030 遺跡内部
三人、背中合わせに立っていた。
剣と、弓と、ユミルの掌。
遺跡の空気がぴりぴりと張り詰めていた。
「……来ます」
ユミルが小さく言った。
「どこから」
「奥の、石壁」
エルナがそちらを向いた。
リントもそちらを向いた。
奥の石壁は特に、動いていなかった。
ただ静かにそこにあった。
でもユミルがそう言うなら、そうなのだ。
※
——空気が歪んだ。
石壁の一部が、霞のように揺らいだ。
揺らぎの中から、何かが染み出してきた。
姿は見えなかった。
でも、気配だけが濃く、こちらに近づいてきた。
エルナが息を止めた。
「……これだ」
声が震えていた。
「三年前と、同じ」
リントはユミルを見た。
ユミルの表情はいつもの無表情だった。
でも目の奥に、速度があった。
解析している。
リントはそう感じた。
※
気配が三歩、こちらに近づいた。
エルナが剣を構えた。
「姉さん、来るなら、一番、前」
「あたしが、受ける」
「相手、見えないぞ」
「見えなくても、受ける」
エルナの声は震えていた。
でも剣は震えていなかった。
柄を握る指の関節が白かった。
リントはその姿を見ていた。
姉さん、逃げない、って、決めた。
本当に逃げないつもりだった。
※
気配が跳んだ。エルナに向かって。
エルナが剣を振った。
——空を切った。
「届かない!」
エルナが叫んだ。
気配は見えないまま、エルナの真横に回り込んでいた。
リントの指が離れた。
矢がエルナの横を抜けていった。
当たったかどうか、分からなかった。
でも気配が一瞬、止まった。
見えるのか、見えないのか。
それすら分からなかった。
※
「ファイアウォール、展開、三人、三重」
(exec.firewall --direction=all --layer=3)
ユミルの声。
透明な膜が三つ、三人の周りに立ち上がった。
一重目、二重目、三重目。
エルナの目が見開かれた。
「……三重?」
気配が膜にぶつかった。
一重目が歪んだ。続いて二重目。
三重目は辛うじて耐えた。
攻撃がきつい。
リントはそう感じた。
ハードボアの時より比べものにならない。
※
エルナが剣を構え直した。
「ユミルちゃん、防御、持つか」
「……持ちます」
「何秒」
「……一分」
「一分で、何する」
「……見極めます」
「何を」
「相手の、攻撃パターン」
「……」
エルナがユミルを見た。
ユミルは見えない気配をじっと見ていた。
目が速かった。
気配がもう一度、膜にぶつかった。
二重目までが歪んだ。
リントの矢が、気配の予想位置に飛んだ。
でも気配はそこにいなかった。
速い。
でもユミルは見ていた。
「リン様」
「ん」
「次、左」
「了解」
リントの指が左の位置に合わせた。
気配が膜の左に回り込む前に——
リントの矢が先に、そこに行った。
矢が空中で、何かにぶつかった。
血の飛沫は見えなかった。
でも一瞬、気配が止まった。
「当たった」
エルナが叫んだ。
「ユミル、続けろ」
「はい」
※
ユミルの唇が動いた。
声には出さなかった。
でも何かを計算していた。
視線が空中を追った。
右、左、上、下、後ろ、前。
順に、順に、視線が流れた。
解析、続行。
そしてユミルが静かに言った。
「リン様」
「ん」
「次、上から、来ます」
「上?」
「上」
リントは弓を上に向けた。
指が弦を引き絞った。息を止めた。
——放った。
気配が上空で止まった。
矢が何かに刺さった、ような感触。
気配が揺らいだ。
「エルナ様、右」
ユミルが即座に言った。
エルナが剣を右に振った。
剣が空中で、重いものにぶつかった。
銀光が弧を描いた。
気配が大きくのけぞった。
「……!」
エルナの目が見開かれた。
「斬れた!」
初めて、手応えがあった。
※
気配が後ろに下がった。
三人の周りを、警戒するように回り始めた。
「逃げよう、としてる」
エルナが呟いた。
「仕留めるか」
「……」
エルナは剣を構え直した。
「仕留める」
「姉さん」
「仕留める。三年前の、借り、返す」
エルナが踏み込もうとした。
「エルナ様」
ユミルが止めた。
「……今は、逃がします」
エルナが止まった。
「え?」
「今は、逃がします」
「……何で」
「……」
ユミルは答えなかった。
ただ気配が森の方へ逃げていくのを見ていた。
気配はやがて消えた。
遺跡の空気が元に戻った。
静寂。
※
リントは弓を下ろした。
そして、ふと気づいた。
……そういえば、ブレス、使わなかったな。
峠では使ったのに、ここでは使わなかった。
ユミルなら、一撃で仕留められたはずだ。
なのに、使わなかった。
なぜだろう。
……今度、聞いてみよう。
リントは、それを心の中にしまった。
※
エルナがユミルを見た。
「ユミルちゃん」
「はい」
「……今の、仕留められた」
「……はい」
「なんで、止めた」
「……」
ユミルは少し黙った。
それから小さく言った。
「……今は、逃がした方が、いいです」
「理由」
「……説明、できません」
「……」
エルナはしばらくユミルを見ていた。
見ていたが、それ以上、追及しなかった。
「……分かった」
エルナは剣を鞘に納めた。
「あんたが、そう言うなら、そうしよう」
「……ありがとう、ございます」
「礼、言うなよ」
「はい」
エルナは深く息を吐いた。
「……あたし、正直、もう、斬れる気が、した」
「姉さん」
リントが横から言った。
「今日、姉さん、斬った、だろ」
「うん、斬った」
「三年前、届かなかったのが、今日、届いた」
「……うん」
「それは、進歩、だよ」
「……」
エルナは黙って頷いた。
目が少しだけ潤んでいた。
でも涙は流れなかった。
※
――第二十九章、了。




