216 フィン・ヌール
五日目の夕方、フィン・ヌールが見えてきた。
最初は街だと分からなかった。岩の中に埋もれているように見えた。土壁が砂と同じ色になっていて、屋根が崩れている家が多かった。市の声が聞こえなかった。
近づいて、ようやく街だと分かった。
ナツメヤシの林がなかった。
オアシス都市と呼ばれていたはずだが、緑が見当たらなかった。井戸はあった。水も出ていた。でもその周りにあったはずの植物が、ほとんど残っていなかった。枯れた幹だけが、何本か砂に刺さっていた。
ユミルがそれを見ていた。
「……土が、もう、植物を支えられなくなっています。魔石粉の蓄積が、地中まで広がっている」
「水自体は」
「……水は、地下から来ています。深い場所からなら、まだ汚染されていません」
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街に入ると、空気が違った。
砂鉄と魔石粉の匂いではなかった。それは外でも嗅いだ。
もっと別の、淀んだような空気だった。生気がない、と表現するしかない空気だった。
通りを歩く人間の数が、アル・ザフラの三分の一もいなかった。残っている人間の半分以上が、歩きながらぼんやりしていた。立ち止まり、また歩き出し、また立ち止まる。会話の途中で言葉が止まる。隣の人間がそれに気づいて、揺り動かす。揺り動かされた方は、また歩き出す。
それが、当たり前のように繰り返されていた。
ファーファが鼻を動かした。
「……主、街、悲しいニャ」
ファーファの「悲しい」は、感覚的な言葉だった。論理ではなかった。でも正確だった。
リンは何も言わなかった。
ユミルが小さく言った。
「……街の人々の、機能剥離率が、八割を超えています」
「八割」
「……ほとんどの大人が、何らかの記憶か感情を、削られています。深刻な人は、自分が誰か分からなくなっている可能性があります」
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レイラが「ここは、もう、長い」と言った。
短い言葉だった。
でもその一言に、街の十年分が入っていた。
「移民の街、なのか」とリンが聞いた。
レイラが少し意外そうな顔をした。それから頷いた。
「気づいたか」
「住んでる感じが、地元って感じじゃない」
「……アル・ザフラとは違う。フィン・ヌールは、もともと小さな宿場だった。三十年ほど前から、移民が増えた。北の戦乱を逃れて来た者、東の砂漠で食えなくなって流れてきた者。今、街の人間の九割は移民か、その子だ」
「地元の言い伝えがない、ということか」
「……そういうことだ。守り神の昔話を知っている家が、ほとんどない。みんな、別の土地から来たから」
ユミルが静かに言った。
「……二重に、不利です。砂に魔石粉が混ざっていて、街にいるだけで蓄積する。それに加えて、昔話を知らない人間が多い。受信しても、答えを持たないから、削られていく」
「それで八割か」
「……はい。アル・ザフラと、根本的に状況が違います」
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地元の協力者を探すのに、時間がかかった。
ハミドのような窓口がいなかった。協力者の多くが、すでに削られているか、街を出ていた。レイラが古い伝手を辿って、ようやく一人を見つけた。老婆だった。年齢は分からなかった。六十か、七十か、八十か。
老婆は薄暗い家の奥に座っていた。目だけが動いていた。話を聞くと、口を開いた。
「……カリム様の使いか」
「そうだ」とリンが答えた。
「遅かったね」
老婆は責めていなかった。ただ事実を言っていた。
「もう、この街は半分以上、終わっている。私が起きていられるのも、不思議なくらいだ」
「あなたは、なぜ守られている」
「……古い言い伝えを、覚えている。子供の頃に何百回も聞かされた。それが、頭の奥に残っている。だから削られない」
「あなたは、地元の生まれですか」
「……生まれは、ここだ。でも、両親は移民だった。三代前まで遡ると、どこから来たのか、もう分からない。それでも、私の母は、近所の地元婆さんに昔話を聞いた。私に伝えた。私は、覚えていた」
老婆が少し咳をした。
「でも、もう若い者には、その言い伝えを聞く余裕がない。親が削られているから、子供に伝えられない。連鎖が、切れている」
リンは聞いた。
「街の中心の神殿は、どうなっている」
「……稼働している。アル・ザフラより、ずっと長く。十年か、それ以上」
「十年」
「……気づいた時にはもう、街がこうなっていた。誰も、止め方を知らなかった」
老婆がリンを見た。
「あなた方は、止められるのか」
リンが少し間を置いた。
「止める」
老婆が何も言わなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……あの神殿も、ここに置かれた時は、もっとましな場所だったはずだ。今のように土が痩せていなかった頃の話だ。私が子供の時には、もう神殿は古かったが、街はまだ青かった」
「……街が壊れていく方が、神殿より早いのか」と誰かが小声で言った。
老婆が頷いた。
「神殿は、千年もつ。街は、十年で終わる」
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