まれていた。
その様子を、扉の陰からエリアがじっと眺めている。
訓練場で見るレオとは、随分違う顔だった。
剣を握っているときは、もっと生き生きとしているのに。
エリアは少し首を傾げた。
それから、そっと扉をくぐる。
背中の大剣が家具に触れないよう気をつけながら、机へ向かうレオのそばまで歩み寄った。
書類に集中している彼は、まだ気づかない。
エリアは身をかがめ、横からその顔を覗き込んだ。
「……眉間のシワ、すごい」
「っ!?」
突然すぐそばで声がして、レオが勢いよく顔を上げた。
「エリア!?」
驚きのあまり、手にしていた書類を取り落としかける。
「いつからそこにいた!?」
「今来たところ」
「いや、そうじゃなくて……」
レオが言い終えるより早く、エリアの指が伸びてきた。
むに。
「……おい」
「すごいよ、ここ」
むにむに。
エリアは真剣な顔で、レオの眉間を指先で押している。
「ずっとそんな顔してたの?」
「エリア、待て。何を……」
「シワになっちゃうよ?」
むにむにむに。
レオは呆気に取られた。
相手のわずかな動きから次の一手を読み、幾度もの戦場を切り抜けてきた男である。
それが今は、目の前の少女に眉間を揉まれたまま、どう反応したものか分からずにいた。
そして、驚いていたのはレオだけではない。
執務室の入口で待機していた若い騎士も、目を丸くして固まっていた。
あのレオ隊長に、真正面から何のためらいもなく触れている。
それどころか、隊長の方も怒る様子がない。
「……っ」
騎士は思わず声を漏らしかけ、慌てて口を閉じた。
その間も、エリアはレオの眉間と格闘している。
「ほら、もっと力抜いて」
「……エリア」
「そんな難しい顔してたら、疲れちゃうよ?」
「誰のせいで余計に疲れると思ってる」
「えっ、私?」
エリアがきょとんとする。
その表情がおかしくて、レオはとうとう吹き出した。
「……ははっ。まったく、エリアには敵わんな」
「あっ、笑った!」
エリアも嬉しそうに笑う。
「そっちの方がいいよ」
「人の顔で遊ぶな」
そう言いながら、レオはエリアの手をそっと下ろした。
つい先ほどまで眉間に刻まれていた険しさは、もう残っていない。
入口の騎士は、まだ少し呆然としていた。
レオがそちらへ目を向けると、彼は慌てて姿勢を正す。
「あ、あの! エリアさんをお連れしました!」
「ああ、ありがとう。もう戻って構わん」
「はっ! 失礼します!」
若い騎士は一礼し、廊下へ退出していった。
レオはその背中を見送り、改めてエリアへ向き直った。
「それで、どうした? こんなところまで」
「あ、そうだった」
エリアは思い出したように手を打った。
「魔物討伐の報告に来たんだけどね、お兄ちゃんがいるかなーって思ったの」
「シエルか。今日は研究所に行ってるはずだぞ」
「うん、さっき聞いた」
エリアは頷く。
「久しぶりに手合わせしてもらおうと思ったんだけど、忙しいんだって」
「あいつも最近は予定が詰まってるからな」
「それで、レオならいるよって教えてもらったから来たの」
「なるほどな」
レオは納得したように頷いた。
エリアはそのとき、改めて机の上を見た。
重ねられた書類。
開いたままの帳面。
インクの入った小瓶と、何枚もの報告書。
自分が来るまで、レオはずっとこれらと向き合っていたのだ。
「……ねぇ、レオ」
「ん?」
「もしかして、邪魔だったかな?」
先ほどまでの無邪気な表情から、少しだけ申し訳なさそうな顔になる。
「お仕事、いっぱいあるんでしょ?」
レオは彼女を見上げた。
そして、ふっと表情を和らげる。
「いや。ちょうどお茶にしようと思っていたところだ」
「……ほんと?」
「ああ。朝から座りっぱなしでな。そろそろ休憩しようと思っていた」
レオは書類をひとまとめにし、机の端へ寄せた。
「せっかく来たんだ。少し付き合っていけ」
エリアの顔が明るくなる。
「いいの?」
「もちろんだ」
「やった!」
レオは立ち上がり、部屋の隅に置かれた小さな卓へ向かった。
「ただし、残念ながら菓子はないぞ」
「えーっ」
「茶だけじゃ不満か?」
「そんなことないけど……あっ」
エリアは鞄を探り始めた。
「そうだ、ちょうどいいものがあるの」
取り出したのは、小さな包みだった。
集落を発つときに渡されたもので、結ばれた紐もまだ解いていない。
「今回の魔物討伐でね、集落の人がくれたの」
「ほう。手土産か」
「うん。焼き菓子なんだって。レオも一緒に食べない?」
「いいのか?」
「もちろん」
「じゃあ、ありがたくいただこう」
エリアは満足そうに頷き、包みの紐をほどいた。
中には小さな焼き菓子がいくつか並んでいた。こんがりと焼き色のついた生地には、赤褐色の果実がところどころに覗いている。
やがて、二つの杯に温かい茶が注がれた。
窓の外には、冬の午後の淡い日差しが差し込んでいる。
エリアは椅子に腰掛け、焼き菓子を一つ手に取った。
「どんな味がするんだろう?」
顔に近づけると、ふわりと蜂蜜の甘い香りが漂った。
エリアは期待を込めて一口かじる。
「……あ、甘酸っぱい」
生地の優しい甘さのあとから、果実の爽やかな酸味が広がった。
「中に干した果物が入ってるみたい。レオも食べてみて」
勧められるまま、レオも一つ手に取った。
「ほう……これはいいな。甘さがくどくない」
「うん。紅茶とも合うね」
エリアは杯を持ち上げ、温かな紅茶を一口飲んだ。
「集落のおばさんがね、冬の間も楽しめるようにって、果物を干しておくんだって話してくれたの」
「なるほど。土地の恵みを上手く活かしているんだな」
「ふふっ。こんな美味しいものまでいただいちゃった」
エリアは嬉しそうに微笑み、もう一口菓子をかじった。
レオも紅茶を口に運ぶ。
「そういえば、南の街道まで行っていたんだったな」
「うん。森の近くの集落なんだけどね……」
エリアは身振りを交えながら、今回の討伐について話し始めた。
魔物の足跡を追って森へ入ったこと。思ったより大きな相手だったこと。討伐を終えて戻ると、集落の人々が温かい食事を用意して待っていてくれたこと。
レオはときどき相槌を打ち、興味深そうに耳を傾けた。
「帰るときもね、みんなで見送ってくれたの」
「ずいぶん喜ばれたようだな」
「うん。荷馬車が通れるようになってよかったって」
エリアは嬉しそうに笑った。
レオはその様子を見ながら、静かに杯を傾ける。
訓練場で剣を交えるときとは、また違う時間だった。
窓の外を冷たい風が通り過ぎていく。室内には温かな紅茶の香りが漂い、卓の上に落ちる陽の光がゆっくりと傾いていった。
しばらくして、レオが空になった杯を置いた。
「ところで、今日はこのあとどうするんだ?」
「んー? 特に決めてないよ。街をぶらぶらしてから帰ろうかなって」
「そうか」
レオは少し考えた。
「なら、今夜は一緒に飯でもどうだ?」
「えっ、いいの?」
「ああ。シエルにも声をかけておく」
「やった! 三人でご飯だね」
エリアは嬉しそうに身を乗り出した。
「じゃあ、私それまで街を見てくるね」
「分かった。日が暮れる頃に、詰所の前で落ち合おう」
「うん、楽しみにしてる!」
エリアは満足そうに頷くと、残っていた焼き菓子を包み直した。
「ごちそうさま。お茶、ありがとう」
「ああ。気をつけてな」
椅子から立ち上がったエリアは、扉へ向かいかけたところで、くるりと振り返った。
「あ、そうだ」
「なんだ?」
「眉間のシワ、またできたらちゃんと伸ばしてね」
「……それは自分でやれということか?」
「うん!」
レオは肩を揺らして笑った。
「分かった。気をつける」
「約束だよ」
エリアは手を振り、軽やかな足取りで部屋を出ていった。
レオはその姿を見送ると、机へ戻った。
積み上がった書類は、当然ながら少しも減っていない。
先ほど数字の食い違いを見つけた報告書も、開いたままになっている。
彼は椅子に腰を下ろし、羽根ペンを手に取った。
そして、ふと小さく笑う。
ひとまず、残りの仕事を片づけてしまおう。
シエルへの伝言も頼まなければならない。
レオは新しい紙を一枚引き寄せ、短い伝言を書き留めた。
***
王立魔法研究所では、午後の検証が進められていた。
作業室の中央には、頑丈な石造りの実験台が据えられている。
その上に置かれているのは、両手で抱えられるほどの大きさの金属製の器具だった。
箱状の本体は持ち運びを考えて小さくまとめられ、上部には平らな金属製の板がはめ込まれている。
側面には魔法石を収める区画と、出力を調整するためのつまみが取り付けられていた。
野営用に開発が進められている新しい魔道具――魔導火炉である。
魔法石に蓄えられた魔力を利用して上部の金属板そのものを発熱させ、鍋や薬缶を温める仕組みだ。
炎を起こす必要がなく、薪を集めたり、風雨を避けて焚き火を用意したりする手間を減らすことができる。
とりわけ長期の遠征では、温かな食事や飲み物を用意できるかどうかが、騎士たちの体調にも関わってくる。
シエル・アステリアは実験台の前に立ち、火炉の構造を確かめていた。
「前回の試作品より、随分小さくなったな」
隣にいたノエル・アシュフォードが頷いた。
「はい。持ち運びを考えて、本体を軽量化しました。魔法石の収容部分も改良しています」
「なるほど。これなら荷物に加えても、それほど負担にはならなそうだ」
シエルは火炉を持ち上げ、重さを確かめた。
騎士が遠征に持参する荷物は少なくない。食料や水、野営道具に加え、武具の手入れに必要な品もある。
どれほど便利な道具でも、重すぎて持ち運べなければ意味がなかった。
「問題は出力の調整です」
ノエルが言った。
「一定の出力を保つことはできるのですが、強くしたり弱くしたりする際に、反応が不安定になることがあります」
「実際に試してみよう」
シエルは火炉を実験台へ戻した。
その傍らには、小型の測定器が置かれていた。目盛りの刻まれた盤面には一本の指針があり、細い導線が火炉の魔力供給部につながっている。
ノエルは接続部分を確かめてから、魔法石を所定の位置に収めた。
「では、始めます」
側面のつまみをゆっくりと回す。
静止していた測定器の針が動き始めた。
「魔力の供給は安定しています」
ノエルが記録を取りながら告げる。
シエルは指針の動きを確かめ、頷いた。
「少し出力を上げてみよう」
ノエルがつまみをさらに回した。
針は滑らかに上昇していたが、ある位置を越えた途端、大きく跳ね上がった。
「……今のか」
「はい。調整に対して、魔力が多く放出されています」
ノエルは指針の動きを確かめ、記録に書き加えた。
「これでは加熱の具合も安定しないな」
シエルがつまみを元の位置へ戻すと、指針はわずかに遅れて下がり始めた。
「上げるときだけじゃないな。下げるときにも反応が遅れる」
「ええ。ここは改良が必要ですね」
二人は何度か条件を変えながら、測定器の針の動きを確かめていった。
つまみをゆっくり回した場合。
短い間隔で出力を変えた場合。
一度加熱を止めてから、再び作動させた場合。
ノエルが記録を取り、シエルが実際の操作を繰り返す。
低い出力を保っている間は問題ないものの、急に加熱を強めたり弱めたりすると、指針の動きが不安定になる。
「……なるほどな」
シエルはつまみから手を離した。
「一定の出力を保つことより、変化させるときの制御が難しいわけか」
「そのようです。魔法石自体は安定しているのですが」
「なら、魔力を取り出す部分を見直す必要がありそうだな」
そう話しているところへ、背後から豪快な声が響いた。
「おお、進んでいるようだな!」
ヴァルター・グレイヴだった。
豊かな白髪を揺らし、堂々とした足取りで歩み寄ってきたヴァルターは、実験台の魔導火炉を覗き込んだ。
「どうだ、シエル。使い勝手は」
「悪くありません。ただ、出力を変えるときに魔力の供給が安定しないようです、先生」
「ほう」
ヴァルターは興味深そうに測定器へ目を向けた。
「よし、一度動かしてみてくれ」
ノエルが再び火炉を作動させる。
指針がゆっくりと上昇し、やがて一定の位置で止まった。
そこから出力を上げると、先ほどと同じように針が急激に跳ね上がった。
「ふむ……」
ヴァルターは顎に手を当てた。
「魔力を蓄えることと、必要な量だけ取り出すことは、似ているようで別の話だ」
「ええ。特に、この火炉では細かな調整が必要になります」
シエルが答える。
「強い熱を生み出すだけなら、もっと簡単な構造でも済むでしょう。しかし、それでは調理には使いにくい」
「そのとおりだ」
ヴァルターは満足そうに頷いた。
「道具というものは、使う者が安心して扱えてこそ意味がある。どれだけ立派な理屈を並べても、肝心なときに扱いづらくては困るからな」
そう言うと、ヴァルターは火炉の上部にある金属板を指さした。
「ところで、鍋は用意してあるか?」
「鍋、ですか?」
ノエルが首を傾げる。
「せっかく加熱できるんだ。実際に湯を沸かしてみよう。加熱の具合も確かめられる」
シエルは思わず笑った。
「先生、まだ出力の調整が安定していませんよ」
「だからこそだ。実際に使ってみなければ、分からんこともあるだろう?」
「それは確かに……」
ノエルが少し考える。
「湯が沸くまでの時間を測れば、実際の加熱の様子も確認できますね」
「そういうことだ!」
ヴァルターが豪快に笑った。
研究員が水を入れた小鍋を運んでくると、三人は改めて火炉を囲んだ。
鍋を加熱板の上に載せ、つまみを低い出力の位置に合わせる。
ノエルが時間を計り、シエルが測定器の針を確かめる。
しばらくすると、鍋底に細かな泡が浮かび始めた。
「順調ですね」
ノエルが記録を取りながら呟いた。
シエルは測定器へ視線を向ける。
指針はほとんど揺れていない。
「この出力なら安定しているようだな」
少しずつ加熱を強めると、水面には小さな泡が次々に現れ、やがて湯気が立ち上り始めた。
「ふむ。思ったより早いな」
ヴァルターが満足そうに頷く。
「これが完成すれば、雨の野営でも温かい飯が食えるわけだ」
「そうですね。冬の遠征では、特に助かるでしょう」
シエルは鍋の様子を確かめながら答えた。
「ただ、途中で出力を変えると反応が不安定になります。現場で使うなら、もう少し扱いやすくしたいところです」
「よし。ならば、その辺りを詰めていこう」
ヴァルターは火炉を眺め、楽しそうに目を細めた。
「便利な道具が一つ増えるだけで、旅の苦労も随分違ってくるものだ」
やがて鍋の水が沸き始めた。
ノエルが記録を取り終えると、シエルはつまみを戻して加熱を停止した。
測定器の針が静かに元の位置へ戻る。
シエルは鍋を持ち上げ、用意されていた耐熱台へ移した。火炉の加熱板には、まだ熱が残っている。
「……悪くないな」
シエルが呟いた。
出力の調整には課題が残るものの、携行できる大きさで、これだけの熱を生み出せる。
実用化されれば、遠征先での暮らしは今よりずっと楽になるだろう。
「次は魔力の放出部分の構造を変えてみます」
ノエルが言った。
「ああ。改良したら、また試させてくれ」
「もちろんです」
そうして午後の検証は、ひとまず一区切りを迎えた。
シエルが使った器具を片づけていると、研究員の一人が部屋へ入ってきた。
「シエル殿。騎士団本部からお届け物です」
「俺に?」
差し出されたのは、小さく折りたたまれた紙だった。
開いてみると、見慣れた筆跡で短い伝言が書かれている。
今夜、エリアと三人で夕食を取らないか。
日暮れ頃、詰所の前で待っている。
差出人はレオだった。
シエルは紙を読み終えると、ふっと笑った。
「……あいつらしいな」
「何かありましたか?」
ノエルが尋ねる。
「いや、夕食の誘いだ。ちょうど仕事も一区切りついたところだしな」
シエルは紙を畳み、懐へしまった。
「先生、今日はこの辺りで失礼します」
「おお、もうそんな時間か!」
ヴァルターが窓の外へ目を向ける。
冬の日は短い。
先ほどまで明るかった空も、すでに夕暮れの色へ変わり始めていた。
「ああ、今日もご苦労だった。ゆっくり休め」
「ありがとうございます」
シエルは軽く頭を下げ、研究室を後にした。
***
日が暮れ始めた頃、騎士団の詰所前には冷たい風が吹いていた。
レオは外套を羽織り、建物の入口近くで待っていた。
昼間の書類仕事は、どうにか片づけることができた。最後の報告書を提出したときには、思わず大きく息を吐いてしまったほどだ。
石畳を踏む足音が近づいてくる。
「レオー!」
振り向くと、エリアが手を振りながら歩いてきた。
片手には小さな紙袋を提げている。
「おう。時間どおりだな」
「えへへ、ちょっとお買い物してたの」
「何かいいものでも見つかったか?」
「うん。お菓子屋さんで新作を見つけたの」
エリアは嬉しそうに袋を掲げた。
レオが笑ったところへ、もう一人の声が加わる。
「帰ってきて早々、菓子を買いに行っていたのか」
「あっ、お兄ちゃん!」
シエルが研究所の方角から歩いてきた。
「だって、新作が出てたんだもん」
「そうか。エリアには見逃せないものだったんだな」
「そういうこと」
エリアは得意げに頷くと、兄の顔を見上げた。
「お兄ちゃんもお疲れ様」
「ああ。エリアも討伐から帰ったばかりなんだろう?」
「うん、今日帰ってきたところ」
「そうか。無事で何よりだ」
シエルは妹の顔を見て、穏やかに笑った。
レオが二人へ声をかける。
「さて、何を食べに行く?」
「美味しいもの!」
エリアが即答する。
「それは分かってる」
シエルが呆れたように笑った。
「もう少し具体的に言え」
「えー、だって、どれも食べたいんだもん」
「なら、少し歩きながら考えるか」
レオの言葉に二人が頷く。
三人は夕暮れの王都へ歩き出した。
通り沿いの店々には明かりが灯り、外套をまとった人々が足早に行き交っている。
エリアは店先に並んだ菓子や飾り物へ目を向け、ときおり足を緩めては二人を振り返った。
そんな彼女に付き合いながら、レオとシエルは今日の仕事について話していた。
やがて、落ち着いた佇まいの料理店が目に留まった。
大通りから一本入った場所にある、磨き上げられた木製の扉が印象的な店だった。
窓越しには暖かな灯りが見え、店内からは穏やかな話し声が聞こえてくる。
「ここはどうだ?」
レオが尋ねる。
エリアは窓の中を覗き込み、嬉しそうに頷いた。
「いいね。入ってみたい!」
「じゃあ、決まりだな」
三人は扉を開け、店内へ足を踏み入れた。
***
店内には、磨かれた木製の卓がゆったりと並んでいた。
それぞれの卓には清潔な白い布が掛けられ、銀の燭台に灯された小さな炎が、落ち着いた色合いの室内を柔らかく照らしている。
奥の暖炉では薪が静かに燃え、冬の冷気を忘れさせるような暖かさが満ちていた。
客たちは思い思いに食事と会話を楽しんでいる。
騎士団の制服を着た者もいれば、上質な外套を椅子に掛けている商人らしい客の姿もあった。
三人は窓際の席へ案内された。
外套を脱いで腰を下ろすと、エリアは早速、卓に置かれた献立を開いた。
「わぁ……」
その目が輝く。
「鴨のお肉だって。それに、この茸のパイも美味しそう!」
「好きなものを頼め」
レオが言うと、エリアは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、両方!」
「相変わらずいい食べっぷりだな」
シエルが笑う。
「まだ食べてないもん」
「これから食べる量の話だ」
レオが吹き出し、エリアもつられて笑った。
シエルは献立に目を通し、白身魚の香草蒸しを選んだ。レオは鴨のローストを注文し、三人で取り分けられるよう、茸とチーズを詰めた小さな焼きパイも頼むことにした。
注文を終えると、卓に温かな飲み物が運ばれてきた。
エリアは両手で杯を包み、ほっと息をつく。
「あったかーい……」
「今日は冷えたからな」
シエルが言った。
「南の方はどうだった?」
「朝はすっごく寒かったよ。森の中なんて、地面が凍ってるところもあったんだから」
「もうそんな時期か」
レオは窓の外へ目を向けた。
石畳の上を、厚い外套に身を包んだ人々が行き交っている。
王都にも、間もなく本格的な冬が訪れるのだろう。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
鴨のローストには艶やかな赤い果実のソースが添えられ、薄く切り分けられた肉から香ばしい湯気が立ち上っている。
黄金色に焼き上げられた小さなパイは、表面に細かな切れ目が入り、その隙間から茸とチーズの香りが広がった。
白身魚の香草蒸しは、彩りのよい冬野菜とともに、淡い色の陶器皿に盛り付けられていた。
「いただきまーす」
エリアは早速、鴨のローストを一口食べた。
「んん……! これ、すっごく美味しい!」
幸せそうに目を細める彼女を見て、レオが笑った。
「それはよかった」
「レオも食べてみて。このソース、すごく合うよ!」
「俺も同じものを頼んだだろう」
「あ、そうだった」
シエルが肩を揺らして笑う。
「まったく……」
エリアは少し照れくさそうに笑うと、今度は焼きパイへ手を伸ばした。
料理を楽しみながら、三人はその日の出来事を話し始めた。
「あっ、そうだ」
エリアが思い出したように顔を上げる。
「今日ね、騎士団の人がお兄ちゃんのこと褒めてたよ」
「……俺を?」
シエルが眉を上げた。
「うん。剣も魔法もすごくて、みんなから頼りにされてるんだって」
「……それはどうも」
「私、知らなかった」
「何をだ」
「お兄ちゃんがそんなに凄い人だったってこと!」
レオが吹き出した。
「おいおい。今まで知らなかったのか?」
「だって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」
エリアは当然のように答える。
シエルは呆れたように笑った。
「お前な……」
「でも、なんか嬉しかった」
その言葉に、シエルは少しだけ表情を和らげた。
「そうか」
「うん」
エリアは満足そうに頷いた。
「そういえばね、お兄ちゃんに盾の使い方を教えてもらったって言ってたよ。三回も剣を弾かれたんだって」
「ああ……」
シエルは少し考え、それから思い出したように笑った。
「そういえば、そんなこともあったな」
「覚えてるの?」
「相手の癖が少し強かったからな。盾を構えるたびに、左足が前へ出すぎていたんだ」
「へぇー」
「ただ、飲み込みは早かった。何度か直したら、随分よくなったぞ」
レオが杯を置いた。
「シエルの指導は評判がいいからな。うちの若い連中も、機会があれば教わりたいと言っている」
「なら、次の合同訓練で時間を作るか」
「助かる」
二人はごく自然にそんな話を交わした。
エリアはその様子を眺めながら、楽しそうに笑った。
自分にとっては昔から変わらない兄が、騎士団ではこうしてレオと肩を並べ、ほかの騎士たちからも頼りにされている。
それを知るのは、なんだか少しくすぐったい気分だった。
食事が進むにつれ、今度は今日の合同訓練の話になった。
「前衛と後衛の連携は、まだ調整が必要だな」
シエルが言った。
「特に異形のような相手には、従来の戦い方がそのまま通用するとは限らない」
レオが頷く。
「通常の剣が通用しない以上、魔法騎士が攻撃できる状況を作る必要があるな」
「ああ。西部山岳地帯では水属性が有効だった。相手によって通用する属性が違う以上、部隊の編成も考え直す必要があるだろう」
「剣士の役割も、これまでとは変わってくるな」
エリアは二人の話を聞きながら、皿の上の肉を切り分けていた。
「でもさぁ」
ふと、顔を上げる。
「剣じゃ異形を倒せないんだよね?」
「ああ。今のところ、通常の剣では有効な損傷を与えられない」
レオが答える。
「そっかぁ……」
エリアは少し考えた。
それから、ごく当たり前のことを言うように口を開いた。
「剣にも魔法の力があればいいのにね」
レオが頷く。
「そうだな。それができれば、俺たちも直接戦える」
「でしょ? 剣で斬ったら、魔法も一緒にばーん! って出るとか」
「ずいぶん大雑把な説明だな」
レオが笑う。
「えー、でも便利じゃない?」
「便利なのは間違いない」
二人が笑い合う。
その向かいで、シエルだけが静かに手を止めていた。
「……魔法の力を、剣に……」
小さく呟く。
エリアが首を傾げた。
「お兄ちゃん?」
シエルはすぐには答えなかった。
頭の中に、午後の研究所で見た魔導火炉が浮かんでいた。
魔法石に蓄えられた魔力。
それを必要なときに取り出す仕組み。
つまみの操作に合わせて動く測定器の針と、その先にある加熱板。
使い手自身が魔法を発動するのではなく、道具に備えられた機構を通して魔力を利用する。
その仕組みを、剣に組み込むことができたなら。
「……待てよ」
シエルが顔を上げた。
「ん?」
レオが視線を向ける。
「今の話……まったく不可能というわけではないかもしれない」
エリアの目が丸くなった。
「えっ、ほんと?」
「まだ分からん」
シエルは少し身を乗り出した。
「だが、魔力を蓄える魔法石はすでにある。魔道具には、それを必要なときに利用する仕組みもあるだろう?」
「ああ」
レオが頷く。
「それを武器に応用する、ということか?」
「そうだ。もちろん、簡単な話じゃない。魔力をどう刃に伝えるのか、安定して使えるのか……考えるべきことは山ほどある」
シエルは一度言葉を切った。
目の前には、先ほどまで食べていた料理がある。
けれど、その意識はすでに別のところへ向かい始めていた。
魔力を蓄えることができるなら。
それを取り出すことができるなら。
剣を振るう者が、自ら魔法を使えなくても。
「……試してみる価値はあるかもしれないな」
シエルが呟いた。
「へぇー」
エリアは目を輝かせた。
「じゃあ、いつか魔法の剣ができちゃうかも?」
「だから、まだ分からんと言ってるだろう」
「でも、できたらすごいよね」
「ああ」
シエルは頷いた。
レオも興味深そうに腕を組んでいる。
「もし実現すれば、戦い方が大きく変わるな」
「そうだな。ただ、まずは先生に相談してみる。今ある技術でどこまで可能なのか、確かめるところからだ」
すると、エリアが不思議そうに尋ねる。
「……お兄ちゃん?」
「なんだ?」
「お魚、冷めちゃうよ?」
シエルは自分の皿を見下ろした。
考え込んでいる間に、すっかり手が止まっていたらしい。
「……ああ、そうだな」
レオが声を上げて笑った。
「珍しいな。食事中に研究を始めるとは」
「誰かさんが妙なことを言い出すからだ」
「えっ、私?」
エリアが目を丸くする。
「そうだ、お前だ」
「えへへ」
「褒めてるわけじゃないぞ」
「でも、なんか面白そうだからいいじゃん」
無邪気に笑う妹を見て、シエルもつられるように笑った。
窓の外では、冬の夜が静かに王都を包み始めていた。
料理店の灯りは暖かく、周囲には人々の穏やかな話し声が満ちている。
レオは杯を手に取り、向かいに座る二人を眺めた。
エリアは次の料理に夢中になり、シエルはそんな妹に呆れながらも楽しそうに言葉を交わしている。
やがて食後の菓子が運ばれてくると、エリアは嬉しそうに身を乗り出した。
「わぁ、焼き林檎だ!」
蜂蜜をまとった林檎には、なめらかな白いクリームが添えられている。
エリアは小さく切り分け、一口食べた。
「んんっ、これも美味しい!」
「お前、まだ食べられるのか」
シエルが笑う。
「甘いものは別だもん」
「それは昼からずっと言ってるな」
レオがそう返すと、三人の間にまた笑い声が広がった。
窓の向こうでは、冬の夜風が街路樹の枝を静かに揺らしている。
卓の上には温かな料理の余韻が残り、燭台の炎が穏やかに揺れていた。
シエルは杯を手に取りながら、ふと先ほどの会話を思い返した。
魔法の力を宿した剣。
実現できるかどうかは、まだ分からない。
それでも、エリアの何気ない一言は、彼の中に小さな問いを残していた。
明日、研究所へ立ち寄ったら、先生に話してみよう。
そう考えながら、シエルは杯を傾けた。
向かいでは、エリアが焼き林檎の最後の一切れを大事そうに味わっている。
レオはその様子を眺めながら、今日の書類仕事の苦労などすっかり忘れたように笑っていた。
三人の冬の夜は、まだもう少し続きそうだった。




