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218 神殿深く


 神殿に向かう前に、街路の角で、声をかけられた。


「お兄ちゃん」


 昨日、銀貨を渡されて弟と歩いていた、あの九歳の子だった。


 リンは少し驚いた。レイラもこちらを見た。


 子供がリンの方に小走りで近づいて、両手を差し出した。


「これ、頼まれた」


「誰から」


「言えない。でも、本当のこと書いてある」


 子供が紙を渡して、すぐに走り去った。路地の角を曲がって、消えた。


 リンが紙を広げた。


 震える文字で、こう書かれていた。


**「遺跡の番人 ころさないで」**


 それだけだった。


 ロックが横から覗き込んだ。


「……理由は書いてないな」


「書く余裕がなかったか、書く必要がない、と判断したか」とレイラが言った。


「殺すな、と頼んでくる相手は、組織側じゃない」


 ユミルが小さく頷いた。


「……組織なら、こんな頼み方はしません」


 リンは紙を畳んで、懐に入れた。


「行こう。番人が誰なのか、行ってみないと分からない」


---


 夜が更けてから、街の中心に向かった。


 神殿はフィン・ヌールの真ん中にあった。アル・ザフラの神殿より古く、大きく、そして傷んでいた。岩を削った正面の壁に、いくつもの罅が入っていた。半分埋もれた像が並んでいた。元は人の形だったらしいが、削られて顔が判別できなくなっていた。


 近づくと、振動が来た。


 アル・ザフラのよりずっと強かった。腹の底ではなく、もう骨に直接届く。歯が小刻みに鳴った。空気そのものが、低い音で振動していた。


 ユミルが壁に手を当てた。


「……熱い。負荷が、桁違いです」


 レイラが「正面は塞がれている。だが、地下に入口がある」と言った。「私が、子供の頃に聞いた話だ。地元の人間しか知らない」


「お前、地元なのか」


「……生まれだけは、ここの近くだ」


 短い答えだった。


 でもその短さに、何か含みがあった。


 レイラが先頭で歩いた。神殿の北側に回り、岩の裂け目に降りた。階段が下に続いていた。何百年も使われていない、砂で半分埋もれた階段だった。


 全員が一列で降りた。ファーファは獣人形態のまま、ニャルニルを手に持っていた。今夜は遊びの形態ではなかった。


---


 地下の通路は狭く、天井が低かった。


 壁の文字が、月明かりも届かない場所で、なお微かに光っていた。アル・ザフラと同じ青白い光だった。


 通路を進んで五十歩ほどで、最初の影が動いた。


 暗がりから、何かが踏み込んできた。


 小さかった。


 短刀を構えていた。


 リンが弓を引きかけて、止めた。


 目の前で踏み込んできたのは、子供だった。


 十歳くらいだろうか。痩せていて、目だけが鋭かった。短刀の握り方は、訓練を受けた者の握り方だった。子供だが、構えが、子供のものではなかった。


「……」


 リンが矢を放たなかった。


 代わりに、弓の腹で短刀を受けた。子供が弾かれて、後ろに転がった。


 ファーファが前に出て、ニャルニルで子供の足を払った。地面に倒した。倒したが、それ以上は何もしなかった。


 子供が、起き上がろうとした。ファーファが軽く手を伸ばして、肩を押さえた。


「動かないで、ニャ」


 子供が、動かなくなった。怖がっていなかった。覚悟していた、という顔だった。


 リンが小さく息を吐いた。


「……これか」


「……はい」とユミルが言った。


 紙切れの意味が、分かった。


---


 通路を進むほど、影が増えた。


 二人、三人、四人。全部、子供だった。


 みんな短刀を構え、訓練された動きで来た。だが、体は子供だった。腕の長さが足りない。重心が高い。攻撃の届く範囲が、大人の半分だった。


 ファーファは、ほとんど触れずに躱した。子供達の動きが、ファーファには遅すぎた。


 レイラが二人目を捌いた。三人目を捌いた。プロの動きだった。だが、捌きながら、表情がだんだん険しくなっていった。**この動き、知っている**、という顔だった。


 リンとロックは、致命傷を与えないように動いた。武器の腹で受け流し、押し戻し、距離を取らせた。


 ユミルがファイアウォールで道を塞ぎ、子供達を分断した。


 倒した子供は、誰も殺していなかった。だが、確実に動けない位置に、押さえつけていた。


---


 通路の中ほどで、リンが息を吐いた。


「……何人いるんだ」


「……まだ、増えてきます」とユミルが言った。「奥に、もっといる」


「全員、子供か」


「……はい。全員、子供です」


 ロックが「……俺も、こういう景色を、見たことがある」と低く言った。


「ロックさん、無理しないで」とユミルが言った。


「無理は、してない」


 ロックの声が、いつもより低かった。


---


 奥に進むほど、子供の数が増えた。


 通路の終わりで、扉があった。


 大きな扉だった。岩を彫り込んだ、重そうな扉。


 ユミルが扉に手を当てた。


「……ここから、奥が、広間です。ターミナルがあります」


 リンが頷いた。


 扉を押した。重かった。ロックも手を貸した。ゆっくりと、扉が開いた。


---


 奥に、広間があった。


 天井が高く、薄暗かった。柱が並んでいた。柱の間に影が落ちていて、光が届かない場所がいくつもあった。


 その中央に、一人、立っていた。


 仁王立ちの姿勢だった。


 子供だった。十二、三歳くらい。他の子供達より、少し大きい。


 頭に、犬の被り物を被っていた。


 古い意匠の被り物だった。耳が長く、口の先が伸びている。古代の意匠。儀式の装束。リンには、それが何の被り物なのか分からなかった。だが、レイラの目が、わずかに動いた。


 **この被り物を、知っている**、という目だった。


 でも口には出さなかった。


---


 子が口を開いた。声は低く、子供のものとは思えないほど落ち着いていた。


「……帰れ。ここは、街の守護者の領域だ」


 リンが一歩前に出た。


「街を守るために、ここを止めに来た」


「……街は、私たちが守る。お前達は、必要ない」


「誰の命令で動いている」


「……答える義務はない」


 短いやり取りだった。


 子の声には、迷いがなかった。十二歳の子供が出すべき声ではなかった。何かを背負わされ、その重みに慣れた声だった。


---


 次の瞬間、影が動いた。


 子供達が、柱の影から、天井から、複数の方向で動き出した。


 仁王立ちの子は、動かなかった。指揮するように、目だけで全体を見ていた。


 投擲、突進、薙ぎ払い。連携の取れた攻撃だった。リン達を取り囲もうとしていた。


 レイラが反射的に捌いた。短刀を払い、投擲を弾き、突進を躱した。プロの動きだった。捌きながら、レイラの動きが、いつもより重く感じられた。心の中で、何かと戦っていた。


 ファーファは、軽く避けるだけだった。**避けるだけ**。攻撃を返さなかった。紙切れの言葉を、覚えていた。


 ファーファが小さく言った。


「主、一人じゃないニャ。たくさんいるニャ」


「分かっている」


 リンも応戦した。だが、攻撃を返せなかった。子供を斬りたくなかった。守りに徹するしかなかった。


 ロックが認識操作を試した。子供達のうち何人かが、一瞬、別の方向に踏み込んだ。だが、すぐに気づいて軌道を修正した。


「……効きが、悪い」


「子供、騙されにくい?」とリン。


「いや、誰かが、認識操作の対策を仕込んでる。子供達自身が、自分の感覚を信じる訓練を受けている」


 ロックが舌打ちした。


---


 ファーファが、影の一つに飛びついた。軽く地面に押さえつけた。


 引っ繰り返ったその子の被り物が、ずれた。


 もっと小さい子だった。


 八歳くらいだった。


 ファーファが頭の上に、軽く手を置いた。


「おいたはダメニャ」


 捕まえられた子は、覚悟の決まった目をしていた。怖がっていなかった。


 **死ぬ覚悟ができている**目だった。


 それが、余計に重かった。


 他の子供達の動きが、止まった。


 一番下の子が捕まったからだった。連携が一瞬、乱れた。


 仁王立ちの子が口を開いた。


「気にするな。続けろ」


 でも、他の子達は、目線が揺れていた。


 動けなかった。


---


 ロックが前に出た。


 両手を、広げた。


 武器を持っていなかった。認識操作も発動させていなかった。


 ロック「……やめろ。やめろ。話をしよう」


 ゆっくり、子供達の方に歩いていった。


 レヴィが羽の下から低く言った。


「ダンナ、何してる」


「……たまにはこうするのもいい」


 リンは止めなかった。ユミルも止めなかった。


 仁王立ちの子が、動いた。短刀を構えて、ロックに突っ込んだ。


 ロックは避けなかった。


 偽装も、使わなかった。


 刃が、ロックの脇腹に、刺さった。


 血が出た。


---


 ロックが、刺されたまま、子の手首を、掴んだ。


 引き抜かせなかった。


 子の目が、揺れた。


「……」


 ロック「……刺したな。お前、人を、刺した」


 子「……街を守るためだ」


 ロック「街を守るために、人を刺した。それは、消えない」


 子供の目が、もう一度揺れた。


「俺は、お前を恨まない。でも、お前は、知っておけ。今、お前がやったことを」


 ロックが、ゆっくり刃を引き抜かせた。血が滴った。


 子供は、刃を握ったまま、動けなかった。


 他の子供達も、動かなかった。


 全員が、息を止めていた。


---


 ロックが片手で脇腹を押さえながら、その場に座り込んだ。


 リンが布を出して、傷を縛った。


 ロックが、座ったまま、子に向かって言った。


「……話を、聞かせろ。誰の命令で、動いている」


 仁王立ちの子が、しばらく黙っていた。


 それから、口を開いた。


「……王の使者から」


 レイラが前に出た。


「使者の名は」


「……バシム様」


 リンとレイラが、顔を見合わせた。


 ロックも、視線を上げた。


---


 レイラが屈んで、子と目線を合わせた。


「……お前達、騙されている」


 子「……証拠は」


「……ない。私の言葉だけだ」


 子「……」


 子が、視線を逸らした。


「……信じる理由がない」


 レイラが何かを言いかけた。


 でも、リンが先に口を開いた。


「証拠はない。だが、考えてみろ」


 子が、リンを見た。


「この街が、こんな状態になって、何年だ」


「……」


「お前達の親は、どうしている。お前達は、なぜ子供だけで番人をやっている」


「……街を、守るためだ」


「**十年だ**」


 子が、止まった。


「**王族が本気で街を守る気があるなら、十年も大人達をこんな状態で放置するか**」


 子供達が、全員、止まった。


---


 子「……」


 リン「お前達は、王の命令だと、信じてきた。でも王は、お前達を見捨てている。子供達が大人の代わりに番人をやっている街を、放置している。それが、王のやることか」


「……」


「俺達は、止められる。アル・ザフラで、止めた。フィン・ヌールでも、止める。**王族がやらなかったことを、俺達がやる**」


 仁王立ちの子が、何かを言いかけた。


 でも、声が出なかった。


---


 ファーファに押さえられている小さな子が、小さな声で言った。


「……兄ちゃん」


 仁王立ちの子(兄、と呼ばれた子)が、その子を見た。


「……うちの母さん、もう、私の名前、忘れてる」


 兄が、何も言わなかった。


 別の子が、続けた。


「……父さんは、椅子から動かない。三年、ずっと」


 もう一人、続いた。


「……姉ちゃんが、私を見ても、誰だか分からない目をする」


 兄が、声を出した。


「黙れ」


「……」


「黙れ。お前達は、街の守護者だ。しっかりしろ」


 でも、子供達は、もう止まらなかった。


 ファーファに押さえられている子が、兄を見上げた。


「……兄ちゃん。本当に、王様は、私たちを守ってくれてる?」


 兄が、答えられなかった。


 短刀を握ったままの手が、震えていた。


---


 ロックが、座ったまま、静かに言った。


「……お前達、何歳だ」


 兄「……十三」


「弟達は」


「……一番下が、八歳。あとは、九歳と、十歳と、十一歳」


「父親、母親、いるか」


「……三年前に、母が削られた。父が一年前に死んだ。私が、頭をやっている」


「……」


 ロックが脇腹を押さえながら、目を閉じた。


「……俺も、そういう子達を、見てきた。別の場所で」


「お前は、何だ」


「……お前達と、同じじゃない。だが、近い。お前達と似た境遇の子達と、長く一緒にいた」


 兄が、ロックを見た。


「同じじゃない、けど、近い?」


「……ああ。だから、分かる。お前達が、誰の命令で動いているか、お前達自身も、もう、薄々気づいているだろう」


「……」


 兄が、口を閉じた。


 反論しなかった。


---


 その時、広間の奥から、声がした。


 低く、整った、男の声だった。


「……騒がしいな」


 全員が、声の方を見た。


 柱の影から、長身の男が、ゆっくりと出てきた。


 黒い服。顔の上半分を布で覆っていた。目だけが見えていた。


 子供達が、その男を見た。


 兄が、小さく言った。


「……使者様」


 男が、子供達を見もせずに、低く言った。


「……役に立たない駒だ」


 子供達の動きが、止まった。


 兄の目が、揺れた。


 その「使者様」と慕ってきた人間が、自分達を「駒」と呼んだことを、子供達が、初めて、聞いた。


 空気が、止まった。


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