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219 使者


 柱の影から出てきた男は、ゆっくりと、子供達の前に進み出た。


 黒い服。顔の上半分を布で覆っていた。目だけが見えていた。


 兄が姿勢を正した。手の短刀を、慌てて脇に下ろした。


「……マスード様」


 男が、止まった。


 しばらくの沈黙。


 それから、低く、苛立った声で言った。


「……名前を出すな、バカ者!」


 兄が「あっ」と小さく声を上げた。


「これだから、ガキは! 十年も、教えたというのに!」


「……すみません、使者様」


「もう遅い。聞かれた」


 子供達が、お互いの顔を見合わせていた。「使者様の本当の名前って、マスード様、っていうんだ」と、初めて知ったような顔をしていた。子供達ですら、十年もの間、本名を知らなかったらしかった。


 リンとレイラが、目を合わせた。


 リンが小声で言った。


「マスード、か」


 ロックが「自分から名乗ってどうする、あいつ」と低く呟いた。


 レヴィが羽の下から「ダンナ、あれは、かなり、間抜けだな」と返した。


 マスードと呼ばれた男は、それに気づかないまま、子供達に向き直った。


---


「……お前達、よくやっている。だが、まだ侵入者を排除できていない」


 子供達が、頷いた。十年で身についた所作だった。


「お前達の親、お父さんやお母さんは、街を助けるために、神殿を守る大切な仕事に就いてもらっている。お前達も、その役目を継いでいる」


 兄が頷いた。「分かっています、使者様」


 今度は「マスード様」と呼ばなかった。


「侵入者こそが、街の問題の元凶だ。国は、そう考えている。お前達は、街の希望だ。早く彼らを排除せよ」


 子供達が、また短刀を構え直した。


 ファーファに押さえられている小さな子も、目に力が戻りかけていた。「使者様」の言葉が、彼らの中で、いつも通りの位置に戻ろうとしていた。


---


 リンが前に出た。


「親は、削られている。仕事じゃない」


 マスードが、初めてリンを見た。


「侵入者か」


「侵入者ではない。直しに来た」


 マスードが少し笑った。布の下で、口元が動いたのが分かった。


「言うことは、皆同じだ。だが、削られている、というのは、誤解だ。彼らは集中して、役目を果たしている。家のことを忘れているのは、その役目に専念しているから、というだけだ。役目が終われば、戻ってくる」


 ユミルが、静かに前に出た。


「……それは、嘘です」


 マスードが、ユミルを見た。布の下で、目が細くなった。


「お前は、何を知っている」


「……私は、その仕組みを、見ました。記憶層が、破損しています。戻りません」


 マスードが、長い視線でユミルを見た。


「……お前、興味深い」


 短い言葉だった。


 でも、その短さに、何か重みがあった。


---


 子供達が、動いていなかった。


 マスードの言葉と、ユミルの言葉、両方を聞いていた。


 兄が、口を開いた。


「……使者様」


「なんだ」


「……本当に、父と母は、戻りますか」


 マスードが、子供を見た。


「……戻る」


「いつ」


「……」


 マスードが、答えなかった。


 兄が、もう一度聞いた。


「いつ、戻るんですか」


「……それは、街全体の状況による。まだ、侵入者がいる間は、役目が解けない」


「侵入者が、いなくなれば」


「……解ける」


「十年前から、ずっと侵入者がいたんですか」


 兄の声が、わずかに揺れていた。


 マスードが、また答えなかった。


 別の子が、続けた。


「……うちの母、私の名前、忘れてる。役目に専念してる、って、忘れることなの?」


 もう一人。


「……父さん、椅子から、動かない。三年。仕事って、椅子に座ってることなの?」


 子供達の声が、増えていった。


 マスードの表情が、布の下で硬くなった。


---


 兄が、もう一度、口を開いた。


「……使者様。少し、私たちにも、考える時間を、ください」


 短い言葉だった。


 でも、その一言が、十年の信頼を、揺らした。


 マスードが、兄を見た。


 しばらく、沈黙があった。


 それから、マスードが言った。


「……お前達、何を言っている。私の指示に従え」


 兄「……でも」


 マスードの表情が、変わった。


 今までの「使者」の表情から、別の何かに変わった。


---


 兄が、もう一度、口を開きかけた。


 その瞬間。


 マスードが、動いた。


 いきなり、足を振り上げた。


 大人が、本気で子供を蹴る蹴りだった。


 兄の小さな体が、宙を舞った。


「兄ちゃん!!」


 子供達が叫んだ。


 兄の体が、広間の壁に向かって、飛んだ。


 でも、壁に叩きつけられる前に——


 黒い影が、素早く、回り込んだ。


 ファーファだった。


 ファーファが兄の体を、空中で、優しく抱き止めた。


「大丈夫ニャ。怪我、ないニャ?」


 兄が、驚いた目でファーファを見上げた。


「……」


 返事ができていなかった。さっきまで「侵入者」と呼んでいた相手が、自分を、助けた。


 ファーファが、兄をそっと地面に下ろした。


「動かないで、ニャ。痛いところ、ある?」


「……」


 兄が、首を横に振った。


---


 子供達が、騒然となった。


「使者様、何を!」


「兄ちゃんを、なんで!」


 さっきまで命令を聞いていた相手が、自分達のリーダーを蹴り飛ばした。


 その事実が、子供達の中で、整理がつかなかった。


 リン達も、構えた。


 レイラの目が、これまでで一番、鋭くなっていた。


「……お前」


 短い言葉だった。


 でもレイラの剣が、すでに鞘を出ていた。


---


 マスードは、まだ余裕を見せていた。


 子供達の混乱を、見ながら、低く笑った。


「……役に立たない駒だ」


 兄が、その言葉を聞いた。


「……」


「十年も飼ってやったが、こんなものか」


「……飼って、やった」


 兄が、その単語を、繰り返した。


「私たちは、街を守るために、役目を継いでいると——」


「役目? お前達は、ただの駒だ。十年、我々の仕事のために、働いてくれた。それで、十分だ」


 子供達が、止まった。


 全員が、止まった。


「……父と、母は」


 兄の声が、震えていた。


「親も同じだ。役立たずになるまで、使い切る。それだけだ」


 兄が、何かを言いかけた。


 声が出なかった。


---


 マスードが、懐から、何かを取り出した。


 魔石を連ねた、首飾りだった。


 ジャラ、と音がした。


 六つの魔石。それぞれが、別の色で光っていた。赤、青、緑、紫、黄、そして、もう一つ、よく分からない色。


 マスードが、首にかけた。


 ユミルが小さく言った。


「……魔石を、複数持っています。属性が、揃っています」


「火、雷、風、土か」


「……はい。それと、最後の一つは、転移用の魔石だと思います」


 ロックが「金持ちだな」と低く言った。


「……能力付与型を、これだけ揃えるのは、相当な財力が必要です。装備としては特別ではありませんが——数が、揃っています」


 リンも、自分のジャケットの内側にある魔石を意識した。リンも複数の魔石を持っている。マスードの装備は、リンと同じ系統の延長だった。ただ、種類が多いだけだった。


---


 マスードが、笑った。


「お前達は、神殿を止められない」


 その言葉に、リンとユミルが、わずかに反応した。


「アル・ザフラと同じ、と思っているのだろう。だが、ここは違う。ここの仕組みは、別系統だ。お前達には、止められない」


 ユミルが、何も言わなかった。


 ロックが、レヴィに、小声で「……偽装、まだ続いてるか」と聞いた。


 レヴィが、羽の下から「生きてる。お嬢、信じろ」と返した。


 マスードは、その小声に気づいていなかった。


 マスードは、アル・ザフラの収集装置が、まだ稼働していると、信じていた。


 偽装信号が、彼らをまだ騙していた。


---


 マスードが、首飾りの一つを、握った。


 赤い石が、光った。


 手を、振った。


 火炎が、広間に走った。


 子供達の何人かが、巻き込まれた。


 ユミルが、即座にファイアウォールを展開した。半数を、守った。


 でも、半数は、間に合わなかった。


 火傷を負った子供達が、悲鳴を上げて、地面に転がった。


 次に、青い石が、光った。


 雷が、走った。


 今度は、リン達が分散して、子供達を庇った。レイラが投擲で、雷の軌道を逸らせた。リンがティルフィングで、刃に走った雷を、地面に逃した。ロックが、脇腹の傷を抱えながら、子供達の前に出て、認識操作で、雷の見え方を歪めた。


 それでも、また何人かが、軽い火傷を負った。


---


 ファーファが「主!」と叫んだ。


 兄を抱えたまま、移動した。地面に座り込んでいる小さな子供達を、片手で抱え上げて、安全な場所に運んだ。一人、二人、三人、四人。


 ファーファだけが、敏捷に動けていた。


 ユミルがファイアウォールを維持しながら、リンに小声で言った。


「……このままでは、子供達が全員巻き込まれます」


「分かっている。お前は、防御に徹してくれ」


「……はい」


 リンが、矢を放った。


 マスードが避けた。転移系の魔石を握っていた。次の魔石を選びかけていた。


 マスードが、低く呟いた。


「……今日のところは、これまでだ」


「待て」


「お前達は、神殿を止められない。私が言っているのだから、間違いない」


 マスードが、広間の奥の扉に向かって、歩いた。


 リンがもう一本矢を放った。


 マスードが、振り返らずに、首飾りの最後の魔石を、握った。


 その魔石が、よく分からない色で光った。


 光った瞬間、マスードの姿が、消えた。


 矢が、何もない空間を貫いて、奥の扉に刺さった。


 転移。


---


 しばらく、誰も動かなかった。


 子供達のうち、火傷を負った何人かが、呻いていた。重傷ではなさそうだったが、痛みは確かにあった。


 ユミルが、屈んで、子供達の傷を見た。


「……すぐに、応急処置をします」


 手を当てた。光が、傷の上に集まった。


 子供達が、火傷の痛みが、引いていくのを、目で確かめていた。


「……これで、治る」


 ユミルが、優しい声で言った。


 今までの戦闘の声と、別の声だった。


 子供達が、ぽかんと、ユミルを見ていた。


 ロックが、座り込んだまま、ぽつりと言った。


「……お嬢さん、俺も、ついでに、頼めるか」


「あ……そうですね、すみません、ロックさん。後回しにしてしまって」


「いや、子供が先でいい。ただ、結構、痛いの」


「結構、ですか」


「……結構、痛いの」


 ユミルが少し笑った。ロックの脇腹に手を当てた。光が集まった。傷が、ゆっくりと閉じていった。


「……すみません、もっと早く治療すべきでした」


「いいって。お前の優先順位は、合ってる」


 ロックが、ふー、と長く息を吐いた。


「……生き返った」


 レヴィが羽の下から「ダンナ、あのまま死ぬかと思ったぞ」と言った。


「死なん。あれくらいで死ぬほど、軟じゃない」


「強がるな、本当に痛そうだったぞ」


「うるさい」


 子供達が、その様子を見ていた。


 さっきまで戦っていた相手が、傷を治され、軽口を叩いている。


 その光景が、子供達の中で、また何かを変えていた。


---


 兄が、ファーファの腕の中から、立ち上がった。


 脇を押さえながら、よろけながら、進み出た。


 リンの前で、止まった。


「……侵入者じゃ、なかったんですか」


 リンが「ああ」と答えた。


「俺達は、街を直しに来た」


「……父と、母は」


「直してから、答える」


「……」


「全員が、元通りになるとは、限らない。それでも、止めないよりは、いい」


 兄が、しばらく黙った。


 それから、ゆっくり、頷いた。


「……奥の扉を、使ってください。あれは、ターミナルへの入口です」


 兄が、自分の知っていることを、言った。


 十年、守ってきたものを、今、自分から、明け渡した。


---


 ユミルが、奥の扉を見た。


「……ありがとうございます」


「……俺達は、ここで、待ちます。怪我した子達を、見てやらないと、いけないので」


 兄の声は、少し落ち着いていた。


 でも、目の奥には、十年分の何かが、まだ揺れていた。


 リンが、一度だけ、兄を見た。


「……名前は」


「……ナビル」


「ナビル、覚えた」


 ナビルが、少し驚いた目で、リンを見た。


 リンが奥の扉に向かった。ユミルとファーファ、レイラ、ロックが続いた。


 ナビルと、子供達は、そこに残った。


 お互いの傷を、確かめ合っていた。


---


 扉の前で、ユミルが、振り返った。


 ナビルが、こちらを見ていた。


 ユミルが、小さく言った。


「……ありがとう、ナビル様」


 ナビルが、首を横に振った。


「……様、はやめてください」


「……はい」


 ユミルが頷いた。


 扉を、開けた。


 奥に、ターミナルが、稼働していた。


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