第五話 あの手を取るのが嫌だった
夜が明けかけていた。
人々が去り、警備の兵だけが遠巻きに立つ庭園。
聖霊樹の下に戻ったジゼルの隣に、マクシミリアンが並んで座った。
礼装は土まみれで、髪も乱れていた。王太子には見えない姿だった。
「……ドレス、汚れたな」
「はい。ワインと、涙と、土で」
「新しいものを贈る」
「畏れ多いです」
「贈らせろ」
二人の間を銀の若葉が、朝風にさらさらと鳴った。
「ジゼル」
「はい」
「聞きたいことがある」
マクシミリアンは、拳を握っていた。剣術で鍛えた手が、白くなるほど。
「昨夜、俺が公爵令嬢と踊っているとき。……お前は、しょんぼりしていた」
「見てらしたんですか」
「ずっと見ていた。十年、ずっとだ」
ジゼルが、目を丸くする。
「なぜ、しょんぼりしていた」
答えられなかった。
答えたら終わってしまう気がして、ジゼルは膝を抱えた。
すると、マクシミリアンが言った。
「俺は、嫌だった」
「え?」
「あの手を取るのが嫌だった。お前ではないから」
朝日が、庭園の端から差し込んだ。
「言えなかった。言えば、お前が社交界で潰される。身分違いの想いを受けた娘がどう嗤われるか、俺は知っていた」
彼は、まっすぐにジゼルを見た。
「だから守るために黙った。……そのくせ、お前に縁談が来るたび、握り潰していた」
「……え」
「商家の三男。地方の騎士爵。学者の甥。全部俺が潰した」
ジゼルの口が、ぽかんと開いた。
「じゃ、じゃあ、私に縁談が来なかったのって……私が魅力ないからじゃなくて」
「お前は、この国で一番かわいい」
「!?」
「相談されるたび、俺は死にたくなっていた」
聖霊樹の枝の上で、銀髪の少女が『まあ』と口を押さえたが、二人には見えていなかった。
「ジゼル」
マクシミリアンが、片膝をついた。
王太子が、男爵令嬢に。
「俺は十年、お前に恋をしていた。身分が邪魔で言えなかった。今、邪魔が無くなった」
「……そんなの」
ジゼルの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「私だって、八歳のときからずっと好きでした。ずっと、諦めようとしてました。妹みたいに思われてるって、思って……」
「妹に見えたことは、一度もない」
「でも、審問が……もし偽物だって判定されたら、私は」
「そのときは王位を捨てても構わない覚悟だ」
「!?」
「冗談ではないぞ」
「冗談にしてください!」
マクシミリアンは、ジゼルの手を取った。
「ジゼル・フォン・アルデン。一ヶ月後、審問が終わったら、俺と婚約してほしい」
「はい」
答えを言い終える前に、腕を引かれた。
「わっ……」
気づいたときには、視界が塞がれていた。
一度目は、触れるだけ。
二度目は、逃げようとした唇を追ってきて、長かった。
銀の葉が降る音だけが聞こえる。
土と朝露と、彼の匂い。
息が続かなくなって胸を押すと、マクシミリアンは喉の奥で笑った。
「十年分だ。まだ足りない」
「……っ、朝です!衛兵が!」
「追い払った」
「用意周到すぎません!?」
耳まで赤くなったジゼルを、彼は今度は静かに抱き寄せた。
上着越しに、心臓が早鐘を打っているのが伝わってくる。
ああ、この人も、同じなんだ。
そう思った瞬間、また涙がこぼれた。
朝日の中で、銀の葉が一枚、二人の間に祝福のように落ちた。
それは、同時に宣戦布告でもあった。
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