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001 森の守り神

挿絵(By みてみん)

 兎だった。

 灰色の背中が、草むらの中で一度だけ跳ねた。リントは音を殺して弓を構えた。矢をつがえる。狙う。息を止める。

 兎が藪に逃げ込む。

 追った。

 木の根を飛び越え、低い枝をかわし、朝露に濡れた下生えを踏みながら、少年は笑いそうになっていた。今朝は調子がいい。昨日外した分を、今日取り返す。

 藪の向こうに、兎の白い尾が見えた。

 あと少しだった。

 柵を越えた。

 それだけだった。

     ※

 ハァ、ハァ、ハァ、

 暗い森の中を、リントは走っていた。

 頬を枝が引っ掻いた。気にしなかった。靴の中に土が入っていた。気にしなかった。弓を握る手は汗で滑っていた。握り直す余裕はなかった。

 後ろからの下生えの折れる音が、さっきより近い。

 喉の奥に血の味がした。肺が裂けそうだった。十五年分しか鍛えていない足が、もう限界に近いことを告げていた。

 どうしてこうなった。

 ほんの三十分前、自分は兎を追っていた。ただそれだけだった。

 柵を越えた、それだけだった。

 父に叱られるだろう。母は泣くだろう。兄は――兄は、心配する。真っ先に心配する。

 兄の顔が浮かんだ瞬間、リントは歯を食いしばった。

 死ねない。

 こんなところで、兄を泣かせるわけにいかない。

 木の根を避けようとして、足がもつれた。つんのめる。身体が泳ぐ。

 倒れ込んだ先に、黒い塊が立っていた。

「――――」

 狼の形をしていた。しかし大きさが違う。肩までの高さがリントの背丈ほどある。目は濁った黄色で、牙の隙間から湯気のような息が漏れていた。

 挟まれた、と分かった。

 背後にも気配があった。別の一頭が、今まさに追いついてきていた。

 声が出なかった。剣を抜く手が、勝手に震えていた。

 二体の魔狼が、同時に跳んだ。

     ※

「リント!」

 遠くから矢が飛んできて、魔狼の片方が軌道を逸らした。よく知った矢羽根の色。

 森の奥から、土を蹴る音。

 兄のルーク・アルビオンが、剣を抜いて駆け込んできた。

「――兄さん、来るな!」

 叫んだ。叫んでから、自分がなぜ叫んだのかを理解した。

 兄は、近接戦が苦手だ。

 子供のころから知っている。兄が弓を選んだ理由を、言葉にされなくてもリントは知っていた。剣で斬り合うのが怖いから、遠くから終わらせる技を磨いた。兄はそういう人間だった。

 それが今、剣を抜いて、駆け込んできた。

 柄を握る手が、震えている。

 血の気の引いた顔。強張った口元。

 それでも、足は止まらない。

「――リント」

 震えた声。

「下がってろ」

 剣を振った。

 不格好な剣筋だった。訓練所で見たら教官に怒鳴られるような振り方だった。

 それでも、刃が魔狼の前脚に当たった。

 歯を食いしばって、もう一度振る。

 今度は肩口を浅く裂いた。

 魔狼が咆哮を上げた。

 ルークは退かなかった。後ろに弟がいる。その一点だけが、兄の足を踏みとどまらせているように見えた。

     ※

 もう一体の魔狼が、ルークの背後に回った。

「兄さん後ろ!」

 リントの指が、弦を引き絞っていた。

 矢を放つ。

 狙いより少し逸れた。魔狼の耳を裂いただけ。

 十分じゃない。足りない。

 ルークが振り向きざまに剣を横薙ぎにした。剣先は魔狼の鼻面をかすめ、代わりに魔狼の爪がルークの脇腹を浅く切り裂いた。

 赤い。

 兄の服が、赤くなる。

     ※

 リントの頭の奥で、何かが切れた。

 初級の火魔法、初級の風魔法、手に握る矢、剣、全部。全部引きずり出して、何か一つでも、何か一つでも役に立つものがあれば。

 矢の先に、森で摘んでおいた薬草の束が括りつけてあった。兄に渡すために採ったものだった。油分の多い、よく燃える種類。

 指先を、矢尻に向ける。

「火、矢尻、小さく」

 (fire --arrow --small)

 続けて、矢を番え、風を呼んだ。

「風、矢筋、沿って」

 (wind --along --trajectory)

 弦を引き絞る指。

 息を止めた。

 ——放った。

 炎の矢が、魔狼の顔面に突き刺さった。

 魔狼が悲鳴を上げて退いた。

 もう一体が、獲物を見失った顔でこちらを睨んだ。

     ※

 兄は膝をついていた。脇腹を押さえた手の隙間から、血が垂れていた。それでも剣を手放していなかった。

「――リント」

「喋らなくていい」

「お前、怪我は」

「兄さんより軽い。喋らなくていいから」

 リントは兄の前に立った。

 魔狼二体。残った矢は三本。初級魔法。剣。こんな手札で、どれだけ粘れる。粘って、どうなる。

 それでも、兄の前から動くわけにはいかなかった。

 魔狼が低く唸った。

 跳ぶ。

     ※

 ——そのときだった。

 森の奥から、声が流れてきた。

 速い。

 途方もない速さで、言葉が連なっていた。

「……、対象、……、範囲、森、……、出力、……、脅威度、……」

 リントには、単語の切れ端しか聞き取れなかった。

 声は、柔らかく、女性のものに聞こえた。

 でも、速度が、人のものではなかった。

     ※

 木々がざわめいた。

 葉が一斉に翻った。

 鳥たちが、一斉に飛び立った。

 何か巨大なものが、森の空気を押し分けて、近づいてきていた。

 光。

 白い光が、木々の向こうから降ってきた。

 リントは見上げた。

 白い、巨大な翼。白い、長い首。白い、鱗。金の瞳。

 ドラゴンだった。

     ※

 ドラゴンが魔狼の間に降り立った。

 尾が一振り。

 それだけで、一体目の魔狼が木の幹ごと吹き飛んだ。

 二体目が反射的に跳び退った。

 ドラゴンは首を巡らせ、口を開いた。

 白い光が、膨らんだ。

 音は、なかった。

 光があって、光が晴れたとき、そこに魔狼はいなかった。

 静寂。

     ※

 ドラゴンが、首を下ろした。

 ルークの前で、止まった。

 兄は、血の気の引いた顔でドラゴンを見上げていた。剣を握ったままの手が、小刻みに震えていた。それでも、兄は剣を手放さなかった。

 ドラゴンの金の瞳が、兄を見つめた。

『よく立った』

 頭に響く声だった。耳で聞いたのではない、脳に直接届く声。

『弟をかばい、退かず、剣を抜いた。この森で百年、そういう人間を幾人も見送ってきたが、震えながら立った者は少ない。お前の勇気は、見ていた』

 兄の口が開いて、閉じた。何か言おうとして、言葉にならなかった。

 代わりに、兄の身体から力が抜けた。

 剣が地面に落ちる。

 膝から崩れ落ちる兄を、リントが慌てて支えた。

「兄さん」

 兄は気を失っていた。脇腹の傷は浅い。緊張の糸が、褒められた瞬間に切れたのだ、と直感で分かった。

 リントは兄を地面に横たえ、脇腹を確かめた。傷は確かに深くない。ただ、何かが切れたあとの兄の顔は、ひどく穏やかだった。

     ※

 そして、リントは顔を上げた。

 目の前に、ドラゴンがいた。

 白い、大きな、神話のような生き物が、金の瞳でこちらを見下ろしていた。

 助けてくれた礼を言わなければ、と思った。頭が回らない。呼吸が浅い。それでも、礼は言わなければいけない。十五年、貴族の家で仕込まれた礼儀が、反射で口を動かした。

 口を動かしたつもりだった。

 けれど実際に出た声は、礼儀とは別の場所から、勝手に、出た。

「――ありがとう……y」

 言ってから、リントは凍った。

 一瞬、自分が何を口にしたのか分からなかった。

 y。

 一文字の、呼び方。

 誰に向けて出た音なのか、自分でも説明ができなかった。ただ、何かひどく懐かしい相手に向けて、身体の奥のほうから出た言葉だった。

     ※

 ドラゴンが、動きを止めていた。

 金の瞳が、大きく見開かれていた。首が少しだけ傾き、長い尾が地面を静かに撫で、翼の先が一度、ぴくりと震えた。

 沈黙が、森に降りた。

 鳥の声もしなかった。風の音もしなかった。

 やがて、ドラゴンの姿が、ゆらいだ。

 白い光が、ドラゴンの輪郭を包み、輪郭がゆっくりと小さくなっていった。翼が畳まれ、鱗が肌に溶け、巨大な身体が、人の形へと縮んでいく。

 光が晴れたあとに、一人の少女が立っていた。

 白い長い髪。抜けるように白い肌。金の瞳。身体に纏っているのは、古風な白いローブ。年のころはリントより少し上に見える。

 少女は、リントを見つめていた。瞳孔がわずかに縦に細くなり、すぐに丸く戻った。

 一歩、近づいてきた。

「……あの」

 少女の声は、とても静かだった。

「あの、もしかして……」

 声が、震えていた。

「リン様……ですか?」

 リントは、息が止まった。

 その呼び方を、この世界で聞いたことはなかった。

 十五年、誰にも呼ばれたことのない名前だった。

「……え?」

「あ、いえ、あの、その、」

 少女が、急に慌てた。白い手が胸の前で小さく動き、言葉が追いつかなくなって、でも止まらなくて、

「あの、もし違ってたら本当にごめんなさいなんですけど、さっき、yって、仰いました? 昔、忙しいときに、そう、呼んで、下さって」

 ふっと、頬を染めて、

「あの、わたし、です。ユミルです。百年前に、転生してしまって、森の賢者にされてしまってるんですけど、……あの、ご無沙汰してます」

 ぺこり、と頭を下げた。

 白いドラゴンが、白い少女が、森の守り神が、深く深く、頭を下げた。

 リントの喉の奥から、笑いとも泣き声ともつかない音が漏れた。

「……ユミル」

「はい」

「お前……生きてたのか」

「生きている、と、言っていいのか、分からないんですけれども」

 少女は少し困ったように笑って、

「たぶん、生きてます」

 リントは膝から崩れ落ちそうになった。横たわる兄のすぐ隣に、座り込んだ。

 兄は静かに眠っている。

 遠くで、風が木々を揺らす音が戻ってきた。鳥の声も戻ってきた。

 ユミルが、リントの前に膝をついた。白いローブの裾が、土の上に広がった。

「リン様」

「……なんだ」

「お迎えに、上がるのが、遅くなりました」

 そう言って、もう一度、深く、頭を下げた。

 リントは何も答えられなかった。

 答えるかわりに、手を伸ばして、その白い頭に、そっと触れた。

 百年分、だった。

 百年分の何かが、その一回の接触で伝わった気がした。

 森の奥で、遠い鳥が鳴いた。

 兄の寝息が、静かに続いていた。

 ――物語は、ここから始まる。

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