第二話 いっそ、正妃ではなく側妃に
一方その頃、マクシミリアン・レイ・ヴァルトハイムは。
(早く終われ)
微笑を貼り付けたまま、心の中で絶叫していた。
腕の中の公爵令嬢は完璧だ。完璧に美しく、完璧に踊り、完璧に退屈だ。
香水も、絹の手触りも、腰に添えた掌に返ってくる細さも、何もかもが計算通りに整っている。
完璧に、他人だった。
——十年前、聖霊樹の下で握った手を思い出す。
土で汚れて、豆だらけで、じっとりと汗ばんでいた、小さな手。
あの熱だけが、いまだにこの掌に焼き付いて剥がれない。
彼の視線は、ワルツで回るたび、広間の柱の陰を探していた。
(いた)
薄青のドレス。三年前に仕立てた、ジゼルが「まだ着られるから」と言い張るあのドレス。
(しょんぼりしている。……なぜだ。俺が何かしたか?いや、俺が公爵令嬢と踊っているからか?だとしたら、それは、つまり……)
期待が、胸の奥で一瞬跳ねて、すぐに冷えた。
(……いや。あれはたぶん、壁の花で退屈しているだけだ)
マクシミリアンは十年間、ジゼルに恋をしていた。
八歳のあの子が、誰も見向きもしない枯れ木のために水を運んでいたあの日から。
王太子として生まれ、誰からも「役割」としてしか見られなかった彼を、あの子だけが「マクシミリアン」として叱り、笑い、木の根元でパンを分けてくれた。
だから、婚約者にしたかった。十四のときから、何度も父王に願い出た。
そのたびに宰相が、大臣たちが、王妃までが言った。
『男爵令嬢を王太子妃に?正気ですか』
『後ろ盾のない妃は、王家を弱くします』
『殿下、情に流されるのは君主の資質ではございません』
正論だった。悔しいほどに。
だから彼は、せめてもの抵抗をしていた。
つまり——アルデン男爵家に持ち込まれる縁談を、片っ端から握り潰していたのである。
商家の三男坊。地方の騎士爵。学者仲間の甥。
書類が王都の記録院を通るたびに、王太子直筆の「保留」印が押された。
名門の子息が男爵家に興味を示したと聞けば、翌週にはその青年に「王太子付き」の激務が割り当てられた。
(俺は最低な男だ)
自覚はあった。
あったが、止まらなかった。
ジゼルが誰かと腕を組んで歩く姿を想像するだけで、内臓が凍る。
あの手を、あの髪を、あの声を、他の男が知る。
そう考えた夜は、決まって一睡もできなかった。
そしてジゼルはジゼルで、十八歳になっても縁談ひとつ来ないことを、
『やっぱり私、女性としての魅力が無いのかも』
と、笑いながら本人に相談してきたのだった。
マクシミリアンはそのとき、聖霊樹の根元で三分ほど停止した。
「そんなことはない」と絞り出すのが精一杯だった。
「ふふ、慰めてくれてありがとう。殿下は優しいなあ」
(違う。違うんだ)
言えなかった。
言ってしまえば、彼女は困る。王太子に想われた男爵令嬢が、社交界でどう扱われるか。
嫉妬。嘲笑。押し付けられる「身の程知らず」の烙印。
守るためには、黙るしかない。
そう思って十年、黙り続けた結果が、今夜だった。
「殿下。今宵で、王太子妃候補は絞られると聞いておりますわ」
腕の中の公爵令嬢が、赤い唇で微笑む。
「陛下は、来月には正式な発表をなさるとか」
「……ええ。そういう話になっています」
ついに、逃げ切れなくなった。
二十歳。王太子として、婚約者を決めねばならない年齢。
もう、猶予は無い。
(いっそ、正妃ではなく側妃に……)
考えた自分を、すぐに殴りたくなった。
あの子を日陰に置いて、夜だけ呼びつける?
冗談ではない。それは、十年かけて焼き付いたあの熱への最大の侮辱だ。
音楽が終わる。
マクシミリアンは礼をして顔を上げ、柱の陰を見た。
薄青のドレスは、そこにいなかった。
(一番愛している女性すら、正妃にできないとは……)
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