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208 アル・ザフラ


 ナツメヤシの林に入った時、空気が変わった。


 乾いた砂漠の空気ではなかった。湿っている、というわけでもない。ただ、密度が違った。緑の匂いがした。葉の間から差し込む光が、砂漠の白い光とは色が違った。木陰というものがあった。影の中に入ると、体が少し楽になった。


 ファーファが鼻を動かした。


「……空気、違うニャ」


「オアシスだ。水があるからな」


「水の匂いじゃないニャ。もっと、別の何かニャ」


 リンには違いがわからなかった。ユミルが林の中を静かに見ていた。何かを確かめるような目だった。足を止め、また歩き、また止まった。虫でも探しているような動き方だった。


「……ユミル」


「……少し、待ってください」


 また一歩、歩いた。足元の砂を見た。


「……多いです」


「何が」


「……何か、が。上手く言えませんが——通信のようなものが、たくさん飛んでいます。中身が読めない。でも量が多い。密度が、ここから急に上がっています」


 リンはその言葉を反芻した。通信。飛んでいる。


「誰かが送っているのか」


「……発信源が、あると思います。受け取っているのは——感度のいい人間か、動物か」


「悪い通信か」


 ユミルが少し間を置いた。


「……受け取れない人間には、ただ通り抜けるだけです。でも——受け取ってしまう人間には、呪詛のようになります。無意識に処理しようとして、削られていきます」


 レイラが「ハミドの家に行く」と言った。


---


 アル・ザフラは小さな街だった。ナツメヤシの林を抜けると土壁の家が並び、中央に古い石造りの井戸があった。人が行き交っていた。市が出ていた。


 普通の街だった。


 ただ、時々、立ち止まる人がいた。


 会話の途中で。荷を運ぶ途中で。虚ろになる、というほどでもないが、一拍、遠くなる瞬間があった。すぐ戻る。本人も気づいていないようだった。


 リンは井戸の周りを見た。地元の人間が水を汲んでいた。よそ者らしい商人が荷を下ろして休んでいた。


 商人の一人が、立ったまま、ぼんやりしていた。


 横の地元の男は、普通にしていた。


 ユミルが井戸の縁に手を触れた。少し間を置いた。


「……水は、普通です」


「水じゃないか」


「……はい。でも——この井戸の周辺、密度がさらに上がっています。発信源が近いのかもしれません」


 ロックが「地元民と旅人で、見た目に差があるな」と言った。


「商人がやられて、地元の男は普通だ」


「……気づいていました」とユミルが言った。「地元の人間には、何か守るものがあるのだと思います」


---


 土壁の家の前で、レイラが戸を三回、二回、一回と叩いた。


 しばらくして扉が開いた。中年の男だった。日に焼けた肌、白くなり始めた髭。深い目をしていた。目尻に、疲れの皺があった。


「……入ってくれ」


 中は狭かった。卓を囲んで全員が座ると肘が触れそうになった。男が水を出した。砂漠の水だから貴重なはずだが、何も言わずに出した。それだけで、この男が信頼できるかどうかの一端がわかった。


「カリム様の件を、聞いてもらえるか」


「聞きに来た」


 男が話した。


 半年前から、街の人々がぼんやりすることが増えた。最初は疲れかと思った。でも続いた。特定の時間帯に多い。夕方から夜。翌朝には戻っている。本人たちは覚えていない。医者に診せたが、異常なしと言われた。


「地元の人間は、あまりそうならない」


 リンは少し前のめりになった。


「よそ者は」


「……やられる。商人、旅人、行商人。通り過ぎる人間ほど、ひどい。一晩泊まっただけで朦朧として出ていく者もいる」


「地元の子供は」


「子供は、ならない。大人も地元の者は軽い」


「なぜか分かるか」


「分からない。でも——子供たちは、その話を知っている。昔話だ」


「どんな昔話だ」


 男が少し考えた。椅子の背に体を預け、遠い目をした。


「砂漠の守り神が、旅人に問いを出す。答えられた者だけが、先へ進める。答えられなかった者は——」


 男が口を閉じた。


「……魂を、置いていく。そういう話だ。子供の頃から聞かされてきた。怖い話として」


「今もその話を、子供に聞かせているか」


「聞かせている。砂漠では昔からそういうものだと。守り神の問いに備えておけと」


 ユミルが静かに言った。


「……神殿で、夜に低い音が聞こえると言っていましたね」


 男がユミルを見た。


「知っているのか」


「……似た話を、別の場所で聞いたことがあります。低い音ですか。地の底から来るような、腹の底に響く音」


「……そうだ。半年前から始まった。古老が言うには、若い頃にも一度聞いたことがあるが、すぐ止まったと。今回は止まらない」


 ユミルが少し間を置いた。


「……神殿の石が、揺れることはありませんか」


 男がわずかに目を見開いた。


「……夜、微かに。特に音が大きい時に。なぜ知っているのか」


「……同じです」とユミルが言った。「王宮でも、同じことが起きています」


 男は黙った。


 しばらくして、静かに言った。


「……カリム様が動いているのは、そういうことか」


「……はい」


---


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