049 猫と獣人
白蛇の祭壇から王都に戻って三日。
調査結果のまとめは、シオンとミラに任せていた。
エルナが朝、霜花亭の食堂で言った。
「今日、休みにしようか」
「休み?」
「あんたら、疲れてるだろ」
「まあ、そうかも」
「ユミルちゃんも」
「……はい」
「市場、行こう」
「市場?」
「気晴らし」
エルナが麦酒の朝食を流し込んだ。
朝から麦酒。
リントは横で苦笑いした。
※
王都の商業通り。
朝の市場。
人と荷車と声。
ユミルが横でゆっくり歩いていた。
視線が人の流れを追っていた。
エルナが先頭。
リントは並び。
「ユミルちゃん、何か欲しいものある?」
「……特には」
「相変わらずだねぇ」
「……お金、まだ、慣れません」
「うちらが出すから気にすんな」
「……はい」
エルナが鼻歌を歌い始めた。
機嫌が良い時の癖。
※
通りの角を曲がった。
そこでリントの目が止まった。
向こうから歩いてくる男。
普通の旅装。
でも頭から**獣の耳**が生えていた。
茶色い三角の耳。
尻尾も腰の後ろから垂れていた。
「……」
リントが立ち止まった。
ユミルも立ち止まった。
「リン様」
「ん」
「……あの方、人、ですか」
「人……だよな?」
「……耳と尻尾、あります」
「あるな」
エルナが振り向いた。
「ああ、獣人だよ」
「獣人?」
「種族のひとつ」
「……知らなかった」
「隣の国に多い種族」
「隣の国」
「**ヴァナール王国**。獣人と人間が混ざって暮らしてる」
「……」
ユミルは男を見ていた。
男は気にせず市場を抜けていった。
※
「ユミルちゃん、見たことなかった?」
「はい、初めて、です」
「うちの国にも、ちょっとはいるよ」
「ちょっと?」
「商人とか冒険者とか。少数派」
「……驚き、ました」
「驚くよね、最初」
エルナが歩き出した。
「種類、色々いる」
「種類」
「猫獣人、犬獣人、狐獣人、兎獣人、鳥獣人」
「……たくさん、です」
「うちの国だと、猫が一番多いかな」
「猫」
ユミルの足が止まった。
エルナが気づいた。
「ユミルちゃん?」
「猫、獣人……」
「うん」
「……見て、みたい、です」
「猫獣人?」
「はい」
「けど、見分けつかないことも、多いよ」
「見分け?」
「猫獣人、**フードを深く被ると、耳も尻尾も、隠れる**」
「……」
「体格も、人と同じぐらい」
「……普通の人と、区別、つかない、ですか」
「つかない。慣れた人しか分からない」
「……」
ユミルが、少し、考えた。
「なるほど、です」
「今、ここ歩いてる人の中にも、いるかもね」
「……」
ユミルの視線が、一瞬、通りを、走った。
でもすぐに戻した。
「驚き、ました」
リントが横で笑った。
「お前、本物の猫もまだ見てないだろ」
「……はい」
「先に普通の猫だな」
「……はい」
エルナが手を打った。
「裏通り、行こう」
「裏通り?」
「野良猫、いっぱいいる」
「あ」
「ミラの酒場の近く」
※
裏通り。
朝の光が石畳に細く落ちていた。
樽の影、軒下、塀の上。
猫がいた。
茶色の縞、白黒、灰色、三毛。
何匹もいた。
「……」
ユミルが立ち止まった。
目が丸くなっていた。
「**……いっぱい**」
「言っただろ」
「……本当に、いっぱい」
「触ってみる?」
「……いい、ですか」
「いいよ、人懐っこい奴がいる」
エルナが樽の影に手を伸ばした。
茶色の縞猫を抱き上げた。
「ほら」
ユミルに渡した。
ユミルが慎重に両手で受け取った。
※
縞猫がユミルの腕の中で伸びをした。
ふぁ、と欠伸をした。
抱かれ慣れている猫だった。
ユミルが手を止めた。
息を止めた。
「……」
リントは横でそれを見ていた。
ユミルがそっと猫の背を撫でた。
指先が毛並みをたどった。
縞猫がごろごろ鳴いた。
「……」
ユミルの頬が少し上がった。
無意識だった。
**笑っていた**。
でも本人は気づいていない。
エルナが横で静かに笑った。
リントも笑った。
※
「ユミルちゃん」
「はい」
「あんた、猫好きだったんだね」
「……?」
「今、笑ってる」
「……え」
ユミルが自分の頬に触れた。
「……本当、です」
「無意識に笑える、それが好きってこと」
「……」
ユミルはまた猫を見た。
縞猫は目を細めてごろごろ鳴き続けていた。
「……好き、です」
「うん」
「……たぶん、好き、です」
「たぶんじゃないだろ」
「……好き、です」
ユミルがはっきり言った。
声が少しだけ明るかった。
※
リントが横の塀から別の猫を抱き上げた。
白黒のぶち。
人懐こい奴だった。
リントの腕の中で暴れもしなかった。
リントが頬をぶち猫の頭に寄せた。
「……猫、いいよな」
「……はい」
「俺も、好きだ」
「……リン様も、ですか」
「うん」
「……」
ユミルがリントを見た。
「……」
何か言いたそうに見ていた。
でも言わなかった。
ただ頷いた。
「……好き、です」
「うん」
「リン様と、同じ、好き、です」
「……うん」
エルナが横で噴き出した。
「あんたら、可愛いね、本当」
「うるさい」
「お似合い、お似合い」
「うるさい」
ユミルが頬を赤くした。
縞猫がまたごろごろ鳴いた。
※
しばらく三人で猫と過ごした。
ユミルは何匹か撫でた。
人懐こい奴、慣れない奴、警戒する奴。
色々いた。
「猫、性格、違う、です、ね」
「違うね」
「人と、似てる、です」
「うん」
「私、好き、です」
ユミルが三回言った。
合理の鬼が**理由なく**好きだと繰り返していた。
リントはそれを覚えておこうと思った。
※
裏通りから表通りに戻った。
エルナが伸びをした。
「飯、食おう」
「うん」
「ユミルちゃん」
「はい」
「猫、また見に来ようね」
「……はい」
「ファーファに、また」
「ふぁーふぁ?」
「言ってない」
「いえ、何でも、ありません」
ユミルが視線を逸らした。
リントはそれを聞き逃した。
エルナも聞いていなかった。
ユミルだけが言葉を飲み込んだ。
※
商業通りに戻った。
少し歩いた所でまたユミルの足が止まった。
「リン様」
「ん」
「……あの方も」
ユミルが視線で示した。
露店の前。
若い女性が店主と話していた。
頭から黒い猫の耳。
腰からしなやかな尻尾。
「猫獣人、です、か」
「だな」
「……」
ユミルがじっと見ていた。
エルナが横で説明した。
「あの感じだと、ヴァナールから来たての商人かな」
「商人」
「香辛料運ぶ商隊がよく来る」
「……」
「ユミルちゃん、行ってみる?」
「……」
ユミルが首を横に振った。
「いえ、見るだけで、いい、です」
「遠慮しなくて」
「……はい、遠慮じゃ、なくて」
「ん?」
「……眺めて、満足、です」
「ふうん」
「猫、目で、見るだけ、でも、嬉しい、です」
「……あんた、本当、猫好きだね」
「……はい」
ユミルが頷いた。
頬はずっとほんの少しだけ赤かった。
※
昼食は屋台で済ませた。
肉と野菜の挟みパン。
三人で座って食べた。
ユミルが一口。
二口。
三口目で微笑んだ。
「美味しい、です」
エルナが笑った。
「あんた、今日、よく笑ってるね」
「……そう、ですか」
「猫、見てから、ずっと」
「……」
ユミルが頬に触れた。
「……本当、です」
「うん」
「……気づいて、いません、でした」
「無意識ってことは、根っこからってことだ」
「根っこ」
「あんたの根っこに、猫がある」
「……」
ユミルがしばらく黙った。
それから小さく頷いた。
「……ありがとう、ございます」
「何が」
「……根っこ、教えて、もらいました」
「あんた、本当、変わってるね」
「……はい」
エルナが笑った。
リントも笑った。
ユミルも笑った。
三人で笑った。
※
夕方、霜花亭に戻った。
部屋に荷物を置いた。
リントがふと机の引き出しを開けた。
中に**木彫りの猫**が置いてあった。
茶色の小さな彫刻。
ユミルがそれをじっと見ていた、王都に着いた日の市場で。
リントはあの後、**買って**おいた。
ユミルにはまだ渡していなかった。
——今日、渡すか。
リントはそれを手に取った。
廊下に出た。
ユミルの部屋をノックした。
「y」
「はい」
「ちょっと、いいか」
「はい」
ユミルが扉を開けた。
リントが木彫りの猫を差し出した。
「ほら」
「……?」
「最初の日、見てたろ」
「……はい」
「買っといた」
「……」
ユミルが両手でそれを受け取った。
慎重に。
指で彫刻をなぞった。
「……リン様」
「ん」
「……いつ、買ったん、ですか」
「あの日の、後で」
「……」
「お前、ちょっと、名残惜しそうだったから」
「……」
ユミルが木彫りの猫を両手で握った。
胸の前で握った。
何も言わなかった。
少しだけ頬が赤かった。
それから頷いた。
「……ありがとう、ございます」
「うん」
「……大事に、します」
「うん」
「……今日、本物、見ました」
「うん」
「……それでも、これも、好き、です」
「だろうな」
「……はい」
ユミルが笑った。
ほんの少し目元が潤んでいた。
リントはそこに気づいた。
でも言わなかった。
扉を閉めた。
廊下で深く息を吐いた。
——今日、買っておいて、よかった。
そう思った。
※
夜、ユミルは机の上に木彫りの猫を置いた。
ベッドに横になった。
天井を見ていた。
「……根っこ」
呟いた。
エルナの言葉が耳に残っていた。
**根っこに、猫がある**。
ユミルはそう教わった。
——百年、知らなかった。
——王都に来て、初めて、知った。
ユミルは目を閉じた。
机の上の木彫りの猫が、月明かりに照らされていた。
※
――第四十八章、了。




