031 こっそりはん
戦闘が終わった。
静寂が遺跡に戻った。
※
エルナは剣を鞘に納めたまま、しばらく立っていた。
呼吸を整えていた。肩で息をしていた。
リントも弓を下ろしていた。
でも指は、矢筒の矢羽根の近くから離れなかった。
ユミルだけが静かに立っていた。
呼吸がいつもと同じだった。
※
「……生きてる」
エルナが呟いた。
「生きてるな」
リントも頷いた。
「……三年前と、違った」
「違った」
「今回は、生きてる」
「……」
エルナは剣を納めた手を見た。
手は少し震えていた。
でも止まった。
それからユミルを見た。
「ユミルちゃん、防御、ありがとう」
「いえ」
「あんたの、防御、すごいね」
「……ファイアウォール、です」
「三重、だった」
「はい、三重」
「……普通、一重だよ」
「……」
「紫ランクの魔法使いでも、二重が、限界」
「……そう、ですか」
「あんた、紫、越えてる」
「……」
ユミルは答えなかった。
エルナはそれ以上、聞かなかった。
代わりに遺跡の壁を見た。
※
「奥、見てみる?」
エルナが言った。
「入るのか」
「気配、消えた。今なら、入れる」
「……三年前の、仲間の、手がかり、あるかもしれない」
「うん。同じ、時代の、遺跡、だから」
エルナの声は少し震えていた。
でも前に進んでいた。
「リント君、ユミルちゃん、付き合ってくれる?」
「当然」
「はい」
三人、遺跡の奥に進んだ。
※
奥には小さな部屋があった。
石の祭壇が中央にあった。
壁に古い文字が刻まれていた。
床に何か、**落ちていた**。
エルナが駆け寄った。しゃがんだ。拾い上げた。
「……これ」
「何」
「剣の、柄頭」
エルナの手の中で金属の古びた破片が、鈍く光った。
「誰かの、武器」
「……」
「三年前、ここに、来た人、いる?」
「いるかもしれない」
エルナはその柄頭をじっと見ていた。
それから周りをもう一度、見た。
壁の、落書きのような傷。
床の、擦れた跡。
石の、古い足跡。
「……誰か、いた」
「誰」
「分からない。でも、**冒険者**」
「痕跡から、分かるのか」
「この、壁の傷。剣で、付けた傷。慣れた、人の、傷だ」
エルナは立ち上がった。
壁に触れた。指で傷をなぞった。
何かを思い出そうとしていた。
リントはその姿を見ていた。
**姉さんを、そっとしておこう**。
リントはそう思った。
静かに、壁の他の場所を見て回った。
※
ユミルは壁の一番奥の方で立っていた。
誰も見ていなかった。
エルナは柄頭を握って、古い傷を見ていた。
リントは別の壁の文字を見ていた。
ユミルは奥の壁に手を当てた。
壁の**ある一点**に。
見た目には何もない場所。
でもユミルには何かが見えていた。
**綻び**だった。
世界にできた、小さな穴。
魔物が入ってきた経路。
ユミルの唇が動いた。声は出さなかった。
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壁の一点が、ほんの一瞬だけ青白く光った。
光はすぐに消えた。
ユミルは静かに手を下ろした。
壁は元の古い石壁に戻っていた。
綻びはもう、そこになかった。
※
ユミルは振り返った。
エルナは柄頭を握ったまま、考え事をしていた。
リントは文字を読もうとして、読めずに困っていた。
どちらもユミルの手のことには気づいていなかった。
ユミルは何事もなかった、かのように、二人の方へ歩いていった。
「リン様、エルナ様」
「ん」
「何」
「……遺跡の中、もう、気配、ありません」
「そうか」
「安全です」
「よかった」
ユミルは頷いた。
エルナも頷いた。
リントも頷いた。
誰もユミルの壁のことには気づかなかった。
※
エルナが柄頭を布に包んで、懐にしまった。
「これ、持ち帰る」
「誰の、だろうな」
「分からない。でも、ヴェスティアのギルドで、確認、できるかもしれない」
「冒険者の、武器、か」
「うん、昔の」
エルナは立ち上がった。
「出よう、ここ」
「もう、調査、いいのか」
「いい。今日は、もう、十分」
エルナの声には、**何か**が戻ってきていた。
三年前の重さが少しだけ、軽くなった、ような。
※
遺跡の外に出た。
森の光がまぶしかった。
空気が遺跡の中より軽かった。
エルナが振り返って遺跡を見た。
「……」
「姉さん」
「ん」
「……斬れた、って」
「うん、斬れた」
「三年前と、違うな」
「違う」
「姉さん、強くなったな」
エルナは少し笑った。
「あんたたちが、いたからだよ」
「姉さん一人で、斬った」
「……でも、背中に、あんたたちが、いた」
エルナはそう言って、遺跡に背を向けた。
「帰ろう、ヴェスティアに」
「うん」
「はい」
三人、山道を降り始めた。
※
ユミルは三人の一番後ろを歩いていた。
一度だけ、遺跡の方を振り返った。
壁の一点をもう一度、確かめるように。
綻びはもう、そこになかった。
ユミルは静かに頷いた。
何も言わずに、前に向き直った。
※
山道の下り道は、登り道より早かった。
三人、無言で歩いていた。
エルナは考え事をしていた。
リントはユミルとエルナの両方を気にしていた。
ユミルは前を見て歩いていた。
でも一度だけ、自分の右手を見た。
手は**冷たく**なっていた。
でも誰にも見せなかった。
※
ヴェスティアに着いたのは夕方だった。
三人、宿に戻って夕食を食べた。
エルナはいつもより口数が少なかった。
ユミルはいつもと同じだった。
リントは二人の両方を見ていた。
**今日、色々、あったな**。
リントはそう思った。
気配の見えない敵。
エルナの斬れた瞬間。
ユミルの「今は、逃がします」。
どれも重かった。
そして——
リントは気づいていなかった。
ユミルが壁に手を当てていたことを。
読者だけがそれを知っていた。
※
食事の後、エルナが言った。
「明日、出発しよう」
「カルデアへ?」
「うん。ヴェスティアは、もう、いい」
「もう、いいのか」
「うん。探すもの、見つけた」
エルナは懐の柄頭を、そっと、触った。
「ありがとな、ヴェスティア」
それは、町に向けた言葉のようだった。
「明日、朝、出る」
「了解」
「はい」
三人、それぞれの部屋に上がった。
※
リントは部屋の窓から、ヴェスティアの夜を見下ろした。
古い町の、古い石畳。
明日、ここを出る。
次はカルデア。そして王都。
**旅は、続く**。
リントは窓を閉めた。
ベッドに横になった。
目を閉じた。
明日から、またカルデアへの道だった。
※
――第三十章、了。




