沈黙の商人と、路地裏の炉
初投稿です。
よろしくお願いいたします。
1章終わるまでは1日3~4話投稿します。
「夜は冷えるな。少しヒーターの出力を上げてくれないか」
俺がそう声をかけると、作業台に向かっていた不器用な背中が、無言のまま魔導炉のつまみを回した。
カチリ、と小さな音が響き、すぐに極上の暖かさが薄暗い工房を満たしていく。
帝国の下町。外観は看板も剥がれ落ちたボロボロの店舗だが、一歩中に入れば、無駄なものが一切ない静寂の空間が広がっている。
ここは、帝国の経済を裏から支配し、大貴族たちすら平伏す『値札なき商会』の心臓部だ。
一歩外に出れば、俺は決して他人に弱みを見せない。
金ピカの装飾と派手な魔力を至高とする傲慢な貴族社会に対し、俺はあえて値札を外し、極限まで線を削ぎ落とした「不死鳥」のシンボルだけで勝負を仕掛けた。
魔法など一切使えない。チート能力もない。
手札にあるのは、前世で培った現代の対人心理学と、泥臭く冷徹なマーケティング戦略だけ。それだけで、俺はこの帝国の盤上をひっくり返し、かつて自分を見下していたエリートたちを完全に依存させてきた。
だが、この工房の中では違う。
無駄な装飾を嫌い、ただ機能美と熱源だけを追求する偏屈な老職人。このヴァーン爺さんの前でだけは、完璧な「成功者の仮面」を外し、ただの何者でもない自分に戻ることができる。
前世の俺は、夜が嫌いだった。
一日の終わり、寝る前の時間が一番嫌いだった。
暗闇の中で独りになると、自分の合理主義的な行動のせいで、何人も友人をなくしてしまった過去を否応なしに思い出すからだ。
人に弱さを出すのが、本当に苦手だった。
完璧な人間を演じようとするあまり、誰にも本音をこぼせなかった。気がつけば周りには誰もいなくなり、静寂の中で過去の失敗を悔やみながら、最後は一人きりの部屋で命を落とした。
だからこそ、今世の俺にとってこの場所は何よりも特別だ。
干渉し合わない沈黙。ただ心地よい暖かさと、不器用な爺さんの作業音だけが響く空間。
言葉にしなくてもいい。無理に笑わなくてもいい。ただ「素の自分」でいられるこの絶対的な居場所は、帝国中の金貨をすべてかき集めるよりも遥かに価値のあるものだった。
窓の外から、パラパラと雨音が聞こえてきた。
「……そういえば爺さん。俺たちが初めて会った日も、今日みたいに冷たい雨が降っていたな」
爺さんは振り返らない。ただ、魔導回路を彫るノミの音が、少しだけ柔らかくなった気がした。
俺はグラスに残った琥珀色の酒を飲み干し、静かに目を閉じる。
あれは数年前。
見習いとしてタダ同然でこき使われていた俺が、前世の深い後悔と記憶を取り戻し、冷たい泥水の中から立ち上がった――すべての始まりの夜のことだ。




