217 子供たちの声
翌朝、街の広場でファーファが子供達に囲まれていた。
猫の姿になっていた。子供達と遊ぶには、その方がいいと自分で判断したらしい。獣人形態の時より一回り小さくなって、黒い毛並みがふわふわしていた。
子供達は元気だった。少なくとも、見た目は。
最初は警戒していた子も、ファーファが「ニャ」と短く挨拶すると、笑った。喋る猫が珍しかったらしい。十人ほどの子供が、ファーファの周りに集まった。
「猫さん、可愛い」
「ファーファ、子供、好きニャ」
「猫さん、しっぽふわふわ」
「触っていいニャ」
子供達が次々と尻尾を触った。ファーファはじっと耐えていた。耐えていた、というより、本当に好きらしく、目が細くなっていた。
リンとユミルとロックは少し離れた所で、子供達を見ていた。
ユミルが小さく言った。
「……子供は、まだ守られています。記憶の量も、魔石の蓄積も、まだ少ないからです」
「両方か」
「……両方です。だから、ここの子供達は、まだ普通です。でも——お母さんやお父さんが、削られている」
リンは子供達を見た。一人の子が、ファーファの背中に顔を埋めていた。
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広場の端で、大人が一人、座り込んでいた。
四十代くらいの男だった。地面に座って、空を見ていた。何を見ているのか分からなかった。瞬きを忘れているように、目が乾いていた。
誰も声をかけなかった。声をかけても、応答がないことを街の人間は知っていた。
別の場所では、洗濯を干そうとした女が、途中で手を止めて、籠の中の濡れた布を握ったまま、動かなくなっていた。三十秒、いや、もっとだった。隣の家の老人が出てきて、女の肩を軽く叩いた。女は気づいて、また干し始めた。
老人がその場に座って、何かを呟いた。
リンには聞こえなかったが、老婆と同じだろう。古い言い伝えを覚えている人間が、街にまだ少しだけ残っている。彼らが、削られかけた人間を支えている。でも数は減り続けている。
ユミルがそれを見ていた。
「……あの老人も、もう長くないかもしれません」
「歳が、か」
「……いえ。あれだけ周囲の人間を支えていると、自分の集中も、すり減っていきます。記憶の維持は、思っているより消耗します」
「人を起こすたびに、自分が削れる」
「……はい」
リンは何も言わなかった。
平和とは、言えなかった。
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一人の子供が、ファーファの隣に座った。五歳くらいの女の子だった。
「猫さん」
「ニャ」
「お母さん、起きてくれない」
ファーファがその子を見た。
「いつから?」
「ずっと前から」
「……」
「朝は起きるの。でも目が変なの。ご飯作ってくれるけど、お話してくれない。私の名前、たまに忘れる」
ファーファは何も言わなかった。
代わりに、その子の膝に頭を擦り付けた。子供が両手でファーファの背中を撫でた。それだけだった。
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別の子が、リンの方に近づいてきた。男の子だった。十歳くらい。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「お父さんを、起こしてくれる?」
リンは少し考えた。
「お父さんは、どこにいる」
「家にいる。いつも椅子に座ってる。何も言わない。前は、笑ってた」
「……いつから笑ってない」
「分からない。長い」
リンは「やってみる」と答えた。
「本当?」
「ああ」
子供がじっとリンを見た。信じていいのかどうか、確かめていた。
リンは目を逸らさなかった。
子供が頷いた。「ありがとう、お兄ちゃん」と言って、走って戻っていった。
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しばらくして、また別の子供が近づいてきた。
小さい子だった。性別がよく分からない。髪が短く、服が砂で汚れていた。八歳くらいだろうか。痩せていた。
その子が、リンの前に立って、両手を差し出した。
「お兄ちゃん、握手」
「……握手?」
「うん。ありがとうの握手」
リンが握り返した。
子供の小さな掌の中に、何かが入っていた。リンの掌に、それが移った。
子供が手を離して、走って行った。広場の人混みに紛れて、すぐに見えなくなった。
リンが掌を開いた。
小さく折り畳まれた紙切れだった。
広げると、震える文字で、こう書かれていた。
**「子供を信用しないで」**
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リンは紙切れを握り直した。誰にも見られないように、袖の中に滑り込ませた。
ロックが小声で「何か来たか」と聞いた。
「子供から、紙切れ。読んでから渡す」
ロックが頷いた。
リンはそのまま広場に視線を戻した。ファーファがまだ子供達と遊んでいた。子供達が笑っていた。一見、普通の光景だった。
でも、紙切れを書いた子供と、その内容を考えると——この笑っている子供達のうち、何人が「ただの子供」で、何人が違うのか、もう分からなくなった。
ユミルが小声で「……何人かの子供から、感情の波が、不自然です」と言った。「楽しんでいる子供と、観察している子供が、混ざっています」
「観察か」
「……はい。情報を集めるための、訓練を受けている動き方です」
ロックが少し息を吐いた。
「俺の故郷でも、見た景色だ」
リンは聞かなかった。
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少し離れた路地に、子供達の別のグループがいた。
遊んでいるわけではなかった。三人か四人で集まって、低い声で話していた。一人の子が、別の子に何かを渡した。布で巻かれた小さなもの。受け取った子が懐にしまった。
別の路地では、もっと小さな子が、もっと大きな子に、声を抑えて何かを報告していた。大きな子が頷いて、小さな子に銅貨を一枚渡した。小さな子が嬉しそうに走って消えた。
市で売られているものより、ずっと安そうな額だった。それでも、嬉しそうだった。
リンには、何が交換されているのか、分からなかった。情報なのか、物なのか、別の何かなのか。
でも、それが**取引**だということは、分かった。
大人が機能していない街で、子供達が経済を作っていた。生き延びるために。盗みも、殺しも、情報売買も——できる子は、それで食っていた。
ロックが目を伏せた。
「……生きるためには、仕方ない」
誰に向けて言ったのか、分からなかった。多分、自分自身に向けてだった。
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昼を過ぎて、広場の子供達が散り始めた。それぞれの家に戻る、というより、それぞれの仕事に戻る、という感じだった。
レイラが「私は、もう少し街の中を見てくる」と言って、別行動を取った。
ロックが「気をつけろ」と短く返した。
「分かっている」
レイラが、北の路地に消えた。
リンとユミルとファーファとロック・レヴィは、広場のベンチで休んでいた。日陰に入って、水を飲んだ。ファーファが「ふへぇ……」と疲れた声を出した。
「子供、たくさんだったニャ」
「お前も働いたな」
「ファーファ、お仕事だったニャ?」
「お仕事だ」
ファーファが満足そうに、リンの膝の上に頭を乗せた。
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しばらくして、ロックが急に立ち上がった。
「……レヴィ、追え」
レヴィが羽を広げた。
「ダンナ、レイラさんか」
「ああ」
ロックがリンに向かって言った。
「悪い予感がする。ついて来てくれ」
リンが立ち上がった。ユミルも続いた。ファーファが「ニャ?」と顔を上げた。
「ファーファは、ここで待っててくれ。子供達が戻ってきても困らないように」
「ニャ」
ファーファがベンチの上で姿勢を整えた。
リン達が北の路地に向かった。
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路地の奥の角で、レヴィが羽ばたいていた。
「ダンナ、ここだ。間に合った」
ロックが角を曲がった。リンが続いた。
レイラが、壁に背中をつけて立っていた。腕を腰の高さで構えていた。短刀を抜いていた。
目の前に、子供がいた。
ファーファの背中を撫でていた子のうちの一人だった。十歳くらい。痩せていた。手に小さな刃物を持っていた。
刃物の先が、震えていた。
子供が、レイラの方を見ていた。怯えてはいなかった。覚悟していた目だった。
レイラの服の脇腹に、小さな切れ目があった。布が裂けていた。でも、血はなかった。
「……」
レイラが何かを察した目をした。
「……ロック」
「ああ。偽装した。実際には外れている」
「……助かった」
レイラが息を吐いた。それから、子供を見た。
次の瞬間、レイラの動きが変わった。
反射だった。プロの動きだった。一歩で間合いを詰めて、子供の手から刃物を払い落とし、首にナイフを突きつけていた。
子供が、目を閉じた。
刃物が地面に落ちる音がした。
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しばらく、誰も動かなかった。
ロックが少し離れた場所から、その様子を見ていた。何も言わなかった。
リンも何も言わなかった。
レイラの腕が、震えていた。怒りではなかった。別の何かが、レイラの中で動いていた。
一拍置いて——
レイラがナイフを下ろした。
子供が目を開けた。
「……」
子供は、何も言わなかった。
レイラがナイフを鞘に戻した。子供の前に屈んで、目線を合わせた。
「……話を、聞かせろ」
子供は黙っていた。
「私は、お前を、殺さない。話を聞いて、行かせてやる」
「……」
「誰に頼まれた」
子供がしばらく黙ってから、口を開いた。
「……知らない人。路地で、声をかけられた。あの女を刺せば、金をくれるって」
「先払いか」
「……半分。あと半分は、刺してから」
「先に、半分でも、いいから」
「……弟に、ご飯を食べさせる」
短い声だった。
言い訳ではなかった。事実だった。
「親は」
「……ぼんやりしてる。一年前から、何もしない」
「お前一人で、弟を養っているのか」
「……そう」
「年は」
「九歳」
「弟は」
「四歳」
レイラが少し間を置いた。
「……後悔は、していないか」
子供がレイラを見た。
「してない。生きるためだから」
レイラが頷いた。
責めなかった。
「……そうだ。生きるためだ」
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レイラがしばらく黙っていた。
風が吹いた。路地の砂が、少しだけ舞った。
レイラが口を開いた。
「……私も、お前と同じだった」
子供がレイラを見上げた。
「……同じ?」
「親が機能しなくなって、子供で稼ぐしかなかった。盗みも、人を刺すことも、した。生きるためだ。仕方なかった」
「……」
「お前と違うのは、私には弟がいなかった、ということだけだ」
レイラが少し息を吐いた。
「強くなるしかない。やれるだけやれ。誰も、本当の意味では助けてくれない。私も、お前を助けてやれない。少し、しか」
「……」
「私は、この国を良い方向に動かすために、働いている。それが、できる範囲のことだ。それ以上のことは、私にも、できない」
子供が黙って聞いていた。
レイラが懐から、小さな袋を取り出した。中に銀貨が数枚入っていた。組織の報酬よりは、少ないかもしれない。でも子供にとっては、大きな額のはずだった。
「これを、持って帰れ」
「……でも、仕事、失敗したのに」
「失敗したと、報告しろ。そして、これは私が渡したのだと、誰にも言うな。お前一人で取った金、ということにしろ」
「……」
「弟に、自慢される兄になれ」
「……」
「お前が、弟をどう守るかは、お前次第だ。私には決められない。でも、これだけは言える」
レイラが子供の目を、まっすぐに見た。
「お前は、生きていい。そのために、何でもしろ。後悔は、後でしてもいい。今は、生きろ」
子供がしばらく、レイラを見ていた。
それから、小さく頷いた。
銀貨の袋を、両手で受け取った。
走って、路地の奥に消えた。
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レイラがしばらく、屈んだままでいた。
リンは何も言わなかった。
ロックが少し離れた場所から、近づいてきた。
「……俺の故郷でも、こういう子は多かった」
レイラが顔を上げた。
「殺せなかった子も、殺された子も、見送った子も、いた」
それ以上は言わなかった。
レヴィが羽の下から、小さく言った。
「……ダンナ、思い出すな」
ロックが頷いた。
「思い出す」
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レイラが立ち上がった。
目尻に、何もなかった。涙はなかった。でも目の奥に、何かが沈んでいた。
「……どうなるかは、本人次第だ」
「ああ」
「私は、もう、追わない」
「いいと思う」
リンが言った。
「お前にできるのは、ここまでだ」
レイラが頷いた。
でもしばらく、その路地の奥を見ていた。子供が消えた方向を。
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広場に戻ると、ファーファがベンチの上で、子供達二人と遊んでいた。
別の子供達だった。さっきの取引していた子達ではなかった。ただ、ファーファと遊びたくて寄ってきた、普通の子供達だった。
その子達が、本当に「普通の子供」なのかどうかは、もうリンには分からなかった。
ファーファだけが、何も気にせず、子供達の手の上に頭を乗せていた。
「主、戻ったニャ?」
「戻った」
「ファーファ、人気者ニャ」
「人気者だな」
ユミルが少し笑った。少しだけ。
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夕方、宿に戻った。
ユミルが部屋でリンに、紙切れを差し出してもらった。広げて、見つめた。
「……震えた文字ですね」
「子供が書いた」
「……はい。震えるのは、書く時に、見つかったら殺されると思っていたからです。覚悟して書いた、と思います」
「書ける子が、まだ残っていた」
ロックが小声で、誰にともなく言った。
「……俺の故郷では、書ける子がいた頃が、最後の希望だった。書ける子がいなくなった時、街が完全に終わった」
誰も聞き返さなかった。
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ユミルがリンの隣に立った。
「……今夜、行きますか」
「行く」
「……はい」
空が薄く曇り始めていた。砂漠の風が、街を抜けて、神殿の方に流れていた。
その風に、また赤黒い粒が混じっているのが、リンの目にも見えた。
神殿の方を見ながら、リンは思った。
平和とはいえない。でも、まだ、滅びてはいない。書ける子が、まだ残っている。
それだけが、今日の希望だった。




