091 王族面会
朝、霜花亭の二階。
「**……リン様、襟、曲がっています**」
ユミルが手を伸ばして、俺の襟を直した。
「すまん」
「**いえ**」
俺の一張羅は、シオンが昨日のうちに仕立屋へ走らせたものだった。普段着よりは硬い、しかし派手ではない。「**王族、面会、ですから**」とシオンが言って、ミラが「派手すぎても引かれるからね」と笑った、そういう線で揃えてある。
ユミル本人は、いつもの服に薄い羽織りを足しただけだった。布の色が、朝の光で淡く銀に光る。羽織りの裾を、ユミルが手で軽くなぞった。
「**九十年、ぶりです**」
「儀礼?」
「**はい**」
ユミルが頷く。
「**長老、相手、最後でした**」
「九十年前」
「**はい**」
エルフ長老の儀礼経験。引き継ぎでは聞いていた。だが、こうして本人の口から「九十年ぶり」と聞くと、こいつの背負っている時間の長さが、一瞬、肩で重たくなる。
「緊張、する?」
「**特に、ありません**」
「即答かよ」
「**形式、覚えています**」
ユミルが俺を見た。表情は、いつも通りの真顔だった。
「**リン様も、隣に、います**」
「俺は飾りな」
「**いえ**」
ユミルは首を振った。
「**重要、です**」
そう言って、ユミルはまた俺の襟を、もう一度、軽く直した。
---
階下では、ファーファがテーブルの上で丸くなっていた。
「ファーファ、留守番だぞ」
「**ニャ**」
「分かってんのか」
「**分かってるニャ**」
ファーファは丸まったまま、尻尾だけを揺らした。
「**主の主、邪竜連れて行って、王族、ぶっ倒れるニャ**」
「黒猫でも気付かれるかもしれない」
「**だから、寝てるニャ**」
寝ているふりが、こいつの最大の社会性らしい。エルナがテーブルの脇を通りすぎながら、ジャーキーをひと切れ、ファーファの前に置いた。
「これで、留守番代」
「**……エルナ、お前、できるニャ**」
ファーファは尻尾を一度だけ振って、ジャーキーを咥えた。
「**美味、ニャ**」
「分かったから、寝てろ」
「**寝るニャ**」
ファーファは目を閉じた。本当に寝るかどうかは怪しいが、少なくとも王宮について行く気はないらしい。
ミラが玄関で振り返って、笑った。
「行こう、リント君。シオンが先導するから」
「ああ」
「ユミルちゃん、緊張、してる?」
「**特に、ありません**」
「あ、即答」
「**形式、覚えています**」
「あんた、頼もしい」
ミラはそう言って、軽く先に出た。
---
王宮への道は、シオンが選んだ。馬車ではなく、徒歩。
「**徒歩、五分です**」
「近いな」
「**王宮、立地、合理的、です**」
ユミルが俺の隣を歩く。歩幅が合わない。こいつが普段、俺に合わせて歩いているのが分かる。今は王宮に向かっているせいで、こいつの足の運びが、ほんの少しだけ、いつもより早い。
シオンが先頭、ミラとエルナがその後ろ、最後尾に俺とユミルという並びだった。シオンが振り返って、簡潔に告げた。
「謁見の間まで、私が案内します。中は、王陛下、騎士団長殿、塔の長老が同席されます」
「三人?」
「他に書記、近衛が控えていますが、発言はしません」
シオンの足取りに迷いはない。塔の同僚として、ここを何度も歩いた人間の足だった。
エルナが横で肩を回した。
「あたし、こういうの、苦手」
「お前、騎士団からも声かかってる立場だろ」
「だから、苦手なんだよ」
紫ランクの剣士でも、王宮は別物らしい。エルナの肩の回し方が、戦場の前のそれによく似ていた。
「ユミルちゃんは、慣れてる、んだっけ?」
「**九十年、ぶりです**」
「久しぶりじゃ……」
エルナが言いかけて、止まった。
「……ん?」
「**形式は、変わりません**」
「いや、待って」
エルナが眉を寄せた。
「九十年?」
「**はい**」
「あんた、何歳?」
「**百年と、少し**」
「……は」
エルナが、ぽかんと口を開けた。隣でミラも、足を止めかけて、慌てて歩き直した。
「百年!?」
「**はい**」
「ええ……」
エルナが俺をちらっと見た。俺はうなずいた。
「事実だ」
「あんた、知ってたの」
「ああ」
「言ってよ!」
「言うタイミング、なくてだな」
エルナが頭を抱えた。シオンが先頭で、軽く振り返った。
「私も、初耳です」
「シオンも?」
「ええ」
シオンが眉を、わずかに上げた。
「ですが、上位竜であれば、それくらいは、ありえます」
「いや、そうかもだけど」
エルナがミラを見て、ミラが俺を見て、俺はユミルを見た。
ユミルは、いつも通りの真顔で、歩き続けていた。
「**事実、伝えただけ、です**」
「サラッと言うな!」
「**事実、です**」
「あんた、大事なところ、サラッというのね」
「**はい**」
ユミルが頷いた。エルナが空を仰いだ。
「あたし、もう、驚かないことにする」
「**それが、よろしいかと**」
「即答すんな!」
ミラが横で、こらえきれずに吹き出した。
シオンは振り返らなかったが、肩が、わずかに揺れていた。たぶん、笑っていた。
---
王宮の正門は、思っていたより静かだった。
衛兵が二人、シオンを見て一礼し、奥へ案内する。シオンが先導するまま、回廊を進む。石の床、淡い光、そしてどこからか、香の匂い。
「**……古い、です**」
ユミルが小さく呟いた。
「百年前から、ある?」
「**もっと、前です**」
「マジかよ」
「**石、見れば、分かります**」
ユミルが回廊の壁を、ちらりと見上げた。
——石の組み方、古い。
俺の頭の中でも、その手の見立ては、こいつから何度か聞いた覚えがあった。古い石の、面取りの形、隙間の処理、削り方。それで時代が分かる、らしい。
謁見の間の手前で、シオンが立ち止まった。
「ここから先は、私と、ユミルさん、リント君、エルナさん、ミラさんで入ります」
「全員?」
「全員、王陛下からの招きです」
シオンが小さく頭を下げた。
「先に申し上げます。陛下は、思ったより気さくな方です。長老は厳格、騎士団長は寡黙です。話の比重は、陛下が振ります」
「了解」
「ユミルさんが主役になります。私が間を取り持ちます」
「**お任せください**」
ユミルが頷いた。それだけで、シオンが一礼して、扉を開けた。
---
謁見の間は、思っていたより小さかった。
正面に玉座、その左右に二つの椅子。玉座には壮年の男が、左の椅子には騎士団長らしい長身の男が、右の椅子には白髪の老人が座っていた。
王陛下、騎士団長、塔の長老。
シオンが俺たちを紹介する。順序は、ユミル、俺、エルナ、ミラ。シオンの声に迷いはない。
「お招きにあずかり、光栄です」
ユミルが進み出て、礼をした。
膝はつかない。だが、上体の角度、手の位置、視線の落とし方、全てが、俺の知っているユミルの仕草とは違っていた。
——九十年前の儀礼。
俺は隣で、息を浅く整えた。
「ユミル殿」
王陛下が、ゆっくり口を開いた。
「噂はかねがね。先日の街の災厄、貴殿の力で、死者が出なかったと聞いている」
「**過分のお言葉です**」
「過分ではない。事実だ」
王陛下が微笑んだ。シオンが「気さくな方」と言った意味が、その一語で伝わった。
それから、長老が口を開いた。
「ユミル殿。歳は」
「**百年と、少し**」
「百年」
長老が頷いた。エルフの長老相手の儀礼経験、というのが、俺の中でこの瞬間、形になった。同じ語彙、同じ呼吸、同じ間。長老の目が、ふっと和らいだ。
「儀礼を、ご存知だな」
「**アルダー長老、より、教わりました**」
「アルダー殿か。お元気か」
「**お元気です**」
ユミルが軽く頷いた。長老の頬が、つられて少しだけ緩んだ。
長老が、ふと、ユミルの羽織りに目を落とした。
「……いでたち」
「**はい**」
「我が国に伝わる、竜の巫女の伝承に、よく似ておる」
「**そのとおりです**」
ユミルは、即座に答えた。
謁見の間が、静かになった。
長老が、軽く眉を上げた。
「……貴殿が、巫女、か」
「**はい**」
「上位竜の」
「**はい**」
ユミルの返事は、短く、迷いがなかった。長老が、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
「**伝承、ご存知でしたか**」
「我が国の、古い伝承だ」
「**アルダー長老から、お聞きしました**」
「アルダー殿か」
「**はい**」
長老が、深く息を吐いた。それで、長老の中で何かが落ち着いたらしい、と俺には分かった。
王陛下も、椅子の上で、わずかに姿勢を整えた。
「巫女殿、と、お呼びすればよいか」
「**ユミル、で、構いません**」
「ユミル殿」
「**はい**」
王陛下は頷いた。
——通った。
俺は内心で、そう思った。儀礼と、いでたちと、アルダー長老の名前。三つで、警戒の幕が下がった。
横目で、エルナを見た。エルナが小さく口を動かした。「巫女?」と。
俺は無言で、首を縦に振った。
エルナの肩が、ほんの少しだけ、また落ちた。
「あたし、もう、驚かない」と、口の動きだけで言ったのが、見えた。
---
「ユミル殿」
王陛下が、本題に入った。
「先日の襲撃。あれは、何者か」
「**敵組織の、一柱です**」
「組織」
「**はい**」
ユミルは、ここから慎重に語り始めた。
「**敵、複数の組織、あります**」
「ほう」
「**今回の襲撃者、自称、十二柱の、一人**」
「自称?」
「**はい**」
ユミルが頷く。
「**彼ら、自分達を、神々と、名乗ります**」
「神を名乗るか」
「**はい**」
王陛下が眉を上げた。騎士団長が、初めて口を開いた。
「神を名乗る、ということは、教義の問題ではないか」
「**いえ**」
ユミルは首を横に振った。
「**信仰の、問題、ではありません**」
「では」
「**……古の、技術、です**」
謁見の間が、再び静かになった。
「**他の世界の、技術、悪用しています**」
俺は、息を止めた。
ユミルが、シオンに昨日言ったのと、同じ言葉。一行で、根幹を伝える。証拠は出さない。
「他の世界」
王陛下が、ゆっくり繰り返した。
「**はい**」
「そのようなものが、ある、と」
「**あります**」
「証拠は」
「**今は、出せません**」
ユミルが目を伏せた。
「**いつか、お見せします**」
「いつか」
「**はい**」
王陛下は、しばらく黙っていた。長老の目が、ユミルから動かない。騎士団長は、腕を組んだまま、表情を変えなかった。
シオンが、静かに言葉を継いだ。
「陛下。私は、ユミルさんを信じます」
「シオン殿」
「証拠は、ありません。ですが、私は、信じます」
シオンの声には、迷いがなかった。
「彼女が街を救ったのは、事実です。彼女が、虚言を弄する理由はありません」
長い沈黙があった。
王陛下が、ふっと口元を緩めた。
「シオン殿が、そこまで言うか」
「はい」
「ヒュペリオン家の名にかけて、か」
「家、というより、私自身の判断です」
「より重い」
王陛下が頷いた。それから、長老の方を見た。長老が、ゆっくり頷き返した。
「ユミル殿」
王陛下が、再びユミルに向き直った。
「貴殿の言、信じよう」
「**ありがとうございます**」
「ただし、続きがあるはずだ」
王陛下の目が、鋭くなった。
「街が襲われた。一柱が来た。残り、十一」
「**はい**」
「来るのか」
「**来ます**」
ユミルが、はっきり頷いた。
「**こちらから、止めに行きます**」
「止めに」
「**侵入経路、世界中、複数あります**」
「複数」
「**はい**」
ユミルは、慎重に言葉を選んだ。
「**修復、必要です**」
「貴殿が、行くのか」
「**私と、仲間で行きます**」
ユミルがそう言って、俺たちを軽く振り返った。エルナが頷き、ミラが微笑み、俺は黙っていた。
「**王都を、離れます**」
「期間は」
「**長くなります**」
王陛下が頷いた。
「分かった」
そして、軽く手を上げた。
「貴殿たちに、通行の便宜を図ろう」
---
王陛下は、書記に目で合図した。書記が記録のために筆を走らせる。
「各国境、各都市、貴殿たちの通行を妨げぬよう、王命で書状を出す。私の名で」
「**過分のお計らいです**」
「過分ではない。実利だ」
王陛下が苦笑した。
「貴殿たちが世界を回って、敵の経路を塞ぐ。我が国の利益でもある」
「**感謝します**」
「資金も、必要ならば」
「**いえ**」
ユミルが軽く頭を下げた。
「**私たちで、賄えます**」
「そうか」
「**ご支援、書状で十分です**」
王陛下が頷いた。それから、騎士団長を見た。
「騎士団長殿」
「は」
「貴殿からも」
「は」
騎士団長が、エルナに視線を向けた。
「スカディ家のエルナ殿」
「はい」
「貴殿の長期休暇、認める」
「ありがとうございます」
エルナが頭を下げた。騎士団長が続けた。
「……騎士団からの応援が、必要であれば、私個人の名で、出す」
「個人?」
「正規の派遣は、政治が絡む」
騎士団長は短く言った。
「だが、私の名なら、騎士を二人、貴殿たちに付けられる」
「ありがたいですが」
エルナが首を振った。
「あたしらは、少人数で動く。多いと、敵に的を絞られる」
「了解した」
騎士団長は、ただそれだけで頷いた。寡黙、というのが、本当だった。
---
王陛下が、もう一度、口を開いた。
「もう一つ、お伝えしておく」
「**はい**」
「最近、商隊の報告で、北方の国境付近で、奇妙な噂がある」
「**奇妙な、噂?**」
「家畜が、夜中に、消える。村人が、急に、いなくなる。詳細は、まだ、分からん」
王陛下が眉を寄せた。
「気のせいかもしれん。だが、貴殿たちの言う、十二柱、と、関係するならば」
「**調べます**」
「頼む」
ユミルは、深く頭を下げた。
王陛下が、椅子から立ち上がった。
「ユミル殿」
「**はい**」
「貴殿たちの旅路、無事を祈る」
「**ありがとうございます**」
ユミルは、もう一度、深く礼をした。
そして、扉が、静かに閉まった。
---
回廊を戻る道、シオンが先頭、続いてエルナ、ミラ、最後尾に俺とユミルという並びは、行きと同じだった。
「ユミル」
「**はい**」
「巫女、ってのは」
「**伝承、です**」
「お前、巫女なのか」
「**役割、合致します**」
ユミルは、相変わらずスラスラと答えた。
「**上位竜と、人間の、橋渡し**」
「お前が、上位竜と、人間の、橋渡し」
「**はい**」
「自分で自分の橋渡しか」
「**……」**
ユミルが、一瞬、止まった。
「**……整理、必要です**」
「だろうな」
俺は内心で笑った。ユミルが「整理、必要です」と言う時は、自分の中の論理に小さい矛盾を見つけた時だ。普段はそれを瞬時に解決して即答するこいつが、今は一瞬、止まった。
「**でも、嘘では、ありません**」
「うん」
「**伝承、私の、振る舞いと、合致しています**」
「うん」
「**結果として、巫女、です**」
「結果として」
「**はい**」
俺は、それで納得した。ユミル流の、玉虫色の答え方。嘘はついていない。だが、本当のことも、言っていない。
「便利だな」
「**便利、です**」
「即答かよ」
「**事実、です**」
ユミルが俺を見上げた。表情は、真顔だった。
シオンの背中の先で、回廊の出口の光が見えていた。
---
王宮の門を出てから、エルナが、ようやく息を吐いた。
「終わった」
「終わったな」
「あたし、汗、かいた」
エルナが肩を回した。それから、ユミルを見た。
「ユミルちゃん」
「**はい**」
「百年と、少しなんだ」
「**はい**」
「巫女なんだ」
「**伝承、合致します**」
「あたし、まだ、整理ついてない」
「**ゆっくり、で、構いません**」
「あんた、本当、サラッというのね」
「**事実、です**」
エルナが空を仰いだ。
「リント君」
「ん」
「あたし、リント君のことも、よく分かんなくなってきた」
「俺は普通の十五歳だぞ」
「百年の連れ合いがいる十五歳だろ」
「あー」
俺は、口ごもった。否定はできなかった。エルナが、半笑いで首を振った。
「もう、いいや。あたしは、一緒に行く」
「いいのか」
「いいよ。何があっても、一緒に行くって、決めた」
エルナはそう言って、肩をすくめた。それから、ユミルを横目で見た。
「でも、あんた、これから、もうちょっと早めに言ってよ」
「**……努力します**」
「努力なの?」
「**保証、できません**」
「正直か!」
ミラが横で、また吹き出した。
シオンが、軽く頭を下げた。
「ユミルさん、私からも、一言よろしいでしょうか」
「**はい**」
「次から、私にも、もう少し、早めに、教えていただけますか」
「**……はい**」
「『ご説明、後で』、増えてきました」
「**……」**
「冗談です。半分、ですが」
「**……半分**」
シオンが、軽く笑った。それから、視線を落とした。
——シオン、何か、引っかかってるな。
俺は、シオンの目の動きで、それを察した。ユミルが「**事実、です**」を即答するたび、シオンの観察眼が、薄く、何かを記録している。本人もまだ、それが何かは分かっていない。だが、引っかかりは、確実に、増えている。
「ですが、ユミルさんが、信じて、お話しくださることを、待っています」
「**……ありがとう、ございます**」
ユミルの返事の語尾が、わずかに、揺れた。
——ここだけは、刻んだ。
俺は、隣で、それを聞いた。シオンに対する、ユミルの「**ありがとう、ございます**」は、事務的ではない方だった。
---
ミラが横で、軽く笑った。
「ユミルちゃん、年上、だったんだね」
「**はい**」
「あたし、これまで、タメ口だった」
「**気にしていません**」
「百年の人にタメ口」
「**問題、ありません**」
「ユミルちゃんが、いいなら」
「**ユミルちゃん、で、構いません**」
ユミルが頷いた。ミラが小さく笑って、それで終わった。
エルナが横で、もう一度、首を振った。
「あたしは、これから『ユミルちゃん』って呼ぶたびに、百年の重みを、感じる気がする」
「**重み、不要です**」
「即答すんな」
「**事実、です**」
ユミルが真顔で言った。エルナが諦めたように笑った。
「もう、あたし、何も言わない」
ミラが、ふと、何かに気付いた顔をした。
「あ、でも」
「ん?」
「巫女って、知れ渡るの、早いよね」
ミラの声が、少しだけ低くなった。
「王宮で公にしたってことは」
「**……はい**」
「敵側にも、伝わる」
「**……可能性、あります**」
ユミルが頷いた。
俺は、空を見上げた。雲が、ゆっくり流れていた。
「敵が、ユミルを巫女、と思って、舐めてかかってくれたら」
「あ」
「こっちの利」
「……そっか」
ミラが、軽く笑った。
「リント君、こういう時、頭、回るよね」
「前世の癖だ」
「前世」
「ああ、まあ」
俺が口ごもると、エルナが横で、軽く肩を叩いた。
「もう、いい。聞かない」
「助かる」
エルナの肩叩き。これが姉さんの、大人の合図だった。
---
霜花亭に戻ると、ファーファがテーブルの上で、まだ寝ていた。
「**……戻ったニャ?**」
「ただいま」
「**お疲れ、ニャ**」
「お前、ずっと寝てたのか」
「**寝てたニャ**」
ファーファは尻尾だけを振った。エルナがファーファの頭を、軽く撫でた。
「いい子で留守番、できたな」
「**当然、ニャ**」
「ご褒美、ジャーキー、もう一切れな」
「**……エルナ、お前、最高ニャ**」
ファーファが目を開けた。それから、起き上がって、エルナの肘の周りを、ぐるりと一周した。
「**主の主、王族、どうだったニャ?**」
「**問題、ありませんでした**」
「**ニャ?**」
「**書状、いただきました**」
「**便利ニャ**」
ファーファは満足そうに、また丸まった。猫の論理は、こいつの中で完結している。
エルナが、椅子に深く腰を下ろした。
「終わったね」
「終わった」
「準備、始めるか」
「だな」
ミラが、椅子の背にもたれた。
「明日、出立?」
「**明日は、まだです**」
ユミルが軽く首を振った。
「**支度、二日、ください**」
「分かった」
「**馬車、装備、地図、整えます**」
「了解」
シオンが頷いた。エルナがミラを見て、ミラがエルナを見た。
「あたし、武器、研ぎに出す」
「私、地図屋、回ってくる」
「**私、書物、ヴェスタ長老、お礼の手紙、書きます**」
「**主の主、ジャーキー、補充ニャ**」
ファーファの提案を、エルナが軽く笑い飛ばした。
「ジャーキーは、お前の私物だろ」
「**でも、共用、ニャ**」
「私物だ」
「**ニャー**」
ファーファが不服そうに尻尾を振った。
俺は、霜花亭の窓から、王宮の方角を眺めた。
王陛下の言葉が、まだ残っていた。
——「最近、商隊の報告で、北方の国境付近で、奇妙な噂がある」
——「家畜が、夜中に、消える。村人が、急に、いなくなる」
ユミルが、昨日の夜、縁側で、感じた気配。
別々の場所で、別々の予兆が、立ち上がっている。
「ユミル」
「**はい**」
「北方、まずは、そっちか」
「**判断材料、不足です**」
ユミルは、窓の外を見た。
「**でも、無視は、できません**」
「だな」
「**動き始めて、います**」
ユミルが、昨日と同じ言葉を、もう一度、言った。
それから、窓の外を見たまま、もう一言、付け加えた。
「**……もう一つ**」
「ん?」
「**……近い、です**」
「近い?」
「**……はい**」
ユミルが、軽く眉を寄せた。
「**遠くで、動き始めて、いる、何か**」
「うん」
「**それとは、別**」
「別」
「**もっと、近く**」
ユミルが、俺を見た。
「**……当たって、欲しくない、です**」
その言い方に、俺は、息を浅くした。ユミルが「当たって欲しくない」と言う時は、たいてい当たる。
「身構えとくか」
「**……お願いします**」
俺は、窓の外の、王都の屋根の連なりを眺めた。屋根の先の、空の青が、夕方に向けて、ほんの少しだけ、深みを帯び始めていた。
遠くで、何かが、動き始めている。
近くにも、何かが、ある。
別々の場所で、別々の予兆が、立ち上がっている。
それが十二柱の別の一人なのか、もっと別の何かなのか、まだ分からない。
ただ、こっちも、動き始める時が来た。
「明後日、出るぞ」
「**はい**」
ユミルは、俺の隣で、静かに頷いた。




