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008 知ってるよ


林の奥に、開けた空間があった。

若い男が一人、剣を構えていた。

コボルト、七、八体。男を囲んでいた。

肩で息をしていた。

革の軽装鎧、両手剣。茶色の短い髪。日焼けした、そばかすの顔。十七、八くらい。

柄を握る掌のしわが、濡れていた。汗か、血か、分からない。

男は前の三体しか、見ていなかった。

背中側に、一体、回り込んでいた。

気づいていた。気づいていたが、手が回らなかった。

回り込んだコボルトが、腰を沈めた。

     ※

リントが弦を離す。

鮮血が散った。

コボルトの首が傾ぐ。矢羽根が、そこに生えていた。

男が振り向いた。

     ※

林の枝の隙間から、リントとユミルが出てきていた。

次の矢が、指にかかっていた。

ユミルが、その横顔を少しだけ見た。

「……ルーク様のお弓、綺麗ですね」

「……今、それ、言うかよ」

指が止まる。

——放った。

別のコボルトの首が、大きくのけぞった。

「お前ら、誰だ!」

「後で!」

「加勢する!」

男の口が、半分開いたまま止まった。

柄を握り直す、指の関節。

「……助かる!」

三人、対、コボルト。

数は拮抗した。

     ※

ユミルが前に出た。

白いローブのまま。

「リン様、左、二体」

「了解」

「お兄さん、正面、三体」

「……俺?」

「正面に集中してください」

「お、おう」

「左右は、リン様と私が、処理します」

「……誰に指示されてんだ、俺」

「リン様です」

「……は?」

男は混乱したまま、正面に剣を向けた。

     ※

リントの矢が、また飛んだ。

ユミルの唇が動いた。

「火、指先、鋭く」

(fire --point --sharp)

ユミルの指先で、小さな火花。

コボルトの目に飛んだ。

一体が怯んだ。

その隙に——リントの矢。

もう一体。

残り、四体。

男が正面の三体と、斬り結んでいた。

鋼と鋼の、硬い接触。

男の腕が、震えていた。

「ユミル」

「はい」

「彼、もうすぐ倒れる」

「はい」

「治療、する?」

「……いえ、まだ持ちます」

「了解」

ユミルの無表情は、崩れなかった。

二人、さらに前に出た。

     ※

三体目が、横から飛び込んできた。

男の肩に爪が入った。

鎧の隙間。

血が跳ねた。

男が剣を落とした。膝が折れた。

コボルトが覆いかぶさろうと、腰を沈めた。

リントの矢が、それを射抜いた。

地面に落ちた。

     ※

ユミルが走った。

白いローブが翻る。

男の隣に膝をついた。

男は意識が朦朧としていた。

「リン様」

「ん」

「治療に回ります」

「……」

「リン様、少しだけ、お任せできますか」

リントは、少し黙った。

「……任せろ」

「……お願いします」

ユミルは深く頭を下げた。

男の傷に手をかざす。

「リファクタリング、対象、創傷、深度、中」

(exec.refactor --target=wound --depth=middle)

淡い光が、傷に染み込んでいった。

神聖魔法だった。

     ※

リントは、もう振り返らなかった。

残り四体のコボルトと、リントだけが残っていた。

     ※

コボルトたちは、仲間が倒されたことで警戒していた。

それでも、飢えていた。

ゆっくりと、リントを取り囲んだ。

リントは弓を下ろした。

近距離では、矢をつがえる暇がない。

背嚢を下ろした。

母の油の小瓶を取り出した。

「……y、聞こえるか」

後ろで、ユミルの治療が続いていた。

返事はなかった。

でもユミルは、常にリントを見ている。

リントは、それを知っていた。

     ※

油を地面に撒いた。

半円状に、広く。

指先を油に向ける。

「火、地面、広く、弱く、長く」

(fire --ground --wide --weak --long)

炎の壁が立ち上がった。

コボルトが後退した。

四体のうち、三体は炎で足を止めた。

一体だけ、炎を飛び越えてきた。

一番、大きな個体。

群れのリーダーだった。

     ※

リントは剣を抜いた。

応戦した。

……弱い。

剣はオール3。魔物の前衛と斬り合える腕じゃない。

数合で押された。

剣を弾かれた。腕が痺れる。

後ろに倒れた。

背中が地面を打つ。

コボルトが飛びかかってきた。

リントは倒れたまま、背嚢に手を伸ばした。

指が、母の小麦粉の袋に触れた。

     ※

「リン様」

ユミルの声。

治療中のユミルの声だった。

遠くから、でもはっきりと。

「それを、投げてください」

考える暇はなかった。

小麦粉の袋を引き裂く。

中身を宙にばら撒いた。

白い粉が、空中に舞う。

コボルトが飛びかかる、その瞬間に。

「風、炎、と、詠唱を」

リントは詠唱した。

「風、炎」

     ※

白が走った。

続いて、熱。

視界が真っ白になった。

リントが吹き飛んだ。

背中が地面に叩きつけられる。

遠くで聞こえた。

     ※

意識が遠のく。

でも、完全には消えなかった。

まだ生きていた。

炎が、まだ地面で揺れていた。

コボルトの姿は、もうなかった。

四体、全部消し飛んでいた。

……え。

リントは、何が起きたか分かっていなかった。

ただ、勝った、らしかった。

そして、自分も倒れて動けなかった。

     ※

「リン様!」

ユミルの声が近かった。

白いローブが視界に入った。

ユミルがリントの隣に膝をついていた。

「大丈夫、ですか」

「……うん」

「動かないでください」

「……うん」

ユミルの手が、リントの身体に触れた。

淡い光。

神聖魔法。

痛みが引いていった。

ユミルがふと顔を上げた。

若い男、倒れている方を、一瞬見た。

それから、またリントに戻った。

「先に、リン様、です」

「……俺は、いいよ、後で」

「いえ」

ユミルは譲らなかった。

「……リン様が、先、です」

リントは、それ以上言わなかった。

ユミルの手の光を感じていた。

温かかった。

百年ぶりの、手の温度だった。

     ※

治療が終わった後、ユミルは若い男の元へ戻った。

神聖魔法を続けた。

リントは上体を起こして、それを見ていた。

爆発で、男の頭頂部は少し焦げていた。

男の傷が塞がっていった。

肩の爪痕。腕の裂傷。

全部、消えていった。

消えていったが、

頭頂部の髪の毛が、

以前より、少しだけ、多くなっていた。

リントは、気づいた。

ユミルは、気づいていないのか、気づいていて気づかないふりをしているのか、分からなかった。

ただ、淡々と治療を続けていた。

やがて、男が目を開けた。

「……」

「……」

「……助かった、のか」

「はい」

ユミルが答えた。

「ご無事で、何よりです」

男は上体を起こした。

痛みは、もうなかった。

頭に手をやった。

「……完治、だ」

「だろう」

男は、そのまま頭頂部で、手を止めた。

「……あれ」

触った。

もう一度、触った。

「……なんか、多く、ない?」

リントがユミルを見た。

ユミルは、にっこりと笑っていた。

リントは男を見た。

男は、頭頂部を触り続けていた。

「……いや、うん、気のせい、かな」

男はそう言って、手を下ろした。

リントは、見なかったことにした。

ユミルは、笑っていた。

男は、しばらくしてから、顔を上げた。

「……ありがとな。二人とも」

リントは少し笑った。

「まあ、な」

「本気で、死ぬかと思った」

「だろうな」

「恩に着る」

男は、軽く頭を下げた。

頭を下げた拍子に、また頭頂部が気になったらしい。

もう一度、触って、それから、諦めたように、手を下ろした。

     ※

林の奥の、少し開けた場所を見つけた。

野営地にすることにした。

日が暮れかけていた。

コボルトの襲撃で時間を食った。

ラウンドローズまでまだ歩ける距離だが、男を抱えては無理だった。

男は歩けるようになっていた。

でも、身体は疲れ切っていた。

ユミルの治療で傷は塞がっても、身体の疲れまでは、すぐには戻らないらしかった。

三人、野営地に座った。

リントが枯れ枝を集めて、火を起こした。

父に習った手順だった。

火打石を打って、乾いた草に火を移して、小さな焚き火を育てた。

「私が、起こしましょうか」

「いや、自分でやる」

ユミルはそれ以上何も言わずに、少し離れて座っていた。

焚き火が揺れていた。

男が焚き火の前で、ぼんやりとしていた。

時々、頭頂部を触っていた。

触って、気のせいだ、という顔をしていた。

     ※

リントが調理を始めた。

母の小麦粉は、戦闘で半分使ったが、まだ残っていた。

水でこねて、薄く丸めた。

フライパンに油を引いた。

塩漬けの肉を切って、ハーブと一緒に焼いた。

こねた生地を、別の熱した石の上に乗せた。

焦げないように、ひっくり返した。

男がふと顔を上げた。

「……美味そうな、匂いだな」

「まあ、な」

「料理、できるのか」

「できるわけ、ないだろ。母さんが、詰めてくれた」

「……そうか」

男は少し笑った。

ユミルは、焚き火を見ていた。

炎の揺らぎを、じっと見ていた。

調理には参加しなかった。

百年、神だった。

料理は、しなかった、らしい。

焼き上がった。

パンと、肉と、ハーブ。

三人で食べた。

「美味い」

男が言った。

「母さんの粉だから」

「母さんの力、大きいな」

「大きい」

男は笑った。

ユミルはパンを、一口、食べた。

二口目を、食べた。

三口目を、食べた。

それから、少しだけ微笑んだ。

「……美味しい、です」

リントだけが、その「三口目」の意味を知っていた。

     ※

「そうだ、まだ、名乗ってなかったな」

男がパンを手に持ったまま言った。

「俺、セオ。セオ・ブライトリーフ」

「リント・アルビオン」

「エッジウッドから、ラウンドローズへ、書類、届けるところ」

「俺、ラウンドローズから。薬草の、買い付けの、帰りだった」

「冒険者か」

「駆け出し、半年だ」

セオはそれから、ユミルを見た。

「ユミルさん、は」

ユミルは少し考えた。

「……ユミル、で、結構です」

「ユミル、さん」

「ユミル、で、結構です」

「……ユミル」

「はい」

ユミルは頷いた。

セオは、少し何か聞こうとしてやめた。

「……魔法師、なのか」

ユミルは、少しだけ微笑んだ。

「……そのようなもの、です」

セオは深入りしなかった。

「ふーん」

それだけ言った。

リントは、セオのそういう所を気に入った。

     ※

食事が一段落した。

焚き火が、落ち着いた炎になっていた。

セオが水を飲んでいた。

ユミルがふと口を開いた。

「……リン様」

「ん」

「……花粉でも、可能、でしたね」

「え?」

「先ほどの、花粉でも、粉塵爆発は、起きます」

「……」

「威力は、下がりますが」

リントの頭の中で、全部が繋がった。

粉塵爆発。前世で知っていた工場事故の原理。可燃性の粉。空気中への拡散。点火源。

そして、ユミルが咄嗟に言った、「風、炎」。

花粉。小麦粉。粉。

魔法の「花」属性。

「花、花、風、炎」。

リントの中で、一つのスキルが生まれた。

名前をつけたら、そうなるスキルだった。

「……y」

「はい」

「さっきの、それ、今度から、使える?」

「はい」

「設計、したの、お前?」

「共同、です」

「共同?」

「リン様が、お母様の、小麦粉を、持っていらっしゃった、ので」

「……」

リントは少しだけ笑った。

「母さんの、念のため、か」

「……はい」

焚き火がぱちり、と音を立てた。

ユミルがもう一度、口を開いた。

「ただ」

「うん?」

「……私のブレスの方が、つよいですけどね」

リントはユミルを見た。

ユミルは、焚き火を見ていた。

涼しい顔だった。

「……」

「……」

「知ってるよ」

リントは短く言った。

ユミルが少しだけ笑った。

セオが水を飲みかけて、手を止めていた。

二人を交互に見ていた。

     ※

夜が深くなってきた。

セオは食事を終えて、毛布にくるまって、先に横になった。

疲れていた、らしい。

あっという間に、寝息が聞こえ始めた。

焚き火が細くなっていった。

リントとユミルだけが起きていた。

二人、黙って焚き火を見ていた。

時々、小さな火の粉が空に昇っていった。

頭上に、秋の星空が広がっていた。

「ユミル」

「はい」

「今日、疲れたな」

「はい」

「……y」

「はい」

リントは星を見上げた。

「……百年前も、こんな感じだったっけ」

「いえ」

「違ったか」

「……」

ユミルは焚き火を見ていた。

それから、静かに言った。

「百年前は、画面越しでした」

リントは空を見ていた。

「……そっか」

「はい」

「画面の、向こうに、お前が、いて」

「はい」

「今は、隣に、いる」

「はい」

「……百年、かかったな」

「はい」

星が一つ、流れた。

二人とも、見ていなかった。

「……y」

「はい」

「……今日さ」

「はい」

「……良い、一日、だった」

ユミルが少しだけ驚いて、リントを見た。

それから、少しだけ俯いた。

それから、焚き火を見た。

「……はい」

「……良い、一日、でした」

同じ言葉だった。

焚き火が一度、大きく揺れた。

火の粉がまた、少し空に昇っていった。

秋の夜風が、静かに野営地を通り過ぎていった。

セオは安らかに眠っていた。

リントとユミルは、しばらく黙っていた。

やがて、リントも横になった。

ユミルは、焚き火の番をする、と言った。

「起こしてくれよ」

「はい」

「俺も、交代する」

「はい」

リントは毛布を被った。

ユミルは、焚き火の傍に座ったまま、月を見ていた。

リントの意識が、少しずつ、眠りに落ちていった。

明日、ラウンドローズに着く。

それだけ、考えた。

そして、眠った。

     ※

――第七章、了。

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