220 再起動
ターミナルは、奥の部屋の中央に、据え付けられていた。
稼働音が、低く響いていた。アル・ザフラのものより、深い音だった。長く、重い、何かの呻きにも聞こえた。表面に、何重もの文字が刻まれていた。元の文字の上に、別の文字が重ねられ、その上にまた別の文字が貼り付けられていた。
ユミルがターミナルの前に立った。
しばらく、表面を見ていた。
眉根が、いつもより深く寄った。
「……二重に、書き換えられています」
「アル・ザフラとは違うか」
「……アル・ザフラは、本来の機能の上に、組織が一つ被せただけでした。ここは、本来の機能が完全に殺されています。その上に、別の機能が貼り付けられている」
「貼り付けたものは何だ」
ユミルが指で、後から刻まれた文字をなぞった。
「……スフィンクスの仕組みを、再現した装置です」
全員が、ユミルを見た。
「……組織は、スフィンクスを研究しています。あの守護装置の仕組みを、解析して、自分達で作っています。本物より粗い作りですが、機能は同じです。問いを発信して、答えられない人間の魂を、削り取る」
ロックが「量産か」と低く言った。
「……そう思います。王宮の儀式も、これと同じ構造の可能性があります」
レイラが眉を寄せた。
「……スフィンクスを、研究する機会が、どこかであったのか」
「……はい。本物に触れているか、本物の設計図を持っているか、です。簡単にできることでは、ないですが——できる人間が、いる」
誰も何も言わなかった。
でも、全員の頭の中で、同じ名前が浮かんでいた。
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ユミルが、もう一度、ターミナルの表面に手を当てた。
組織が貼り付けた層を剥がしながら、その下にある、本来の機能を、読んでいた。
しばらく沈黙が続いた。
そして、ユミルが、小さく息を呑んだ。
「……これは」
「どうした」
「……本来の機能が、想像していたものと、違います」
ユミルが顔を上げた。
「これは、収集装置でも、儀式装置でも、ありません。本来は——生命循環の供給装置です」
全員が、ユミルを見た。
「生命、循環?」
「……はい。砂漠の土は、アルカリ性です。鉄を含んでいても、その形では、植物が吸収できません。だから、本来は植物が育ちにくい」
「砂漠なんだから、当たり前じゃないか」とリンが言った。
「……砂漠の中でも、オアシスのある場所、緑が育つ場所、というのは、特別なんです。何かが、植物が吸収できる形の鉄を、地下水に供給している。だから、緑が育つ」
「この装置が、それをやっていた、ということか」
「……はい。二価鉄、という形の鉄を、ゆっくり、地下に流していました。それが、植物に吸収され、ナツメヤシも、ぶどうも、麦も、育つ。地下水脈を通じて海まで運ばれて、海のプランクトンも増える」
レイラが「……街の周りが、緑だった頃の話か」と低く言った。
「……はい。これが正常に動いていた頃は、フィン・ヌールは、緑の街だったはずです。十年前まで——というより、もっと前から、徐々に壊れていって、十年前頃には決定的に止まった」
ロックが目を伏せた。
「壮大な装置だな」
「……生命循環の、起点です」
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ユミルが、ターミナルの表面を撫でた。
責めるような撫で方ではなかった。労うような撫で方だった。
「……千年前から、メンテナンスがされていません。徐々に壊れて、二価鉄ではなく、魔力が漏れるようになりました。砂鉄と魔石粉が、純粋な鉄の代わりに、出続けるようになっています」
「砂嵐の中の、あれか」とリンが言った。
「……はい。あれが、漏れた魔力の結晶です。本来は、緑を育てる優しい鉄になるはずだった。それが、魔石になって、街の人達の体に、蓄積した」
「組織が来る前から、もう壊れていたのか」
「……はい。組織は、壊れた装置に、別の機能を上乗せしただけです。装置にとっては、二重に壊された状態です」
ユミルの声が、少し低かった。
「……これは、私の系譜が、千年、放置していた結果です」
誰も何も言わなかった。
ロックが何か言いかけて、止めた。
リンが、ユミルの肩に、軽く手を置いた。
「直せるか」
短い質問だった。
でも、ユミルが少しだけ、目を上げた。
「……時間がかかります。完全な復元は、できません。でも、二価鉄の供給を、もう一度、立ち上げ直すことは——できます」
「街の緑化が、戻るのか」
「……すぐではありません。何年もかかります。でも、進行は止まります。逆向きに、ゆっくり、戻り始めます」
「やってくれ」
「……はい」
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ユミルが、作業に入った。
最初に、組織が貼り付けたスフィンクス再現の層を、剥がし始めた。
光の文字が、一つずつ消えていった。
慎重な作業だった。一つ間違えると、本来の機能まで巻き込んで壊してしまう。ユミルの指が、ターミナルの表面を、丁寧になぞっていた。
稼働音が、変わり始めた。
深く、重く、苦しそうな呻きが——少しずつ、軽くなっていった。
組織の層が、半分ほど剥がれた頃、ユミルが小さく言った。
「……レヴィさん、偽装信号の維持を、お願いします。完全に剥がれる前に、組織側に異常を悟られないように」
「任せろ。中身を空っぽにしたまま、外見だけ整え続ける。得意分野だ」
レヴィが羽の下から低く笑った。
ロックが「お前、本当にそれが本職だったんだな」と返した。
「うるさい」
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組織の層が、全て剥がれた。
ターミナルの表面に、本来の文字だけが、残った。
古い文字だった。ずっと古かった。リンには読めない文字だった。
でも、ユミルには読めていた。
「……このまま動かすだけでも、街の状態は、戻り始めます」
「本来の機能の、復元は」
「……今やります」
ユミルが、本来の文字に、少しだけ、新しい筆致を加えた。
壊れた箇所を、修復する作業だった。
ターミナルの音が、また変わった。
深く、重く、苦しそうな音が——
穏やかな、低い、安定した音に、変わっていった。
まるで、長く眠れずにいた誰かが、ようやく深く息を吐いたような音だった。
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ユミルが、ターミナルから手を離した。
「……起動しました」
「動いたのか」
「……はい。本来の機能で、動き始めました。二価鉄の供給が、ゆっくり、再開しています。ただ、量は、本来の十分の一以下です。完全な復元には、まだまだ、足りません」
「それでも、いい。動き始めたんだろう」
「……はい」
ユミルが、少しだけ、ふらついた。
リンが支えた。
「お疲れ様」
「……はい」
レヴィが「偽装、解除するか?」とロックに聞いた。
「いや、しばらく続けてくれ。組織が異変に気づくまで、時間を稼ぐ」
「了解」
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部屋を出る時、ユミルが振り返って、ターミナルを見た。
「……ごめんなさい」
誰に向かってでもなく、装置に向かって、言った。
「……千年、待たせて、ごめんなさい」
短い言葉だった。
ターミナルは、何も答えなかった。
でも、安定した動作音が、続いていた。
それが、答えなのかもしれなかった。
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外の広間に戻ると、ナビル達が、子供達の傷の手当てをしていた。
ユミルの応急処置が効いて、火傷は治っていた。でも、ショックや混乱は、子供達の中にまだ残っていた。
ナビルが、リン達を見て、立ち上がった。
「……終わったんですか」
「終わった。装置を、本来の動きに、戻した」
ナビル「本来の?」
「ここの装置は、街を壊すためのものじゃなかった。元々は、街の周りを、緑にするための装置だった」
ナビルが、しばらく、その言葉を呑み込んだ。
「……緑」
「砂漠の中の、緑だ。お前達の親が、子供だった頃、フィン・ヌールは、もっと違う街だったはずだ」
ナビルの目が、わずかに揺れた。
「……父が、よく言っていました。『この街には、昔、ぶどう畑があった』、と。でも、私は、信じていなかった。砂漠に、ぶどうなんて、嘘だと思っていた」
「嘘じゃない」
「……」
「時間はかかる。何年もかかる。でも、戻り始める」
ナビルが、何か言いかけて、止めた。
目が、潤んでいた。
でも、泣かなかった。
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ロックが、座り込んでいる小さな子供達を見ていた。
「お前達、これからどうする」
子供達が、お互いを見合った。
「……分かりません」とナビルが答えた。
「使者は、もう来ない。今までの命令は、嘘だった。でも、街は、まだ大変な状態だ。親も、すぐには戻らない」
「……」
「お前達、街の守護者の系譜なんだろう。続けるか、辞めるか、決めるのは、お前達だ」
ナビルが、少し考えた。
「……続けます。でも、今までとは、違う形で」
「違う形?」
「……街を守る、本来の意味で、続けます。子供達のうち、年上の何人かは、剣を続けます。でも、もう、人を殺すための剣は、使いません。街の人達を、守るための剣を、覚えます」
レイラが頷いた。
「……それを、継ぐのは、難しい。先生がいない」
「……分かっています。でも、やります」
レイラが、しばらく、ナビルを見ていた。
「……私が、時々、戻ってくる。教えられることは、教える」
ナビルが、レイラを見上げた。
「いいんですか」
「……アイシャ様が、亡くなってから、私は、王宮を出た。でも、いつか、後継を育てなければ、と思っていた。お前達が、それになるなら、教える」
ナビルが、深く頭を下げた。
「お願いします」
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もう一つ、リン達が伝えなければならないことがあった。
ユミルが、ナビルに向き直った。
「……ナビル様、もう一つ、お願いしたいことがあります」
「何ですか」
「……装置のメンテナンスです」
ナビルが、首を傾げた。
「……ターミナル、というか、街の中心の、あの装置です。本来は、定期的なメンテナンスが必要です。それをしないと、また千年で、壊れます。私は、毎月通うわけには、いきません」
「私たちが、やります」とナビルが即答した。
子供達も、頷いた。
「お前達に、できるか」とリンが言った。
「……ユミル様が、教えてくれるなら、覚えます。私たちは、街の守護者です。装置を守るのも、守護者の仕事です」
ユミルが、頷いた。
「……簡単ではないですが、要点だけなら、教えられます。今夜、伝えます。覚えるのが大変なら、書き残します」
「お願いします」
ナビルの目が、初めて、明るくなった。
使者の命令ではなく、自分達で選んだ役目だった。
それが、ナビルの中で、何かを変えていた。
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神殿を出る時、空が薄く明るくなっていた。
夜が、明けかけていた。
地下の階段を上がって、街に戻った。
街は、まだ眠っていた。
でも、変化は、もう始まっていた。
虚ろに座っていた男が、首を傾げていた。何かを思い出そうとしているような顔だった。籠を抱えていた女が、籠を見て、それから自分の手を見て、また籠を見ていた。記憶が断片的に戻ってきている、という感じだった。
でも、全員ではなかった。
半分以上の人間は、まだ虚ろなままだった。
ユミルが小さく言った。
「……完全な回復は、難しい人もいます。長期に渡る吸い上げで、記憶層が破損しています」
「アル・ザフラと違うか」
「……アル・ザフラは半年でした。フィン・ヌールは十年以上。その差は、大きいです」
「直らないのか」
「……時間をかければ、改善します。でも、元には戻らない部分も、残ります。十年分の記憶が、すべて元通り、ということは、起きません」
リンは少し考えた。
「……それでも、止めないよりは、いい」
「……はい。それは、確かです」
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広場で、子供が一人、男に駆け寄っていた。
昨日、リンが「お父さんを起こしてくれる?」と頼んだ子供だった。
男が椅子から立ち上がっていた。まだ虚ろだったが、目が、子供の方を向いていた。子供が「お父さん!」と叫んで、しがみついた。
男が、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと、子供の頭に手を置いた。
「……お父さん、ぼくのこと、覚えてる?」
男がしばらく黙ってから、口を開いた。
「……覚えてる、よ」
声は弱かった。
「お前が、何歳だったか、思い出せない」
「十歳だよ」
「……そうか、十歳か」
男がもう一度、子供の頭を撫でた。
子供が泣いた。
完全な回復ではなかった。男は名前を覚えていても、年齢は忘れていた。多分、他にも忘れたものがたくさんあるはずだった。
でも、子供の名前は、覚えていた。
それで、十分だった。
リンは少し離れた所で、それを見ていた。
ユミルが隣に立っていた。
「……止めて、よかったですか」
「ああ。よかった」
ユミルが頷いた。
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ロックが少し離れた場所で、別の光景を見ていた。
昨日の路地で、刺してきた子供——いや、刺せなかった子供——が、弟らしき小さな子と並んで歩いていた。手を繋いで。何かを話していた。普通の兄弟のように。
あの子が、組織にどう報告したのか、どう生き延びるのか、リンには分からなかった。
でも、今この瞬間、弟と歩いていた。それは事実だった。
レイラもそれを、少し離れた場所から見ていた。表情は変わらなかった。でも長い間、見ていた。
誰も声をかけなかった。
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その夜、神殿に戻り、ユミルがナビルとその仲間達に、装置のメンテナンスの基礎を教えた。
書き残せるものは書き残し、口伝で覚えるものは口伝で。
ナビルは、思ったより呑み込みが早かった。一度説明したことを、要点をまとめて繰り返すことができた。子供達の中で、頭の回転が一番速かった。
ユミル「……あなたは、教えるのに向いています。あなたが覚えれば、他の子達にも、伝えられます」
ナビル「……はい」
夜が明ける頃、ユミルが書き残した古い文字の写しと、要点を整理した別の紙束が、ナビルの手元に渡された。
「これは、私が今、書きました。私の名は、書いていません。書くと、組織が見つけた時に、危ない。でも、あなた達が読めるように、書いています」
「ありがとうございます」
「……それから、もう一つ」
「はい」
「……装置の、本来の名前は、もう、失われています。でも、あなた達が、新しく名前をつけても、構いません。守る人が、名前をつけるのが、自然です」
ナビルが、しばらく考えた。
「……後で、考えます。仲間達と」
「……はい」
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翌朝、出発の準備を終えて、街を出た。
老婆が見送りに出てきた。家の前に椅子を出して、座っていた。
「……ありがとう」
短い言葉だった。
「これで、街は、もう少し生きられる」
「半分しか、戻らない」
「半分でいい。半分が、戻るなら」
老婆が笑った。日に焼けた顔の皺が、深く動いた。
「あんた達が、何者なのか、私は聞かない」
「賢明だ」
「次に会えるかどうかは、分からない。でも、忘れないよ」
リンは「ありがとう」とだけ返した。
老婆が、座ったまま、手を上げた。
ナビルと子供達も、街の入口で見送っていた。ナビルが深く頭を下げた。仲間達も、同じように頭を下げた。
リン達が、街を出た。
砂漠の風が、また赤黒い粒を含んで吹いていた。でも、街の方を向いた時の風は、確かに、少しだけ、軽くなっていた。
気のせいではなかった。
装置が、本来の動きを、取り戻し始めていた。
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数年後、フィン・ヌールに、最初のナツメヤシの若木が、芽吹くことになる。
でも、その時のことは、まだ、誰も知らない。
今は、ただ、砂漠の風が吹いて、リン達が、次の街道に向かって歩いていた。
次の遺跡は、まだ、先にあった。




