038 王都の朝
霜花亭の二階、リントの部屋。
窓の外から、音が差し込んできた。
馬の蹄。石畳の車輪。遠くの鐘楼。呼び売りの声。
リントは目を覚まして、少しの間、天井を見ていた。
昨夜の歓迎料理で、少し飲みすぎた。
頭が軽く重かった。
でも体は起きていた。
※
下の階から、人の声が聞こえていた。
食堂はもう開いているらしかった。
リントは起き上がって、窓辺に立った。
窓を開けた。
王都の朝の空気が流れ込んできた。
ヴェスティアの朝とも、カルデアの朝とも、全然違った。
**音が違う**。
音の層が多かった。
近くの屋台の音。
中くらいの距離の馬車の音。
遠くの鐘楼の音。
もっと遠くの、誰かの歌声。
それらが全部、重なって、一つの**王都の朝の音**になっていた。
リントはしばらく、それを聞いていた。
※
扉を叩く音がした。
「リン様」
「y、おはよう」
「おはようございます」
扉を開けると、ユミルが立っていた。
いつものローブ。髪は綺麗に整っていた。
「もう、起きてるのか」
「……早く、起きました」
「眠れたか」
「……はい、よく、眠れました」
「そうか」
「リン様は?」
「まあまあ」
「……頭、痛い、ですか」
「少し」
「水、飲んでください」
ユミルが手に持っていた水差しを差し出した。
「……気が利くな」
「エルナ様から、言いつかりました」
「姉さん、起きてるのか」
「……起きて、います。でも、リン様より、ひどい、状態、です」
「……だろうな」
リントは水を一杯、飲んだ。
頭の奥が少し、すっきりした。
※
一緒に食堂に降りた。
食堂には既に、他の客が数人いた。
商人風の男が二人、朝食を食べていた。
奥の席にエルナが座っていた。
机に突っ伏していた。
「……姉さん、大丈夫か」
「……だめ」
「そうか」
「昨日の、最後の酒が、余計だった」
「だろうな」
「女将、調子に乗せて持ってきた」
「姉さんも乗ったけど」
「……そうだね」
エルナは顔を少しだけ上げた。
目が赤かった。
「朝飯、食うか」
「……少しなら」
女将が厨房から出てきた。
「お、起きたのね、あんたたち」
「おはよう」
「おはようございます」
「朝飯あるよ。エルナちゃんはまだ、いい?」
「……白湯で十分」
「あいよ、白湯ね」
女将は笑いながら、厨房に戻っていった。
※
リントとユミルの前に、朝食が並んだ。
白いパン。目玉焼き。ハーブのスープ。
ユミルが一口、パンを食べた。
「美味しい、です」
「おい、まだ三口じゃないぞ」
「……でも、美味しい」
「早いな、今日」
「王都の、朝は、特別、です」
エルナが机から顔を上げた。
「……何、感動してんの」
「感動、です」
「そう」
「はい、感動」
「……あんた、本当、何でも感動するね」
「はい、何でも」
エルナは白湯をゆっくり飲んでいた。
※
「ねえ、今日、どうする?」
エルナが聞いた。
「どうするって?」
「ギルド行く? それとも町、見物する?」
リントは少し考えた。
「……ユミル、どうしたい」
「……町、見たい、です」
「即答か」
「はい、即答」
「姉さん、見物からでいい?」
「あたしも今日は、動く気力ない」
「じゃあ、見物決定」
※
ユミルが窓の外を見ていた。
「リン様」
「ん」
「……音が、多いですね」
「うん、多い」
「ヴェスティアの、二倍、あります」
「二倍?」
「計算、しました」
「計算するなよ、音」
「音の、種類、数えました」
「……何種類?」
「現在、十七種類、常時、です」
「……」
リントは天井を仰いだ。
ユミルは王都に入って、**既に、環境音の分析を終えていた**。
「姉さん、聞いた?」
「聞いた」
「あんたのユミルちゃん、やっぱり怖いよ」
「怖いよな」
「怖いです」
「……ユミル、謙遜しろ」
「……すみません」
エルナが白湯を飲みながら笑った。
※
朝食の後、リントとユミルは外に出た。
エルナはまだ宿に残った。
「あたし、もう少し休んでから合流する」
「了解」
「どこ、行く予定?」
「まず、近くを歩いてみる」
「迷子になるなよ」
「ユミル、頭に地図入ってるから、大丈夫」
「……そうだった」
エルナは弱く笑った。
※
霜花亭を出ると、小さな通りが大通りに繋がっていた。
大通りに出ると、昨日より人が多かった。
朝の買い物客。仕事に向かう職人。
子どもを連れた母親。荷車を引く商人。
全部の人がそれぞれの朝の目的で動いていた。
「……人、多い、ですね」
「多いな」
「全員、目的、持って、動いています」
「そうだな」
「……それぞれの、朝、が、ある、のですね」
「そうだな」
ユミルは一つ一つの人の顔を見ていた。
見ながら、何かを考えていた。
**ユミルの中で、何が、処理されているのだろう**。
リントはそう思った。
百年、森の中で人を見てこなかったユミル。
今、一度に、こんなに多くの人を見ている。
**嬉しいのか、戸惑っているのか**。
リントには分からなかった。
でも悪くなさそうだった。
※
大通りをしばらく歩いた。
ユミルは屋台の前で、何度か足を止めた。
パン屋、花屋、肉屋、魚屋、陶器屋、本屋。
一軒、一軒、覗き込んだ。
「y、何か欲しいもの、あるか」
「……まだ、見てるだけで、十分、です」
「金、あるぞ、少し」
「……大丈夫、です」
「遠慮するな」
「遠慮、してないです」
「嘘つけ」
「……少し、遠慮、してます」
「正直になってきたな、お前」
「……はい、正直、です」
リントは笑った。
ユミルも少しだけ笑った。
※
昼前、広場に着いた。
広場には噴水があった。
大きな噴水。ヴェスティアのより、もっと大きかった。
水が高く吹き上がっていた。
ユミルは噴水の縁に腰を下ろした。
水をじっと見ていた。
「……綺麗、です」
「綺麗だな」
「水、冷たそう」
「触ってみるか」
「……いいですか」
「いいだろ」
ユミルは手を水に浸した。
「……冷たい、です」
「うん」
「ヴェスティアの噴水、触らなかった、です」
「そうだっけ」
「はい、触らなかった」
「今日は、触ったな」
「はい」
ユミルは水に手を浸したまま、少しの間、動かなかった。
水の流れを感じていた。
※
リントはユミルの隣に座って、広場を見ていた。
王都の広場。人が行き交っていた。
噴水の周りに、何組かの人々が休んでいた。
鳥が噴水の水を、飲みに来ていた。
リントは少し目を閉じた。
**いい場所だな**。
**ユミルと、こういう場所に、来れて、良かった**。
そう思った。
「リン様」
「ん」
「……」
「何」
「……ありがとうございます」
「何が」
「……連れてきて、くれて」
リントはユミルを見た。
ユミルは水の中の手を見たまま、そう言った。
「……俺が連れてきたって言うより、一緒に来たって感じだけど」
「……一緒に、来てくれて」
「うん」
「ありがとう、ございます」
ユミルは顔を上げた。リントを見た。
少しだけ微笑んだ。
リントは何も答えなかった。
代わりに自分の手も水に浸した。
「……冷たいな」
「はい、冷たい」
二人、しばらく、そうしていた。
※
午後、宿に戻ると、エルナがロビーで待っていた。
「お帰り」
「姉さん、元気になったか」
「だいぶ」
「良かった」
「どこ行ってきたの」
「広場、噴水」
「噴水、触った?」
「ユミルが」
「冷たかったでしょ」
「冷たかった、です」
エルナが笑った。
「あたし、明日ギルド連れてくから」
「明日でいいのか」
「今日、あんた体空いてたけど」
「いい、今日は見物で」
「助かる」
エルナはソファに深くもたれかかった。
「……明日、忙しくなるよ」
「忙しい?」
「王都のギルド、色々ある」
「色々」
「色々」
エルナは意味深に笑った。
リントは何か、変なことが始まる予感がした。
でも悪い予感ではなかった。
※
――第三十七章、了。




