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値札なき商会  作者: 熾火
不死鳥の産声

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第1話:泥水と、二つの冷たい夜

「魔力一つ持たない給潰しのゴミが。二度とウチの敷居を跨ぐな!」


怒声が鼓膜を震わせたと同時に、腹部に鈍い衝撃が走った。

ひ弱な体は簡単に宙を舞い、冷たい雨が叩きつける裏路地の石畳へと無惨に転がり落ちる。


「ガハッ……、あ……」


肺から空気が強制的に絞り出され、代わりに鉄の味が混じった泥水を啜る。

咳き込みながら見上げると、金ピカの悪趣味な装飾が施された豪商の勝手口から、恰幅の良い店主が冷笑を浮かべて見下ろしていた。その足元には、平民の月収でも到底買えない最高級の革靴が、雨を弾いて鈍く光っている。


「文字も読めず、魔法も使えん無能め。三年もタダ飯を食わせてやった恩を忘れおって。野垂れ死のうが知ったことか!」


重厚な扉が、一切の情けを断ち切るように閉ざされた。

途端に、圧倒的な暗闇と静寂が降りてくる。


叩きつける雨は容赦なく体温を奪い、指先から感覚が消えていく。

魔力を持たない孤児が、冬の冷雨の中で一晩を越せるはずがない。今日が自分の最期なのだと、15歳の少年の脳が淡々と絶望を受け入れようとしていた。


その時だった。

石畳に頭を打ちつけた衝撃が、脳の奥底に眠っていた「何か」の回路を繋いだ。

バチリ、と。耳の奥で、ショートした電子機器のような音が響く。


――真っ白な閃光。

――雨音に混ざって、聞き慣れた「規則的な電子音」が鳴り響く。


『――君のその合理主義には、もうついていけないよ』

『――お前、結局自分のことしか信じてないじゃないか』


頭に響くのは、誰の声だ。

豪雨の裏路地にいるはずなのに、視覚の裏側には「無機質な白い天井」と、淡々と点滅する「医療機器のランプ」が焼き付いている。


(……あぁ、そうか。俺は、あの夜に死んだんだったな)


濁流のように流れ込んできたのは、別の人生の記憶。

現代日本という世界で、完璧な数字と戦略を操り、市場を支配した男の一生。


大金を手に入れ、誰の力も借りず、合理性だけを追求して生きた。

世間で流行していた「異世界転生」や「無双する能力チート」という概念も、人々の逃避願望が生み出した巨大な市場データとして、冷徹に分析していた覚えがある。


だが、市場を支配した俺自身は、何一つ持っていなかった。

人に弱さを見せるのが致命的に下手だった男は、自らの振る舞いで仲間をすべて失い、最後は静かで冷たい病室で、誰にも看取られることなく鼓動を止めたのだ。


(嫌だ)


泥水の中に倒れ伏したまま、俺は強く奥歯を噛み締めた。

少年の絶望と、前世の男の痛切な後悔が、一つの魂の中で混ざり合う。


(寝る前の時間が、一番嫌いだった)


夜の暗闇と静寂は、自分がどれだけ独りぼっちなのかを突きつけてくるから。

合理性の果てに失った人々との日々を、否応なしに突きつけてくるから。

あの冷たくて孤独な夜を、もう一度繰り返すのか? 何も成せず、誰とも繋がれず、こんな泥水の中で?


「……ふざ、けるな」


泥水に沈んでいた右手が、ピクリと動いた。

軋む体を無理やり動かし、俺はゆっくりと石畳の上に膝をつく。


今の俺には、魔力もなければ、お決まりの超常的なギフト(チート)もない。

だが、そんなものは「手段」の一つに過ぎない。

ビジネスの基本は、現代でも異世界でも不変だ。人間の欲望と心理という「盤面」がある限り、ルールを定義するのは俺の役目だ。


(……例えば、あの豪商の判断は致命的に愚かだ)


俺は震える手で顔を拭い、閉ざされた扉を冷徹な目で見つめた。

彼は目の前の食費という「微々たるコスト」を惜しんで、俺という「未来の資産」を捨てた。労働力の価値を定量的に測れない三流の経営判断だ。


(怒る必要すらない。ただ、彼は商売の負け組に回っただけのことだ)


ゆっくりと、震える足に力を込めて立ち上がる。

まずは、今日を生き延びるための「初期資本」が必要だ。


記憶の糸をたぐる。

数ブロック先の貧民街に、法外な利子で金を貸し、価値あるものを買い叩く悪徳質屋があったはずだ。

現代の交渉術――相手に「自分で選んだ」と思わせながら、望む結果を引き出す心理的誘導。それを試すには、格好の相手だろう。


俺は泥に塗れた足を引きずりながら、雨の夜の裏路地へと最初の一歩を踏み出した。

もう二度と、誰にも搾取されない。

そして今度こそ、たった一つでいいから、素の自分でいられる「居場所」をこの手で作り上げる。

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