第三話 加護に値する魂
「あら。アルデン男爵令嬢?」
回廊に出たジゼルを呼び止めたのは、その深紅の声だった。
振り向くと、イザドラが取り巻きの令嬢を三人ばかり従えて立っていた。
扇の陰から、値踏みするような視線が降ってくる。
「ごきげんよう、グランベルク公爵令嬢」
ジゼルは、教科書通りの礼をした。
「まあ、丁寧なこと。……そのドレス、素敵ね。三年前の型でしょう?懐かしいわ」
くすくす、と後ろで笑いが起きる。
「わたくし、あなたに感謝しておりますのよ。あの汚らしい古木のお世話をしてくださって。庭師も嫌がる仕事ですもの」
「……聖霊樹は、汚くありません」
「あら、まだそんなことを。あれはもう死んでいるのよ。父も宮廷魔術師も、そう申しております」
イザドラは扇を閉じ、一歩近づいた。
声が、少しだけ低くなる。
「ねえ、ジゼル様。ご忠告いたしますわ。——殿下から、離れてくださらない?」
心臓が、冷たい手で掴まれた気がした。
「殿下はお優しい方。幼い頃の友情を、義理堅く守っていらっしゃるだけ。でもね、それは殿下の重荷になっているの」
「……重荷」
「そうよ。あなたを庇うたびに、殿下は大臣たちと衝突なさる。あなたのために、殿下の評判が下がる。それでもあなたは、隣にいたいの?」
言葉が、正確に急所を刺した。
だってジゼルは、ずっとそれを恐れていたから。
「殿下がお可哀想。優しさにつけ込まれて、下級貴族の娘に情をかけ続けなければならないなんて」
イザドラは、ジゼルの薄青のドレスの肩に、そっと手を置いた。
そして、持っていたグラスを傾けた。
赤ワインが、肩から胸元へ、ゆっくりと染み込んでいく。
「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって」
「っ……」
「その格好では夜会にいられませんわね。お帰りになる?それとも、庭の古木にでもお慰めいただく?」
笑い声にジゼルは、深く、深く頭を下げた。
「……失礼いたします」
震える手でスカートを掴み、回廊を走った。
涙は、庭園に出るまで、なんとかこらえた。
夜の庭園は、月光で青白かった。
最奥の一角。
半分枯れた白銀樹エルディアの根元に、ジゼルは崩れるように座り込んだ。
「ドレス、汚しちゃった」
樹に話しかける。
誰にも言えないことを言える相手は、この樹だけだった。
「あのね、エルディア。私、諦めなきゃいけないの」
一枚だけ残った銀の葉が、風もないのに、かさりと揺れた。
「マクシミリアン様、来月には婚約者が決まるんだって。……ずっと分かってた。分かってたのに、ちゃんと諦めてなかった」
胸元の赤い染みを、ぎゅっと握る。
濡れた絹が肌に貼りついて、冷たい。
——この冷たさごと、全部捨てなきゃいけない。
「私ね、殿下のこと好きなの。八歳のときから、たぶんずっと」
言葉にした瞬間、涙が堰を切った。
「でも、私は男爵令嬢で。殿下の重荷で……あの人の隣に立てる資格なんて、なんにも無い」
嗚咽が漏れる。
「加護でもあれば良かったのにね。聖女とか、そういうの。そしたら、少しは釣り合ったのかな?ごめんね……こんなこと言われても、困るよね」
自嘲だった。
冗談のつもりだった。
だから、答えが返ってきたとき、ジゼルは息が止まりそうになった。
『遅くなって、ごめんなさい』
鈴を転がすような、けれど老木のようにしわがれた、不思議な声がして顔を上げる。
枯れ枝の先。たった一枚の銀の葉が、光っていた。
『わたくし、ずっと、あなたに応えたかった』
光が枝を伝い、幹を伝い、地面へ降りてくる。
『けれど力が足りなかった。誰かに、奪われ続けていたから』
光は、少女の形をとった。
半透明の、銀髪の、小さな女の子。
「……エルディア?」
『はい。あなたが十年、水をくださった樹の名前です』
聖霊は、そっとジゼルの頬に触れた。触れられた場所が、じんわりと温かい。
「奪われてるって……誰に?」
『分かりません』
聖霊は、悲しげに首を振った。
『わたくしの根には百二十年前、「霊脈の楔」が打ち込まれました。霊力は地の底を通って、どこかへ運ばれ続けています。……けれど、わたくしは地上を見ることができない。楔を掘り出さねば、行き先は分かりません』
「そんな……!」
『ですから、今はこれだけ』
聖霊が微笑む。
『建国祭の夜。霊脈が一年でもっとも高まる、この夜だけは。そして、わたくしのために泣いてくれる子が根元にいる、この夜だけは』
銀の葉が、一斉に芽吹いた。
枯れていたはずの枝という枝から、若葉が噴き出す。庭園全体が、月光より明るい銀に染まる。
『ジゼル・フォン・アルデン。あなたは十年、見返りを求めず、忘れられたものに手を差し伸べ続けた。わたくしは、それを「加護に値する魂」と呼びます』
光が、ジゼルの胸に沈んでいった。
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