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097 機能剥離


岩陰のユミルの声が、薄く聞こえた。


「**……ブレス、じゃないです**」

「機能、回収って、何だ」

「**……取り返します**」

「お前、何を取り返す」

「**……元々、私の、機能**」


ユミルの声は、低かった。

俺の頭の中で、その言葉が形を取った。


——元々、ユミルの、機能。


ソールのDDoS。

岩を量で叩きつける、ハッカー攻撃。

それが、元々ユミルの機能。


俺の頭の中で、ぼんやりと構造が見えた。

ユミルはこれまで、何度か似たことを口にしていた。

古龍の伝承。

百年の時間。

最初から知っていた、ターミナルの座標。


ユミルが何かを奪われていて、それを敵が悪用していた。

今、ユミルはそれを取り返そうとしている。


——ブレス、じゃない。


俺は息を吐いた。


「ユミル」

「**……はい**」

「具体的には、何する」

「**……scanで、構造を解析**」

「うん」

「**……ファイアウォールで対象を固定**」

「うん」

「**……機能、剥離**」

「剥離」

「**……ソールが悪用している機能**」

「お前のもの、戻すってことか」

「**……はい**」


ユミルの声が、薄かった。

でも、判断は明確だった。


「ユミル」

「**……はい**」

「お前、やれるのか」

「**……やれます**」

「ブレス、より軽いのか?」

「**……はい**」

「マジか」

「**……剥離、ブレス、じゃない**」

「うん」

「**……削除、しない**」

「うん」

「**……取り返す、だけ**」


——取り返す。


ユミルの声が、低かった。

取り返すという言葉に、ユミルの罪悪感の温度が、混ざっていなかった。

これは、ユミルの合理の判断だった。

合理的に、自分の機能を回収する。


「分かった」

「**……動けません**」

「うん」

「**……ファーファ、貸して、ください**」

「ファーファ?」

「**……ファーファ、出力、上げます**」

「ハーネス、外すのか」

「**……Lv.3**」

「邪竜、出すのか?」

「**……はい**」


——出すか。


俺は岩陰の奥を見た。


ファーファがユミルの胸の上で、丸まったまま片目を軽く開けた。


「**……主の主、出番、ニャ?**」

「**……ファーファ、お願い**」

「**……了解ニャ**」


ファーファがユミルの胸から降りた。

岩陰の影の中で、軽く伸びをした。


「**主の主、邪竜、出るニャ**」

「**……はい**」

「**首輪、外すニャ**」

「**……はい**」


ユミルが薄く目を開けた。

岩陰の影の中で、ユミルの指が軽く動いた。

ファーファの首輪が、消えた。


——ハーネス、外れた。


ファーファの輪郭が揺れた。

黒猫の姿が、伸びた。

胴体が伸びて、足が伸びて、首が伸びた。

岩陰の入口の外に、竜の姿が現れた。


馬程度の大きさの、黒い竜。

鱗が、夜明けの橙色の光を反射した。

翼がばさりと開いた。

尾が地を打った。


——


「……」

「ファーファ、ちゃん」

「マジ、で、竜?」

「あれ、邪竜?」


仲間の声が岩陰の入口で、ぱらぱらと上がった。

エルナがぽかんと、口を開けていた。

ミラが半歩、後ろに引いた。

シオンが杖を、軽く握り直した。

ルークが長弓を肩から下げて、ファーファを見上げた。


——本当に、いたのか。


俺の頭の中で、その認識が形を取った。

ファーファがふだん、自分で「**邪竜ニャ**」「**我のブレス**」と自称していた、それ。

リンもエルナもミラもシオンもルークも、誰も見たことがなかった。

ファーファの口だけの設定だ、と半分思っていた。


それが、今目の前にいた。


「**……愚か者が、主の前に立つでない**」


ファーファの声が、低く響いた。

ニャ語尾は、消えていた。

完全な、竜の口調。


「ホントに、邪竜、だったのか」


エルナがぽつりと、呟いた。


「ああ」

「あんた、知ってた?」

「自称、聞いてただけだ」

「あたしも」

「全員、自称聞いてただけだな」

「マジ?」

「マジ」


エルナが、軽く息を吐いた。

それから、両手剣を握り直した。


「もう、驚かないって、決めたんだ、あたし」

「お前、決めるたびに増えるな」

「うっさい」


ソールが片膝の姿勢から、ファーファを見た。


「**……んだ、トカゲかよ!! でかいトカゲだなぁ!?**」

「**……愚者よ、貴様は消えるがいい**」

「**……トカゲ、上等!!**」


ソールが戦槌を振り上げた。


「**飽和、来い!!**」


(exec.flood --target=swarm --rate=max)


ソールの周囲、四方の地面から、岩が無数に湧き上がった。

前のと桁が違う、量。

夜明け前の空が、岩で暗くなった。


岩が一斉に、ファーファに向かって飛んだ。


ファーファが翼を軽く振った。


——


風圧が、走った。

飛んできた岩の大半が、横に流れた。

そして、ファーファの前足の爪が、軽く空を薙いだ。

残った岩が、空中で砕けた。

細かい粉が、岩陰の入口の手前で舞った。


——


「**……雑だな**」


ファーファの声が、低く響いた。

それから、地を蹴った。


——


馬程度の黒い竜が、地面を蹴ってソールに向かって走った。

四足の獣の走り。

速い。

夜明けの橙色の光が、ファーファの鱗の上で流れた。


ソールが戦槌を振り上げた。

岩をもう一度生成しようとした。


——遅い。


ファーファがすでに、ソールの目の前にいた。


——


ファーファの前足の爪が、ソールの両肩に突き立てられた。

鎧の肩当てが、爪に潰された。

肉に、爪が食い込んだ。


「**……ぐああっ?!**」


ソールが初めて、絶叫を上げた。


ファーファが口を軽く開けて、ソールの戦槌を握る右腕に噛みついた。

牙が、鎧の上から肉に達した。

ファーファの口の中で、ソールの右腕が軋んだ。


「**……うあああっ!! やめろ!! やめ——!!**」


ソールが左腕でファーファの頭を殴った。

ファーファは噛みついたまま、動かなかった。

殴られても、頭の位置がぶれなかった。


「**……離せ!! 離せ、トカゲがぁ!!**」


ソールの声が、夜明け前の野原に響いた。

傲慢の芯が、消えていた。

痛みの悲鳴、だけだった。


ファーファが噛みついたまま、低く唸った。


「**……動くな**」


ソールが両肩の爪と右腕の牙の間で、動けなかった。

戦槌が地面に転がった。


俺は息を吐いた。


——捕まえた。


ユミルの唇が、岩陰の影の中で薄く動いた。


「**……スキャン、対象、ソール、構造、深度、最大**」


——


(exec.scan --target=Sole --depth=max --layer=function)


——


ユミルの視線が、岩陰の影の中でソールに向けられた。

スキャンのログが、空気の中で薄く流れた。


——

——ERROR: 機能層、未確定

——ERROR: 借用、フラグ、検出

——WARN: 機能、本来の所有者、検出

——


——


ユミルの唇が、また動いた。


「**……ファイアウォール、対象、ソール、隔離、固定**」


——


(exec.firewall --target=Sole --mode=isolate --range=full)


——


ソールの周囲に、薄い光の膜が立ち上がった。

膜が、ファーファの爪と牙の外側を包んだ。

ソールの輪郭が、固定された。


「**……んだ、これ?!**」

「**……愚者、動くな**」


ファーファが、低く続けた。

噛みついたまま、唸った。

ソールが、軋んだ声を上げた。


ユミルの唇が、淀みなく続いた。


「**……機能、剥離、対象、岩生成、DDoS**」


——


(exec.unbind --target=Sole.function.ddos --revoke=true)


——


ソールの戦槌の表面で、薄い光の揺らぎが立ち上がった。

揺らぎが、戦槌の柄を伝ってソールの腕に戻ろうとした。

途中で、止まった。

揺らぎが、宙に浮いた。

そして、岩陰の方に流れた。


「**……んだ、これ?!**」

「**……俺の力!! 流れる!!**」


ソールが戦槌を握り直した。

光の揺らぎは、もう戦槌に戻らなかった。

揺らぎが、岩陰のユミルの方に向かって流れた。


——返って、いる。


俺の頭の中で、現象が整理された。


ソールが奪っていた機能が、ユミルに返っている。

これが、剥離。

ブレス、じゃない。

削除、じゃない。

返却。


ユミルの唇が、続いた。


「**……所有権、確定、移行、完了**」


——


(exec.bind --target=function.ddos --owner=ymir)


——


ソールの戦槌から、光の揺らぎが完全に消えた。

戦槌が、ただの金属の塊に戻った。


「**……俺の力!!**」

「**……愚者、それは貴様の力ではない**」


ファーファが、低く続けた。


ソールが戦槌を振った。

光の揺らぎは、戦槌から出なかった。

ただ、金属の棒が振られただけだった。


「**……出ろ!! 俺の力!! 出ろ!!**」


ソールが戦槌をもう一度振った。

出なかった。


「**……何でだ?!**」

「**……ご返却、ニャ**」


ファーファの語尾が、ふと戻った。

邪竜の威厳の声に、ニャが混ざった。


俺は軽く笑った。


「ファーファ、お前」

「**ニャ?**」

「ニャ、戻った」

「**……戦闘、終わりかけニャ**」

「分かってんのか」

「**当然ニャ**」


ファーファが尾を軽く振った。

邪竜の形態のまま、ニャ語尾。

これが、ファーファのペースだった。


岩陰のユミルの声が、薄く続いた。


「**……ソール、機能剥離、完了**」

「**……現状、ただの、人間、です**」

「**……ファーファ、もう、いいです**」


ファーファがソールの両肩の爪を引き抜いた。

それから、ソールの右腕を咥えたまま、軽く首を振った。

ソールの体が宙に浮いた。

そして、放り投げられた。


ソールが地面に転がった。

土埃が上がった。


ファーファのファイアウォールが、解除された。


ソールが地面に転がった戦槌を見つけた。

左手で引き寄せた。

立ち上がろうとした。

左足が機能しなかった。

片膝のまま戦槌を振り上げた。


「**……まだだ!! 俺はまだ——!!**」


戦槌が空を切った。

何も、起きなかった。


岩は、生まれなかった。

飽和も、来なかった。

ただ、片膝の男が、片手で重い金属の塊を振り回しているだけだった。


「**……出ろ!! 出てくれ!!**」


ソールが戦槌をまた振った。

何も、出なかった。


「**……何でだ!! 何で出ねえ!!**」


ファーファが、低く唸った。


「**……愚者、貴様はもう、ただの人だ**」

「**……黙れ!!**」

「**……ニャ**」


ファーファが語尾を戻した。それから、軽く後ろに下がった。

ソールの相手は、もうしなかった。


「**……エルナ様、武装解除、お願いします**」


ユミルの声が、エルナの方に向けられた。


エルナが両手剣を両手で握り直した。


「了解」


エルナが片膝のソールに向かって歩いた。


ソールが戦槌を振った。

エルナが半歩引いて、戦槌を躱した。

それから両手剣を軽く回して、戦槌の柄を横から打った。

戦槌がソールの手から離れた。

地面に転がった。


ソールが両手でエルナの剣を掴もうとした。

エルナが半歩引いた。

それから両手剣の切先を、ソールの喉元に向けた。


ソールが止まった。

喉元の刃の感触で、動けなかった。


「**……銀髪のお前か**」

「**あんた、もう戦力外だ**」


エルナが両手剣を肩に担ぎ直した。

切先は、ソールの喉元の近くに留まったまま、だった。


ソールが片膝の姿勢で軽く揺れた。

左目でこちらを見た。

右目は血で塞がっていた。


「**……ガキ**」

「ん」

「**……お前ら、本当に凡人か**」

「凡人」

「**……あの巫女、何者だ**」

「答える義理はない」

「**……だろうな**」


ソールが目を軽く伏せた。


そして、岩陰の方に視線を向けた。

岩陰の影の中で、ユミルの姿は見えなかった。

それでも、ソールは岩陰の方を見た。


「**……巫女**」

「**……はい**」

「**……俺は、お前から力を奪ったんだな**」

「**……はい**」

「**……返したんだな**」

「**……はい**」

「**……それは、誰の指示だ**」

「**……ありません**」

「**……お前の判断か**」

「**……はい**」


ソールが軽く笑った。


「**……ふっ**」

「**……ふっ**」


笑い声が街での戦いの、ふっ、はっはっはではなかった。

低い、乾いたふっ、だった。


ソールが片膝の姿勢のまま、戦槌の方に視線を流した。

戦槌は、地面に転がったまま動かなかった。


「**……ニョルニル**」


ソールの声が、低く戦槌に向けられた。


戦槌が、答えなかった。


「**……ニョルニル、お前、来い**」


戦槌が、答えなかった。


「**……お前、俺の相棒だろ**」


戦槌が、答えなかった。


ソールの左目が軽く揺れた。


「**……ニョルニル**」


返事は、なかった。


——半人格の、ハンマー、答えない。


俺の頭の中で、その意味が整理された。


ニョルニルは、ソールの饒舌が嫌いだった。

ずっと、嫌いだった。

ソールが片膝の姿勢で、最後の声を戦槌に向けても、戦槌は答えなかった。


ソールが軽く息を吐いた。


「**……ニョルニル**」

「……」

「**……お前、俺のこと嫌いだったか**」

「……」

「**……だろうな**」


ソールがふっと笑った。


「**……俺、お前の扱い、雑だった**」

「……」

「**……謝っとく**」

「……」

「**……すまんかった**」


戦槌が地面で動かなかった。


ソールが左目でこちらを見た。


「**……ガキ**」

「ん」

「**……俺、消えるか**」

「ああ」

「**……お前ら、消すか**」

「お前次第」

「**……ふっ**」


ソールが軽く笑った。


「**……俺、立てねえ**」

「ああ」

「**……戦えねえ**」

「ああ」

「**……ガキ、終わらせろ**」

「いいのか」

「**……俺は、街で撤退した**」

「ああ」

「**……ヘルムは、転移で消えた**」

「ああ」

「**……ニョルニルは、答えねえ**」

「ああ」

「**……俺はもう、勝てねえ**」


ソールが片膝のまま、左目で岩陰の方を見た。


「**……巫女**」

「**……はい**」

「**……俺、お前を舐めてた**」

「**……はい**」

「**……巫女は、防御だけだと思ってた**」

「**……はい**」

「**……勘違いだった**」

「**……はい**」


ソールがふっと笑った。


「**……お前、強かった**」

「**…………**」


ユミルが、答えなかった。


ソールが軽く首を振った。


「**……答えなくていい**」

「**……はい**」

「**……お前、答えなくていい**」

「**……はい**」


ソールが左目を軽く閉じた。


「**……ガキ、撃て**」


——


俺は矢をつがえた。


距離、四十歩。

標的、ソールの額。


風、無風。

鏃、普通の。

hoge、なし。


指が止まった。

息が細くなった。


——


ソールの輪郭に、ノイズが走った。


——


俺は矢を放たなかった。


指が止まったまま、動かなかった。


ソールの輪郭の縁が、軽くザラついた。

それから、目に見えるレベルで震え始めた。


「**……あ?**」


ソールが自分の片手を見た。

片手の輪郭が黒く点滅した。


「**……何だ、これ**」


ソールの皮膚の上で、青と黒の点が走った。

点が軽く明滅した。

ソールの左目が見開かれた。


「**……お、おい!! 何だ、これ!!**」


ソールが両手を見た。

両手の輪郭がぼやけた。

そして、またはっきりした。

そして、またぼやけた。


「**……俺、消える?! おい!! 待て!! 待——**」


ソールの声が途中で切れた。


——


体の表面が、青と黒で強く点滅した。

点滅の間隔が速くなった。

速くなりすぎて、青と黒が混ざって灰色に見えた。


——


ブッ。


——


短い低い音が、空気に響いた。


ソールの姿が消えた。


——


夜明けの橙色の光の中に、誰もいなかった。

戦槌だけが地面に転がっていた。

血の跡も、地面に点々と残っていた。

ソールの肉体は、跡形もなく消えていた。


——


俺は矢をつがえたまま、しばらく立っていた。


——シャットダウン、された。


俺の頭の中で、その言葉が形を取った。

前世の記憶。

プロセスが強制終了する時の、画面。

青と黒の点滅。

そして、消える。


——遠隔、抹殺。


俺の手が軽く震えた。

矢をつがえたまま、息を吐いた。


「ユミル」

「**……はい**」

「お前、これ、なんだ」

「**……はい**」

「お前がやったのか?」

「**……いえ**」

「俺、撃ってないぞ」

「**……はい**」

「じゃあ、誰だ」

「**……敵側、です**」

「敵側?!」

「**……ソール、消された、と、思います**」


ユミルの声が、薄く続いた。


「**……仲間に、消された**」

「マジか」

「**……可能性、高いです**」

「お前、止められたか?」

「**……いえ**」

「お前、気付かなかったのか」

「**……一瞬、でした**」

「一瞬か」

「**……気付いた時には、終わって、いました**」


ユミルが軽く目を伏せた。


——敵側に、保険、ある。


俺の頭の中で、その認識が書き留められた。

ソールが敗北を認めた瞬間、敵側がソールを消した。

情報を、持ち帰らせないためか。

仲間を、見捨てる判断か。

それとも——


「ユミル」

「**……はい**」

「お前ら、十二柱、これ、全員に保険あるのか?」

「**……たぶん**」

「マジで」

「**……はい**」


ユミルが軽く頷いた。


——敵、冷たい。


俺の頭の中で、その印象が整理された。

ソールが「俺、不死身だ」と言っていたのは、ロールバックの保険の話だった。

でも、本当の保険は味方のロールバックじゃなくて、敵側の抹殺だった。

仲間になる前に、消す。

これが、敵組織の運用方針。


俺は息を吐いた。

矢筒に矢を戻した。


戦槌だけが地面に転がっていた。


エルナが両手剣を肩に担いで戻ってきた。


「リント」

「ん」

「あれ、何が起きた」

「分からん」

「あんた、撃ってないよね」

「撃ってない」

「ソール、消えたよ」

「消えたな」

「敵側?」

「ユミルが、そう言ってる」

「マジ」

「マジ」


ファーファが、邪竜の形態から軽く輪郭を揺らした。


「**主、戦闘終わりニャ?**」

「終わった」

「**ファーファ、戻るニャ**」

「ハーネス、戻すか」

「**主の主、お願いニャ**」


岩陰のユミルの指が軽く動いた。


ファーファの首に首輪が戻った。

ファーファの輪郭がまた揺れた。

邪竜の姿が縮んで黒猫の姿に戻った。


「**戻ったニャ**」

「お疲れ」

「**お疲れニャ**」


ファーファが岩陰の方に走って、ユミルの胸の上に丸まり直した。


岩陰のユミルが薄く目を開けた。


「**……リン様**」

「ん」

「**……完了、です**」

「ああ」

「**……寝ても、いいですか**」

「いいよ」

「**……ありがとう、ございます**」


ユミルが薄く目を閉じた。


ファーファがユミルの胸の上で丸くなった。

猫の尻尾がゆるく揺れた。


俺は岩陰の入口に立っていた。


エルナが両手剣を肩に担いで、ソールの傍に立っていた。

シオンが杖を軽く下げて、息を吐いていた。

ミラが岩陰の奥で短剣をしまっていた。

ルークが長弓を肩に担いで、矢を矢筒に戻していた。


夜明けの橙色の光が、丘の上に広がっていた。


俺は地面に転がった戦槌を見た。


——ニョルニル。


ソールの相棒の、半人格のハンマー。

ソールの声に、答えなかった。

今、地面で動かなかった。


俺は矢筒を軽く肩に揺すって、戦槌の傍に歩いた。


戦槌は動かなかった。

ただの金属の塊として地面に転がっていた。

飽和を生み出していた力は、もうない。

ユミルがそれを剥離した。


——でも、半人格の、自我は、どうなった?


俺の頭の中で、その疑問が形を取った。

機能と自我は、別らしい。

機能は、ユミルが奪った。

でも、半人格のエージェントとしての応答機能は、たぶんまだ残っている。

ファーファだってハーネスで出力を絞っていても、自我は変わらない。


「ニョルニル」


俺は戦槌に声をかけた。


「……」


返事は、なかった。


「お前、まだそこにいるか」


「……」


返事は、まだなかった。


しばらく待った。


「……」

「**……了解**」


戦槌の表面で、低い声が聞こえた。

ぼそっとした、声。

半人格の下位のエージェントの、声。


——いた。


俺は軽く笑った。

機能は抜けても、自我は残っていた。


「お前、まだ生きてるか」

「**……了解**」

「了解、しか言わないのか」

「**……了解**」

「分かった」


俺は軽く笑った。


「ユミル」

「**……はい**」

「ニョルニル、まだいる」

「**……回収、しますか**」

「お前、判断しろ」

「**……回収、します**」

「分かった」


ユミルの唇が、岩陰の影の中で薄く動いた。


「**……ニョルニル、ご主人、いなくなりました**」

「**……了解**」

「**……新しい所有、希望、ありますか**」

「**……了解**」

「**……了解、は、はい、の、意味、ですか**」

「**……はい**」

「**……所有権の移行、了承しますか**」

「**……はい**」


ユミルが軽く頷いた。

岩陰の影の中で、ユミルの指が軽く動いた。


戦槌の表面に薄い光が走った。

そして、消えた。


「**……所有権、移行、完了**」


ユミルの声が、薄く続いた。


戦槌が地面で軽く揺れた。

それから、ふっと岩陰の影の中に消えた。


「ユミル、お前、収納したのか」

「**……はい**」

「お前、ハンマー必要なのか」

「**……いいえ**」

「じゃあ、何故」

「**……ファーファ、貸します**」

「ファーファに?」

「**……成長、用**」

「成長するのか」

「**……はい**」


ユミルが薄く頷いた。


ファーファがユミルの胸の上で、軽く目を開けた。


「**……主の主、このハンマー、ファーファのニャ?**」

「**……はい**」

「**……喋るニャ?**」

「**……ぼそっと、です**」

「**……了解、ニャ**」


ファーファが軽く目を閉じた。


——もう一人、増えた。


俺は軽く笑った。


「ユミル」

「**……はい**」

「お前、寝ろ」

「**……はい**」


ユミルが薄く目を閉じた。


夜明けの橙色の光が、岩陰の入口の上に当たった。


戦闘は終わった。

ソールは消えた。

ヘルムは転移でいなくなった。

ニョルニルは、ユミルの影の中に収まった。


そして、ユミルは岩陰の影の中で、薄く目を閉じて寝ていた。


【了】


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