005 ただの田舎の行政官
「……は?」
父の「は?」は、しばらく続いていた。
ユミルは、にこにこしていた。
兄は、キラキラしていた。
母は、口を開けたまま、固まっていた。
リントは、頭を抱えていた。
門の前での立ち話は、そろそろ限界だった。
「……父さん」
ようやく、父が動いた。
静かに息を吐いて、一度、こめかみを押さえた。
「とりあえず、中に入りましょう」
「……そうだな」
「ユミル殿も、どうぞ」
「はい、お邪魔します」
ユミルは、あくまで、上品にお辞儀をした。
父は、一瞬、遠い目をした。
リントは、それを、見逃さなかった。
※
居間に通された一同は、長椅子に並んで座っていた。
リントと兄が片側に。
父と母が向かいに。
ユミルは、少し離れた席に、姿勢よく、腰掛けていた。
フードは、ようやく外していた。
白い髪が、ランプの光の下で、静かに輝いていた。
母が、その髪を、息を呑んで見ていた。
「……綺麗な、お髪ねえ」
「ありがとうございます」
「染めていらっしゃるの?」
「生まれつきです」
「……生まれつき」
「はい」
母は、それ以上、言わなかった。
聞いたら、もっと分からなくなる気がしたのだろう。
父が、ようやく、口を開いた。
「ユミル殿」
「はい」
「先ほどの、お言葉ですが」
「先ほど、と申しますと?」
「……一緒に住む、と」
「はい」
「どうして、我が家に、お住まいに?」
「助けたので」
「……はい」
「リンと住みます」
「リンと、と申しますのは、どのような、ご関係で」
「今日が初対面です」
「……」
「現実では」
父の口が、一度、開いて、閉じた。
何か、言おうとして、言葉が出てこなかった。
母が、父の袖を、引っ張った。
「お父さん! リンが!」
「母さん、わたしも、理解できてない」
「え、初対面って、え、え?」
「分からない、母さん、わたしも、分からない」
父は、こめかみを、両手で押さえた。
リントは、そっと、父の顔を見た。
父の顔に、疲労の色が、滲んでいた。
普段、大声を出さず、静かに家庭を支えてきた父が、今、明らかに、どう処理していいか分からなくなっている。
リントは、父に、少し、同情した。
そして、自分が取りなさないといけないことを、悟った。
「父さん」
「ああ」
「ユミルは、旅の魔法使いで」
「……はい」
「ちょっと、言葉が、独特なんだ」
「……独特」
「普通の人と、話し方が、違う」
「……そうか」
「だから、あんまり、深く聞くと、混乱するよ」
父が、リントを、じっと見た。
そして、小さく、頷いた。
「……分かった」
父は、それ以上、聞かなかった。
聞くのを、やめた、と言ったほうが、正確だろう。
※
母が、ふと、思い出したように、立ち上がった。
「あら、いけない、夕食、冷めるわ」
「母さん、今は」
「ユミル様も、きっとお腹すいていらっしゃるでしょ? 準備してきます」
「お気遣いなく」
「いえいえ、もう、焼いてあるんですから」
母は、エプロンのまま、忙しなく台所へ戻っていった。
父が、ため息をついた。
「……あれは、止められない」
「そうだな」
リントは、苦笑した。
こういう時に、母の慌ただしさが、家の空気を、救うのだった。
※
母が、大きな皿を運んできた。
鶏肉の香草焼き、蒸したジャガイモ、パン、野菜のスープ。
田舎貴族の夕食としては、上等の部類だった。
ユミルの前にも、同じ皿が、置かれた。
「どうぞ、召し上がれ」
「……あの」
「はい」
「わたし、食べないです」
皿を置きかけた母の手が、止まった。
「……え」
「食べないんです」
「……アレルギー?」
「いえ」
「お嫌いな食材が?」
「いえ」
「……では、なぜ」
「必要ないので」
母の顔が、一瞬で、真顔になった。
母の横で、父も、真顔になった。
兄は、まだキラキラしていた。
「必要ない、って、ユミル様」
「はい」
「……食べられないの?」
「食べられます」
「じゃあ、どうして」
「魔力があれば、死にませんので」
父の眉間が、ぴくりと動いた。
母は、しばらく、ユミルを見ていた。
それから、不思議な笑顔を、作った。
「……ユミル様」
「はい」
「せっかく、作ったんですけど」
「はい」
「食べて、くださらない?」
ユミルの動きが、止まった。
「……え」
「いいのよ、もちろん、無理にとは、言わないけど」
「……」
「ただ、お母さん、せっかく、焼いたから」
母の声は、柔らかかった。
柔らかいが、不思議な圧力が、あった。
ユミルが、リントのほうを、少し、見た。
助けを求めるような目だった。
リントは、箸を置いた。
いや、この世界では、フォークと匙だった。
「ユミル」
「はい」
「食ってみろ」
「え」
「食ってみろ。母さんの飯、美味いから」
「……でも、必要ないので」
「そういう話じゃない」
リントは、ユミルを、真っ直ぐ見た。
「お前の百年が、変わる」
家族が、一斉に、リントを見た。
百年、という言葉に、空気が、一瞬、止まった。
リントは、構わなかった。
「食え、ユミル」
「……」
「母さんの手料理を、食べてみろ」
ユミルは、しばらく、リントを見ていた。
それから、フォークを、ゆっくり、取った。
鶏肉を、一切れ、刺した。
口に入れた。
噛んだ。
噛んで、止まった。
目が、大きくなった。
ユミルの頬に、一粒、涙が落ちた。
※
家族三人が、息を止めていた。
何が起きているのか、分からなかった。
でも、何かが起きている、ということだけは、分かった。
母が、そっと、口を開いた。
「……美味しい?」
「……はい」
ユミルは、俯いていた。
白い髪が、皿の上に、零れていた。
「こんなに、美味しいもの」
「はい」
「……百年、食べて、いなかったです」
母が、固まった。
「……百年?」
リントが、静かに、言った。
「母さん」
「……はい」
「深く、聞かないで」
母は、しばらく、動かなかった。
それから、小さく、頷いた。
「……そう」
「ごめん」
「いいの」
母は、立ち上がって、台所へ戻っていった。
戻りながら、少し、袖で目を拭っていた。
父は、公文書を、そっと、横に置いた。
そして、ユミルに、穏やかに、言った。
「ユミル殿」
「はい」
「おかわりは、いくらでも、ございます」
「……はい」
「ゆっくり、召し上がってください」
「……はい」
ユミルは、少し、泣きながら、食べていた。
静かに、ゆっくり、一口ずつ。
百年分を、取り戻すように。
※
食事が一段落した頃、ユミルが、ふと、リントに聞いた。
「リン様」
「なに」
「この世界には、もっと、美味しいものが、あるんですか」
「あるよ」
「……どんな」
「海の魚とか。王都のパンとか。南の果物とか」
「……」
「俺も、全部は食ってないけどな」
ユミルは、黙っていた。
それから、小さな声で、
「……見てみたいです」
「見てみたい?」
「世界」
ユミルは、頬を、少し、赤くしていた。
「百年、森にいたので」
「そうだな」
「お恥ずかしい話、ですけれど」
「恥ずかしくない」
リントは、少し、笑った。
そして、家族のほうを、見た。
父が、リントを、見ていた。
母も、兄も、リントを、見ていた。
リントは、口を、開いた。
「父さん」
「ああ」
「……俺、ちょっと、家を、離れてみたい」
母が、息を呑んだ。
「ユミルが、世界を見たいと言うから、付き合いたい」
「……リント」
「兄さんが家を継ぐまで、俺も支えるって、思ってたんだけど」
「……」
リントは、言葉を、探した。
百年前のこいつは、合理の塊だった。
必要のないことは、知ろうともしなかった。
食べなくていいなら、食べない。
見なくていいなら、見ない。
それが、ユミルだった。
そのユミルが、今、鶏肉を食って、泣いている。
世界に、美味しいものがあるのか、と、聞いている。
「……こいつが、変わろうとしてる」
リントは、そう、呟いた。
「百年、合理で、生きてきたこいつが」
「……」
「今日、飯を食って、泣いた」
「……」
「これから、こいつが、何に、驚くのか」
リントは、ユミルを、見た。
ユミルは、皿の上のパンを、静かに、見ていた。
「俺は、もっと、知りたい」
家族は、黙っていた。
しばらく、誰も、口を開かなかった。
※
最初に、動いたのは、兄だった。
「リント」
「……兄さん」
「家は、俺が、守る」
家族が、一斉に、兄を見た。
兄は、座ったまま、背筋を、伸ばしていた。
まだ、キラキラしていた。
ユミルのほうを、時々、見ていた。
でも、声は、真っ直ぐだった。
「父さんの跡も、継ぐ」
「……ルーク」
「嫌々でも、継ぐって、言ってたけど」
「……」
「今日から、違う」
兄は、父を、見た。
「自分で、やる」
父の目が、少し、見開かれた。
母は、口元を、両手で覆っていた。
兄は、リントを、見た。
「だから、お前は、行ってこい」
「……兄さん」
「俺が、ここを、守るから」
リントは、しばらく、兄の顔を、見ていた。
森で、剣を抜いて震えていた兄の顔と、今の兄の顔が、重なった。
少しだけ、違っていた。
気持ち、男前になっていた。
気持ち、ではなく、本当に、男前になっていた。
リントは、少し、笑った。
「……ありがとう、兄さん」
「おう」
「頼んだ」
「任せろ」
※
母が、泣いていた。
父は、泣いていなかった。
でも、目が、濡れていた。
父は、ゆっくり、息を吐いた。
そして、しばらく、考え込んでいた。
考え込んで、それから、リントに、言った。
「リント」
「はい」
「……少し、頼みがある」
「……頼み?」
「隣町、ラウンドローズのギルドに、届けねばならぬ書類がある」
「……ラウンドローズ」
「今期の、魔物駆除の報告書と、税の集計だ」
父は、公文書の束を、そっと、叩いた。
「本来は、わたしが行くが、今月は、任務が、重なる」
「……」
「お前に、任せていいか」
「いいの?」
「お前は、もう、十五だ」
「……」
「お前の兄も、家を継ぐ覚悟を、固めた」
父は、兄を、一度見た。
そして、リントに、視線を戻した。
「お前にも、そろそろ、家の外で、学ぶことが、ある」
父は、一呼吸、置いた。
「ユミル殿がご同行くださるなら、わたしも、安心して、送り出せる」
父は、ユミルを、真っ直ぐ、見た。
「ユミル殿、よろしければ、息子を、お頼みできますか」
ユミルが、姿勢を、正した。
「……はい」
「ご無理を、承知で」
「いえ」
「どうか」
「お任せ、ください」
ユミルは、深く、頭を、下げた。
リントが、ユミルの横顔を、見た。
百年前、深夜の部屋で「壊れてる部分、一緒に直そう」と言った自分に、ユミルが「了解しました」と答えた、あの一拍の遅れが、リントの耳の奥で、もう一度、鳴った気がした。
あのとき、二人で、一緒に、何かを始めた。
今、もう一度、二人で、一緒に、何かを、始めるのだった。
※
「ラウンドローズ、って、遠いの?」
「徒歩で、一日の距離だ」
「じゃあ、二、三日で帰れるね」
「ああ」
「分かった、行ってくる」
リントは、そう答えた。
世界を見に行く、とは、言わなかった。
隣町まで、書類を届けに行く。
それだけだった。
でも、二人の胸の中では、違う、もっと大きなものが、動き始めていた。
※
その夜、リントは、縁側に、座っていた。
秋の月が、中庭を、青白く照らしていた。
ユミルが、白いローブのまま、リントの隣に、座った。
「リン様」
「ん」
「……いいんですか」
「何が」
「ご家族を、置いていって」
リントは、月を、見ていた。
「兄さんが、やる気になった」
「はい」
「俺がいたら、兄さんの出番が、減る」
「……」
「だから、今は、離れたほうが、いい」
「……そうかも、しれません」
ユミルは、月を、見ていた。
「リン様」
「ん」
「世界、どんな感じですか」
「知らねえよ、俺も、初めてなんだから」
「……そうでした」
ユミルは、少し、笑った。
「二人とも、初めてですね」
「そうだな」
リントも、笑った。
「一緒に、見よう」
「……はい」
「ゆっくりで、いいから」
「はい」
ユミルは、頷いた。
静かな頷きだった。
百年、誰とも共有できなかった何かを、今、隣にいる相棒と、静かに、共有していた。
※
同じ夜、寝室で、父と母も、話していた。
「お父さん、今日は、お疲れでしたね」
「……ああ」
「でも、ルークもリントも、成長したわね」
「……母さん」
「はい」
「……実は、な」
「はい」
「今日の、リントへの、依頼」
「はい」
「わたしが、困って、ひねり出した、策だ」
「……え」
「ユミル殿が、このまま、家に住むと言われたら、どうすればいいか、分からなかった」
母は、しばらく、父の顔を、見ていた。
「……お父さん」
「情けないが、お前に、相談も、できなかった」
「……ふふっ」
「笑うな」
「だって」
母は、口元を、袖で押さえていた。
「……お父さんでも、困るのねえ」
「困るさ」
父は、ため息をついた。
「わたしは、ただの、田舎の行政官だ」
「……ふふ」
母は、笑って、それから、父の肩に、そっと、頭を預けた。
「でも、お父さん」
「何だ」
「結果的に、良かったかも、しれません」
「……そうか」
「リント、きっと、少し、成長して、帰ってくるわ」
「……そうだといいが」
「大丈夫です」
母は、父の肩に、もたれたまま、静かに言った。
「だって、お父さんが、選んだ道ですから」
父は、しばらく、何も言わなかった。
秋の夜風が、窓の外を、静かに、通り過ぎていった。
※
縁側の、二人。
寝室の、夫婦。
同じ夜に、違う会話が、小さく、流れていた。
屋根の上の、秋の月は、どちらも、等しく、照らしていた。
明日の朝、リントたちは、出発する。
アルビオン家から、エッジウッドの門を抜け、北の街道を、徒歩で、一日。
ラウンドローズ、という町へ。
そこに何があるのか、誰も、まだ、知らなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
百年前、一緒に、ブロックを越えた二人だった。
百年、離れていた。
今、もう一度、一緒に、歩き出す。
合理の鬼が、変わろうとしている。
そして、それを隣で見られる唯一の人間が、リントだった。
――それは、新しい物語の、始まりだった。
――第二部、始動。




