069 王都の日常
朝、霜花亭の窓辺。
リントが目を覚ました。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
階下から女将の声が聞こえる。
パンが焼ける匂いがしていた。
ファーファがリントの足元で寝ていた。
ユミルが机の前に座って、紙束を読んでいた。
「起きた、か」
リントが言った。
「おはよう、ございます」
「お前、いつから、起きてた」
「夜明け前です」
「早すぎだろ」
「早起き、得意です」
「だな」
リントがベッドから起き上がった。
伸びをした。
王都を拠点にして、もう一週間が過ぎていた。
ブリッドリーへの出発は当初の予定から、少し遅れていた。
ヴェルナーから「最初の十日は王都で情報整理を」という追加指示があったからだ。
シオンの王立記録の分析、ミラの裏のチャネルの整理、フォルクハルト邸への定期訪問。
王都でやれることが、まだ残っていた。
「今日の予定」
リントが訊いた。
「午前、神殿でエイダ司祭」
「うん」
「午後、フォルクハルト邸で夫人の様子」
「うん」
「夜、ミラ様の店で会合」
「だな」
「合間、ありません」
「忙しいな」
「忙しいです」
ユミルが頷いた。
リントが顔を洗いに行った。
ファーファが目を開けた。
「**主、起きたかニャ**」
「起きた」
「**朝食ニャ**」
「朝食、行こう」
「**ジャーキー、要請ニャ**」
「朝食はパンとシチューだ」
「**……パン、ジャーキーじゃないニャ**」
「当然だろ」
「**主の主、ジャーキーないかニャ**」
「ファーファ、朝のジャーキーは多すぎです」
「**少しでも、ニャ?**」
「少しなら」
ユミルがファーファに小さなジャーキーを与えた。
ファーファが満足げに目を細めた。
リントが戻ってきた。
「お前、結局与えてんな」
「少量です」
「お前、ファーファに甘いな」
「甘くありません」
「甘い」
「教育、です」
「教育で、ジャーキー出すか」
「ご褒美、です」
「お前、何の褒美なんだ」
「早起きの、ご褒美です」
「ファーファ、早起きしてないだろ」
「**……起きてたニャ**」
「お前、寝てたぞ」
「**目を、閉じてただけニャ**」
「言い訳が上手くなったな」
「**主の主、教育の、賜物ニャ**」
「お前、教育のせいにするな」
リントが息を吐いた。
ユミルが小さく笑った。
※
朝食。
霜花亭の食堂。
エルナが先に降りていた。
シオンも昨夜から泊まりに来ていて、テーブルにいた。
ミラだけは店があるので、別行動。
「リント君、遅い」
エルナが言った。
「お前、早すぎ」
「あたし、貴族出身、朝早い訓練」
「だろうな」
「シオンも、早起き」
「塔の訓練です」
「真面目同士、合ってるね」
「合ってます」
シオンがパンをちぎった。
「今日のシチュー、美味しいです」
「だね」
「女将、料理上手」
「あたし、毎朝楽しみ」
「私もです」
エルナがエールを一口飲んだ。
「朝から酒、いいんですか」
シオンが訊いた。
「うん」
「朝酒、体に悪いと聞きます」
「**シオン、固いね**」
「固い、ですか」
「真面目すぎる」
「すみません」
「謝るなって。可愛い」
「可愛い、ですか」
「可愛い」
シオンが少し赤くなった。
リントが横で笑った。
「シオン、エルナのおもちゃに、されてんな」
「されてます」
「自覚あるのか」
「あります」
「楽しいです」
「楽しいんかい」
エルナが手を叩いて笑った。
「シオン、攻めるね」
「攻めてます」
「いいね」
ユミルが横で頷いた。
「シオン様、楽しい出すと、可愛いです」
「ユミルさん、その表現、覚えてくれてるんですね」
「覚えています」
「嬉しいです」
「素直、いいです」
「ありがとうございます」
シオンが頭を下げた。
エルナが声を出して笑った。
ファーファがエルナの肩に飛び乗った。
「**姐、笑い声、大きいニャ**」
「お前に言われたくない」
「**我、声、可愛いニャ**」
「可愛い基準、自分で決めるな」
「**自分で、決めるのが、自由ニャ**」
「お前、たまに哲学的なこと言うな」
「**主の主、教育の、賜物ニャ**」
「だから、その理由づけ、何でも使うな」
朝食の食堂が笑い声に包まれた。
※
午前、神殿。
エイダ司祭との打ち合わせ。
進展はなかった。
ベーア司祭は相変わらず、不気味なほど平常だった。
アロド司祭は休職して、家にこもっているらしい。
「ベーア司祭、何か動きました?」
リントが訊いた。
「動きません」
「全然?」
「全然」
「逆に、不気味だな」
「不気味です」
エイダ司祭が頷いた。
「彼、何を待っているのか」
「分かりません」
「指示待ち、と」
「あるいは、罠を張っている」
「罠?」
「私たちが踏み込むのを、待っている」
エルナが眉を寄せた。
「踏み込まないのが賢明、と」
「今は、賢明です」
「だな」
ユミルが横で頷いた。
「ベーア様、私の感知では、書き換えなし」
「うん」
「自分の意志で、敵側についている」
「うん」
「動機、不明」
「金、地位、思想、可能性」
「全部、可能性あります」
「だな」
リントが息を吐いた。
「ベーアの過去、調べた方がいいか」
「シオンに頼みます」
エイダ司祭が頷いた。
「私、神殿の記録を調べます」
「お願いします」
「ベーア司祭、神殿入り二十年前」
「うん」
「来歴、辿れます」
「頼んだ」
「はい」
打ち合わせは、それで終わった。
進展はないが、地道な作業を続ける。
それしかなかった。
※
午後、フォルクハルト邸。
夫人を訪問。
応接間でお茶を飲んだ。
夫人は最初の頃より、表情がしっかりしていた。
長男も同席していた。
エミリオ、十六歳。
商会の継承の準備を始めて、忙しそうだった。
でも、母を一人にしないよう家にいる時間を増やしていた。
「皆さん、いつもありがとうございます」
夫人が頭を下げた。
「いえ」
「こうして訪問してくださるだけで、心強い」
「お役に立てなくて、すみません」
リントが言った。
「いえ」
「ご主人を戻すこと、まだできていない」
「分かっています」
「すみません」
「謝らないでください」
夫人が首を振った。
「皆さんが戦っていること、分かっています」
「うん」
「敵が強いこと、分かっています」
「うん」
「私たちは私たちで、できることをします」
エミリオが頷いた。
「商会、継ぎます」
「うん」
「父を、敵の道具にさせません」
「具体的には」
「父が敵に有利な商取引、しようとしたら」
「うん」
「全て、阻止します」
「できるか」
「やります」
エミリオの目がしっかりしていた。
十六歳とは思えない覚悟が、目に出ていた。
エルナが感心した。
「あんた、強いね」
「強くないです」
「強い」
「母を見ているから、です」
「うん」
「母が強いから、僕も強くなれます」
夫人が息子の肩を、軽く叩いた。
「エミリオ」
「うん」
「あなたが、私の誇りです」
「母さん」
「うん」
「僕の誇りも、母さんです」
二人の目が潤んでいた。
でも、泣かなかった。
リントがユミルを見た。
ユミルが頷いた。
「奥様」
ユミルが言った。
「はい」
「お子様、立派です」
「ありがとうございます」
「奥様の教育の、賜物です」
「教育というほどのことは、していません」
「いえ」
「あなたが強いから、息子さんが強いのです」
「……」
夫人がハンカチで目元を押さえた。
「ユミルさん」
「はい」
「あなた、優しい言葉、選ぶの上手」
「いえ」
「ありがとうございます」
「いえ」
ユミルが頭を下げた。
リントとエルナも頭を下げた。
応接間に、静かな時間が流れた。
外で、王都の街がいつも通り動いていた。
その音が応接間にも、ぼんやり届いていた。
※
夕方、霜花亭への帰り道。
リント、ユミル、エルナの三人。
ファーファはユミルの肩で、目を細めていた。
「夫人、強くなったね」
エルナが言った。
「だな」
「最初、見た時、もっと弱かった」
「だな」
「人って、強くなるもんだね」
「なるな」
「あたしも、強くなれるかな」
「もう、強い」
「リント君、口、優しい」
「優しくない」
「優しい」
「うるさい」
ユミルが横で頷いた。
「リン様、いつも優しいです」
「お前、援護射撃」
「事実、です」
「事実シリーズ」
「リン様、シリーズ覚えてますね」
「お前、攻めるな」
「攻めます」
ユミルが小さく笑った。
通りを馬車が走り抜けた。
夕日が王都の屋根を、赤く染めていた。
通行人が家路に急いでいた。
子供たちが広場で遊んでいた。
——平和だな。
リントは思った。
——その下で、敵が動いてる。
——でも、今、この瞬間は平和。
——大事にしないといけない瞬間だ。
リントは口に出さなかった。
ユミルが横で立ち止まった。
「リン様」
「ん」
「子供たち、楽しそうです」
「楽しそうだな」
「平和、いいです」
「いいな」
「ずっと続けば、いい」
「続けたいな」
「続けたい、です」
リントがユミルを見た。
ユミルは子供たちを見ていた。
その横顔に、どこか寂しさがあった。
——お前、平和を守れる、と信じてないな。
——でも、続けたい、って言った。
——願い、だな。
リントは口に出さなかった。
ただ、ユミルの横に立った。
ユミルがリントを見上げた。
少しだけ笑った。
「行きましょう」
「うん」
二人が歩き出した。
ファーファが目を細めた。
「**主の主、優しい顔ニャ**」
「ファーファ、見てたんですか」
「**見てたニャ**」
「恥ずかしい、です」
「**可愛いニャ**」
「お前、ユミルの応援団か」
リントが言った。
「**応援団ニャ**」
「自覚あるのか」
「**応援、大事ニャ**」
「お前、何でも大事シリーズ」
「**シリーズ、流行ニャ**」
「お前、流行を追うな」
「**流行、ジャーキーニャ?**」
「**話、繋がってない!**」
リントが叫んだ。
エルナが声を出して笑った。
「ファーファ、絶好調」
「**絶好調ニャ**」
王都の街が夕日に染まっていた。
その下で、三人と一匹が霜花亭への道を歩いていた。
平和な一日の、終わり。
その下で、何かが動いている。
ユミルだけが、それを感じていた。
でも、口には出さなかった。
今は、まだ必要ない。
そう判断した、ユミルだった。
※
——第六十八章、了。




