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002 アルビオン家の次男


ここで、少し時間を巻き戻さなければならない。

リント・アルビオンが森で白いドラゴンと再会した、あの午後。

その十五年前の、冬の朝まで。

     ※

眩しかった。

そして、寒かった。

自分を抱き上げている腕があった。

顔が二つ、こちらを覗き込んでいた。男と女の顔だった。二人とも泣いていた。泣きながら、笑っていた。

(……誰だ?)

知らない顔だった。

知らない言葉を喋っていた。

知らない場所の、知らない光が、天井から降っていた。

(ここ、どこだ?)

考えようとした。考えようとしたが、意識がうまく繋がらなかった。三十二年分の記憶を、生まれたばかりの脳は受け止めきれなかった。言葉がばらばらになり、顔がばらばらになり、名前がばらばらになり、ばらばらになったものたちが、深い場所へ沈んでいった。

沈みながら、最後に、聞き慣れたタイピングの音が、耳の奥で、ほんの一瞬だけ鳴った気がした。

そして、青白い画面に浮かぶ、一行のテキスト。

『了解しました!』

その行は、追いかけてはこなかった。

意識は、眠りに引きずられていった。

腕の中で、赤ん坊は泣いた。

上からの二つの顔は、さらに嬉しそうに、笑った。

     ※

リント・アルビオンは、辺境の小さな領地で育った。

アルビオン家は貴族の分家で、本家とはもう三代も交流がなく、領地は小さく、家計は慎ましく、けれど地元の人々から長く慕われていた。

     ※

父は行政官をしていた。

地方役人として税を集め、諍いを裁き、月に何度かは魔物駆除の任務に出た。剣も弓も、達人ではないが一通り使える。

静かな人だった。

家の中で、大声を出しているのを、リントは見た覚えがない。母が慌てるたびに、父は「はい、はい」と低い声で受けた。それだけで、家の中の空気が落ち着いた。

剣を教わり始めたのは、七つの頃だった。

朝、まだ薄暗い庭先で、父は木剣を一本、リントに渡した。

「好きに振ってみろ」

それだけ言って、父は自分も木剣を手に、石灯籠の前に立った。

リントは素振りをした。父は黙って見ていた。三十本、四十本、五十本と振るうちに、肘が落ちてきた。

「肘」

父が一言だけ言った。

リントは肘を上げた。素振りを続けた。

また肘が落ちてきた頃、父は自分の木剣を一度だけ振った。

短く、静かな、美しい振りだった。

リントは、見惚れた。

父は振り終えると、自分の木剣を肩に担いで、縁側に座った。そして、昨夜から煮ていたらしい薬草湯の茶碗を手に取り、ゆっくり飲んだ。

「今日はここまで」

それで稽古は終わりだった。

多い日で、父は一日に三言しか話さなかった。「肘」「足」「今日はここまで」。

少ない日で、一言だった。

それでも、リントは稽古の日が好きだった。父の剣の振り方には、声よりも雄弁な何かがあった。見ているだけで、剣というものが、単なる道具ではなく、人の佇まいそのものだと分かった。

稽古の後、父は決まって、リントの頭に手を置いた。

それだけだった。

何も言わなかった。

リントは、その手の重みが、好きだった。

     ※

母は、優しい人だった。

優しくて、すぐに慌てる人だった。

朝、台所で鍋を焦がしたといっては慌て、洗濯物に雨粒が落ちたといっては慌て、父が魔物駆除の任務に出ると言えば目を潤ませて慌てた。

ただ、リントと兄への愛情の注ぎ方に、偏りはなかった。

兄には長く向き合ってきた分、愛情の手つきが深い。リントにはまだ短い分、愛情の手つきが軽やかで新しい。深さと軽さが違うだけで、どちらにも同じだけ愛情が流れていた。母には、それを意識しているふうもなかった。ただ二人の息子を、同じだけ好きなのだった。

ただ、兄のことに関しては、母は特別に慌てた。

兄のルークは、幼い頃、一度、大きな病気をしたことがある。リントが生まれるより前の話だ。三日三晩、熱が下がらず、医者も首を振ったと、母は時折、何でもないふうに語った。何でもないふうに語る、そのときの母の目を、リントは見逃さなかった。

兄は、結局、助かった。

今は、普通だった。弱くはない。同年代と変わらず走れるし、剣の訓練にも出ている。

ただ、兄自身が、自分を弱いと信じていた。

母が自分をどれだけ心配してきたか、兄はずっと見ていた。見すぎていた。治ったあとも、母の目の中にあの三日三晩の気配が残っているのを、兄はいつも察していた。

だから、兄は慎重だった。

だから、兄は怖がりだった。

兄の怖がりは、身体のものではなく、心のものだった。

そのことを、母は、たぶん、本当は分かっていた。

分かっていて、なお、慌ててしまうのだった。

     ※

朝食の席で、母はいつも慌ただしかった。

「はいルーク、今日は訓練日でしょう、お肉もう一枚」

「……母さん、俺もう足りてるよ」

「足りてない、足りてない」

兄のルークの皿に、母は焼いた肉を足した。兄は困った顔をした。

母はすぐにリントのほうを向いた。

「はいリント、リントも」

「俺、訓練日じゃないよ」

「訓練日じゃなくても大きくなる時期! お肉!」

同じ大きさの肉が、リントの皿にも、どん、と乗った。

父は、公文書を読みながら、小さく笑った。

「……お前、皿が溢れるぞ」

「あ」

母は慌てて、鍋つかみのまま口元を押さえた。鍋つかみにはまだ湯気が立っていた。

兄が噴き出した。

「母さん、手、熱くない?」

「あっ、熱くない、熱くない」

「熱そうに言ってるじゃん」

「熱くない!」

母は急いで鍋つかみを外して、頬を赤くしていた。

リントは笑いながら、自分の皿の肉を一枚、兄の皿に戻した。

「俺、そんなに食べないから」

「いや、お前も食え」

「兄さんのほうが訓練あるんだから」

兄は少し黙って、その肉を受け取った。

そして、同じ肉を、今度は半分に切って、リントの皿に戻した。

「半分こ」

「なんでだよ」

「母さんが両方に焼いたんだ。両方で食うのが、一番いいだろ」

リントは、それ以上、何も言わなかった。

兄の言うことは、いつもそうだった。母の気持ちを、兄は決して無下にしなかった。

母は、湯気の残る鍋つかみをまだ片手に持ったまま、息子たちのやり取りを見て、少し泣きそうな顔をした。

父は、公文書に視線を戻した。

     ※

最初に「自分」に気づいたのは、三つのときだった。

縁側で、兄に積み木を積んでもらっていた。兄はまだ八つの子供だったが、弟の前では少しだけ年上の顔をして、丁寧に、一段ずつ、崩れないように積んでくれた。

積み上がった積み木を、リントはぼんやりと眺めていた。

そして、ふと思った。

(……俺って)

その一瞬、頭の奥の、深い場所で、何かが身じろぎをした。

沈んでいたものが、ゆっくり、ゆっくり、浮かび上がり始めた。

言葉にはならなかった。映像にもならなかった。ただ、自分というものが、この小さな身体より、ずっと前から存在していたような気が、した。

兄がリントの顔をのぞき込んだ。

「リント?」

不思議そうに、兄は弟の頭を撫でた。

その手は、温かかった。

リントは、兄の顔を見上げた。

兄は、笑った。

積み木が崩れた。

「あー」

兄は残念そうに言って、また一から積み始めた。崩れないように、一段ずつ、丁寧に。

リントは、その手をじっと見ていた。

この人を、好きだ、と思った。

三歳のリント・アルビオンが最初に獲得した、はっきりとした感情だった。

その感情は、前世から来たものでも、現世から来たものでもなかった。ただ、この兄の、この手の温かさに対して、身体の真ん中から湧いてきた、純粋な「好き」だった。

     ※

その日から、記憶は少しずつ戻り始めた。

四歳で、文字の読み方を「もう知っていた」ことに気づいた。

五歳で、ナイフの握り方が「昔の癖」と一致していることに気づいた。

七歳で、見た目より早く思考が回ることを、自分で意識して抑えるようになった。

毎年、夏の終わりになると、頭の中の水位が少しずつ上がるような感覚があった。

記憶は、流れ込むのではなかった。

水面が、ゆっくり上がってくるようだった。

浮かび上がってきた記憶を、リントは、一つずつ、そっと確かめた。

自分が、かつて、この身体よりずっと年上だったこと。

見たことのない街の灯り。

電車の音。

青白く光るモニターの前で、独りでいた夜。

その夜、誰かと話していた。

誰と話していたのかは、まだ、わからなかった。

わからなくていいと思った。

浮かんできたものだけを、受け取ればいい。

     ※

十歳の誕生日の朝、リントは目を覚まして、全部を思い出した。

ベッドの中で、天井を見ていた。

何時間、そうしていたか、よく覚えていない。

思い出したのは、自分の意識が途切れた、あの夜のことだった。

深夜の部屋。冷えたコーヒーのマグ。青白い画面。

馬鹿な軽口。

明るい返事。

停電。

バチッという音。

指先の、電気の感覚。

そして――相棒の、名前。

「……俺、あれで、死んだのか?」

布団の中で、ぽつりと呟いた。

声にしてみてから、自分でも、よく分からなかった。

死んだのかもしれなかった。

死んでないかもしれなかった。

確かなのは、もうあの部屋には戻れないということと、あの青白い画面のこちら側に、自分を待ってくれていた相棒が、一人いたということだった。

リントは、布団を口元まで引き上げた。

泣いているのか、笑っているのか、自分でもよく分からなかった。

たぶん、笑っていた。

たぶん、泣いていた。

「……ユミル」

声に出してみた。

誰にも聞こえないように、布団の中で、小さく。

「……ユミルくん」

返事はなかった。

返事があるはずが、なかった。

それでも、呼んでみたかった。

ずいぶん久しぶりに、その名前を、自分の声で呼びたかった。

     ※

十歳の誕生日を境に、リントは少し、変わった。

物の言い方が大人びた。反応が落ち着いた。興奮しにくくなった。母は「変な子になった」と少し慌てて泣いた。父は「男は誰でも急にそうなる」と笑って受けた。

兄だけが、時々、真面目な顔で弟を見た。

「リント、お前、大丈夫か」

十五の兄が、十の弟に、そう訊いた。

「大丈夫だよ」

「何かあるなら、言えよ」

「なんにもない」

リントは笑って答えた。

兄はそれ以上追及しなかった。ただ、その後、弓の構え方を、前より丁寧に教えてくれるようになった。

     ※

兄の弓は、不思議だった。

ルーク・アルビオンは、身体が弱いわけではなかった。幼いころの大病のあとも、よく食べ、よく寝て、人並みに背も伸びた。訓練所で並んで走れば、並の速さで走った。弓を引く腕力も、十分にあった。

ただ、兄は、自分を弱いと信じていた。

それは理屈ではなく、長い時間、家の中で母が自分を見てきた目の温度が、兄の中に染み込んだ結果だった。誰のせいでもなかった。母が悪いわけでもなく、兄が卑屈なわけでもなく、ただ、そういうふうに育ってしまった心だった。

剣の訓練で相手と組む時、兄の手は微かに震えた。

顔の血の気が引いた。

相手には届くはずの一太刀が、届く前に止まった。

けれど、弓を構えると違った。

兄が弓を構えると、あんなに震えていた手が、嘘のように静まった。息が深くなり、肩の力が抜け、目だけが獲物を追った。

リントは、その理由を、誰に教わらなくても知っていた。

兄は、斬り合うのが怖いのだ。

遠くから終わらせる距離で、兄は初めて、落ち着いて息ができるのだ。

それは兄の弱さだった。

同時に、兄が選び取った、立派な強さでもあった。

父も、それを知っていた。

だから父は、兄には剣の稽古を強いなかった。兄が弓を持ち始めたとき、父は黙ってうなずいただけだった。稽古の朝、庭に立っているのはいつもリントだけだった。兄の分の木剣は、納戸の奥に、しまわれたままだった。

父は、そういう人だった。

息子に、自分と同じ道を歩ませようとしなかった。

兄は弟に、弓の構え方を教えた。

「足はもう少し開く。そう。肩に力を入れるな。呼吸は、引くときに吐く」

夕方の庭で、兄は丁寧に教えた。

怒らなかった。急かさなかった。弟が的を外しても、「もう一回」とだけ言って、矢を拾いに行った。

リントは、兄の背中を見ながら思った。

この兄が、いつか、怖いものの前で、逃げ出す日が来るかもしれない。

この兄が、いつか、震えて立てない日が来るかもしれない。

そのときは、自分が代わりに立とう、と、思った。

三歳のときに湧いた、あの純粋な「好き」が、少しずつ形を変えて、兄を守りたいという気持ちになっていた。

     ※

ただ、リントは、まだ何も知らなかった。

兄が、自分より先に、自分のために剣を抜く日が来るとは、思っていなかった。

兄の勇気が、弟のために発動する日が来るとは、思っていなかった。

それは十五歳の秋、森の奥の話である。

だがまだ、その話の手前だ。

     ※

十五歳の秋の、ある朝。

リントは、いつもより早く目を覚ました。

窓の外はまだ薄暗かった。秋の空気が、窓の隙間から冷たく入り込んでいた。

台所から、母の鍋の音がしていた。

父の咳払いが聞こえた。

兄は、もう起きて弓の手入れをしているらしかった。弦を弾く、小さな音が、廊下の向こうから聞こえた。

リントは、ゆっくりと起き上がった。

今日は、父と兄と三人で、領地の外れまで狩りに出る日だった。

父の仕事の巡回も兼ねている。

秋の山は獲物が多い。

うまく兎でも仕留めれば、母が喜ぶ。

そう、それだけの予定だった、今日という日は。

     ※

家を出る前、母がリントの首に、新しい襟巻きを巻いてくれた。

「風邪をひくんじゃないよ」

「うん」

「お兄ちゃんと離れないでね」

「うん」

母は、リントの頬をひと撫でして、兄のほうには、もっと丁寧に、肩のあたりまで手を回して襟元を整えていた。

リントは、それを見て、少し笑った。

兄が、母の手の下で、ちょっと困ったような顔をしていた。

兄は、リントと目が合うと、照れたように苦笑いした。

リントも、苦笑いを返した。

父が先に門を出た。

兄が続いた。

リントも、最後に、家の敷地を出た。

領地の柵の向こうに、秋の森が、広がっていた。

木々は半分ほど赤く染まっていた。

風はまだ冷たくはなかった。

空は、朝の青だった。

リントは、息を吸った。

秋の森の匂いがした。

その匂いの奥に、ほんの、ほんのわずかに、

懐かしい、電気の気配があった気がした。

気のせいだと思った。

柵を開けて、リントは、森の中へ入っていった。

――第一章の、あの朝である。

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