093 街道
朝、王都の東門。
俺たちは、馬車一台と、馬二頭で出立した。馬車には、シオンとミラとファーファ、それから補給と地図類。馬は、俺とエルナが交代で乗る予定だった。ユミルはたいてい御者台で、シオンの隣に座っている。兄ルークは、長弓を背に、馬車の側面を歩く。
——監視、ついてる。
ミラが昨日のうちに確認した「フード複数」は、出立の朝も、東門の手前で、誰かの視線として残っていた。背中を向けた人影が、二人。商人風の男が、一人。三人は、互いに連絡を取っている素振りはなかったが、視線の角度が、明らかに俺たちを追っていた。
俺は馬の上で、肩越しに振り返らなかった。気付かれていないという顔をするのが、ユミルの判断だった。
「**堂々と、行きます**」
「了解」
ユミルは御者台で、手綱を握っているシオンの横に、いつもの通りに座っていた。表情は、いつも通りの真顔。背筋は、いつもよりほんの少しだけ、伸びていた。
東門の衛兵が書状を一瞥して、軽く一礼した。書状の効力は、王都の門の出入りで、最初に発揮された。
「お気をつけて」
「**ありがとうございます**」
ユミルが、軽く頭を下げた。馬車が、ゆっくりと東門をくぐった。
王都の城壁を背中に置いて、街道に出た。空は、薄曇り。朝の風は、まだ冷たかった。
「リント君、馬、慣れてる?」
「ぼちぼち」
ミラが馬車の窓から、声をかけてきた。俺の馬の歩幅は、ぼちぼちが嘘ではなかった。子供の頃に村で乗った癖が、こっちに来てから徐々に戻ってきたばかりだった。
「ルーク、お前は」
「俺、兄貴と同じだ。村で乗ってた」
「そらそうだ」
兄ルークは、馬車の側面を歩いていた。長弓を背負った姿が、村にいた頃より肩の幅が、ほんの少しだけ広く見えた。あの治癒以降、ルークの姿勢は、どこか整っている。本人は気付いていない、らしい。
エルナは馬車の反対側で、両手剣を肩に担いで歩いていた。馬には後で乗る、ということで、最初の数刻は徒歩。長旅の最初は、足を慣らすのが大事、というエルナ流の癖。
ユミルが御者台で、一度肩越しに振り返った。視線は、街道の前方ではなく、後ろに、軽く流れた。
「**……三人、追従**」
「分かるか」
「**気配、追えています**」
「リン様、馬車に近寄ってこい」
俺は馬の歩幅を緩めて、馬車の横についた。ユミルが御者台で、静かに続けた。
「**距離、保って、います**」
「監視」
「**断定、できません**」
「でも、たぶん」
「**たぶん、です**」
ユミルはそれ以上は、言わなかった。判断材料が足りない時、ユミルは「たぶん」で止める。これも、合理の判断だった。
「ユミル」
「**はい**」
「最初の遺跡まで、馬車で、二日」
「**はい**」
「途中で、監視、振る?」
「**夜、振ります**」
「夜」
「**はい**」
ユミルが頷いた。スレイプニルの発動は、夜、宿場で一度だけ。距離は、最初の宿場から遺跡近郊まで。徒歩二日分の距離を、ユミルが一回で全員運ぶ。消耗は大きい、と昨日聞いた。それでも、最初の一カ所だけはこだわる、らしい。
「**それまで、堂々と**」
「分かった」
俺は馬の歩幅を、また街道の流れに合わせた。
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午前、街道は平和だった。
商人の馬車と、何度かすれ違った。荷物を積んだ馬車、空の馬車、護衛つきの馬車。すれ違うたびに、軽く目礼をして通り過ぎる。街道のマナー、というやつ。
ミラが馬車の窓から、首を出した。
「のどか」
「のどかだな」
「街道、こういうものなの?」
「ぼちぼち」
「ぼちぼちが、口癖になってるよ」
「ああ」
ミラが、軽く笑った。
ユミルが御者台から、横を向いた。
「**ミラ様、地図を確認できますか**」
「うん、いいよ」
「**最初の、宿場、距離**」
「えーと」
ミラが地図を広げて、指を置いた。
「ここから、十二里。馬車で、夕方には、着く」
「**了解、しました**」
「次の宿場は」
「**……次は、行きません**」
「あ、そっか」
ミラが地図の上で、別の指を置いた。最初の宿場の先で、街道が分岐する。北東への古い街道、これがユミルの言う「**遺跡のある街道**」。地図上では、点線で記されている現役を退いた道。
「ここから、行くんだ」
「**そう、です**」
「人通り、ある?」
「**少ない、です**」
「分かった」
ミラが地図を畳んだ。
俺は馬の上で、肩越しに振り返らなかった。三人の追従の気配は、まだ後ろにあった。距離は、ユミルが「保たれている」と言ったとおり、近づきも遠ざかりもしなかった。
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昼、街道脇の休憩所。
馬車を停めて、俺たちは弁当を広げた。シオンが昨日のうちに用意したパンと、燻製肉と、保存用の野菜。ファーファはジャーキーを膝の上に並べていた。
「**これ、私の、ジャーキーニャ**」
「お前のだ」
「**ニャ**」
「全部、お前の」
「**当然、ニャ**」
ファーファがジャーキーを一切れ、口に咥えた。それから、もう一切れ咥え直した。
エルナが横で、軽く笑った。
「ファーファ、留守番でも食べてた」
「**留守番、ジャーキー、別腹ニャ**」
「お前の腹、いくつあるんだよ」
「**ジャーキー専用、独立、ニャ**」
「都合のいい腹だな」
エルナが自分のパンを齧った。それから、ふと街道の方を見た。
「あんた、リント」
「ん」
「あの、後ろの、三人」
「気付いてたか」
「気付くよ。あたしの仕事だから」
エルナの声が、いつもより少しだけ低かった。両手剣を膝の脇に置いていた手が、軽く柄に触れていた。
「やる?」
「やらない」
「やらないか」
「ユミルが、堂々と、って」
「分かった」
エルナはそれで頷いた。エルナの判断は、ユミルの判断に従う形が、ここ最近の癖だった。王族面会で「百年」を聞いた以降、エルナはユミルの判断に、口出しをしなくなった。
ルークが横から、口を開いた。
「兄貴」
「ん」
「俺、何、すれば、いい」
「ルーク」
「うん」
「お前は、馬車の側面、変わらず」
「弓は」
「街道戦になったら、頼む」
ルークが頷いた。それから、馬車の脇に立てかけた長弓をちらっと見た。あの治癒以降、ルークの長弓の弦の張りは村にいた頃と同じ硬さだった。本人の腕の方が、少しだけ変わっていた。
「俺、外さないように、する」
「ああ、頼む」
「外さないって、約束、するわ」
「外しても、いいぞ」
「は?」
「お前、外しても、誰も怒らない」
ルークがぽかんと、口を開けた。それから、軽く笑った。
「兄貴、お前、最近、優しい」
「俺、最初から、優しいぞ」
「最初から?」
「最初から」
「嘘くせえな」
ルークが笑った。
シオンが横で、軽く頭を下げた。
「リント君、こういう兄弟の、やり取り、私、好きです」
「シオンも、笑ってるな」
「ええ、笑っています」
「シオン、最近、笑顔、増えた」
「そうですか」
「うん」
シオンは穏やかに頷いた。王族面会前の「**……信じます**」以降、シオンの表情は塔の同僚としてではなく、仲間としての顔に徐々に近づいてきていた。
ユミルが自分の弁当の野菜を、一切れ口に運んだ。それから、軽く首を傾げた。
「**……ジャーキー、もらって、いいですか**」
「ファーファ、ユミルにも一切れ」
「**主の主、しょうがないニャ**」
「お前のは、お前の腹、別腹だろ」
「**主の主は、別の、別腹ニャ**」
「腹、何個あるんだ」
「**ニャ**」
ファーファがジャーキーを一切れ、ユミルに差し出した。ユミルが両手で受け取った。
「**ありがとう、ございます**」
「**ニャ**」
ユミルがジャーキーを口に運んだ。咀嚼の手前で、軽く目を細めた。
「**……美味しい、です**」
「だろ、ニャ」
「**ファーファ、選別上手ですね**」
「**当然、ニャ**」
ファーファが得意げに、尻尾を振った。
俺はエルナと顔を見合わせた。エルナが肩を一度、揺らした。
「あんたら、本当、平和」
「平和な、休憩所だ」
俺は自分のパンを齧った。
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午後、街道に雑魚が出た。
馬車の前方、街道の脇からコボルトが三体、飛び出してきた。木の棒と、錆びた短剣を持っていた。古い街道の境目に近づいたあたり、人通りが減って動物が出やすい区域だった。
「リント君!」
「了解!」
俺は馬の上で、矢を一本つがえた。馬の上での射撃は、村にいた頃に何度か練習はした。完璧ではない。でも、コボルト相手なら十分。
「ルーク!」
「右!」
ルークが馬車の側面で、長弓を構えた。俺が左、ルークが右。エルナが正面、両手剣を構えて馬車の前に出た。シオンが馬車の中から、軽く詠唱を始めた。短い、無駄のない詠唱。ミラは馬車の側面で、短剣を抜いた。ユミルは御者台で、いつも通りの真顔のまま視線だけを街道の脇に流した。
四方の動きが、一拍で揃った。
「いくぞ」
俺は馬の上で、息を細くした。
距離、二十歩。
風、ほぼ無風。
標的、左のコボルト。
指が止まった。
息が細くなった。
指が離れた。
——空気を切り裂く音が、響いた。
矢羽根が、左のコボルトの首に生えていた。
ルークの長弓が、軽く撓んで戻った。右のコボルトが、肩から先を地面に倒した。中央のコボルトが、エルナの両手剣の前で半身を二つに割られた。シオンの詠唱が、軽い火球をコボルトの胴に当てて燃やした。ミラの短剣は、出番がなかった。
三秒で終わった。
「お疲れ」
「リント君、上手くなったね」
「ぼちぼち」
「ぼちぼち、口癖だって」
ミラが笑った。
エルナが両手剣を肩に担ぎ直した。それから、街道の脇を軽く見回した。
「他、いない」
「ああ」
「**一体、逃げました**」
ユミルが御者台から、静かに言った。
「逃げた」
「**右、奥**」
「追わない?」
「**コボルト、です**」
「あ、そうか」
コボルトが一体生き残って逃げたところで、害はない。むしろ街道脇に逃げて、また他の獣に喰われるか棲家に戻るか。それだけのこと。ユミルは敵性の判断を、相手の規模で切り分けている。コボルトは、深追いの対象ではない。
「**でも**」
ユミルが軽く、首を傾げた。
「**……後ろの、三人、見ていました**」
「俺たちの戦闘を」
「**はい**」
「観察」
「**情報、収集**」
ユミルが頷いた。コボルト戦の三秒の連携を、後ろの三人がたぶん全部見ていた。距離を保ちながら、こっちの戦力を測る。これは敵の動きとして、合理的だった。
「**仲間の、技、見られました**」
「ルークの弓も、エルナの剣も」
「**シオン様の詠唱、ミラ様の短剣**」
「俺の矢」
「**全員、です**」
「うん」
俺は馬の上で、息を吐いた。隠す段階は、もう過ぎたということでもあった。仲間の戦闘は、見せた。それで、何か敵側の判断が変わるかもしれない。
「ユミル」
「**はい**」
「お前は」
「**……私は、見せて、いません**」
「そっか」
「**御者、です**」
ユミルが御者台から、軽く頷いた。御者だけをやって、戦闘には参加しなかった。これは敵側の解釈を、こちらが意図的に誘導するためのユミルの判断だった。
「巫女、防御だけ、舐められる、って?」
「**はい**」
「王宮の、巫女設定」
「**広まって、います**」
「敵側にも」
「**たぶん、です**」
ユミルが頷いた。王族面会で「**ユミル=上位竜の巫女**」が公にされた。それが、今敵側に届いている。ユミルが街道で御者しかしない、戦闘では仲間が前に出るという構図は、敵から見れば「**巫女は防御専門**」という解釈を補強する。これも、ユミルの計算の中にあった。
「お前、相変わらず、合理だな」
「**合理、です**」
「即答かよ」
「**事実、です**」
ユミルがいつも通りの真顔で、頷いた。
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夕方、最初の宿場町。
街道沿いの、小さな宿場町。商人と旅人と街道の保守を仕事にしている男たちが、数十人暮らしている町。宿は、二軒。俺たちは新しい方を選んだ。
宿の主人が書状を見て、軽く目を丸めた。
「お、王命の」
「ええ」
「えらいお客様、で」
「ぼちぼちです」
「ぼちぼち、ね」
主人が笑った。それから、奥の部屋を二つ用意してくれた。一つは、エルナとミラとシオン。もう一つは、俺とユミルとルークとファーファ。ファーファはベッドの足元で、すでに丸まっていた。
部屋に荷物を置いて、夕食。階下の食堂で、シチューと固いパン。街道の宿の定番。
食堂の隅に、フード姿の男が一人いた。
——気付いてる、ふりは、しない。
俺はシチューを、普通に口に運んだ。ユミルが向かいで、いつも通りの真顔でパンを齧った。ルークが横で、シチューを掻き込んでいた。
エルナがテーブルの下で、軽く俺の脛を爪先で叩いた。
「気付いてるよ」と、目で言った。
俺も目で、「気付いてる」と返した。エルナが軽く頷いた。
ミラがシオンの横で、短剣の柄に軽く触れた。シオンがミラの手の上に、自分の手をふっと置いた。
「シオン?」
「念のため、です」
「念のため」
「ミラさん、急がないで、ください」
「了解」
ミラが短剣の柄から、手を離した。シオンの「念のため」が、こういう時にもちゃんと出る。
夕食の終わりまで、フードの男は動かなかった。
俺たちが部屋に戻る時、フードはまだ食堂の隅で、湯気の立つカップを抱えていた。視線は、こちらに向けられなかった。
俺たちは無言で、二階の部屋に入った。
---
夜、宿の部屋。
ファーファがベッドの足元で、もう寝ていた。ルークも別のベッドで、軽く鼾をかいていた。長旅の最初の日は、誰でも疲れる。
俺とユミルは窓辺の小さい机に、向かい合って座っていた。
「ユミル」
「**はい**」
「スレイプニル、いつ」
「**深夜、二時**」
「皆、寝てる時間だな」
「**起こして、運びます**」
「全員」
「**全員、です**」
ユミルが机の上で、両手を組んだ。
「**消耗、大、です**」
「分かってる」
「**到達後、私はしばらく動けません**」
「分かってる」
「**仲間、頼みます**」
「任せろ」
俺は頷いた。スレイプニル発動後のユミルは、半日動けない。最初の遺跡近郊で、半日動けないのはリスクとして大きい。それでも、最初の修復を敵に気付かれずに完遂したい。これはユミルの判断であり、俺はそれに付き合う。
「ユミル」
「**はい**」
「お前、無茶、しすぎるなよ」
「**……無茶、必要、です**」
「最初の一カ所だけ、だぞ」
「**……はい**」
「次からは、堂々」
「**はい**」
ユミルが頷いた。
俺は机の上のユミルの手に、軽く自分の手を重ねた。ユミルの手の甲は、ほんの少しだけ冷たかった。
「冷たいな」
「**……前世、技術、の、温度**」
「またそれか」
「**……はい**」
ユミルが軽く、目を伏せた。それから、ふと目を上げて俺を見た。
「**リン様**」
「ん」
「**……当てて、しまいました**」
「フード?」
「**はい**」
「お前、責任、感じるな」
「**……感じます**」
「お前のせいじゃない」
「**……」**
「敵が来たから、フードがついた。お前のせいじゃない」
「**……はい**」
ユミルの返事は、小さかった。
俺はユミルの手の上で、軽くもう一度自分の手を添え直した。
「ユミル」
「**はい**」
「明日の修復、頑張ろう」
「**……はい**」
「終わったら、寝かせるからな」
「**……お願いします**」
ユミルの「お願いします」が、いつもよりほんの少しだけ湿っぽかった。
——刻んだ。
俺は内心で、それをもう一度記録した。
窓の外、宿場町の灯りはもう、ほとんど消えていた。
街道の夜。
最初の宿場の深夜。
スレイプニル、発動の準備、ぼちぼち整っていた。




