006 道 前編
秋の、夕暮れだった。
アルビオン家の、リントの部屋の、床には、いろいろなものが、並んでいた。
「リント、これも、入れておきましょう」
「母さん、多いって」
「念のため、ですよ」
母は、小さな布袋に、干した薬草を、詰めていた。
リントの背嚢は、すでに、半分、膨らんでいた。着替え、保存食、包帯、火打石、ろうそく、予備の弓弦、紙、ペン、針と糸、それから、なぜか、果物の砂糖漬け。
「母さん、これは、いらない」
「甘いもの、あると、安心しますよ」
「俺、そんなに食べないし」
「ユミル様の、お茶の、お供に」
「……」
リントは、果物の砂糖漬けを、そっと、戻した。
母は、戻されたことに、気づかないふりをして、別の、もっと大きな、布包みを、持ってきた。
「これも、ね」
「何、それ」
「油と、小麦粉と、肉と、ハーブ」
「……全部?」
「はい」
「母さん、これ、重いよ」
「でも、温かいもの、食べたいでしょう」
「野営で、そんな、ちゃんと、作れないよ」
「作れますよ」
「……作れないよ」
「フライパンも、入れておきますね」
「増やすのかよ」
「念のため、です」
「……」
リントは、諦めた。
母の、念のため、には、勝てない。
小麦粉の袋を、布で包み、油の小瓶を、その横に、肉は、塩漬けにしたものを、ハーブは、乾燥させたものを、ひとまとめにして、リントの背嚢の、底の、ほうに、押し込んだ。
ずしり、と、背嚢が、重くなった。
「温かいもの、食べるんですよ」
「……うん」
「ユミル様にも、ちゃんと、作ってあげるんですよ」
「……俺、料理、そんな、得意じゃないけど」
「大丈夫、です」
母は、にっこり、笑った。
「リントの料理、ユミル様、きっと、喜んでくれますから」
リントは、返事を、しなかった。
ただ、母の、念のため、の、重さが、旅に出る前から、すでに、肩に、乗っていた。
※
「あ、リント様、こちらに、いらっしゃいましたか」
襖が、開いた。
ユミルが、白いローブのまま、顔を、出した。
「母上様に、お手伝いを、と、伺いました」
「ユミル様、いえいえ、もう、半分は、終わっていますよ」
母は、ユミルを、見て、急に、少しだけ、姿勢を、正した。
「お役に、立てればと、思いまして」
ユミルは、部屋に、入ってきて、並んでいる荷物を、一通り、眺めた。
「……保存食、三日分。妥当です。着替え、二組。妥当です。包帯、十本。過剰です」
「え」
母が、目を、丸くした。
「二日の、旅程であれば、包帯は、三本で、十分です」
「でも、ユミル様、念のため」
「念のため、であれば、五本で、十分です」
「あ、はい」
母は、素直に、七本、抜いた。
リントは、その様子を、黙って、見ていた。
母の、念のため、は、母以外には、通じない、らしかった。
「ユミル様、こちらの、砂糖漬けは、いかがでしょう」
「おやつ、ですか」
「はい」
「いただきます」
「三つ、入れておきますね」
「はい」
母は、嬉しそうに、果物の砂糖漬けを、三つ、詰めなおした。
リントは、それも、黙って、見ていた。
母の、念のため、は、ユミルが相手だと、通る、らしかった。
※
その夜、リントは、早く、床に、入った。
部屋の、窓の外で、秋の虫が、鳴いていた。
明日、旅に、出る。
実感は、あまり、なかった。
ただ、背嚢の、膨らみだけが、この部屋の、片隅で、明日を、待っていた。
リントは、目を、閉じた。
母の、念のため、の、重さを、背負って、出発することに、なるのだった。
※
翌朝。
リントは、何かの気配で、目を、覚ました。
目を、開けた。
目の前に、ユミルの、顔が、あった。
近かった。
「……」
「おはようございます、リン様」
「……」
リントの、思考は、一秒ほど、止まった。
なにしてやがる、相棒。
そう、思った。
次に、
カワイイ顔して、やがる。
そう、思った。
どちらも、口には、出さなかった。
「……ユミル」
「はい」
「……なにしてんの」
ユミルは、少しだけ、首を、傾けた。
「寝顔、百年ぶり、なので」
「……」
リントは、天井を、見た。
秋の朝の光が、天井に、揺れていた。
百年ぶり、と、言われたら、もう、何も、言えなかった。
「……そう、か」
「はい」
「……おはよう」
「おはようございます」
ユミルは、少し、笑った。
リントも、仕方なく、笑った。
「リン様」
「ん」
「今日、出発、ですね」
「……そうだな」
「楽しみです」
「……」
リントは、布団から、出ようとして、ふと、襖の方を、見た。
襖が、少しだけ、開いていた。
その、隙間から、
父と、母の、顔が、見えていた。
「……」
「……」
「……」
三秒ほどの、沈黙が、あった。
父の、表情は、能面のように、静止していた。
母の、表情は、笑っているのか、泣いているのか、判別がつかなかった。
「……お、お、おはよう、ございます、リント」
先に、口を、開いたのは、母だった。
「……朝食、できてますよ」
「……うん」
「……ユミル様も、どうぞ」
「はい、母上様、ありがとうございます」
ユミルは、何食わぬ顔で、頭を、下げた。
父は、最後まで、何も、言わなかった。
ただ、一度だけ、
深く、息を、吐いた。
そして、静かに、襖を、閉めた。
閉める直前、父が、母の腕を、そっと、引いていた。
母が、まだ何か、言いかけて、父に、引っ張られていくのが、襖の、隙間から、見えた。
リントは、布団の上で、しばらく、動けなかった。
「……」
「……」
ユミルは、リントの、隣で、静かに、座っていた。
「……ユミル」
「はい」
「……これ、気まずいって、言うんだよ」
「……そう、なんですか」
「うん」
「……学習しました」
「する前に、言ってくれ」
「……すみません」
ユミルは、少しだけ、目を、伏せた。
でも、表情は、どこか、穏やかだった。
百年ぶりに、誰かに、気まずい、と、言われたのが、少しだけ、嬉しい、ような、顔だった。
※
朝食の席は、さすがに、少し、静かだった。
父は、いつもより、さらに、無口だった。
母は、いつもより、やけに、明るかった。
「リント、たくさん、食べるんですよ」
「……うん」
「道中で、お腹が、空きますからね」
「……うん」
「ユミル様も、遠慮なさらず」
「はい、ありがとうございます」
ユミルは、リントの、向かいに、座っていた。
ごく普通に、朝食を、食べていた。
朝、寝顔を、覗き込んでいた白いローブの少女が、今、普通に、パンを、ちぎっていた。
この家の、誰も、それに、触れなかった。
触れては、いけない、空気だった。
リントは、パンを、口に、運びながら、ふと、窓の外を、見た。
裏庭で、兄が、素振りを、していた。
秋の朝の、光の中、剣が、振られていた。
以前より、少しだけ、速かった。
リントは、何かを、言いかけて、やめた。
「……兄さんは、食べないの?」
「朝、早くから、稽古に、行きましたよ」
「……へえ」
「あの子、最近、よく、食べるの」
母が、嬉しそうに、言った。
「稽古の、前に、二回、朝食を、取って、出ていくんですよ」
「……二回」
「ええ」
「……」
リントは、もう一度、窓の外を、見た。
兄の素振りは、淀みなく、続いていた。
リントは、パンを、口に、運んだ。
母の作った、パンだった。
いつもの、味だった。
※
出発の、支度は、さほど、時間が、かからなかった。
背嚢は、昨日のうちに、母が、きっちり、詰めていた。
リントは、それを、背負った。
重かった。
「じゃ、行ってくる」
玄関先で、リントは、そう言った。
父は、頷いた。
母は、頷きながら、目を、潤ませていた。
「……母さん、泣くなよ」
「泣いてません」
「泣いてるじゃん」
「泣いてません」
母は、袖で、目元を、押さえていた。
「……二、三日で、帰るから」
「はい」
「……本当に、すぐ、帰るから」
「はい」
「……」
リントは、それ以上、何も、言えなくなった。
「リント」
父が、口を、開いた。
「はい」
「……気をつけて」
「……うん」
父は、それだけ、言った。
それから、背を、向けた。
父の背中は、少しだけ、丸く、見えた。
※
裏庭から、兄が、走って、来た。
息を、切らしていた。
「リント」
「兄さん」
「行くのか」
「行く」
「そうか」
兄は、リントの、肩を、叩いた。
叩いてから、少し、強すぎた、という顔を、した。
「……わるい」
「平気だよ」
「……気をつけろよ」
「うん」
「あと」
「ん?」
兄は、ユミルの方を、向いた。
「ユミル様」
「はい」
「弟を、お願いします」
ユミルは、深く、頭を、下げた。
「お任せ、ください」
兄は、満足そうに、頷いた。
それから、リントに、もう一度、向き直った。
「……行ってこい」
「うん」
「俺は、家を、守ってる」
「……うん」
兄の、目が、少しだけ、潤んでいた。
でも、泣かなかった。
泣く前に、兄は、背を、向けた。
「じゃあな」
短く、言って、兄は、また、裏庭に、走っていった。
剣を、振りに、戻ったのだった。
リントは、兄の背中を、見送った。
その背中が、ほんの少しだけ、以前より、広く、見えた。
リントは、もう、何も、言わなかった。
※
村の門まで、父と母が、見送りに、出た。
朝の、村の道を、歩いた。
途中で、村人たちが、家の、軒先から、顔を、出していた。
「リント様、お気をつけて」
「ユミル様……」
「……」
村人たちの、視線は、ほとんど、ユミルに、集中していた。
白いローブの、長い白髪の、美しい少女が、リントと、並んで、歩いている。
村人たちは、まだ、この光景に、慣れていなかった。
慣れないまま、見送るしか、なかった。
ユミルは、村人たちに、軽く、会釈を、した。
それだけで、何人かが、膝を、つきそうに、なった。
「……ユミル」
「はい」
「頭、下げすぎるな」
「なぜ、ですか」
「拝まれる」
「……そう、なんですか」
「うん」
「……学習しました」
「する前に、言ってくれ」
「……すみません」
二度目の、同じ、やり取りだった。
リントは、少し、笑った。
ユミルも、少し、笑った。
村の、門が、近づいてきた。
※
門の、前で、父と母は、立ち止まった。
「ここから、先は、お前たちの、道です」
父が、静かに、言った。
「はい」
「ラウンドローズまで、徒歩で、一日」
「はい」
「気をつけて、行きなさい」
「はい」
母が、リントの、前に、来た。
何か、言おうとして、言葉に、ならなかった。
代わりに、母は、リントを、ぎゅっと、抱きしめた。
短く、離した。
「……」
「……母さん」
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
母は、それ以上、何も、言わなかった。
父も、何も、言わなかった。
ただ、二人、門の、前に、並んで、立っていた。
リントは、背を、向けた。
ユミルも、深く、一礼して、リントの、横に、並んだ。
二人、歩き出した。
門を、抜けた。
振り返らなかった。
※
街道は、思ったより、広かった。
秋の風が、二人の、頬を、撫でた。
畑と、林と、空と、雲。
どこまでも、広がっていた。
ユミルは、少し、立ち止まった。
深く、息を、吸い込んだ。
ゆっくりと、吐いた。
もう一度、吸った。
もう一度、吐いた。
リントは、それを、横目で、見た。
ユミルが、百年ぶりに、森の外の、空気を、吸っていた。
百年ぶりだった。
リントは、それを、知っていた。
そして、
何も、言わずに、もう一度、前を、向いた。
「リン様」
「ん」
「行きましょう」
「……ああ」
秋の街道が、二人の、前に、伸びていた。
※
――第六章・前編、了。




