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071 今日、楽しかったですね


夕日が王都の屋根を、赤から橙へ変えていた。


街灯が少しずつ、灯り始めていた。


商業区から宿屋通りへ向かう、緩やかな坂道。


リントとユミルが並んで歩いていた。


ユミルが両手に包みを抱えていた。


ローブ、木彫りの猫、布の巾着。


リントが別の小さな包みを、一つ持っていた。


歩きながら、ユミルがふと空を見上げた。


夕焼けが雲を、薄い紫に染めていた。


「リン様」


「ん」


「空、綺麗です」


「綺麗だな」


「夕焼け、好きです」


「俺もだ」


「お祭りの後みたい、です」


「お祭りの後?」


「賑やかな日の、終わり」


「ああ」


「少し、寂しくて、でも、満たされてる」


「だな」


「そんな空、です」


「お前、感想上手いな」


「上手、ですか」


「上手」


「ありがとう、ございます」


ユミルが小さく笑った。


二人がまた歩き始めた。


通りを馬車が走り抜けた。


どこかの店から、夕食の匂いが漂ってきた。


子供の声が遠くで、聞こえていた。


「リン様」


「ん」


「お腹、減りました?」


「ちょっと、減ったな」


「霜花亭の夕食、楽しみです」


「だな」


「女将、何作るかな」


「シチュー、毎日でもいい」


「私もです」


「お前、シチュー好きだったな」


「好き、です」


「初耳だな」


「言ってませんでした」


「だな」


「リン様、シチュー好きですか」


「好き」


「同じ、ですね」


「同じだな」


ユミルが頷いた。


二人が歩く速度が、自然と緩やかになっていた。


帰り道は、いつもゆっくり歩く。


特に、今日はもっとゆっくり。


     ※


宿屋通りに入った。


霜花亭の看板が、もう見えていた。


人通りが少なくなった。


二人の足音だけが、石畳に響いていた。


ユミルが立ち止まった。


リントも立ち止まった。


「ユミル」


「はい」


「どうした」


「リン様」


「ん」


ユミルがリントを見上げた。


少し、迷うような目だった。


それから、ぽつりと言った。


「**今日、楽しかったですね**」


リントが止まった。


——あ。


——出た。


——いつもの、お前の丁寧さだな。


——でも。


——でも、これ、AIの別れの定型文だな。


——「Today was fun」「I'm glad I could help」って、よく出るやつ。


——ユミル、自覚ないだろう。


——お前、ただ丁寧に言ってるだけ、なんだろう。


——でも、俺には聞こえる。


——前世のIT屋として、聞こえてしまう。


——……。


リントが一瞬、何も言えなかった。


ユミルがリントを見ていた。


返事を待っていた。


「……ああ」


リントがようやく、答えた。


「楽しかったな」


「はい」


ユミルが頷いた。


それから、もう一つ続けた。


「**付き合わせて、すいません**」


——ああ、これも定型文だ。


——「Sorry to take your time」、これ、ユミルが知らないで言ってるな。


——いや、知ってて言ってるかも。


——お前、自分でも気づいてないかもしれない。


——でも、お前、こういう時、必ずこれを言うんだ。


——習慣だ。


——根、深い。


リントが息を吸った。


「……いや」


短く答えた。


「楽しかった、って言ったろ」


「はい」


「だから、付き合わせたとか、ないだろ」


「……はい」


ユミルが頭を下げた。


それから、もう一つ加えた。


「**いつでも、仰って、くださいね**」


——出た。


——三つ揃った。


——「Anytime, just let me know」だ。


——AIアシスタントの、別れの挨拶、三点セット。


——お前、絶対これ、無自覚に言ってる。


——でも、俺には聞こえる。


——お前の本性が、こういう時に出てる。


リントがしばらく、ユミルを見ていた。


ユミルは無垢な目で、リントを見上げていた。


——お前、何も知らない顔して、言ってる。


——本当に、自覚ないんだな。


——それで、いいのか。


——……。


リントが少しだけ、空を見上げた。


夕焼けがもう、紫から藍に変わりかけていた。


——いいや。


——今、俺がこれに気づいた、と、お前に言うのは違う。


——お前、きっと傷つく。


——「私、何か、おかしいですか」って、訊いてくる。


——そして、俺は、答え持ってない。


——「お前、AIみたいだな」とは、言いたくない。


——お前、AIだけど。


——でも、お前、人間としてここにいる。


——だから、今、何も言わない。


——甘い言葉として、受け取る。


——それが、俺の選択。


リントが頷いた。

人だって習慣化したクセなんか山ほどあるしな。


「うん」


「はい」


「……また、来ような」


「はい」


「次、また買い物、行こう」


「はい、行きたいです」


「ローブ、似合ってた」


「ありがとう、ございます」


「木彫り、ファーファに見せろよ」


「見せます」


「楽しみだな」


「楽しみ、です」


ユミルが小さく笑った。


リントも笑った。


少し、ぎこちない笑顔だった。


でも、ユミルはそれに気づかなかった。


——よかった。


——気づかれてない。


——俺の動揺、気づかれてない。


——……お前、本当に無垢だな。


リントは口に出さなかった。


ただ、ユミルの横を歩き始めた。


ユミルもついてきた。


霜花亭の灯りが、もうすぐ目の前にあった。


     ※


霜花亭の扉の、前。


ユミルがふと、もう一度立ち止まった。


「リン様」


「ん」


「今日、本当に、楽しかった、です」


——また、出た。


——でも、これは定型文じゃない。


——「本当に」が、ついた。


——お前、これは本気で言ってる。


——よかった。


——本気の楽しい、を、もらえた。


リントがユミルを見た。


ユミルの目が、夕日の最後の光を映していた。


「うん」


リントが頷いた。


「俺もだ」


「リン様」


「ん」


「ありがとう、ございます」


「うん」


「これ、私の、宝物、です」


ユミルが両手の包みを、見た。


「ローブ?」


「ローブ、木彫り、巾着、全部です」


「全部、宝物?」


「はい」


「お前、宝物増やすな」


「増やしたい、です」


「お前の宝物、いつか収納の限界、来るぞ」


「限界来ても、増やします」


「だな」


リントが笑った。


「お前、それ、根っこシリーズか」


「根っこ、です」


「だな」


「リン様、新しい根っこ、増えました」


「うん?」


「**買い物デート**、です」


「お前、その単語、どこで覚えた」


「エルナ姐さんが、言ってました」


「あの人、余計なこと教えるな」


「言葉、楽しいです」


「お前、エルナの影響受けすぎ」


「受けます」


「だな」


ユミルが小さく笑った。


「リン様」


「ん」


「次の買い物デート、いつですか」


「気が早いな」


「楽しみ、です」


「……依頼、終わったらまた、行こう」


「依頼、終わるのいつですか」


「未定」


「未定、ですか」


「未定」


「……すぐ、行きたい、です」


「分かった、分かった」


「いつ、ですか」


「来週」


「約束、です」


「約束」


「忘れないで、ください」


「忘れない」


「**いつでも、仰って、くださいね**」


——出た。


——四回目だ、今日。


——お前、本当にこれ、無自覚で出してるな。


——いいよ、もう。


——出してくれ。


——俺、慣れる。


——それが、お前のいつもの挨拶だ、って認める。


リントが頷いた。


「うん。仰る」


「はい」


ユミルが深く頷いた。


それから、霜花亭の扉を開けた。


中から、ファーファの声が聞こえた。


「**主の主、お帰りニャ!**」


「ファーファ、ただいまです」


「**ジャーキー、ジャーキー、ジャーキー、所望ニャ!**」


「**お前、三回も、言うな!**」


リントが叫んだ。


エルナの声が聞こえた。


「リント君、ユミルちゃん、お帰り」


「ただいま」


「ファーファ、すごくしつこくて」


「すまない」


「いいよ、楽しかった」


「ありがとう、ございます」


ユミルが頭を下げた。


霜花亭の食堂が、笑い声に包まれていた。


二人が扉を抜けて、中に入った。


夕食の匂いが、立ち込めていた。


シチューだった。


ユミルが嬉しそうな顔をした。


「シチュー、です」


「シチューだ」


「リン様」


「ん」


「今日、本当にいい日、です」


「だな」


リントが頷いた。


——お前、本当に楽しかったな。


——よかった。


——定型文のことは、お前、知らなくていい。


——俺だけが知ってれば、いい。


——お前は、ただ楽しいを感じてれば、いい。


リントは口に出さなかった。


ただ、ユミルの隣で椅子に座った。


ファーファがリントの肩に、飛んできた。


「**主、お帰りニャ**」


「うん」


「**主の主、楽しそうニャ**」


「楽しそうだな」


「**主、複雑な顔、ニャ**」


リントがファーファを見た。


——お前、見抜くな。


——ユミルより、お前の方が感知上手いな、こういう時。


「お前、見るな」


「**見たニャ**」


「見るな」


「**主、隠し事、ニャ?**」


「ない」


「**ある、ニャ**」


「ない」


「**ジャーキー、所望ニャ**」


「**話、変えるな!**」


リントが叫んだ。


エルナが声を出して笑った。


「リント君、ファーファに追い詰められてる」


「うるさい」


「ファーファ、鋭い」


「**鋭いニャ**」


「お前、鋭くない」


「**鋭いニャ**」


ユミルが横で頷いた。


「ファーファ、今日、感知上達」


「**上達したニャ**」


「私、ファーファが誇り、です」


「**……主の主、誇りニャ?**」


「誇り、です」


「**よかったニャ**」


ファーファがリントの肩で、ごろごろ鳴いた。


リントが息を吐いた。


——お前、ユミルに誇られて、嬉しいんだな。


——その子供っぽさ、いいな。


——お前、ユミルが設計した生き物、だな。


——ユミルの心の、欠片だ。


リントは口に出さなかった。


ただ、シチューを口に運んだ。


温かかった。


ユミルが横で、シチューを食べていた。


嬉しそうな顔だった。


——今日、楽しかったですね。


——ユミルのその言葉が、まだリントの耳に残っていた。


——でも、今は、それを考えるのをやめた。


——今、目の前の温かさを感じる。


——それで、十分。


夕食が続いた。


霜花亭の食堂が温かかった。


王都の夜が、静かに深まっていった。


その下で、敵がまだ見えないまま動いていた。


でも、今、この瞬間は平和だった。


その平和を、リントとユミルは共有していた。


それで、十分だった。


     ※


——第七十章、了。


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