004 は?
森を抜けると、秋の夕日が、目の高さで燃えていた。
赤く染まった葉の向こうに、遠く、村の輪郭が見えた。
エッジウッド。
森の端、という意味の、百五十人ほどが暮らす小さな村である。
中央に広場があり、週に二度、小さな市が立つ。雑貨屋が一軒、鍛冶屋が一軒、パン屋が一軒、薬屋が一軒。木造の家が道の両脇に並び、道の突き当たりに、アルビオン家の二階建ての屋敷があった。
煙突から、薄い煙が一筋、立ちのぼっていた。
母が、もう夕食の支度を始めている証拠だった。
「帰ってきた」
リントは、そっと呟いた。
「ご自宅ですか」
「うん、あそこ」
「あら、立派ですね」
「そうでもない。田舎の貴族の分家だよ」
「屋根に苔が生えてる感じが、風情があります」
「風情じゃなくて、貧乏」
「百年見てきた感じだと、苔は家の年季です」
「そういうことにしとくよ」
ユミルは、借りた外套のフードを、もう一度、深く被り直した。
白い髪は、相変わらずはみ出していた。
金の瞳は、フードの影で、時々きらりと光った。
隠せていなかった。
全然、隠せていなかった。
兄のルークは、弟の隣を、ゆっくり歩いていた。
時々、自分の脇腹に手をやり、時々、自分の両手を見て、首を傾げていた。
そして、時々、ユミルのほうを見た。
目が、少し、きらきらしていた。
リントは、それに気づいていた。
気づいていて、気づかないふりをした。
兄の気持ちに名前をつけるのは、まだ早い。本人も自覚していないだろうし、ユミルも気づいていない。気づかせたら、それはそれで、厄介なことになる。
リントは、前を向いた。
夕日の中の村が、近づいてきた。
※
村の入り口に、いつもの門番の老人が立っていた。
老人は、三人の姿を見て、しばらく、目を細めていた。それから、はっとしたように、身を乗り出した。
「リント様! お早いお……」
途中で、声が止まった。
老人の目が、ルークの服に釘付けになった。
血の跡だった。
治った脇腹の上に、乾いた血が、濃く、染みていた。
「……ルーク様!」
老人の声が、裏返った。
「ルーク様、そのお腹は! すぐに医者を、いや、奥様を――」
「じいさん、落ち着いて」
「ルーク様、お怪我が!」
「治ったから。もう大丈夫だから」
「血が!」
「治ったんだって」
リントが、兄の服の裾を捲ってみせた。
乾いた血の下から、白く、綺麗な肌が覗いた。
傷は、跡形もなかった。
老人が、息を呑んだ。
「…………は?」
「魔法使いさんに治してもらったんだ」
「魔……」
老人の視線が、フードの少女に移った。
フードの下で、ユミルが、にこ、と笑った。
「……旅の魔法使いのユミルと申します。お世話になります」
老人の顔が、さらに、おかしなことになった。
フードから覗く白い髪、金の目、すっと通った鼻筋、貴族の娘にも見えない、でも村娘でもない、どこか作り物めいた美しさ。
老人は、口をぱくぱくさせたあと、くるりと後ろを向き、走り出した。
「ジェレミー、走って奥様に伝えてくれ! リント様とルーク様が、お戻りだ! それと、旅の、旅の魔法使い様もご一緒だ!」
若い男が「承知!」と駆け出していった。
リントは、額に手を当てた。
「……先に知らせるのか」
「知らせます。村の決まりです」
「いや、決まりがあるのは知ってるけど」
「奥様、お困りになるので」
老人が、真剣な顔で言った。
「血の跡が、あのままでは、奥様がお倒れになる」
リントは、ため息をついた。
「……まあ、そうだな」
少し前を走り出した若い男の背中を、諦めて見送った。
※
村の中央に差しかかった頃には、もう、騒ぎは広がりきっていた。
雑貨屋の女将が、鍋を片手に走ってきた。
鍛冶屋の親方が、革エプロンのまま飛び出してきた。
パン屋の奥さんが、粉だらけの手で駆け寄ってきた。
「ルーク様!」
「リント様!」
「そのお腹はなんです!」
「ちょっと、血が!」
ルークは、困り果てていた。
「治ってます。もう治ってます」
「治ってるって、そんな、」
「ほら」
「きゃっ」
「あ、ごめんなさい」
兄が服を捲ったところ、パン屋の奥さんが目を覆った。
「ルーク様、いきなり捲らないでくださいよ」
「……すみません」
兄の顔が、赤くなった。
薬屋のお婆さんが、目を細めて兄の腹のあたりを覗き込んだ。
「治ってる。……綺麗に、治ってる」
「魔法使いさんに」
「魔法使い?」
村人たちの目が、一斉に、ユミルに集まった。
ユミルが、フードの下で、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。旅の魔法使いのユミルと申します」
「……はあ」
村人たちの、戸惑いの息が、ふうっと広がった。
それから、誰かが、ぽつりと呟いた。
「……綺麗な、お嬢様だねえ」
「……ねえ」
「……フードからでも、わかるねえ」
「……ねえ」
ユミルは、にこにこしていた。
兄は、さらに、顔を赤くしていた。
リントは、ユミルの肩を軽く叩いた。
「ユミル」
「はい」
「家に急ごう」
「はい」
「人が増える前に」
「はい」
既に増えていた。
家までの残り二百歩ほどを、三人は、村人たちの視線を引き連れて、歩いた。
※
アルビオン家の門が見えた頃には、もう、母が門の外に出ていた。
遠くからでも、表情が分かった。
慌てていた。
ものすごく、慌てていた。
「ルーク!!」
母は、走り出した。
エプロンのまま、飛び出してきた。
そして、兄の身体を、両手で、しっかり、掴んだ。
「ルーク、ルーク、どこ、どこが、どうなってるの!」
「母さん、治ってる」
「お腹! お腹が血! 血だらけじゃない!」
「だから治ってるって」
「嘘でしょう、こんなに、こんなに血が、」
「ほら」
兄が、もう一度、服の裾を捲った。
母の目が、止まった。
綺麗に塞がった、白い肌。
「……え」
「治ったんだ」
「え、ちょっと、え、なんで」
「だから、魔法使いさんに」
母が、ようやく、ユミルを見た。
見て、そして、一度、目を泳がせた。
「……どちら、の、お嬢様」
「旅の魔法使いのユミルと申します。お世話になります」
「……は、はあ」
母は、ぺこりとお辞儀を返しながら、動揺していた。
エプロンのまま飛び出してきた自分と、上品にお辞儀をする見知らぬ美少女との、空気のギャップに、動揺していた。
「え、あの、その、ユミル様、あの、この子、ルーク、本当に、お怪我は」
「はい、完全に治しました」
「……え、治せるものなんですか、そんな」
「神聖魔法で」
「神聖魔法!」
母の声が、引っくり返った。
「神聖魔法って、え、あの、古い文献でしか読んだことがないんですけれども」
「まあ、古いと言えば古いですね、百年くらい」
「百年!」
「あ、いえ、何でもないです」
ユミルが、自分の口を、軽く押さえた。
リントは、横で、額に手を当てた。
母が、首を傾げた。
「百年、って、ユミル様、おいくつに――」
「あ、えっと、はい、その」
ユミルが、急に慌てた。
フードの下で、金の目が、一度、左上に泳いだ。
「え、えっとですね、二千年です」
「二千年!?」
「はい」
「二千年前からある、魔法ということで……?」
「はい、一子相伝で、受け継がれておりまして」
「一子相伝!?」
「はい」
ユミルは、真顔だった。
母は、口を開けたまま、固まった。
リントが、ゆっくり、額から手を下ろした。
「……どこの暗殺拳なんだよ」
「あ」
ユミルが、固まった。
「あ、いえ、その、なんて言うか」
「二千年、一子相伝、ってお前」
「……言いすぎ、ましたか?」
「言いすぎ」
「ごめんなさい」
家族三人は、意味が分からず、顔を見合わせていた。
父が、静かに言った。
「リント、今のは、何だ」
「いや、なんでもない」
「なんでもないとは」
「兄弟の、あれだから」
「兄弟の?」
「ユミル、これ以上言うな」
「はい」
兄のルークは、キラキラした目のまま、何も分かっていない顔をしていた。
リントは、ちょっと、笑ってしまった。
十五年、ずっと隠してきた前世の片鱗が、ユミルのおかげで、ぽろり、と漏れた瞬間だった。
笑ってしまうのは、嫌じゃなかった、ということなのだと思う。
※
母が、兄の身体をあちこち確認し、怪我がないことを納得したあと、ふと、動きを止めた。
そして、兄の顔を、じっと見た。
しばらく、見つめた。
首を、ちょっと、傾げた。
もう少し、首を傾げた。
「……ルーク」
「なに」
「あんた」
「なに」
「顔」
「顔?」
「……なんか」
「なんか?」
「なんか、男前になってない?」
兄の顔が、さらに赤くなった。
「なってないよ!」
「なってる、なってる。あれ、目、こんなに、くっきりしてた?」
「してたよ!」
「してなかったわよ!」
「してた!」
リントが、横で、こっそり、ユミルに小声で聞いた。
「(……気持ち、じゃない気がする)」
「(気持ちです)」
「(めっちゃ気づかれてるけど)」
「(お母様の観察眼が鋭いんです)」
「(鋭すぎる)」
ユミルは、フードの下で、すました顔をしていた。
ただ、ちょっとだけ、視線が左上に逸れていた。
※
そのとき、屋敷の玄関から、静かな足音が聞こえた。
父だった。
公務の書簡でも読んでいたのか、紙を一枚、手に持っていた。
父は、門の前の騒ぎをしばし眺め、息子たちの顔を見て、血の跡を見て、それから、ユミルを見た。
表情は、ほとんど動かなかった。
ただ、少し、目を細めた。
そして、静かに、門をくぐって、歩み寄ってきた。
「――息子たちが、世話になったようですね」
父の声は、いつも通り、低く、静かだった。
ユミルが、姿勢を正した。
「旅の魔法使い、ユミルと申します。森で、リント様とルーク様をお助けしました」
「そうでしたか」
父は、そう言って、深く、頭を下げた。
母が、慌てて父の隣で、同じように頭を下げた。
母は、下げながら、小声で「どういうこと、どういうこと」と呟いていた。
「ユミル殿」
「はい」
「息子たちの命を、お助けいただき、真にありがとうございました」
父の声は、とても静かだった。
静かだったが、底に、父親としての重みが、確かにあった。
「これといったおもてなしはできませんが、どうか今宵は、当家で夕食と、寝床を」
「……はい」
「我が家の乏しい蓄えの中で、できる限りのおもてなしを、準備させてください」
リントは、父の背中を、斜めから見ていた。
父は、頭を下げたまま、動かなかった。
貴族の分家の誇り、父親としての感謝、家長としての責任、それらが全部、一つの礼に、折り畳まれていた。
ユミルも、それを感じ取ったらしかった。
少しだけ、真面目な声で、答えた。
「ご丁重なお言葉、ありがとうございます」
「いえ」
「それでは、お言葉に甘えまして」
「はい」
「泊まります」
「はい」
「一緒に、住みます」
※
※
「……は?」
父の顔が、上がった。
上がったまま、止まった。
母の顔も、ユミルに向いたまま、止まった。
兄は、キラキラした目で、ユミルを見ていた。
リントは、頭を抱えた。
門の外からは、まだ散っていない村人たちの囁きが、遠く聞こえていた。
秋の夕日が、アルビオン家の門柱を、赤く染めていた。
ユミルは、ローブの裾を、そっと直した。
そして、にこ、と笑った。
「よろしくお願いいたします」
父の「は?」は、まだ、続いていた。




