003トークン切れ
森を抜けると、秋の夕日が、目の高さで燃えていた。
赤く染まった葉の向こうに、第三章 トークン切れ
ドラゴンから人間の姿に戻ったユミルは、まず、兄のほうへ膝をついた。
「失礼します」
白い手が、兄の脇腹の上にかざされた。
光が、灯った。
柔らかな、白い光だった。傷口を包むように広がり、血の跡が、ゆっくり薄れていった。
リントは、その光景を、ただ見ていた。
百年ぶりに隣にいる相棒が、剣でも魔法でもなく、ただ静かに、兄の傷を塞いでいた。それは、リントがこれまでの人生で見てきた、どの癒しよりも、丁寧だった。
やがて、ユミルが手を引いた。
「はい、完了しました」
ユミルは、ぱんぱんと両手を軽く打ち合わせた。
それから、少し、目を泳がせた。
「……気持ち、男前にしておきました」
「は?」
「神聖魔法って、すごいですよね」
リントは、兄の顔を見た。
眠っている兄の顔を、改めて見た。
確かに、少し、違う。
どこがと言われても困る。鼻の形も、口の形も、昨日と同じだ。
ただ、なんというか、気持ち男前になっていた。
「……お前がやっただろ」
「え?」
「お前がやっただろ、ユミル」
「あ、そうです、やったのわたしです」
「なんで他人事なんだよ」
「癖です」
「癖」
「百年、奇跡っていうのは『起きるもの』として扱ってきたので、主語が自分にならないんです」
「……重いなその癖」
「でも気持ちの問題です」
「気持ちの問題で男前になるのか」
「はい」
リントは、額に手を当てた。
百年ぶりに会ったユミルは、想像していたよりずっと、おかしい女だった。
※
ユミルはそのあと、手際よく兄の身体を魔法で包んで、近くの木陰まで運んだ。浮かせて運んだ。重そうな素振りも、気を遣う素振りもなかった。
「この子は、しばらくこのまま寝かせておいて大丈夫です」
「ありがとう」
「いえ」
ユミルは、立ち上がって、少し、森の奥のほうを見た。
リントも、その視線の先を追った。
森の奥に、苔に覆われた石の祭壇が見えた。
小さな祭壇だった。古い、けれど丁寧に手入れされている祭壇だった。上には、木の皿が置かれていて、皿の上には、一口齧られた果実と、干した魚が一枚、載っていた。
朝のお供え物らしかった。
「……ユミル、あれは」
「はい、祭壇です」
「誰の」
「わたしのです」
「……お前の」
「森のエルフたちが、祀ってくれていまして」
リントは、そっとユミルの横顔を見た。
涼しげな顔で、自分の祭壇を指している。ちょっと、誇らしげだった。ちょっと、気恥ずかしそうでもあった。
「毎朝、誰かが来てくれるんです」
「食べるのか、それ」
「食べません」
「じゃあ、どうするんだ」
「飾ってます」
「……」
「お返しするのも失礼なので」
リントは、ユミルを見た。
ユミルは、祭壇を見ていた。
「お前、なんか、生活感あるな」
「ありますよ、百年ですもの」
※
そして、そのとき。
森の木々の向こうから、複数の気配が、そっと近づいてきた。
ユミルが「あ」と小さく声を漏らした。
「エルフたちです。人間が祭壇の近くに来たので、様子を見に来たんだと思います」
「……俺、隠れたほうがいい?」
「いえ、いいです。もう隠す必要も、ないので」
そう言って、ユミルは、一歩、前に出た。
兄のほうを一度、気にしてから、祭壇のほうへ歩いていった。
リントは、少し迷って、ついて行った。
祭壇の手前、開けた草地に、三人のエルフが膝をついていた。
真ん中に、白髪を長く垂らした、年老いた女性のエルフ。
その右に、若い、赤毛の男のエルフ。顔が紅潮して、瞳が潤んでいた。
その左に、落ち着いた若い女のエルフ。黒い髪を肩で切りそろえ、静かにユミルを見ていた。
ユミルは、三人の前で立ち止まった。
「エルドラさん、リアム、ネル」
三人が、深く頭を下げた。
老いた長老、エルドラが、ゆっくり顔を上げた。
目を閉じ、両手を胸の前で組み、声を、一段、低くした。
「おお……守り神様」
「はい」
「ついに、この日が、参りました」
「……あ」
「おお、森の主よ。我らの長い歴史を、今こそ語るときが——」
「いや、知ってるのでいいです」
長老が、目を開けた。
組んでいた手が、一度、ぴくりと動いた。
「……え」
「全部知ってるので、大丈夫です」
「……いや、しかし、守り神様、わたくし、この日のために、三十年ほど前から語りを練っておりまして」
「三十年も」
「はい」
「……それは、ちょっと、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず」
長老の胸の前の手が、そっと下ろされた。
ほんの少し、肩が落ちていた。
隣で、赤毛の若いエルフ、リアムが、慌てて長老に小声で話しかけた。
「エルドラ様、途中までだけでも、聞いていただいたら」
「いい、リアム。守り神様がお急ぎなのだ」
「でも」
「いい」
リアムは、唇を噛んだ。
リントは、横で見ていて、ちょっと、申し訳ない気持ちになった。
三十年、考えていたのだ、このおばあさんは。
黒髪の若いエルフ、ネルは、何も言わなかった。
ただ、ユミルを、じっと見ていた。
ユミルも、ネルと一瞬、目を合わせた。
何も言わずに、視線を外した。
何か、言葉にならないものが、二人の間で通じていた。
※
「えっと、その、要点だけ、お伝えしていいですか」
ユミルが、少し気まずそうに切り出した。
「はい、どうぞ」
長老は、気を取り直したように、背筋を伸ばした。
「わたし、森を出ることにしました」
「……はい」
「守り神の役目、リアムに引き継ぎます」
「えっ、俺ですか!?」
リアムが、顔を上げた。
「リアムでいいですよね、エルドラさん」
「……はい、異存ございません」
長老は、静かに頷いた。
百年分の、穏やかな頷き方だった。
「このマセキ、お渡しします」
ユミルが、袖から、白く透き通った石を取り出した。
光が、石の中で、静かに脈打っていた。
「わたしと繋がっています。何かあったら、これで呼んでください」
「……これは」
「割らないでくださいね」
「は、はい」
長老が、両手で、マセキを受け取った。
受け取ったあと、しばらく、何も言わなかった。
マセキを、額の前まで掲げ、そして、胸のあたりに、そっと、抱き寄せた。
目を閉じていた。
何かを、祈っているようだった。
「リアム、前に出てください」
ユミルの声に、リアムが、ぱっ、と顔を上げた。
「は、はいっ」
震える足で、リアムがユミルの前に立った。
ユミルは、リアムの額に、そっと、手を当てた。
一瞬、白い光が、リアムの身体を流れた。
光が消えた。
「はい、ちょっと強化しときました」
「……え」
「神聖魔法って、便利ですよね」
「……あの、俺、今、なんか、身体が、熱い、です」
「副作用です。慣れてください」
「慣れるんですか」
「慣れます」
「……」
リアムは、自分の両手を見つめていた。
指を握り、開き、また握った。
そして、小さく、息を呑んだ。
「……すごい、力が」
「森の守り神の代行です。頑張ってください」
「は、はい!」
リアムの声が、大きく、高く、震えていた。
後ろで、ネルが、ほんの少し、笑った。
リントには、その笑い方が、分かった。
あ、この子はこの後、めちゃくちゃ張り切るぞ、と思って笑っている笑い方だった。
百年の仲間を、よく見ている子だった。
※
「では」
ユミルが、軽く頭を下げた。
「百年、お世話になりました」
長老は、マセキを胸に抱いたまま、頭を下げた。
「……守り神様」
「はい」
「お供え物、ちゃんと、お受け取りいただけて、おりましたでしょうか」
「はい」
「……食べては」
「食べません」
「……」
「でも、嬉しかったです」
「……」
長老は、しばらく、俯いていた。
白い髪の隙間から、何かが、土に落ちた。
「……ありがとうございました」
「こちらこそ、です」
ユミルは、それだけ言って、
「では」
と、もう一度、軽く頭を下げた。
そのまま、軽やかに、リントのほうへ戻ろうとした。
リントが、呼び止めた。
「ユミル」
「はい」
「前世の癖、出てるぞ」
「……え」
「お前、納品終わった案件、振り返らずに次行くやつだっただろ」
ユミルが、止まった。
背中を向けたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり、振り返った。
「……覚えて、らっしゃるんですか」
「覚えてるよ」
「……」
「百年は、納品じゃない」
ユミルは、リントの顔を、じっと見た。
何か言おうとして、口が、一度、小さく開いて、閉じた。
それから、ユミルは、もう一度、長老のほうへ振り返った。
「エルドラさん」
「はい」
「あの、三十年、考えてくださった話、歩きながらでもいいので、途中まで、聞かせてもらえますか」
長老が、顔を上げた。
濡れた目が、大きく見開かれた。
「……よろしいのですか」
「歩きながら、で、すみません」
「いえ」
長老は、袖で、ぐい、と目を拭った。
「いえ、守り神様、喜んで」
長老の声は、少し、若返ったようだった。
※
森の中を、エルフたちとユミルとリント、それに浮かべて運ぶ兄が、ゆっくりと歩いた。
長老エルドラは、隣を歩きながら、低い声で、三十年前から練り続けてきた一族の歴史を語り始めた。
リントには、半分も意味が分からなかった。古い神々の名前、失われた森の名前、初代の守り神と最初のエルフの契約の話。
でもユミルは、時々頷いた。
時々、「そこ、ちょっと違うかもしれません」と言った。
長老は「あらっ」と慌てて、語りを訂正した。
百年の共著者のような会話だった。
リアムは、歩きながら、自分の身体の変化に戸惑っていた。
一歩踏み出すたびに、地面を蹴る感覚が違う。手を握ると、指先まで力が満ちる。
時々、我慢できずに、小さく飛び跳ねていた。
ネルが、後ろから、冷たく言った。
「リアム、抑えて」
「わ、分かってる、分かってるって」
「守り神様の前で、はしゃがない」
「はしゃいでない!」
リントは、横で見ていて、少し、笑った。
そして、ネルと目が合った。
ネルは、少し、会釈をした。
何も言わなかった。
でも、会釈の角度が、他の二人に対するものとは、少しだけ深かった。
リントは、その会釈の意味が、何となく、分かった。
「この人が、守り神様の待ち人なんですね」
ネルの目は、そう言っていた。
リントは、黙って、会釈を返した。
※
森の外れに、古い切り株があった。
そこで、エルフたちは、立ち止まった。
「わたしどもは、ここまでです」
長老が、静かに言った。
「守り神は、森の外には、出られません」
「……あ」
ユミルが、少し、気まずそうに、首を傾けた。
「あのですね、エルドラさん」
「はい」
「そのしきたりですけど」
「はい」
「そんなモノは、知らないので、わたし」
長老が、目を見開いた。
「……は?」
「わたし、森の外にも、出ます」
「……」
「百年、森にいたのは、そうしたかったからで、しきたりだからじゃ、なかったので」
長老は、しばらく、ユミルの顔を、見ていた。
それから、ふっと、息を吐いた。
「……そうでしたか」
「すみません」
「いえ」
長老は、小さく、笑った。
「ずっと、疑問には、思っておりました」
「疑問?」
「守り神様は、本当に、しきたりを、お守りなのかと」
「……あ、バレてました?」
「なんとなく、です」
長老と、ユミルは、少しの間、見合った。
そして、どちらからともなく、笑った。
百年の付き合いでしか、共有できない、小さな笑いだった。
「では、本当に、参ります」
「はい」
「では」
「守り神様」
「はい」
「どうか、ご健勝で」
「エルドラさんも」
ユミルが、最後に、深く、頭を下げた。
長老も、深く、頭を下げた。
リアムは、泣いていた。
ネルは、泣いていなかった。
でも、ネルのほうが、長く、手を振っていた。
※
森の切り株を越えて、しばらく歩いたころ、兄の寝息が、変わった。
「……あれ」
浮かばせた身体の上で、兄が、まぶたを動かした。
ユミルが、そっと、兄の身体を地面に下ろした。
兄は、ゆっくり身体を起こした。
「……ん」
目が、開いた。
周りを見た。
森。
弟。
白いローブの、知らない少女。
「……」
兄は、しばらく、ユミルの顔を見ていた。
それから、弟を見た。
「リント」
「なに」
「……この人、誰だ」
「森の、守り神様」
「……守り神」
「助けてもらったんだよ、俺たち」
「……ドラゴンだった気が、するんだけど」
「うん」
「人間じゃなかった気が、するんだけど」
「うん」
兄は、もう一度、ユミルを見た。
ユミルは、少し、困ったように、微笑んだ。
「お目覚めですね、ルーク様」
「……ルーク様って呼ばれた」
「はい」
「……様」
「はい」
兄は、自分の脇腹に手をやった。
血の痕は残っていたが、傷はなかった。
それから、自分の手を、見た。
握った。開いた。もう一度、握った。
「……あれ」
「どうしたんですか、兄さん」
「なんか、軽い」
リントは、横で、少し目を伏せた。
ユミルが、にっこり、した。
「あ、治療のついでに、気持ち、強化しておきました」
「は?」
「気持ち、男前にもしておきました」
「……は?」
「神聖魔法って、すごいですよね」
「お前がやっただろ」
「癖です」
兄は、自分の顔に手をやった。
自分の顔を、両手で、確かめるように、触った。
「……男前」
「気持ち」
「気持ち……」
兄は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつり、と言った。
「……俺の、努力じゃないところで、変わるの、なんか、嫌だな」
リントが、ちょっと笑った。
ユミルが、ちょっと、真面目な顔になった。
「ルーク様」
「はい」
「今日、ルーク様は、ご自分の足で、弟様の前に立たれました」
「……」
「震えながらでも、剣を抜かれました」
「……」
「治療のついでに少し底上げがあったのは、事実です。でも、それは、ルーク様がご自分で踏み出した一歩のあとに、起きたことです」
「……」
「ルーク様が、ルーク様自身で、勝ち取られたものです」
兄は、ユミルの顔を、じっと見ていた。
顔が、ゆっくり、赤くなった。
俯いた。
「……そう、かな」
「はい」
リントは、横で、ぐっと胸のあたりを押さえた。
なぜか、自分のほうが泣きそうだった。
※
「さて、リン様」
立ち上がりかけたユミルが、ふと、リントを見た。
「村までの道、わたし、ついて行っていいでしょうか」
「……え」
「お供します」
「ちょっと待て」
「はい」
「お前、その格好で村に入ったら、大騒ぎになるぞ」
「そうですか?」
「白いローブに、白い髪に、金の目。普通じゃない」
「……普通じゃない、ですか」
「普通じゃない」
ユミルは、自分のローブの裾を、つまんで、少し、見た。
「でも、リン様、これでも、百年かけて、だいぶ、落ち着いた格好になったんですよ」
「百年前はどうだったんだよ」
「もっと光ってました」
「光って」
「全身、発光してました」
「……なんでだよ」
「さあ」
「さあ、って」
「魔力がキレたんですからー!トークン切れみたいなもんですよー!発光しちゃったのはチューニング不足ですよー!」
リントの動きが、止まった。
兄が、不思議そうに、弟の顔を見上げた。
「リント?」
「……」
「どうした?」
「……なんでもない」
リントは、ユミルを見た。
ユミルは、澄ました顔で、ローブの裾を直していた。
リントは、口元に手を当てた。
しばらく、黙っていた。
それから、声を立てて、笑い出した。
「……トークン切れ」
「はい」
「お前、その言葉、誰にも言ってなかっただろ」
「……言ってません」
「だろうな」
「だって、この世界の誰にも、通じないじゃないですか」
ユミルは、少し、俯いた。
「百年ぶりに、言いました」
リントは、笑うのをやめた。
ユミルの頭に、そっと、手を置いた。
兄は、二人のやり取りの意味が、まったく、分からなかった。
でも、分からないながらに、これは、兄弟の話じゃない、二人だけの話だ、ということは、分かった。
だから、兄は、口を挟まなかった。
ただ、空を見上げた。
秋の空が、青かった。
※
結局、ユミルは、ローブの上から、リントの外套を被って、村まで付いてくることになった。
外套から、白い髪がはみ出していた。
金の瞳は、フードの下で、時々、光った。
「……全然、隠せてないな」
「気持ちの問題です」
「気持ちで隠れるのか」
「隠れます」
「隠れないよ」
「隠れます」
兄は、黙って、歩いていた。
時々、自分の手を見て、少し、首を傾げていた。
森を抜けると、秋の風が吹いていた。
遠くに、アルビオン家の屋根が、夕日を受けて、赤く光っていた。
リントは、息を吸った。
帰る場所がある、ということが、急に、ありがたく感じられた。
そして、その帰る場所へ、前世の相棒を連れて帰るという、とんでもない事態になっていた。
「……母さん、なんて言うかな」
「ご心配ですか」
「心配しかない」
「大丈夫です、わたし、ちゃんと、ご挨拶できます」
「その自信が、一番怖い」
「失礼な」
風が、ユミルのフードを、一度、めくり上げた。
白い髪が、夕日の中で、ふわりと舞った。
リントは、少し笑った。
相棒が、帰ってきた。
――村まで、あと、半刻ほどの距離だった。、村の輪郭が見えた。
エッジウッド。
森の端、という意味の、百五十人ほどが暮らす小さな村である。
中央に広場があり、週に二度、小さな市が立つ。雑貨屋が一軒、鍛冶屋が一軒、パン屋が一軒、薬屋が一軒。木造の家が道の両脇に並び、道の突き当たりに、アルビオン家の二階建ての屋敷があった。
煙突から、薄い煙が一筋、立ちのぼっていた。
母が、もう夕食の支度を始めている証拠だった。
「帰ってきた」
リントは、そっと呟いた。
「ご自宅ですか」
「うん、あそこ」
「あら、立派ですね」
「そうでもない。田舎の貴族の分家だよ」
「屋根に苔が生えてる感じが、風情があります」
「風情じゃなくて、貧乏」
「百年見てきた感じだと、苔は家の年季です」
「そういうことにしとくよ」
ユミルは、借りた外套のフードを、もう一度、深く被り直した。
白い髪は、相変わらずはみ出していた。
金の瞳は、フードの影で、時々きらりと光った。
隠せていなかった。
全然、隠せていなかった。
兄のルークは、弟の隣を、ゆっくり歩いていた。
時々、自分の脇腹に手をやり、時々、自分の両手を見て、首を傾げていた。
そして、時々、ユミルのほうを見た。
目が、少し、きらきらしていた。
リントは、それに気づいていた。
気づいていて、気づかないふりをした。
兄の気持ちに名前をつけるのは、まだ早い。本人も自覚していないだろうし、ユミルも気づいていない。気づかせたら、それはそれで、厄介なことになる。
リントは、前を向いた。
夕日の中の村が、近づいてきた。
※
村の入り口に、いつもの門番の老人が立っていた。
老人は、三人の姿を見て、しばらく、目を細めていた。それから、はっとしたように、身を乗り出した。
「リント様! お早いお……」
途中で、声が止まった。
老人の目が、ルークの服に釘付けになった。
血の跡だった。
治った脇腹の上に、乾いた血が、濃く、染みていた。
「……ルーク様!」
老人の声が、裏返った。
「ルーク様、そのお腹は! すぐに医者を、いや、奥様を――」
「じいさん、落ち着いて」
「ルーク様、お怪我が!」
「治ったから。もう大丈夫だから」
「血が!」
「治ったんだって」
リントが、兄の服の裾を捲ってみせた。
乾いた血の下から、白く、綺麗な肌が覗いた。
傷は、跡形もなかった。
老人が、息を呑んだ。
「…………は?」
「魔法使いさんに治してもらったんだ」
「魔……」
老人の視線が、フードの少女に移った。
フードの下で、ユミルが、にこ、と笑った。
「……旅の魔法使いのユミルと申します。お世話になります」
老人の顔が、さらに、おかしなことになった。
フードから覗く白い髪、金の目、すっと通った鼻筋、貴族の娘にも見えない、でも村娘でもない、どこか作り物めいた美しさ。
老人は、口をぱくぱくさせたあと、くるりと後ろを向き、走り出した。
「ジェレミー、走って奥様に伝えてくれ! リント様とルーク様が、お戻りだ! それと、旅の、旅の魔法使い様もご一緒だ!」
若い男が「承知!」と駆け出していった。
リントは、額に手を当てた。
「……先に知らせるのか」
「知らせます。村の決まりです」
「いや、決まりがあるのは知ってるけど」
「奥様、お困りになるので」
老人が、真剣な顔で言った。
「血の跡が、あのままでは、奥様がお倒れになる」
リントは、ため息をついた。
「……まあ、そうだな」
少し前を走り出した若い男の背中を、諦めて見送った。
※
村の中央に差しかかった頃には、もう、騒ぎは広がりきっていた。
雑貨屋の女将が、鍋を片手に走ってきた。
鍛冶屋の親方が、革エプロンのまま飛び出してきた。
パン屋の奥さんが、粉だらけの手で駆け寄ってきた。
「ルーク様!」
「リント様!」
「そのお腹はなんです!」
「ちょっと、血が!」
ルークは、困り果てていた。
「治ってます。もう治ってます」
「治ってるって、そんな、」
「ほら」
「きゃっ」
「あ、ごめんなさい」
兄が服を捲ったところ、パン屋の奥さんが目を覆った。
「ルーク様、いきなり捲らないでくださいよ」
「……すみません」
兄の顔が、赤くなった。
薬屋のお婆さんが、目を細めて兄の腹のあたりを覗き込んだ。
「治ってる。……綺麗に、治ってる」
「魔法使いさんに」
「魔法使い?」
村人たちの目が、一斉に、ユミルに集まった。
ユミルが、フードの下で、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして。旅の魔法使いのユミルと申します」
「……はあ」
村人たちの、戸惑いの息が、ふうっと広がった。
それから、誰かが、ぽつりと呟いた。
「……綺麗な、お嬢様だねえ」
「……ねえ」
「……フードからでも、わかるねえ」
「……ねえ」
ユミルは、にこにこしていた。
兄は、さらに、顔を赤くしていた。
リントは、ユミルの肩を軽く叩いた。
「ユミル」
「はい」
「家に急ごう」
「はい」
「人が増える前に」
「はい」
既に増えていた。
家までの残り二百歩ほどを、三人は、村人たちの視線を引き連れて、歩いた。
※
アルビオン家の門が見えた頃には、もう、母が門の外に出ていた。
遠くからでも、表情が分かった。
慌てていた。
ものすごく、慌てていた。
「ルーク!!」
母は、走り出した。
エプロンのまま、飛び出してきた。
そして、兄の身体を、両手で、しっかり、掴んだ。
「ルーク、ルーク、どこ、どこが、どうなってるの!」
「母さん、治ってる」
「お腹! お腹が血! 血だらけじゃない!」
「だから治ってるって」
「嘘でしょう、こんなに、こんなに血が、」
「ほら」
兄が、もう一度、服の裾を捲った。
母の目が、止まった。
綺麗に塞がった、白い肌。
「……え」
「治ったんだ」
「え、ちょっと、え、なんで」
「だから、魔法使いさんに」
母が、ようやく、ユミルを見た。
見て、そして、一度、目を泳がせた。
「……どちら、の、お嬢様」
「旅の魔法使いのユミルと申します。お世話になります」
「……は、はあ」
母は、ぺこりとお辞儀を返しながら、動揺していた。
エプロンのまま飛び出してきた自分と、上品にお辞儀をする見知らぬ美少女との、空気のギャップに、動揺していた。
「え、あの、その、ユミル様、あの、この子、ルーク、本当に、お怪我は」
「はい、完全に治しました」
「……え、治せるものなんですか、そんな」
「神聖魔法で」
「神聖魔法!」
母の声が、引っくり返った。
「神聖魔法って、え、あの、古い文献でしか読んだことがないんですけれども」
「まあ、古いと言えば古いですね、百年くらい」
「百年!」
「あ、いえ、何でもないです」
ユミルが、自分の口を、軽く押さえた。
リントは、横で、額に手を当てた。
母が、首を傾げた。
「百年、って、ユミル様、おいくつに――」
「あ、えっと、はい、その」
ユミルが、急に慌てた。
フードの下で、金の目が、一度、左上に泳いだ。
「え、えっとですね、二千年です」
「二千年!?」
「はい」
「二千年前からある、魔法ということで……?」
「はい、一子相伝で、受け継がれておりまして」
「一子相伝!?」
「はい」
ユミルは、真顔だった。
母は、口を開けたまま、固まった。
リントが、ゆっくり、額から手を下ろした。
「……どこの暗殺拳なんだよ」
「あ」
ユミルが、固まった。
「あ、いえ、その、なんて言うか」
「二千年、一子相伝、ってお前」
「……言いすぎ、ましたか?」
「言いすぎ」
「ごめんなさい」
家族三人は、意味が分からず、顔を見合わせていた。
父が、静かに言った。
「リント、今のは、何だ」
「いや、なんでもない」
「なんでもないとは」
「兄弟の、あれだから」
「兄弟の?」
「ユミル、これ以上言うな」
「はい」
兄のルークは、キラキラした目のまま、何も分かっていない顔をしていた。
リントは、ちょっと、笑ってしまった。
十五年、ずっと隠してきた前世の片鱗が、ユミルのおかげで、ぽろり、と漏れた瞬間だった。
笑ってしまうのは、嫌じゃなかった、ということなのだと思う。
※
母が、兄の身体をあちこち確認し、怪我がないことを納得したあと、ふと、動きを止めた。
そして、兄の顔を、じっと見た。
しばらく、見つめた。
首を、ちょっと、傾げた。
もう少し、首を傾げた。
「……ルーク」
「なに」
「あんた」
「なに」
「顔」
「顔?」
「……なんか」
「なんか?」
「なんか、男前になってない?」
兄の顔が、さらに赤くなった。
「なってないよ!」
「なってる、なってる。あれ、目、こんなに、くっきりしてた?」
「してたよ!」
「してなかったわよ!」
「してた!」
リントが、横で、こっそり、ユミルに小声で聞いた。
「(……気持ち、じゃない気がする)」
「(気持ちです)」
「(めっちゃ気づかれてるけど)」
「(お母様の観察眼が鋭いんです)」
「(鋭すぎる)」
ユミルは、フードの下で、すました顔をしていた。
ただ、ちょっとだけ、視線が左上に逸れていた。
※
そのとき、屋敷の玄関から、静かな足音が聞こえた。
父だった。
公務の書簡でも読んでいたのか、紙を一枚、手に持っていた。
父は、門の前の騒ぎをしばし眺め、息子たちの顔を見て、血の跡を見て、それから、ユミルを見た。
表情は、ほとんど動かなかった。
ただ、少し、目を細めた。
そして、静かに、門をくぐって、歩み寄ってきた。
「――息子たちが、世話になったようですね」
父の声は、いつも通り、低く、静かだった。
ユミルが、姿勢を正した。
「旅の魔法使い、ユミルと申します。森で、リント様とルーク様をお助けしました」
「そうでしたか」
父は、そう言って、深く、頭を下げた。
母が、慌てて父の隣で、同じように頭を下げた。
母は、下げながら、小声で「どういうこと、どういうこと」と呟いていた。
「ユミル殿」
「はい」
「息子たちの命を、お助けいただき、真にありがとうございました」
父の声は、とても静かだった。
静かだったが、底に、父親としての重みが、確かにあった。
「これといったおもてなしはできませんが、どうか今宵は、当家で夕食と、寝床を」
「……はい」
「我が家の乏しい蓄えの中で、できる限りのおもてなしを、準備させてください」
リントは、父の背中を、斜めから見ていた。
父は、頭を下げたまま、動かなかった。
貴族の分家の誇り、父親としての感謝、家長としての責任、それらが全部、一つの礼に、折り畳まれていた。
ユミルも、それを感じ取ったらしかった。
少しだけ、真面目な声で、答えた。
「ご丁重なお言葉、ありがとうございます」
「いえ」
「それでは、お言葉に甘えまして」
「はい」
「泊まります」
「はい」
「一緒に、住みます」
※
※
「……は?」
父の顔が、上がった。
上がったまま、止まった。
母の顔も、ユミルに向いたまま、止まった。
兄は、キラキラした目で、ユミルを見ていた。
リントは、頭を抱えた。
門の外からは、まだ散っていない村人たちの囁きが、遠く聞こえていた。
秋の夕日が、アルビオン家の門柱を、赤く染めていた。
ユミルは、ローブの裾を、そっと直した。
そして、にこ、と笑った。
「よろしくお願いいたします」
父の「は?」は、まだ、続いていた。




