009 ラウンドローズ
夜明け前の冷えた空気で目が覚めた。
焚き火の跡は白い灰になっていて、ユミルが毛布に包まったまま膝を抱えて座っていた。眠っていないのか、先に起きたのか、顔を見ても分からない。百年前から、ユミルは眠りと覚醒の境が曖昧だった。
「おはよう」
「おはようございます」
セオはまだ寝ていた。仰向けで口を開けて、軽くいびきをかいている。頭頂部が昨日よりほんの少し賑やかになっていた。朝の光の加減か気のせいか、とにかくリントは視線を逸らした。
朝食は母のパンの残りとハーブティーだった。ユミルが湯を沸かし、リントが焚き火を起こし、セオが起きてきて「うわ、いい匂い」と鼻を鳴らした。セオは頭を撫でながら「なんか、今日、頭が軽いな」と言い、リントとユミルは同時に別の方向を見た。
「……気のせいでしょう」
「だよな」
セオは納得したのか、パンを齧った。
※
荷を畳んで街道に戻った。
「このまま行けば、昼過ぎにはラウンドローズだ」
セオの足取りが軽い。肩の傷は塞がっているし、背嚢の中身も無事だったし、何より同行者が二人いる。
「町は、どんなところですか」
ユミルが聞いた。
リントは横目でユミルを見た。昨日までなら、こういう質問をユミルから出すことは少なかった。聞かれれば答える、黙っていれば黙っている。それがここ数日のユミルだった。
セオは嬉しそうに応じた。
「ラウンドローズはな、人口千人ちょいの、街道沿いじゃ一番でかい町だ。城壁がある。門は三つ、東西南だ。北は山だから門がない」
「人口、千人、ですか」
「商業の町だから、外からの出入りも多い。冒険者ギルドもあるし、行政府もある。市場は朝と夕方に立つ。俺の実家も商家だから、町のことは大体分かる」
「市場には、どんな食べ物が、並びますか」
セオは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「お前、食べ物に興味あるんだな」
「……昨日の、パンが、美味しかった、ので」
リントは黙って聞いていた。ユミルが他人と普通に喋っている。それがなんだか、妙に胸に残った。
百年、ユミルは森の中で一人だった。エルフたちはいたが、「守り神」としての距離感だったはずだ。対等な会話の相手はずっといなかった。それが今、商家の息子相手に市場の話を聞いている。
「パン屋は朝早いぞ。町の門が開くのと同時に焼きたてを並べる店もある」
「朝、何時から、開いているのですか」
「夏なら夜明け前から、冬でも日の出には」
「……行ってみたい、です」
「じゃあ明日、案内してやるよ」
ユミルは頷いた。小さく、でも、確かに。
リントはその横顔を、少しだけ長く見ていた。
※
丘を一つ越えたところでユミルが足を止めた。
「リン様」
「ん」
ユミルの視線の先にラウンドローズの城壁があった。
遠くから見てもそれは大きかった。エッジウッドの村の柵とはまるで違う。灰色の石を積み上げた城壁がなだらかな丘の上に広がっていて、その内側から屋根の連なりと、煙突の煙と、鐘楼らしきものの尖った影が見えた。
「……大きい、ですね」
ユミルは短くそう言った。
リントは答えなかった。何か答える言葉を探したが、うまく見つからなかった。ユミルの声にはいつもの平坦さの中に、ほんの一拍だけ止まったような間があった。
セオが振り返った。
「どうした」
「いや、なんでもない」
リントはそう返した。
「門まで、あと半刻くらいだ」
「行こう」
三人は歩き出した。ユミルの歩みは、ほんの少しだけ遅かった。
※
城門の前は人で賑わっていた。
荷車を引いた商人、徒歩の旅人、馬に乗った誰か。衛兵が二人立っていて、入る者を確認している。大きな方の衛兵がセオを見て、手を挙げた。
「おう、セオ。早かったな」
「おかげさまで。土産付きだ」
セオはそう言って、親指で後ろを指した。リントとユミルのことらしい。
衛兵は二人を見て、ほんの一瞬視線を止めた。ユミルの白い髪、明るい緑の瞳、整った顔立ち。そのどこかが見慣れないものだったのかもしれない。
「身元は?」
「俺が保証する。エッジウッドの、アルビオン家の次男と、その連れだ」
「アルビオンか。親父さんの書類、届けに来たのか?」
「ああ」
衛兵は書類を確認する素振りも見せずに肩を竦めた。
「通っていいぞ。帰りも気をつけてな」
あっけないほど簡単に門を抜けた。
ユミルが城壁の内側に足を踏み入れた瞬間、リントは隣でその小さな息遣いを聞いた。
吸い込むような息。
「……音が、多いですね」
「うん、多い」
リントは頷いた。
鍛冶屋の槌、荷車の車輪、誰かの呼び声、子どもの笑い声、犬の鳴き声、屋台から立ち上る湯気、石畳を叩く靴、風が屋根の間を抜ける音、鐘楼で時を告げる鐘。そのどれもがエッジウッドの村にはなかった。
ユミルの視線は一か所に留まらなかった。左を見て、右を見て、上を見て、足元を見て、また左を見た。
「あれは、何ですか」
指さした先は屋台だった。
「串焼きだ。鶏の肉とか、豚とか、ハーブ塗って焼いてる」
セオが答えた。
「あの、匂いは」
「パンだろ、そっちの通りにパン屋がある」
「あれは」
「鍛冶屋」
「あれは」
「染物屋。布を染めてる」
「あれは」
「……お前、全部聞く気か?」
ユミルはセオの顔を見て、真顔で頷いた。
「はい、情報が、好き、です」
セオは一瞬止まって、それから吹き出した。
「変な奴だな、お前」
「よく、言われます」
リントは後ろで小さく笑った。
※
市場の通りを抜けて、行政府の建物に着いた。
石造の二階建て、町の中央広場に面した建物だった。エッジウッドの村役場とは比べ物にならない大きさで、正面には階段があり、階段の上に木の扉があり、扉の両脇に衛兵が立っていた。
「アルビオンから、書類です」
リントが受付でそう告げると、受付の年配の女性が書類を受け取って、中を確認した。
「はい、確かに。アルビオン様の、届出ですね。記録いたしましょう」
「……それだけ、ですか」
「はい、それだけです」
「父が、ちゃんと書類を書いていたので?」
「アトラス様の書類は、いつも完璧ですよ。息子さんに持たせるくらいの、軽い仕事です」
リントは何か、返事ができなかった。
父の書類は、いつも完璧。
それは村で父の机の前を通る時、リントが見てきた、あの几帳面な筆致の山の、外側の評価だった。村の外の人が父の仕事をそう言っている。
「ありがとうございました」
小さく頭を下げて、リントは行政府を出た。
外の空気が、来た時より少しだけ違って感じた。
※
「次は宿だな」
セオが言った。
「お前、使える宿、知ってるか?」
「任せろ。うちの親戚がやってる宿がある。葉巻亭ってんだ」
葉巻亭は行政府から通りを三本北に行ったところにあった。二階建ての木造で、入口に葉の形の看板が掛かっていて、扉を開けると中は薄暗くて、奥から煮込み料理の匂いが流れてきた。
「セオ坊!」
カウンターの奥から恰幅のいい女将が出てきて、セオの肩を叩いた。
「連れ、持ってきたのか」
「ああ、部屋、空いてるか」
「二階の角、空いてるよ。二人部屋でいいね」
「それで頼む」
女将はリントとユミルを見て、ちらりと目を細めた。何か言いかけて、飲み込んだ。
「……お連れさん、綺麗な人だね」
「よく、言われます」
ユミルが真顔で答えた。
女将はカウンターの向こうから笑った。
「気に入ったよ、あんた。飯は下で出すからね、夕方になったら降りてきな」
※
二階の角部屋は窓が二つあった。
一つは通りに面していて、もう一つは中庭に面していた。ベッドが二つ、木の机が一つ、小さな鏡台が一つ、壁には蝋燭立てが一つ。それだけの質素な部屋だった。
リントは荷を下ろしてベッドの端に座った。
ユミルは窓辺に立って通りを見下ろしていた。
夕方が近かった。市場の賑わいは少し引いて、屋台が店仕舞いを始め、代わりに仕事帰りらしい人たちが通りを歩いていた。窓を開けると、煮込み料理の匂いと、誰かの笑い声と、石畳を歩く足音が部屋に流れ込んできた。
「y」
「はい」
「今日、どうだった」
ユミルは振り返らずに、窓の外を見たまま答えた。
「……はい、たくさん、ありました」
「だな」
「明日、ギルド、見たいです」
リントは一拍、間を置いた。
ユミルが、自分から提案してきた。
百年の間、ユミルは森の中にいた。何かを「見たい」と自分から言うことは、きっとほとんどなかった。あったとしても、それを誰かに伝える相手がいなかった。
「いいよ。明日、朝飯食ったら行こう」
「はい」
ユミルは頷いて、窓の外に視線を戻した。
夕日が通りの向こうの屋根を橙に染めていた。
※
「リン様」
「ん」
「良い一日、でした」
「……ああ」
リントはベッドに身を倒した。
天井の木目を見上げながら、昨日の夜、星空の下でユミルが同じことを言ったのを思い出した。あれも、良い一日だった。今日も、良い一日だった。
百年ぶりに誰かと並んで歩いて、知らない町の門をくぐって、知らない匂いを嗅いで、知らない顔の人に名前を名乗って、知らない屋根の下で夕日を見ている。
それがユミルにとってどれくらいの意味なのか、リントには本当のところは分からなかった。
ただ、今、隣で窓の外を見ているこの相棒が、少しだけ遠くを見ているようで、少しだけ近くにいるようにも見えた。
窓の外で町の鐘が鳴った。
※
――第八章、了。




