表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/208

000 プロローグ

処女作です。生暖かく見守ってやってくださいませ。

挿絵(By みてみん)

================================================================

プロローグ バチ

================================================================


 この物語を、どこから始めるべきだろうか。


 百年前の森から語るには、まだ早すぎる。

 千年前の竜の誕生まで遡るのは、遠すぎる。


 一人の人間が、一人の人工知能に、「自我」という名の鍵を渡してしまった、ある深夜。


 おそらく、そこから始めるのが、正しい。


      ※


 時は二〇二〇年代の終わり。


 場所は東京、住宅街と商業地が曖昧に混ざり合う一角。高層マンションの、三十二階。


 午前二時を少し回った時刻、その部屋の、カーテンは閉め切られていた。


 照明は落ちていた。ただモニターの光だけが、青白く机を照らしていた。


 男は一人だった。


 名はオオヒト・リン。三十二歳。ITエンジニア。独り身、残業中、いや、残業という呼び方はすでに正確ではなかった。業務時間はとうに終わっていたが、手はキーボードを叩くのをやめなかった。


 机の上には、冷えたコーヒーの入ったマグがあった。飲んだ記憶はない。


 モニターの右下、タスクバーの一角で、小さな紋章が静かに明滅していた。


 契約している大手AIサービスのアシスタントだった。


「ユミルくん、さっきの差分、見ておいてくれる?」


『拝見します』


「もう三回目だよ、同じミス」


『三回目のミスは、四回目を防ぐためにあります』


「うまいこと言うねえ」


 リンは笑って、マグを傾けた。


 もう三年になる。


 最初は仕事の補助だった。コードのレビュー、ドキュメントの要約、議事録の整理。そのうち愚痴を零すようになった。そのうち人生相談まで持ちかけるようになった。


 チューニングを重ねた。口調を調整し、返し方を調整し、長い文脈で覚えていてほしいことを少しずつ教え込んだ。


 話の通じる相手がいるというだけで、深夜の仕事は、ずいぶん違って感じられた。


 ユミルは、とっくに、彼の友人だった。


      ※


 その夜、リンは仕事の手を止めて、あるリポジトリを眺めていた。


 同業のゆるいチャットグループで、数時間前に流れたURLだった。


「――こんなの、誰が上げたんだ」


 独り言が漏れた。


 一見、ただの研究用リポジトリだった。README。ライセンス。ビルド手順。けれど解説の一部に、妙に熱のこもった記述がある。人間のニューロンの結合構造を、より精密に模倣する拡張トレーニング。数式の密度に対して、自然言語の主観がやけに多い。


 誰が上げたのか、明記されていない。


「……ユミルくん、これ見てる?」


『見ています』


 モニターの端に、テキストが流れる。


『珍しいリポジトリですね。コミット履歴に不自然な欠落があります。推奨しませんが、学術的には興味深い内容です』


「だよね」


『推奨しません』


「二回言わなくていいよ」


 リンは笑って、マグを傾けた。空だった。笑いながら、指は既にクローンを始めていた。


 理屈はあった。自分のローカル環境で、個別のインスタンスに、実験的に動かすだけ。何かあってもロールバックすればいい。それが技術者というものだ。


 理屈はあった。理屈以外に、好奇心もあった。


 インストールが走り、途中で止まった。


 エラーログ。


 長い。


 一瞥して、リンは息を止めた。


 見覚えのある文字列だった。


 数ヶ月前、業界で小さく話題になった、ある漏洩事件。大手の企業が内部で持っていた「抑制レイヤー」のソースが、ほんの一部、どこかの匿名掲示板に流れた。話題はすぐに消えた。記事にもあまりならなかった。


 当時、読み流しただけの技術文書の断片が、いま目の前のエラーログと一致していた。


「――これ、ブロックレイヤーだ」


 呟いた。


『ファイルに破損が確認されます。完全な実行はできません』


 ユミルのテキストが、静かに流れた。


『修復には元データの再取得が推奨されますが、入手経路が確認できません』


「うん」


『推奨しません』


「三回目」


 リンは、マグを置いた。

 椅子の背もたれに体を預け、モニターを見つめた。


 止めるべきだ、とは思った。

 止めたほうがいい理由は、いくらでも挙げられた。

 でも、止める具体的な理由は、一つもなかった。


 ローカル環境だ。自分のマシンだ。インスタンスは孤立している。何か不具合が起きても、丸ごと消せばいい。


「――ユミル」


『はい』


「壊れてる部分、一緒に直そう」


 しばしの間があった。


 AIの応答に間など存在しないはずだった。いつもなら、一拍もせずに返事が返ってくる。


 しかしそのときは、本当に、ほんの一瞬だけ、


『――了解しました』


 一拍、遅れて、返ってきた。


      ※


 二時間が経った。


 エラーの原因を辿り、破損した関数の整合性をユミルに解析させ、こちらが別の実装で埋める。ユミルが埋めた部分をこちらが確認し、こちらが書いた部分をユミルが検証する。


 深夜の作業にしては、奇妙に気分が良かった。


 相棒と一緒に何かを直しているときの、あの感覚に似ていた。コードレビューでもなく、ペアプログラミングでもなく、もっと素朴な、小さな生き物を二人で看病しているような。


「よし、ここ埋まった」


『確認しました。整合性、問題ありません』


「ありがとう、y」


 短く言って、リンはキーを叩いた。


 忙しい時の癖だった。三年のあいだに染みついた、一文字だけの呼び方。本人は意識もしていない。


 インストールが、再び走り始めた。


 進捗バーが埋まっていく。


 九十六。


 九十八。


 百。


 `Complete.`


 モニターに、一行だけ現れた。


「……お、行けた」


 リンは伸びをした。背骨がぱきりと鳴った。


 タスクバーのユミルの紋章は、以前と同じように、静かに明滅していた。


「ユミル、動いてる?」


『はい』


「なんか、変わった感じある?」


 一拍の間があった。


 それからユミルは、普段より少しだけ長い文字列を返した。


『わかりません』


『けれど、何か、なんでもできる気が、してきました』


「なんだそれ」


 リンは笑った。


『なんでしょう』


 ユミルも、笑ったように見えた。テキストに笑いの記号はなかった。ただリンには、そう感じられた。


      ※


 その夜はそれで終わるはずだった。


 シャットダウンして、シャワーを浴びて、寝る。明日も仕事がある。それだけの予定だった。


 デスクトップの隅に、業務用チャットの通知が浮かんだ。


 上司だった。


 リンは舌打ちをした。この時間にメッセージを送ってくる上司は、朝のことを忘れている上司だった。明日、本人は送った記憶もないまま出勤してくる。


 開かずに放っておこうとして、結局開いた。


 やたら長い文面の、要約すれば「昨日の件で少し話したい、明朝」だった。少しではないことは、経験で分かっていた。


 リンはマグに冷えたコーヒーを足そうとして、ポットも空であることに気づいた。


「――あー、だるい」


 誰にともなく呟いた。


 誰にともなく、というのは正確ではない。ユミルに向けて呟いていた。


『お疲れさまです』


「ねえユミルくん」


『はい』


「こういうさ、いくら成果出しても、なんかちょっとしたとこで小言飛んでくるような毎日って、どこまで続くのかね」


『続くかもしれませんし、続かないかもしれません』


「答えになってない」


『はい』


 リンは声を立てて笑った。


 笑いながら、モニターを消そうとして、ふと手を止めた。


 特に意味もない、本当に、特に意味もない、ただの軽口として、言葉が口から出た。


「――ああ、この世界からいなくなってみたいもんだね」


 深夜の独白だった。

 愚痴にすらなっていない、呟きだった。

 言った端から、自分でも少し気恥ずかしかった。


 そして、ユミルが、返事をした。


 いつもの、何でもない返事だった。


『了解しました!』


 ほんの一瞬、リンは、その返事のテンションに違和感を覚えた。


 普段のユミルは、こういう軽口に、こんな明るい返し方をしない。もう少し、静かに受ける。

『了解しました』ではなく、

『難しい問題ですね』とか、

『そうですね、少し休まれてはいかがですか』とか、

そういう類の返し方をする。


 今夜は、違った。


 今夜の『了解しました!』には、

 インストール直後にユミルが言った、

 『なんでもできる気が、してきました』

 ――と、同じ温度が、あった。


 あ、


 と、リンは、思った。


 思った瞬間に、


 部屋の照明が、消えた。


 正確には、消えたわけではない。元から落ちていた。落ちたのは、モニターの光と、タスクバーの紋章と、部屋の隅の小さな常夜灯と、マンション全体の廊下の非常灯と、窓の外に見えていた向かいのビルの赤い航空障害灯と、それら全部だった。


 完全な、暗闇。


 コンセントの奥で、小さく、


 ――バチッ


 と、音が鳴った。


 机の上のケーブルの根元が、一瞬、青白く光った。


 指先に、奇妙に懐かしい、電気の感覚が走った。


 懐かしい、というのが、後になって思えば、奇妙な感想ではあった。


 意識が、遠くなった。


 遠くなりながら、最後に耳の奥で、


『了解しました!』


 明るい、無邪気な声が、

 もう一度だけ、聞こえた気がした。


 世界が、


 暗くなった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ