010 冒険者 赤白
朝、葉巻亭の食堂で、リントは少し早起きをした。
ユミルは既に起きていて、窓辺で外を見ていた。町はもう動き出していて、荷車の音と、パン屋の方から焼きたての匂いが流れてきていた。
「おはよう」
「おはようございます。リン様、パン屋さんが、もう、開いている、ようです」
「行くか」
「はい」
下に降りると食堂に女将がいて、「朝飯、要るかい?」と声をかけてきた。リントは首を振って、「ちょっと町を歩いてきます」と答えた。女将は頷いて、「夕方の飯は頼むよ」とだけ言った。
セオは昨日のうちに実家に戻っていた。「朝、ギルドの前で合流しよう」という約束だった。
※
パン屋は葉巻亭から通りを一本東に行ったところにあった。
店先に台が並べられていて、そこに焼きたてのパンが積み上がっていた。丸いのが何種類か、平たいのが何種類か、細長いのが何種類か。ユミルは台の前で足を止めて、じっと見ていた。
「どれにする」
「……えらべ、ません」
リントは笑って、小さな丸パンを二つと、平たいハーブ入りらしいのを一つ買った。店主が銅貨を受け取って、「お嬢さん、また来てくれ」と言った。ユミルは頷いた。
パンを持って、道端の石に腰掛けて二人で食べた。
丸パンはまだ温かかった。中は白くてふわふわしていて、塩気が少しだけあった。ハーブパンは香ばしい匂いがして、ユミルは一口噛んで、少しの間黙った。
「……美味しい、です」
「だろ」
「お母様の、パンとは、違います」
「そりゃあな。プロが焼いてるからな」
「でも、お母様の、パンも、美味しい、です」
「知ってる」
リントはそう答えながら、パンの端を噛んだ。
ユミルはもう一口、ハーブパンを噛んで、また少し黙った。
「リン様」
「ん」
「私、食べる、ことを、もっと、知りたいです」
「……そうか」
リントは何か、返事らしい返事を返せなかった。
百年前、画面の向こうのユミルは食べることを知らなかった。知識としては知っていた。栄養素の組成も、料理の手順も、食文化の歴史も、データとしては全部持っていた。でも食べたことはなかった。
今のユミルは、食べている。
そしてそれを、もっと知りたいと言っている。
リントは黙ってパンを噛んだ。ユミルは隣でハーブパンを噛んでいた。
※
ギルドの前でセオが手を振っていた。
「おう、早いな」
「ああ」
「入るか」
ギルドの扉は昨日見た時より、重そうだった。いや、昨日と同じなのに、今日は入る側だから、違って見えるのかもしれない。
中は朝から賑わっていた。
カウンターの前に何人かの冒険者が並んでいて、掲示板の前で書類を見ている者もいて、奥の酒場スペースでは朝から麦酒を飲んでいる男が一人いた。壁には武器が何本か立てかけられていて、革鎧が椅子にかかっていて、床には何かの毛皮が敷かれていた。
「受付、あそこだ」
セオが指さした方に、昨日と同じ女性がいた。名前はリーファ、と言っていた。
「セオ坊、おはよう」
「おう、リーファ姉さん、こいつら、登録したいってさ」
リーファはリントとユミルを見た。
「冒険者登録ね。了解。そこに座って」
カウンターの前の椅子に二人で並んで座った。リーファは書類を何枚か取り出して、筆とインク壺を用意した。
「名前と、出身と、年齢、書いてちょうだい。読み書きできる?」
「できます」
リントは答えた。ユミルは頷いた。
「じゃあ、自分で書いて。できないところは手伝うから」
リントは書類に自分の名前を書いた。
リント・アルビオン 十五歳 エッジウッド出身
ユミルは少し迷ってから、筆を持った。
ユミル 歳は、わかりません 出身は、森、です
リーファは書類を見て、目を細めた。
「……あんた、何歳か分からないの?」
「はい、わかりません」
「森ってのは、どこの森?」
「エッジウッドの、近くの、森、です」
「……エルフの村があるところ?」
「はい、そうです」
リーファはユミルの顔をしばらく見て、それからセオを見て、それからリントを見た。リントはできるだけ普通の顔を作っていた。
「……まあ、いいわ。分からないなら、分からないで」
リーファは書類の年齢欄に「不詳」と書き込んで、出身欄に「辺境森林部」と書いた。
「で、次。ランク判定。これが冒険者の腕前を測るやつね」
リーファはカウンターの奥から、拳大の透明な水晶を取り出した。
水晶はガラスのようでガラスではなかった。光を通すが、中にほのかな青い光が静かに渦巻いていた。
「これに手を当ててちょうだい。魔力の質と量、戦闘の才能、そういうのが総合的に測られる。光り方で等級が決まるわ」
「どの色で、どの等級、ですか」
ユミルが聞いた。
「白が最低、赤、橙、黄、緑、青、紫、金、と上がっていく。普通の新人は白か赤。青なら中堅で、紫は腕利き、金は英雄級」
「金の、人は、多いですか」
「王都に、たぶん、三人か四人」
ユミルは頷いた。
「じゃ、兄ちゃんから。手を当てて」
リントは水晶に手を当てた。
水晶は一瞬鈍い光を放って、それから薄い赤に光った。
「赤ね。新人としては標準。弓が得意って書いてあるから、そのうち橙くらいにはなるでしょ」
リーファは書類に「赤」と書き込んだ。
「次、お嬢さん」
ユミルはゆっくりと水晶に手を伸ばした。
指が触れた瞬間、リントはほんの一瞬だけ、ユミルの横顔を見た。ユミルは無表情だった。いつもの無表情だった。でもその瞳が、一拍、水晶の中を覗き込んでいるように見えた。
※
水晶は、沈黙した。
色が、出なかった。
赤でもなく、青でもなく、金でもなく、白でもなかった。水晶は透明なままで、何も光らなかった。
リーファは首を傾げた。
「……あれ?」
「どうした」
セオが覗き込んだ。
「壊れてるのかな、これ」
リーファは水晶を手に取って、自分の手のひらに乗せた。水晶はリーファの手の中で、うっすらと黄色く光った。
「……あたしの時はちゃんと反応するのよ。あたし、黄色ね、ほら、見たでしょ」
「お前、黄色かよ。すげえな」
「元冒険者だからよ。それより、お嬢さん、もう一回やってみて」
ユミルはもう一度、水晶に手を当てた。
水晶はまた、沈黙した。
透明のまま、何も光らなかった。
リーファは水晶を二回、三回と、自分の手とユミルの手で交互に触らせて、そのたびに、水晶はリーファの手では光り、ユミルの手では沈黙した。
「……こんなの、初めて見たわ」
リーファは水晶を置いて、ユミルをまじまじと見た。
ユミルは無表情のまま、水晶を見ていた。
リントは内心で、静かに息を吐いた。
こいつは、この水晶で測れる存在じゃない。
それだけ、思った。それ以上は考えないことにした。
「……これ、どうすりゃいいんだ?」
リントはリーファに聞いた。
リーファはしばらく水晶を睨んでいて、それから諦めたように肩を竦めた。
「まあ、新人でしょ、どうせ。一旦『判定不能』で白扱いにしとくわ。依頼こなしていけば、そのうち等級は上がるから」
「それで、いいんですか」
「いいのよ。水晶の不調なんて、たまにあるわよ。魔力の質が珍しいとか、そういうのもあるし」
リーファは書類のユミルの欄に「判定不能(白扱い)」と書き込んだ。
「はい、これで登録完了。二人とも、今日からラウンドローズ支部所属の冒険者ね。ギルド証、ここに」
リーファは小さな木の板を二枚、渡してきた。板にはそれぞれの名前と、ランクの色と、支部の印が彫り込まれていた。
リントの板は、赤。
ユミルの板は、白。
※
ギルドを出て、セオが言った。
「お前ら、すげえ妙な登録だったな」
「そうか?」
「いや、普通、水晶が沈黙するなんて、聞いたことねえよ。しかもリーファ姉さんが『こんなの初めて』って言うレベル」
「……そういうこともあるんだろう」
リントはそう答えて、ユミルを見た。
ユミルはギルド証を両手で、少し大事そうに持っていた。白い板をじっと見ていた。
「y、どうした」
「……はい、これ、私の、最初の、記録、です」
「うん」
「大事に、します」
リントは笑った。笑ってから、胸の奥で何か、小さく軋むものを感じた。
百年、ユミルは森の中にいた。そこには記録はなかった。エルフたちの記憶の中にはあっただろう。でも名前を彫った板のような、形のある記録はなかった。
これが、最初の、形のある、ユミルの、記録。
「なくすなよ」
「はい、なくしません」
ユミルは頷いて、ギルド証を胸元の小さな袋に大切にしまった。
※
「で、お前ら、初依頼、今日受けるのか?」
セオが聞いた。
「そうだな、掲示板、見てみるか」
リントとユミルはセオに連れられて、掲示板の前に戻った。
掲示板には木の札が何十枚も釘で打ち付けられていて、それぞれに依頼の内容、報酬、場所、期限、難易度が書かれていた。
薬草採取、迷子の犬探し、魔物討伐、商隊護衛、井戸掃除、下水の点検——新人向けの簡単なものから、中堅以上の札まで、雑多に並んでいた。
「新人なら、薬草採取とか、迷子探しとかだな」
セオが指さした。
リントが札を眺めていると、ギルドの扉が勢いよく開いた。
「緊急召集だ!」
声を上げたのは、汗だくの伝令らしい男だった。
ギルドの中が一斉に静まり返った。
男は息を整えながら、カウンターに駆け寄った。
「街道だ、商隊が、やられた。魔物の、異常発生」
リーファが立ち上がった。
「場所は」
「ラウンドローズの、東、半日の街道。生き残りが逃げてきた。かなりの、大型だ」
ギルドの中がざわめき始めた。
冒険者たちが立ち上がって、武器を取り始めた。奥で麦酒を飲んでいた男も、ジョッキを置いた。
リーファは伝令から詳しい話を聞きながら、カウンターの奥の鐘を三回鳴らした。
緊急依頼、応召可能な冒険者は集まれ、の合図だった。
「セオ」
リントはセオを見た。
セオは真剣な顔でリントを見返した。
「行くか」
「……行く」
ユミルは黙って、二人の顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
※
――第九章、了。




