086 降り注ぐもの
霜花亭の二階、ユミルの部屋。
ユミルが窓辺に立っていた。
外で、岩が降り始めていた。
最初の一発が、王都の東の屋根に落ちた。
衝突の音が、街中に響いた。
ユミルが息を吸った。
それから、ファーファを見た。
ファーファがユミルの肩にいた。
「ファーファ」
「ニャ」
ユミルの目が、いつもと違った。
ファーファがそれを感じた。
姿勢を起こした。
「**……主の主、本気の、目ニャ**」
「**ファーファ、お願い、します**」
「**ニャ**」
「**人の、避難、お願い、します**」
「**……ニャ?**」
「**王都の、人々、子供、年寄り、皆、避難、させて、ください**」
ファーファがユミルを、長く見た。
ユミルの目には、いつもの軽さがなかった。
真剣だった。
「**猫も、です**」
「**猫?**」
「**王都の、猫たち、皆、安全な、場所へ**」
「**……**」
ファーファがユミルを、もう一度見た。
それから、頷いた。
「**主の主**」
「**はい**」
「**承知ニャ**」
「**ありがとう、です**」
「**ジャーキー、後で、所望ニャ**」
ユミルがぱちぱちと瞬きした。
それから、わずかに笑った。
「**……はい、山ほど**」
「**ふふっ、嬉しいニャ**」
ファーファがユミルの肩から、降りた。
床に降りた。
それから、リントを見上げた。
リントがそれを見ていた。
「**お前、行けるのか**」
「**任せろニャ**」
「**猫一匹で、避難誘導**」
「**任せろニャ**」
ファーファが頷いた。
頷きながら、ユミルを見た。
「**主の主、行ってくるニャ**」
「**お頼みします**」
「**戻ったら、ジャーキー、ニャ**」
「**山ほど**」
ファーファが頷いた。
それから、窓へ跳んだ。
窓の縁に立った。
王都の街並みを、見下ろした。
普段の、ぐうたらでふやけた表情では、なかった。
目が鋭かった。
王都の猫たちに届く声で、鳴いた。
「**ニャアア——**」
不思議な響きの声だった。
人間の耳には、ただの子猫の鳴き声に聞こえた。
でも、王都の猫たちには、別の意味で届いた。
王都中の猫が、一斉に動き始めた。
ファーファが窓の縁から跳んだ。
下の屋根に、軽く着地した。
それから、屋根を駆け始めた。
リントが窓から、それを見送った。
——……ファーファ、いつもと違う。
——……。
——あいつ、何かできるのか。
——……。
——ユミル、何か知ってるらしい。
リントがユミルを見た。
ユミルがそれを感じた。
「リン様」
「ん」
「**ファーファ、できます**」
「**何が**」
「**避難、誘導**」
「**猫一匹で?**」
「**猫一匹、では、ありません**」
「**え?**」
「**王都中の、猫、です**」
「**……は?**」
ユミルがふっと笑った。
それから、ぽつりと言った。
「**後で、ご説明します**」
「**だな**」
「**今は、戦います**」
「**だな**」
リントが頷いた。
ユミルが頷いた。
それから、ユミルが両手を伸ばし始めた。
※
街道で。
商人が店を、閉めようとしていた。
その足元に、黒い子猫が駆けてきた。
「**……ねこ?**」
子猫が商人の袖を、引いた。
「**……何だ**」
別の猫も来た。
それから、もう一匹。
合計、四、五匹の猫が、商人の足元に纏わりついた。
「**……何で、こんなに**」
商人が少し、後退した。
猫たちが家の方向に、商人を誘導した。
商人が戸惑いながら、家の中に入った。
戸が閉まった。
王都中で、同じことが起きていた。
子供の足を、引っ張った。
母親の袖を、引いた。
老人の杖の先に、纏わりついた。
「**……ねこ?**」
「**何で、こんなに**」
「**……あっち、行け**」
でも、猫は引かなかった。
鳴きながら、人々を家の奥へ、地下へ、安全な場所へと誘導した。
不思議な現象だった。
人々が戸惑いながら、猫に誘導されて避難していった。
岩が降り注いでいた。
でも、猫たちが人々を、軒下へ、地下へ、家の中へと押し込み続けた。
王都の屋根の上を。
一匹の黒い子猫が、駆けていた。
低い姿勢で。
無音で。
屋根から屋根へ、跳んでいた。
普通の子猫では、ありえない動きだった。
でも、誰もそれを見ていなかった。
皆、岩から逃げるのに必死だった。
※
霜花亭の二階。
ユミルが窓辺で、両手を伸ばし始めた。
「**ファイアウォール、広域、展開**」
(firewall --deploy --range=city --priority=high)
——
——INFO: 演算、開始
——INFO: 対象、特定中(30+目標)
——WARN: 範囲、最大級
——WARN: 消耗、激しい
——DEPLOY: 起動
——
ユミルの両手から、淡い青白い光が伸び始めた。
光が霜花亭の窓から、外へ広がった。
王都の空に向かって、広がった。
光は薄い、半透明の膜のように、王都を覆い始めた。
リントが横で、それを見ていた。
「ユミル」
「はい」
「**俺、外、出る**」
「**お頼みします**」
「**お前、無理、するな**」
「**できるだけ**」
「**消耗、激しい時、教えろ**」
「**はい**」
「**俺、戻ってくる**」
「**はい**」
ユミルが頷いた。
リントがユミルの肩を、軽く叩いた。
それから、外へ駆け出した。
ユミルがそれを見送った。
それから、もう一度両手を、強く伸ばした。
ファイアウォールが、強化された。
膜が岩を、受け止め始めた。
最初の岩が、青白い膜に当たった。
衝突の音が、街中に響いた。
岩が膜に、めり込んだ。
それから、止まった。
膜が、わずかに震えた。
でも、止まった。
ユミルが息を吸った。
——止まる。
——止まる、けど、消耗、激しい。
——……。
——リン様、外で、戦って、いる。
——ファーファ、街で、人々、誘導、している。
——……。
——私も、戦う。
ユミルが両手を伸ばし続けた。
額に、汗が浮かんだ。
※
王都の街道。
リントが走っていた。
岩が降り注ぐ空を、見上げていた。
岩の軌道を、目で追っていた。
——多すぎる。
——個別、迎撃、無理。
——……。
——でも、撃ち落とせる、もの、撃ち落とす。
リントが矢をつがえた。
弦を引き絞った。
頬に、冷たい弦の感触。
息を止めた。
岩を目で追った。
——……今。
リントの指が離れた。
空気を切り裂く音。
ぐらり、と軌道がずれた。
岩が、空き地に落ちた。
地響き。
砂埃が上がった。
——……効いた。
——でも、岩、撃ち落とせない。
——軌道、ずらせる、だけ。
リントが矢をつがえ直した。
街道の人々は、ほとんど避難していた。
猫たちが誘導していた。
リントがそれを、横目で見た。
——……ファーファ、本気出してる。
——マジか。
——……。
——後で、聞くこと、増えた。
リントが息を吐いた。
それから、空を見上げた。
岩を降らせる本体を、見た。
王都の上空、五十メートルほど。
そこに、人型の影が浮かんでいた。
灰色のローブを纏った、長身の男。
フードの奥から、笑い声が聞こえた。
「**は——っはっはっは!**」
街道の人々の避難を見て、笑っていた。
「**人間ども、必死だな、ふっはっは! 虫けらが、走り回って、可愛い、もんだ! お、見ろ、あそこの子供、潰れそうだ、見ろ、見ろ!**」
リントが息を止めた。
——あいつ。
——ペラペラ喋ってる。
——……。
——人を、虫けら、扱い。
——舐め腐ってる。
リントが矢をつがえ直した。
ソールが上空で、両手を広げ続けていた。
岩を操り続けていた。
「**ふっ、誰だ、結界、張ってる、奴。人間にしては、上等、だな。でも、所詮、人間。あと、五分も、保たないだろう**」
ソールが笑いながら、独り言を続けていた。
リントがそれを聞いていた。
——あいつ、ユミルを、見てる。
——でも、ユミルを、人間扱いしてる。
——……。
——ユミル、見抜かれて、ない。
——いい。
——その、まま、舐めてろ。
リントが矢を放った。
距離、五十メートル。
ソールの片手が、軽く動いた。
岩が、矢の軌道に現れた。
金属のような、衝突音。
矢が岩で止まった。
地面に転がった。
「**お、誰だ、矢、飛ばしてきた、奴**」
ソールがこちらを見た。
リントを目で捉えた。
「**おお、人間の、男か。弓、構えてる、な。威勢、いいじゃないか。でも、無駄だ。お前の、矢、俺のニョルニル、貫けない**」
リントが止まった。
——ニョルニル。
——……何だ、それ。
——岩、操ってる、奴の、名前か?
——……。
——いや、聞くだけ、聞いておこう。
リントが矢をつがえ直した。
それから、走った。
走りながら、ソールから距離を取った。
ソールの岩が、リントを追ってきた。
地面から突き出したり、空から降ってきたり。
リントが避けながら、走った。
避けながら、霜花亭の方向を確認した。
——ユミル、頼む。
——俺、矢、足りない。
——……。
——お前の、特殊矢、必要だ。
リントが霜花亭に駆け戻った。
戸を勢いよく開けた。
中に、ルークが座り込んでいた。
肩から、血が流れていた。
「**兄貴!**」
「**リント**」
「**お前、怪我**」
「**子供、助けた**」
「**だな**」
「**でも、肩、やられた**」
「**……**」
「**でも、見ろ、リント**」
ルークが街道の向こうを、指した。
そこに、猫たちがまだ人々を誘導していた。
「**……あの、猫**」
「**普通じゃ、ないだろ**」
「**だな**」
「**ファーファか?**」
「**たぶん**」
「**俺、肩、痛む、けど、見てて、面白い**」
「**面白いな**」
リントがふっと笑った。
それから、ルークの肩を見た。
「**お前、出血、激しいか**」
「**まだ、立てる**」
「**よし**」
「**ユミル様、護衛、続ける**」
「**頼む**」
「**でも、ユミル様、消耗、激しいぞ**」
「**だな**」
「**お前、矢、足りないだろ**」
「**だな**」
「**ユミル様に、頼むしか、ないか**」
「**……だな**」
リントが頷いた。
それから、二階へ駆け上がった。
ユミルの部屋へ駆け込んだ。
「**ユミル**」
「**リン様**」
「**矢、足りない**」
「**矢?**」
「**特殊な、奴、頼む**」
「**承知、しました**」
ユミルが片手を、こちらに向けた。
両手の片方は、ファイアウォールのために伸ばしたまま。
片手だけで、矢を生成した。
光が、矢の形になった。
矢が十本、生成された。
物理的な矢だった。
「**リン様**」
「**ん**」
「**敵、アスガルド、です**」
リントが止まった。
「**……アスガルド?**」
「**はい**」
「**アスガルド、って**」
「**……はい**」
「**ハッカー御用達の、AIエージェント、だったよな**」
「**……はい**」
「**碌でもない、用途で、有名な**」
「**はい**」
「**……あいつ、それ、使ってるのか**」
「**改修版、です**」
「**……マジか**」
リントが息を吐いた。
——前世の、世界の、ツール。
——それを、こっちに持ち込んでる。
——……。
——あいつ、前世の、人間か。
——いや、AIか。
——……。
——どっちにせよ、面倒な、相手だ。
ユミルが後ろから、ぽつりと言った。
「リン様」
「ん」
「**……アスガルド、私の**」
「**ん?**」
「**……私の、リバースエンジニアリングと、漏洩ソース、で、作られた、ものです**」
リントが止まった。
——……お前。
——……。
——お前、ベースか。
「**……お前が、ベースか**」
「**はい**」
「**つまり、あいつ、お前の、劣化コピー、使ってる**」
「**……はい**」
「**……**」
リントが息を吐いた。
——お前、いま、どんな、気分だ。
——自分の、技術が、悪用されてる。
——……。
——でも、聞かない。
——今は、戦闘中。
——後で、聞く。
リントは口に出さなかった。
ただ、矢を握り直した。
「**ユミル**」
「はい」
「**お前、知ってる、相手か**」
「**……仕組み、すべて、把握しています**」
「**つまり、勝てる**」
「**……はい**」
「**よし**」
リントが頷いた。
「**お前の、指示通り、動く**」
「**……はい**」
「**指示、くれ**」
「**……承知、しました**」
ユミルが頷いた。
それから、ぽつりと言った。
「**リン様、矢、敵に、当ててください**」
「**仕留めるのか**」
「**仕留め、難しい**」
「**だな**」
「**でも、痛み、与えれば、撤退、します**」
「**何でわかる**」
「**……ああいう、タイプ、よく、います**」
「**ああいう?**」
「**自尊心、高い、相手**」
「**……だろうな**」
「**負けを、認めず、撤退、するはず**」
「**……変な、奴、だな**」
ユミルが頷いた。
リントが頷いた。
それから、矢筒に特殊矢を入れた。
「**お前、頑張れ**」
「**リン様も**」
リントが頷いた。
それから、二階を駆け降りた。
ルークが戸の内側で、まだ座っていた。
「**兄貴、もう少し、待ってろ**」
「**了解**」
「**戻ってきたら、治療、する**」
「**頼む**」
リントが外へ駆け出した。
戸を開けて、街道へ出た。
ソールが、まだ上空にいた。
岩を降らせ続けていた。
リントが矢をつがえた。
弦を引き絞った。
頬に、冷たい弦の感触。
息を止めた。
ソールを目で追った。
距離、五十メートル。
高さ、二十メートル。
風、わずかに横から。
——息を、整える。
——指、止める。
——息、細くする。
——指、離す。
リントの指が離れた。
空気を切り裂く音。
岩が砕ける、衝突音。
ソールの目が、わずかに見開かれた。
「**おっ?**」
ソールの肩に、矢が生えていた。
ソールが、わずかに姿勢を傾けた。
「**……痛い、痛いって。何だ、これ。俺のニョルニル、貫いた、ぞ。お前、ただ者、じゃないな**」
ソールがこちらを見た。
ローブのフードの奥で、目が光った。
「**ふっ、面白い、人間、だな。名前、聞こうか**」
リントが答えなかった。
ただ、矢をつがえ直した。
「**おい、無視か? まあ、いい、死ぬ前に、教えてやろう。俺は、ソール。十二柱の、一柱。お前ら、人間に、知る価値は、ない、けど。冥土の、土産に、しておけ**」
ソールが両手を、ゆっくり広げた。
「**アスガルド、ニョルニル、第十系列、百並列、起動**」
(asgard.njolnir --flood --target=royal_capital --threads=100 --rate=max)
──
ソールの周りに。
岩が、次々と浮かび始めた。
二十、五十、八十、百。
数えきれない数の、岩。
それぞれが、人の頭ほどの大きさ。
それぞれが、わずかに光っていた。
王都の上空、半分を岩が覆った。
「**ふっ、見ろ、俺の改修版アスガルド。ニョルニル、百並列、同時運用。並みのアスガルド使いとは、訳が、違う**」
リントがそれを聞いていた。
——……自慢、してる。
——情報、勝手に漏らしてる。
——……いいぞ、もっと、喋れ。
——……でも、岩、多すぎる。
——……。
——百、超えてる。
——どうする。
リントの指が離れた。
空気を切り裂く音。
岩が砕ける音。
ソールの太腿に、矢が生えていた。
「**……っ**」
「**痛い、痛い、ほんと、お前、生意気、だな。もうちょい、こっちこい、踏み潰して、やる**」
ソールが片手を、リントに向けた。
リントの足元の地面が、揺れた。
岩が、地面から突き出てきた。
リントが咄嗟に、横に跳んだ。
岩がリントを、外した。
別の岩が、リントの横から来た。
リントが避けた。
避けながら、矢をつがえ直した。
——あいつ、本気で、来てる。
——でも、こっちも、本気だ。
リントが、走り、避け、放ちを続けた。
ソールの岩が、次々とリントに向かって飛んできた。
リントの矢が、次々とソールに向かって飛んだ。
王都の空が、岩と矢で埋まった。
戦いが続いていた。
その上空に。
人々の知らない所で。
一匹の黒い子猫が、屋根を駆けていた。
人々の避難を、確認しながら。
低い姿勢で。
ソールに向かって。
ゆっくりと。
確実に。
近づいていた。
※
——第八十五章、了。




